季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ボクシングと音

2024年06月10日 | 音楽
ボクシングの井上尚弥選手は余りの強さ故このスポーツに関心の無い人にまで知られるようになった。先月のタイトル防衛戦も結果は圧倒的な勝利だった。

内外の往年の名選手、記者達から数え切れぬほどの賞賛が集まったのは言うまでもない。

その中で偶然目にしたアメリカの名トレーナーの発言がとりわけ関心を引いた。井上選手のパンチの音を聞いてみろ、こう言うのだ。音については会場で観戦した人々からもしばしば耳にする。

僕は会場で観戦したことはないので、ただうなづくしかないのだが、アメリカのトレーナーは続けて「大きな音がするのはダメなのだ。大きな音はエネルギーが散っていることなのだ。KOできるパンチではない」と言った。

僕が面白いと思ったのはこの点だった。ふと思い出したのは昔オーストリアでスキージャンプを観戦した時のことだ。着地が理想的に行かないとバタンという大きな音がする。綺麗な着地ではそんな音はしない。

そこから更にピアノで「鳴る」と言われる音は今では大きな音の事を言っているに過ぎず、スポーツにおける音の方が遥かに分かり易いではないかという羨望にも似た感情を持った。評論で鳴らしに鳴らしてなどの形容が何の疑問も持たずに許されるのが残念なのである。



読むと聞く

2022年08月03日 | 音楽
かれこれ三十数年前になるだろうか。小林秀雄の講演が次々とカセットになって売り出された。

そのうちの5巻が学生達との質疑応答だった。足掛け十余年にわたる記録である。

僕はひと通り発売とともに買い興味をもって聞いたものだ。学生がどの様な質問をしているのか、それに対し如何なる答えをするのか。

全部で何人の学生が発言したのか数えてはいないが、質問する学生の声が大変不安定で失望したのである。

ものを知らないのは一向に構わない。己に自信がないのも当然である。ただ、質問自体がいかにも無理やり捻り出したとでも言おうか、その人の心の底からの疑問になっていないのが声から判る。声は嘘をつけないものだと痛感したものだ。

その中でたったひとり声のトーンに無理がなく、大学での授業に対する疑念をぶつけている人がいた。今はもう80歳を超えているだろうか。どの様な成長を遂げたのだろう。

そんな人がいた。僕の記憶に残っているばかりである。

ところがつい先ごろ、これらの質疑応答が文字起こしされ本になっていることを知った。

後書きによれば小林さんはこれらを活字にすることはおろか録音することも固く禁じていたそうである。

それは余りに惜しいと密かに録音していた主催者たちが遺族の了解の下活字化したという。

なるほど一字一句僕の知る録音から変えられているものが無い。

活字化された学生達の質問も確かに未熟である。しかし質問のための質問とでも言おうか、そこから来るフワフワした感じは音声抜きだとかなり緩和されてしまうものだと思った。

先に挙げたただひとりの質問者も文字だけで読めば他の人同様未熟なのである。音声になると印象に大きな差が出るのがいかにも面白かった。演奏と全く同じことだと改めて思った次第である。






共通するもの

2022年06月01日 | 音楽
合気道には長いこと関心を持っている。YouTubeのありがたさで現代における名手による解説動画が見られる。

よく言われるのは合気道は曲線であると。それも球体に沿ったようなものなのだということ。

解説で面白いと思った言葉をひとつ挙げておきたい。

柔らかさは速さに通じるというのである。これは非常によく分かる。ピアノは指を速く動かしているのではない。腰から指先までの一連のしなやかさが指先に伝わる感覚なのである。

2022年03月31日 | 音楽
蝶の蒐集家は多いそうだ。

僕はその世界からは遥かに隔たっているのだが。

その人達にとっては翅を傷めずに捕獲するのが何より大切だという。それはそうだろう。虫網を携えている姿を思い浮かべる人もいるに違いない。

新種の蝶、自分のコレクションに無い蝶を見つけたときの胸の高鳴りは如何程であろう。

そしてその時に虫網を携えていなかったならば?

今まさに新種の蝶が目の前の花にとまっている。しかも自分にはおのれの手で捕まえることしかチャンスは無い。

そのような状況を想定してみよう。

震える心に落ち着けと言い聞かせ腕をそうっと伸ばす。

身体から指先まで一種の緊張に満たされている。蝶に気配を悟られぬように近づき最後の瞬間には指先で掴まねばならぬ。

しかも勢いよく掴めば翅は傷むのである。

この一連の動作、身体の状態はピアノを弾く感触によく似ている。アフタータッチと呼ばれる一点に接近して摘むのである。理想論的に言えばフォルティシモに於いても軽く触れるだけで良いのだ。

書いているうちに僕の子供時代を思い出した。

川崎市といっても中部では緑が多く、春には数え切れぬほど蝶が舞っていた。

川沿いにずんずん上流へ行きながら手当たり次第に蝶を捕まえてはボール箱に放り込んだことがあった。

生き物を殺すことは大変に嫌いであったが蝶にしてみれば何十匹も押し込められたら殺されたと同然だっただろう。

最後に箱の蓋を開き蝶を一斉に解き放つ。再び自由を得た無数の蝶が描く景色はそれは美しかった、
はずであった。

しかし僕が見たのは無数の瀕死の蝶がヘナヘナと飛び去り、あるものは地面に落ちる姿だった。ガッカリしたと同時に悪いことをしたあとの気まずさを感じたことだけを記憶している。


ポーランド国歌紹介

2021年11月27日 | 音楽

こういう便利な機能があるのをすっかり忘れていた。歌詞まで翻訳してくれているから便利だ。音楽として取り立てて言うべきものはないのだが。

https://youtu.be/dpAEYBqFfPU

ショパンとポーランド

2021年11月27日 | 音楽
ショパンの作品はイタリアオペラを思わせる。ベッリーニへの偏愛はつとに有名だがさもありなんである。

ポーランドはロシアの近くに位置しているのだから北国の特徴を持っている。僕はそれを漠然と思って暮らしていた。

ショパンは突然変異のようにイタリア的な感受性を持ったと、これまた自動的に感じていたように思う。

国歌に興味を持ったことは以前書いたが、ポーランド国歌は何故か聴き逃していた。

先日聴いて驚いた。

北国なのに曲調はラテン的なのである。おまけに歌詞にはイタリアという語が入っているのである。

国民的英雄がイタリアから帰国して祖国を救う、そんな歌詞。

してみるとショパンはそういった土壌の上にひときわ大きな才能を開花させたのであり、突然変異ではなかったのだ。

僕は深く納得した次第である。






調律師に同情する

2021年08月10日 | 音楽
海外で活躍する調律師の方が動画を投稿している。大変だったクレーム三選という内容だったのでつい見てしまった。

ひとつ紹介しておきたい。

このピアノは綺麗すぎる、というクレーム。
この調律師は褒められたのかと思いきやクレームであった。

その理由は美しさを引き立てるためには美しい音ばかりではダメで汚い音があってこそ際立つのだという。

僕はこのような理屈にどんな顔で接したら良いのか分からない。

仮に汚い音が必要ならば自分で出せよ、と吐き出してしまいそうだ。いつもの通りにすれば良いだけではないか、などと口走ってしまうかもしれない。

必要とあらばどんな音も出せるのがピアニストの技量なのだ。もっともそれと汚い音が必要だと言うのとは違うことだが。

分かりやすく言ってみると、ここぞというところで美声を聴かせるためにその他のところでは僕たちのどら声が必要だとは決してなるまいということだ。

調律師は、料理でも肉ばかりではダメでそれを引き立てるために様々な献立を用意してあるのと同じなのでしょうと解説していた。

それは正しい比喩にはならないのである。肉を引き立てるためには他の献立が必要なのは正しい。大好きな豆腐を堪能できる、と八品注文して辟易したことは書いた事がある。

しかしスープにせよオードブルにせよ、腕によりをかけて作るのである。どこの誰がお湯を注ぐだけのスープや売れ残りのおかずを出すのだ。

美味しさをもっと味わって頂くためにまず不味い料理をお召し上がりください、なんて店があるとでも思うのだろうか。

そんなわけでさんざん苦労を重ねて件のピアニストからOKが出たのだという。

この調律師はピアニストの注文をもっともなことだと理解したらしい。何という素直さだろうと僕は思う。こうした話を聞くと僕は調律師の方たちに心からの同情を禁じ得ない。

件のピアニストは、誓っても良いが、なんだかんだ理屈めいたことを言っただけなのである。

投稿主はピアニストに敬意を払い自らの未熟さを痛感したと言っているけれど。

ピアニストならば誰しもが楽器に対しての要求を持っている。それに応えなければならないのが調律師なのである。

しかし要求や希望だけなら誰でもが持ち得るというのも本当ではないか。トヨタのプリウスにフェラーリの加速性を要求しても馬鹿にされるだけだ。

働かずに年収二千万円は欲しいものだと希望しても同調する人がむやみに増えるだけだ。

美しい音のために汚い音が必要だと宣ったピアニストはどんなに頑張ったところで美しい音は出せない。調律師は表向きは従いながら、この時ばかりは自分の職業に恨めしさを持つ。そんなことしか出来やしない。徒にへりくだる必要はない。

書いているうちにあと二つのクレームも書いておく気が湧いた。溜め込むことはよろしくないという証左かもしれない。




オンライン小音楽会

2021年07月18日 | 音楽
オンラインの発表会に便乗させて貰って僕の生徒有志の演奏会も配信して頂いた。

当ブログを読んで頂いている人はご承知のように、ほぼ毎月ホールで演奏する機会を与えている。

普段は長津田と戸塚のホールを使用しているが、今回は以前よく使用したフィリアホールで。

一階席は響きが遠く、二階席ではワンワンただ響く。そうなると録画の方がマシだということになりかねない。

関心のある方は是非聴いてあげて下さい。



ハーモニーの不思議

2021年07月13日 | 音楽
ひょんな事から軍楽隊の演奏に関心を持つようになったことは以前書いたような気がする。

ドイツ軍の金管楽器は実に美しい。ハーモニーとはかくあるべし、といった響きである。曲想さえ違えればそのままブラームスやブルックナーになる。

ある時沿道の観衆が撮った映像を見ておやっと思った。

すぐ近くを通り過ぎる金管楽器が決して上手ではないのである。漠然と大変洗練された音響を期待していた耳には結構なショックであった。

かつて何処かで読んだ記事の記憶が蘇った。かつてのベルリンフィルの弦楽器、就中ヴァイオリンは決して全員が名手だったのではない、というものだった。

目の詰んだ、その上艶のある響きに感嘆していた僕はそれを読んでそんなものなのか、と半信半疑だった。

しかし金管楽器群での体験をした今、僕は心からその記事を認めることができる。

ドイツ軍が奏でるバッハのコラールが如何に厳かか、マーチがどれほど引き締まって柔らかいか、音楽する人々は聴いてみたら良い。そしてハーモニーの不思議に思いを馳せてみたら良い。

因みにベートーヴェンもマーチを作っている。当然余技だが、他の行進曲の前後に聴くと力量が頭抜けているのが分かる。

又しても失敗

2021年07月10日 | 音楽
ピアノのテクニックについてHPを持っている。ある処から筆が進まず思案投げ首が続いたまま、外見上は打ち捨てられている。

そうではない。僕としても乗りかかった船だ、もう少しの処まで書き進めたのだから完成とまではいかずとも、纏まりくらいは示したい。

ただ、音を言葉で説明するのは土台無理なところへ動きまで言葉で表現する。その上動きと心理の関係を記述する。その根気が続かないというのが正直なところなのだ。

そこではまた、テクニックについてのみならず生徒主催の演奏会や僕の自主講座の案内なども見られる。

先日久しぶりに更新しようとしたのだが、何とログインが出来ない。

あれこれ試したのだがどうやってもダメなのである。ログインの方法が変わった云々の冷たい表示が出るばかり。

そのうちに1年以上前にログイン方法変更の通知メールがあった筈だということを知った。

僕は買い物はほとんどネットで済ませる。すると夥しい数の宣伝メールを受け取る仕業になる。注文のたびに案内メールは不要である旨をチェックすれば良いのだが、ついつい忘れる。

毎日沢山の不要メールを読まずに消去して、うっかりHPについての大切なメールも消去してしまったらしい。

そのような次第で、HPに載っている演奏会情報はとうの昔に終わっている。次の演奏会はいつですか、と数人に訊かれて初めてこれはまずいことになったと理解したのである。

慌てて記しておけば、次回は7月18日、青葉台東急スクエア内のフィリアホールで17:45開演。YouTubeでもリアルタイム公開する。

捨てざるを得ないHPのうちテクニックについてと音楽一般への言及だけは消えてしまう前にコピーをした。新たにきちんとしたHPを作らなければならない、やれやれである。パソコン音痴には荷が重い。