季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

楽語

2015年11月20日 | 音楽
ドルチェ=優美に
グラツィオーソ=優雅に

こう覚えて試験対策を整え、あとは何となく過ごす。

だが優美、を調べてみると(ふつう見ないね。意味はきちんと理解しているから今さらね)上品で美しいこと、派手でない美しさ、とある。

優雅、を調べると、上品でみやびやかであること、やさしい美しさがあること、である。

まことにごもっとも、としか言いようがない。説明の方が難しいような気さえする。

辞書によっては優雅の意味に優美であること、と載っている。

ではドルチェとグラツィオーソはほぼ同じことなのだろうか?

だがそんな詮索をする人は少ない。ドルチェだろうとグラツィオーソだろうと、何となく横目で追って弾いてしまう。

ショパンにはアダージョはほとんど無い。ラルゴは多い。ラルゴならヘンデルにも見かけるのにベートーヴェンやブラームスでは数えるほどしか見かけない。

テンペストの冒頭がラルゴだが、次にゆっくりになるとアダージョになっている。

楽典的な「知識」はほとんど役に立たない。あらゆる楽語は発想記号と見なしておいて間違いない。

プレストとヴィヴァーチェとどちらが速いのか、という話ではない。

コンクールの講評

2015年11月16日 | 音楽
先日さる自治体が主催するコンクールの本選会が開かれた。

結果については何ぶん僕は演奏を聴いていないし、聴いたところで異論も反論もない。そんなものだ、コンクールなんて。受かれば喜び、落ちたらガッカリする、それ以外の態度なぞ取りようがない。

しかし、後で渡される講評で、呆れるしかないものがあったのでここで記しておく。

某有名音大の名誉教授が審査委員長なのだが、この人の小学3、4年生への講評が目に余る。

全くもって残念な演奏、とか全くの練習不足とか、そうした講評をもらった子供が大勢いたという。そうした講評を貰った子供の親御さんから、周りの講評を含めて教えてもらったのだ。

当然ながら、子供たちは悄然として帰路についたようだ。

問題がある演奏を批判するのは良い。それがどのような効果があるかはここで問わない。真面目にその講評を期待する人が大多数だろう。

だが、上記のようなものは単なる悪口雑言だろう。自分の孫のような年齢の子供に「厳しい」言葉を投げ掛けて奮起させようという親心とでも言うのか。

百歩譲ってそうだと認めても良い。しかしそれならばこの人の言語能力は「全くもって残念」なものだと言ってよい。小学校からやり直すことをお勧めする。

国際的な大コンクールなら兎も角、数ある国内の学習者向けのコンクールではないか。

そもそもの趣旨は、多くの人がピアノに親しみ、末長く続けてもらおうというものだという。

この人たちは大学では口をつぐんでいるのではなかろうか。自分より「確実に」弱いと値踏みした時だけ、鬱憤を晴らすかのような論評をするのではなかろうか、僕はそんなことまで勘ぐってしまう自分を恥じるのであるが。


訂正

2015年11月13日 | 音楽
講座案内で、場所を間違えていました。訂正してありますけれど、改めて。

14:00から小田急線の成城学園前駅の
ギャラリースクエアです。(13:30開場)

東京都世田谷区成城2-17-14
Tel.03-3749-0784

住宅地の中にあり、多少分かりにくいのでご注意ください。


11/29の講座案内

2015年11月11日 | 音楽
11月29日・日曜日・14:00
ギャラリースクエア(小田急線・成城学園前駅)

前回同様に、小学生を少しレッスンします。シューベルトの即興曲Op.90No.2です。
その後はバッハのイギリス組曲No.6全曲を大人の生徒に弾いて貰います。

即興ということは、多くの人が語ります。即興が何であるか、それを理解するのは別段難しくありません。

でも演奏に於ける即興ということになると、よく分からなくなる。

モーツァルトやハイドンのゆっくりとした楽章などで、自由な装飾的な音符を施すのも即興ですが、演奏に於ける即興とは、はるかに根源的、且つ単純なものではないか。演奏する技術、音を造る技術と密接に繋がるものなのではないのか。

その辺りを分かって頂ければと思います。


連帯感 2

2015年11月07日 | その他
教育とリスクとの狭間で、というが、連帯感とは教育するものなのだろうか?

それが前の記事の最後で記したことである。

それを問い直さず、いかにも難しい問題だといった空気を漂わせる、いかがわしい題名だ。

他にも人間ピラミッドの起源をギリシャであることを紹介し、危険な技をクリアすることによって市民は感動して熱狂した、という物知りもいた。みたまえ、選ばれし民が危険な技を、とあるではないか。学校全体で取り組む性質ではない。

この御仁は体育祭での事故を受けてやめた方が良いという意見だったようだが。なにぶん、馬鹿らしいので飛ばし読みで、結論なぞどうでも良いのである。

僕は連帯感というものは無いとか要らないとか言っているのではない。 それはある状況下で自然に生じるものだろうと言っているのだが。

普段の生活において、例えば友人と、僕で言えば生徒とは連帯感で結ばれているのか?

違うだろう。僕は今目の前にいる生徒に対し真剣に教え、話をするだけだ。

だけだと言うが、それこそが大切なのではないか。それに対し生徒は僕を信頼して接する、それが無ければ僕から去れば良い。

人間の関係はこの相互関係の濃淡だと言って差支えないだろう。集団として生きてはいない。

集団としての関係自体は当然ある。会社、地域、あらゆる集団。

そこではチームワークが必要であるのは言うまでもない。

それはほとんど自然に発生すると言っても間違いではないだろう。ただし目前の人との関係を(濃淡を含めて)誠意をもって取れるということが前提とされるけれど。それも出来ずに謳われる連帯感は、異様だと言っておく。

ではそうした、人との関係は教えられるものだろうか。

教えること、授業のような形で教えることはこれ又不適切である。

また、関係というのは、ウマが合わないということも含まれることを忘れてはいけないだろう。

ウマが合わない人と「仲良く」する必要はない。むしろウマが合わない人と無礼にならぬような距離を保つこと、それが社会のごく普通の在り方ではないか。

あれもこれも、画一的に「教育」しようとするから、いびつな連帯感、達成感、友情、希望、ぺんぺん草、などが声高に叫ばれるばかりで、その効果は何十年にもわたって上がらない。