季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

天の川

2008年11月28日 | Weblog
天の川と誰が言い始めたことか知らないけれど、言いえて妙だ。もっとも都会に住む我々にとって星空は薄汚れた斑点みたいなものだが。

中原中也に「星とピエロ」という詩がある。何ともとぼけたようで、都会人、文化人のおセンチさを皮肉ったようでもある詩だ。

  何、あれはな、空に吊した銀紙ぢやよ
  かう、ボール紙を剪って(きって)、それに銀紙を張る、
  それを綱か何かで、空に吊るし上げる、
  するとそれが夜になって、空の奥であのやうに
  光るのぢや。分かつたか、さもなけれあ空にあんなものはないのぢや

  それあ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞといふが 
  そんなことはみんなウソぢや、銀河系なぞといふのもあれは
  女共の帯に銀紙を擦りつけたものに過ぎないのぢや
  
   以下略

詩の出来が良いとは思わないのだが、中也という人が分かる。僕にとって中原中也はきわめて親しい抒情詩人なのである。フーンと思った方はぜひ一冊の文庫本をお買いください。
  

さて天の川であるが、僕は若い頃さかんに山歩きをしたことは書いたことがある。不幸なことに、ピアノを専攻していると最低限練習は必要だし、さかんに山歩きといったところで知れてはいるのであるが。最低限の練習もしていなかったではないか、という人は僕を熟知した人だ。脱帽しよう。

尾瀬は好きで何べんも行った。大清水から三平峠への登りは、むちゃくちゃ(原稿用紙にだとこんな言葉を書くことが絶対ないのだが、パソコンに向かってなら書く。面白いものだ)足腰が強かった僕にもきついと思われた。(ここはいくらパソコンに向かってでも超きついとは書かない。

初めて行ったのは山小屋が閉じる直前、尾瀬ヶ原の紅葉は終わり、一面ベージュ色の平原に変わって冬を待つばかりになる頃だった。

沼田駅から大清水までのバスの中で、僕は紅葉のあまりの美しさに見とれていた。赤のシンフォニーなんて当時書いたことまで覚えている。それが高度を上げていくうちにみるみる枯葉に変わっていく。三平峠を過ぎた辺りでは、木々の間から目指す長蔵小屋が見えるほどまでに葉が落ちていた。

何度も尾瀬に行ったというのに、こんな時期を選んでいく時間的自由があったから、山小屋には自分ひとりだけ、他にいてもほんの数人ということが多かった。恵まれていた。その代わり水芭蕉の季節に行ったことがない。

急に思い出したが、深田久弥さんの山の文章は良い。あそこまでじっくり腰をすえて書かなければ山のことなぞおセンチな形容詞のオンパレードになるだけである。注意したい。深田さんが尾瀬について書いているのはきっとあるはずだ。燧ケ岳や至仏山が聳えているのだから。

夜も更けてから宿を抜け出る習慣がいつからあったのかもう覚えていない。尾瀬沼には当時桟橋が残っていた。それより以前は尾瀬沼を渡る船があったのだが、沼の水質汚染を防ぐため廃止され、今は桟橋だけが残っているのだった。僕は小屋のすぐ脇にある桟橋の突き当りまで行きしばし佇んだ。

運の良いことに、僕が泊まった夜は快晴だった。漆黒の闇に天を見上げれば、文字通り満天の星である。後にも先にもあれほど凄絶な星空を見たことがない。

空を女共の帯に銀紙を擦り付けた銀河がうねって横切っている。天の川は白い帯のように、疑いようもない夜空の川として流れている。長いこと見つめているとそれはたしかに無数の星の集まりに見えてくる。多分知識がそうさせるのだろう。そうだ、あれは銀紙だった。

当時は無数の星が見えてくる思いがして、そのうちに気が遠くなりかけた。「気をつけないと沼に飛び込むぞ」僕の内でそんな声がした。

しばらくして僕はまるで酔っ払ったように宿に戻った。

もう一度あんな星空を見たいものだ、あれからもう40年ほど経つ。僕も成長しただろうから沼に落ちることはあるまい。きっと銀紙に見える境地に達しただろうと期待している。
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合唱コンクール

2008年11月26日 | 音楽
ほとんどすべての学校で運動会、体育祭が行われている。中学、高校ではそれに文化祭が加わる。近年では新たに合唱コンクールが付け加わったようである。

結論だけを先に書いておく。

全国のほとんどの学校で合唱コンクールが行われている光景は異様である。

合唱はそれほどまでに有益なものだろうか?僕はまず、そういう素朴な疑問を捨てきれないでいる。

合唱は美しく、また楽しい。でも、それは誰にとっても美しく楽しいものではないはずだ。それにもかかわらず、必ず合唱コンクールが行われるところをみると、学校にとって、生徒にとって、合唱とは、なにか非常に有意義なものであるとみなされているらしい、と考えるのは自然だろう。

ここで断っておく。僕はある特定の学校で合唱コンクールが開かれていることに疑問を呈しているのではない。あなたの学校はおかしい、と主張しているのではない。全国を見渡したときに、どこも同じ光景が見えるのは異様だ、と指摘しているだけである。この二つはまったく違ったことだ。

どこもが同じことをしているからには、よほどの意義を認めているからか、それとも単なる怠惰であるか、どちらかだ。

この千篇一律ぶりにあきれることは措いておこう。

僕は音楽家として、その「現場」で取り扱われている曲を見てみたい。取り扱っている、と書いたけれど、学校教育における音楽は、そうとしか呼べないのではないだろうか。

もっとも僕は中学生ではないので、知識はすべて伴奏を頼まれた生徒がもてあまして、弾きかたを教えてくれ、とレッスンにもってきた曲による。

音楽にはいろいろなジャンルがあるけれど、学校音楽というジャンルもあるのか、と素朴に驚いてしまうくらい、ある種のパターンがある。

もちろん「ふつうの」曲も歌われているらしい。ただ、よく選ばれる曲の特徴は、まず歌詞が何というか、えらく教育的なのである。歴史もの、道徳もの、と戯れに呼んでいるが。

感動をあなたに、といった押し付けがましさすら感じる。恐らく作詞家は、これって学校の先生にけっこう受けたりしてさあ、とはっきり気づいて作っている。作曲の方はある作曲家がそう言っているのを聞いたことがある。もっとも聞くまでもないのだ。ちょいと心を澄ませて読んだり聴いたりすれば瞭然としている。

ピアノ伴奏にいたっては、一見手が込んでいるようで、実際は単調かつ陳腐、そしてそれを弾かせられる生徒は、ひとりではどうにも手がつかずに泣きついてくる、そんな次第だ。

ピアノを習っている子供は大抵経験しているはずである。自分が練習するべき、今習っている曲なぞ弾いている暇はない、そんな本末顛倒がいたるところに見られる。

音楽の教師、もしくは担任はピアノを習っている子供ならできるだろう、と勝手に思っているのだろうが、変に複雑化された和音、オクターヴやトレモロの多用がどれほど負担になるかはまるで考慮していない。作曲技法の単調さ、馬鹿らしさ、このうそ臭さの元凶に手こずる生徒たちをみて、つくづく気の毒になった。

困ったことに人間には自分が経験したことを、できることならば肯定的に捉えたいという気持ちがある。無理もないのだが、音楽や詩のうそ寒さにも、案外簡単に慣れていく人は多い。要するに抵抗感を持つにはエネルギーが必要で、これを保ち続けるのはなかなか難しい。

するといつの間にか一種の感情めいたものが(まるで宇宙人のように)心の片隅に根を下ろす。しかもあくまで感情めいたものであることを止めない。それ以上に人の心を揺さぶり動かす力は、どの角度から見てもない。せいぜい人とある目的に向かってワイワイすることが楽しい、という程度のことだろうか。

それこそが学校の狙うところだ、という人もいよう。しかしそこでなされる努力はまったく価値のない音楽に対してであるから、付和雷同する人種を(長い目で見れば)作り出すだけだ。

こうして「仲間」「ふれあい」「きぼう」「ぺんぺん草」といった歯が浮く言葉を口に出して恥じることがなくなる。それでも実感はないものだから、生活すべてうそ臭いという言葉も(主に若い人の間で)しきりに聞かれるようになる。「学校音楽」が耐え切れぬという子供は少ないだろうが、音楽家の僕から見ると、それに慣れてしまうことが怖いと思われる。

人には鼻歌をくちずさむひと時もあろうが、クラシックだろうがロックだろうが、「本気の」音楽が必要なのだ。わざわざご丁寧にうそ臭さを教える必要がどこにあるだろう。それについて発言する義務が音楽家にはあると僕は思っている。

全国にある教員養成学科の教師も例外なく音大を出ているのだろうが、片方でバッハを「お勉強」しながら、もう片方では見ざる、聴かざるを貫いているようだ。彼らこそ一番身近に知っているはずなのに、自分のバッハだけを見ている。もし教科書を知った上でなお黙っていられるのならば、その人のバッハなぞ知れている。

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捨て猫記 3

2008年11月24日 | 
コンニャクがもらわれてやれやれと安心していた僕たちは甘かった。日本の「殺すなんてできない。せめてどこかの優しい人に拾われて欲しい」という自分勝手な「優しい方ありがとう、子猫ちゃん幸せにね、ずっと忘れないよ」病患者は僕が思ったよりはずっとずっと多いのであった。

アリスとテレスを見つけたのは公園の桜の木の根元だった。その横には熊笹の茂みが続いていた。小説家でもないのにそこの景観の描写を記したのにはわけがある。

そうだ、この時はたまのほかにもう一頭、ミケというシェパードも家族になっていた。(たまというシェパードがいるならミケもいるさ。なぜこちらはカタカナかというと、本名はミケランジェロなのだ。畏れ多いが)

ミケは常にたまにくっついて行動し、まるで見習いのようであった。この子は由緒正しい!血統で、母親は日本チャンピオン、父親は世界チャンピオン(だったかな)、書いているうちに我が家はボクサーの家系で、と思い込みそうだが、簡単に言ってしまえば、ふつう僕のような貧乏人には売ってくれない名犬なのであった。現に同腹の子は(これが見かけはミケに瓜二つだった)日本で2位になり、持ち主も何べんも替わった。

こうしたシェパードの世界について触れるのは今は控えておこう。要するに野良猫と真反対の世界なのに、○○様ご愛犬という肩書き(というのかね)欲しさに所有者が代わっていくように僕には見える、なんだか人間の勝手さだけが目立つ世界だ。

話を公園の熊笹の茂みに戻そうか。そこを通りかかったとき、どこから聞こえるのか分からぬほどか細い猫の声がした。

たまが笹の茂みに分け入り、ミケランジェロもそれに続いてとび込んだ。(と、本名で記すと滑稽でしょう、熱血漢ミケランジェロといったところだ。システィナ大聖堂の屋根から飛び降りていた、と書いてしまいそうだ)

たまは少しずつ後ずさりしながら茂みを抜けようとしている。その鼻先に子猫がいるらしい。道を案内するかのように振舞う。ちょっと鼻でつついたような動作をしては数センチ後退する。たまはそういった能力が自然に備わっていたと思う以外ない、一種独特なシェパードだった。僕たちがイライラするくらいゆっくりと出てくる。子猫の声が少しずつ近くなる。

たまがようやく茂みから出ると、鼻先にしがみつくようにして、ガリガリにやせ細った子猫も出てきた。毛も生えていないほどの衰え方である。たまは猫の体中を舐め、ミケは物珍しそうに傍で見ていた。

獣医に連れて行ったところ、衰弱が激しく、助かる公算は低いとのことだったが、スポイトでミルクを飲ませたり、大変な思いを続けた結果、なんとか一命を取り留めた。

元気になってよくよくみれば、この猫はめったにお目にかかれぬほど奇妙奇天烈なご面相なのである。どこから見てもタヌキだ。どんぐり眼でぼさぼさにおっ立った毛。里親探しが難航することが予想された。

たまが下の世話はしてくれたから、あとはミケに接し方を学ばせるだけでよい。写真のようにして、そっと接することを教え込むのである。穏やかな声で「お友達、可愛いねえ」と言いながら鼻先へ持っていく。好奇心から覗き込もうとするが、ほんの少しだけ、念のため距離を保つ。その時に「そっと、そっと」と声をかける。それを繰り返すと、自分からそっと近づくことを覚える。

そうそう、この子にも名前を付けなければならなかったのだが、捨て猫にうんざりしたこととこんにゃくという名前が気に入って、コンニャク2号とした。もっとも獣医ではこんにゃくちゃんと呼ばれたが。

ミケもあっという間に対応を覚えた。ミケはのちに並々ならぬ母性本能を発揮するようになるのだが、それはこの時期の経験があったからだと僕は信じている。本能というからには生来のものだと言われるけれどどうだろう。こういった生物学的常識も、もういちど疑ってかかってみたら良いとさえ思う。

写真をこまめに撮る習慣がないので、2頭のシェパードと子猫の画像がなくて残念だ。あとで見て懐かしく思うのが嫌いなのである。

コンニャク2号は、予想通りなかなか貰い手が付かず、当時教えていた大学の学生が欲しいといってくれたときには、地獄で仏の心境であった。
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ゼロの発見

2008年11月20日 | 
零の発見という本がある。数学の生いたちという副題が示すとおりの内容で、吉田洋一さんという人の本だ。たいへん面白い。岩波新書でもう90刷以上あるのではないか、昔から名著の誉れ高い。

だが、今回はこの本を紹介するつもりで書いたのではない。タイトルをもう一度見て貰いたい。零の発見は吉田さんだが、僕のはゼロの発見なのだ。僕なりのゼロの発見を書く。決して剽窃ではないのだ、といばっておこう。

昔、帰国したばかりのころ、ほとんど文無しの生活を送っていたころ、なぜかは思い出せないが僕は駅への道を急いでいた。

駅の少し手前に小さなオーディオの店があり、路上に商品を出して鳴らしていた。店も小さかったが、鳴っているスピーカーはもっと小さかった。当たり前だ、店より大きなスピーカーがどこにある、と言うなよ。高さ30センチにも満たない。それがえらく良い音なのだ。上等のスタインウェイとかハンゼン先生の音とか、一言でいうとヨーロッパでずっと聴きつづけた音を瞬間的に思い出す音だった。音を触ることができるとでもいおうか。

思わず足を止め、値札を見ると片方で20000円。左右両方で40000円である。帰国したばかりでレコードも聴けやしない、安物のステレオ装置を売らずに帰国するべきだった、と後悔していた折である。

これならば何とか買える。音も良いし小さいし、良いことづくめだ。

僕は買い物の決心をすると早い。駅に向かっていたはずが、いつのまにか店の奥に向かっていた。

「良い音ですねえ」と小僧さんみたような店員さんに話しかけると「そうでしょう」と嬉しそうに応える。「こりゃ良い音ですよ」「こういうのはむしろ楽器といいたいですね」と僕のほうが売り手のように褒めてしまった。

ここで断っておくが、僕はオーディオ機器に何の関心もなかった。ドイツでも最低ランクの機械で満足していた。友人がY社のオーディオを買って、それまでは僕とどっこいどっこいの安物だったのが値が張るのを買ったらしく「Y社も悪くないぞ、スピーカーも凄く重いんだ」と自慢し、羨ましく思ったくらいだ。つまり良いスピーカーは重い、と思い(シャレではないぞ)込んでいた。相撲取りだって重ければよいとは限らないというのにうかつだった。でも、一応付け加えておくと、音響機器は振動が一番の敵で、僕たちのような素朴な人間にはスピーカーは重くあるべし、という観念が定着していた。

そんな僕の目の前に小さくて場所をとらず、しかも手頃な値段のスピーカーがあったのだ。

「あのスピーカーをいただきたい」僕の口調はいつにも増してきっぱりしていた。それでも即金では買えず、ローンの手続きを依頼して、店員が必要欄を埋めていくペン先の金額にふと気がついた。値段のところのゼロがひとつ多い!!仰天した。両方で400000円!

その時まで、僕は、ピアノの購入のとき同様、掘り出し物というのはオーディオの世界でもあるワイと思っていた。ところが、この世界はそんなに甘くなかった。良い音にはわけが、ではない、値があるのだ。

あんまりきっぱり言ったので、引っ込みがつかなくなり、帰国直後のやけくそな気分も手伝い、ええ面倒くさい、最長のローンで買ってしまえ、と相成った次第である。6年だったか8年だったか、月日が経つのは遅いなあ、とため息をつきながらものすごい金利を払ったはずである。今のような低金利時代ではなかった。プロミス並みの利子だった。

僕がゼロを発見した奴に恨みを持つのは当然である。ゼロの重みはずしりと堪えた。学校の0点なんか平気だったのだが、こちらのゼロは数年にわたって追いかけてくるのだからなあ。ふたつ見落とさなくてよかった、と今では思い直している。というのは、後に知ったところでは、そういう世界らしいのだ、オーディオ界とは。

その小さなスピーカー、おっと店はその道の人からは知られた店だったことを後に知った。もっと立派な店構えだったら立ち寄らなかったのに。

後日談がある。

以上からお分かりのように、僕はコンセント以外のケーブルは繋げないほど、機器に暗い。ある日、何だったか忘れたが、あまりに初歩的だと自分でも分かることで店に電話をした。格好悪いので名乗ることもしないで掛けた。

質問をしたら「重松先生ですね」と言うではないか。「おや、なぜお分かりになるのですか、耳が良いですね」「違いますよ、うちのお客さんでそんな質問をする人は先生しかいません」

世界は広いね。

最後に本家「零の発見」をもう一度。以上の漫文とちがって、理解しやすく格調高い。数学なんて苦手で、というひとも是非。

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捨て猫記 2

2008年11月17日 | 
お向かいさんが猫を拾い上げてコニャックに昇格しひと安心したころ、ベンツが犬を捨てた(この文をドイツ語に直訳してしまったら??だろう)雑木林で、やせ衰えた子猫をみつけてしまった。探していたわけでもないのに、まるで狙ったかのように僕の目の前に現れる。

雑木林を散歩するときは必ずたま(にしき)が一緒だった。当然だ。たまの散歩のために僕たちがついて行くのだから。

子猫はキジトラでこれまた人懐こい。しかもシェパードを怖がらない。気がついたらニャニャアたまのところに寄って行っていたのだ。当時は雑木林はまったく手が入っておらず、ノーリードで散歩していた。たまはたまで、ドイツで猫に嫌というほど引っ掻かれた経験があるのに、もう猫が好きで好きでたまらない犬なのだ。

弟の処に当時は猫が2匹いて、たまはその子たちにからかわれていた。犬はからかわれるキャラクターだな。

これも何かの因縁だと観念して家に連れ帰った。それからが大変なのである。獣医に連れて行き検査と予防接種をしなければならない。その際は名前を登録しなければならぬ。お向かいにコニャックがいるのだ、うちはコンニャクにしよう、といういい加減さで猫のコンニャクが誕生した。とぼけた響きがあって、病院で重松コンニャクちゃん、と呼ばれるとおかしかったなあ。

写真のように、もう我がもの顔でたまに甘えていた。たまもされるがままになって、時折遊んで、とても嬉しそうにしていた。

それでも我が家は、高価ではないにせよ、骨董類が棚の上や本箱に置いてあり、猫が暮らす環境としては相応しくない。ここはどうしても里親を見つけなければならない。

アリスとテレスは無事もらわれていったが、里親探しをした人は知っているとおり、犬の貰い手に比べると、猫を希望する人は極端に少なくなる。勢い会場は猫ばかりというありさまと相成る。

僕の住む町では、月に一度里親探しの会が開かれる。ある日曜日、ついにこんにゃくを連れて行くことになった。獣医の検診結果を持ち、どうしても一緒に行くと言い張る息子と、保育園に行っていたころだ、緊張しながらでかけた。貰い手がいなかったらどうしよう、と苛立ちばかりつのる。

会場に着くなり、コンニャクを手放したくない息子がオイオイ泣きはじめた。里親探しの会では、まず人の目に留まることが大切だ。猫を持ち込んだ人たちは心得たもので、プラカードのようなものをボール紙で作ったり、うまい宣伝文句で客、ではなかった、希望者の注目を集めようと必死である。息子の泣き声は注目されるところとなり、よっしゃと思った。

しかし案に相違した。

注目を集めたところで、貰われるとは限らぬことを身を持って知らされた。誰がどう見ても息子は別れが辛くて泣いているのである。「ボーヤこの子がすきなんだねぇ」「エーンエンエン」「ボーヤ本当はあげたくないんだよねえ」頷きながら「エーンエンエン」これでは貰い手が出るはずないね。

大勢の人が取り巻いて見るものの、誰一人として名乗りを上げない。コンニャクはご覧のように器量よしで、性質も良いのだが、おお泣きする子供から誰が取り上げようか。目立ってよかったと思ったのも束の間、連れてきたことを深く深く後悔した。

翌月の里親探しには家内がタクシーで連れて行った。もちろん息子なしで。コンニャクは無事に貰われていった。僕たちは、予定していたとはいえ、家族が一匹減った部屋を寂しく見ていた。

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捨て猫記

2008年11月14日 | 
最初に捨て犬の現場を目撃したことから書いておく。忘れてしまって残念がっても遅いからね。

近所に雑木林がある。神奈川県が野鳥のいちばん多い森として登録をした処である。なに、一角を切り倒してゴルフ場にしたので、もう野鳥なんか来やしないのだよ。間抜けな話である。高いネットが張り巡らされ、夜は夜で煌々とライトに照らされた林に飛んでくる鳥なんぞいるものか。ライトに向かって飛んでくるのは、夏の虫くらいだ。

その雑木林の縁を散歩していたときのこと。件のゴルフ練習場はまだ出来ておらず、小鳥の来る森だったころ。よろよろと道の突き当りまでやって来たベンツの中から、中年の女と犬が出てきた。当時ベンツは今ほどポピュラーな車ではなかった。したがって、この書割はちょっと出来損ないのドラマみたいであるが、本当のことは仕方がないね。

たまと散歩中だった僕は遠くからぼんやりと見ていた。単なる犬連れが犬と一緒に降りただけにしか見えなかった。たまが何者か分からない方は以前の記事を見てください。

と、女は身を翻して助手席に消え、ベンツは急発進した。犬は(中型の白っぽい犬だった)狂ったようにキャンキャン鳴きながら全力で後を追った。しかし追いつくはずもなかった。そして僕の視界から消えた。

捨て犬だ、と実感したのは犬が見えなくなってからだ。何ということか。今これを書きながら、またしても怒りがこみ上げる。

世の中には犬が嫌いな人がごまんといる。でも、飼っている人は嫌いなはずはない。犬嫌いは人でなしだと言ったら言った奴が阿呆だ。しかし、こうは言える。飼った犬を可愛がることの出来ない奴は人でなしだ、とね。そういう手合いは、人間に対してもほぼ同様の対応をする。猫好き、トカゲ好きでも事情は同じだ。

捨て犬を拾った顛末については書いた。犬を拾う人は猫も拾うのである。飼っているウサギも半ば拾ったようなものだ。お金も拾うとなお良いだろうと思うのに、これは拾わない。

子供が小さかったころ、近くの公園で子猫を拾ってきた。大変人懐こい子猫で、玄関でミルクを呑み、ニャアニャア身をこすり付けてきた。猫が体をこすりつけるのいは懐いているからではない、蚤で痒いからである、と言いたい人には言わせておこう。とにかく人を全然怖がらない。しかし我が家は猫を飼うような環境にない。

気がつくと子猫はどこかへ行ってしまっていた。あんなに懐いていたのにな、と残念な気持ちだったが、どこかホッとしたのも事実だ。

数日後、なにかの拍子に、この猫が向かいの家の飼い猫に昇格したことを知った。いや、嬉しかった。野良猫は今やコニャックという洒落た名前を付けてもらって、ベランダから出たり入ったりしている。(因みにコニャックは今も健在である。昨夜も台所のガラス越しにシルエットが見えて嬉しかった。もう15歳くらいかな。実に可愛い猫である。時折我が家の玄関先でニャアニャア鳴く。入れてくれろというのだ。招き入れるとひとしきり2階の台所あたりで遊び、気がすむとまた出してくれろと催促して出て行く。我が家のシェパードたちが何の危害も加えないことを知っていて、まったく無防備である)

この猫が一連の捨て猫騒動の序曲になるとは、知る由もなかった。

なんて、思わせぶりでしょう。ジャーナリズムの中に身を置いた気分だね。続きはまた。

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和声学

2008年11月12日 | 音楽
シューベルトがベートーヴェンを訪ねたことが一度だけあるのだそうだ。その時に「美しき水車小屋の娘」を携えていったらしい。ベートーヴェンはそれを褒め、同時に小さな和声学上の間違いを指摘したという。

こうやって・・・らしい、とばかり書いていると週間○○みたいでしょう。他人のことだと「えっ、そうなのか」と思う浅ましさを誰でも持っている。

そうなんだあ、シューベルトがねえ、和声間違っていたんだあ、と安心した人は甘い。僕が言ったことは、たしかにどこかで読んだ記憶があるのだが、肝腎の僕の記憶力は怪しいのだ。どうです、論理を辿るのはなかなか難しいでしょう。

しかしシューベルトはともかく、和声学が音大に通う人の頭痛の種であるのは間違いないだろう。

和音は好きだが、和声学は嫌い、という人がたくさんいるはずだ。僕もそのひとりだった。いや、学のある先生だったね、和声の教師は。学といっても和声学だけどね。

友人の一人がまったく授業に出ず、学年末の試験にだけ現れた。先生、何度も何度も、分かっているくせに点呼を取り「おかしいですね、ひとり多いようです」と繰り返す。最後に件の友人に「君は授業に出ていましたか」と慇懃に訊ねた。「出てまへん」「では試験は受けられません」「あきまへんか」「だめです」友人は関西出身である。

僕はニタニタ笑って見ていた。笑う資格はあった。出席日数はどういうわけか足りていて、やる気だけがどういうわけか足りなかった。禁則ばかり多くて、ねちねちそれを指摘されればされるほどシューベルトに肩入れしたくなっていたのだ。(本当かい)

「だめです」とすげなく断られた彼はヒョイと立ち上がって「ほなサイナラ」と去った。これには笑ったなあ。今でも時々思い出す。ここは「ほなサイナラ」でなければいけない。「そうですか、では失礼します」だったら僕の記憶に残ることはなかったね。

大学の授業はつまらなくて、成績表はカフカ全集と自ら称していた。可と不可しかないという意味である。おかげで卒業するためには4年時にまでせっせと通う羽目になった。

その代わりに下級生と知り合いになって、それなりの効果は上がったのだ。それって大学の授業と何の関係もないでしょう、などと追求しないでもらいたい。その通りです、と答えてしまいそうだ。

僕は作曲家の矢代秋雄先生に幼いときからピアノを習っていたのであるが(僕の先生が長期休暇が多くて、その代講をしていただいたのだ)矢代先生が和声の教科書の執筆陣に名を連ねていた。

ピアノ科の授業を放り出してフラフラ作曲科の授業に遊びに行き、すると先生は「重松君、和声なんてきれいだったら禁則だろうと気にしなくて良い、間違いなんかどうでも良いんだよ」なんて悪戯っぽく言うのだった。

僕はそれをさぼる理由にしただけであったが、今はもう少しだけ生産的に言っておこう。

ピアノを学習している人に必要なのはまずはアバウトな和声学だ。通常、ちょうど僕が授業でやらされたように、厳密かつ馬鹿にされながら、数題の課題を、呪いながら片付けるものだろう。その挙句に和声は嫌いだ、になってそのころ卒業する。

これはまずい。作曲家は和声学を一応マスターしておかないと、作曲する際不手際が生じる。でも演奏者は、すでに和声学に則って書かれた曲を弾くのだ。演奏者も作曲の心得があったほうが良いといった高邁な議論は今は措いておく。

演奏家、殊にピアノ奏者はできるだけ数多くの課題をした方が良い。間違い、禁則を恐れるな。ありえない和音はだめだよ。それ以外だったら、とにかくたくさん作ってみること。そうしたら、たとえば暗譜が不安になったときでも何とかしのぐような実際的能力くらいは付く。

本格的にできるに越したことはないと思う人は、そこから先に進めばよい。役にも立たぬ努力を強いて、嫌いにさせるのは愚の骨頂だ。教える側は、自分はその無味乾燥さを克服したという自負心ばかりあるから、我慢できない奴は出来損ないだ、と思い込む。音楽教育に携わる人に一考を求める。

ほなサイナラ。
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5千円札

2008年11月09日 | Weblog
五千円札の樋口一葉をまじまじと見たことがありますか。

あの肖像はよく見かけるね。樋口一葉といえば大抵あれだ。

で、お札の肖像なのだが、目が異様だ。具体的に言えば黒目が変だ。というか、白目がほとんどない。だから不気味に見える。つい最近気がついた。五千円札ともなるとそう頻繁に使用するものではないし、使用するとはすなわち支払うことで、ついつい伏目がちになって、観察がおろそかになっていた。お札が黒目がちなのに対して、こちらは伏目がちなのであった。戦わずして負けていたと言わねばなるまい。

以前、Xファイルというアメリカのテレビシリーズがあった。僕はテレビや映画をほとんど見ないのだが、このシリーズは、レンタルビデオで借りて、とうとう全作品を見た。人気があったと思う。というのは、レンタルショップに同じ作品が何本も置いてあったから。

メインテーマは地球に異星の生命体が潜んでいて、人類は少しずつ侵食されつつあり、それを変わり者のFBI捜査官が追求する、というもの。

それに挟まって様々の怪奇現象を追う話がある。深海の未知の細菌あり、憑依現象あり、さまざまなのだが、それらは科学的に類似した研究が行われているらしい。真偽のほどは知らないけれど。結構ありそうな話が多く、面白く見てしまった。

ところで異星の生命体はタール状に変容して人間にとりつく。これがなかなか怖いのである。とりつかれた人間の目は一瞬タール状の液体に覆われて白目が消え黒目だけになる。

つまりこの、乗っ取られた人間の黒目を思い出させるのだ、五千円札のおけぐちいっぱは。怖いなあ。

ついでに新旧の千円札があったから比べてみると、ここでも新しいお札は黒目がちなのだ。夏目漱石は自然なのに、野口英世は乗っ取られている。

千円札に対しては伏目がちではなかったと思うのだが、それにもかかわらずこの小さな変化に気がつかなかった。人間の観察力なんて多寡が知れているのだね。きっと知人がタール状の異星人に乗っ取られても誰も気づかないのだろう。自分が乗っ取られても気づかないのかもしれない。

この印刷の変化はどこからきたのだろう。そういえば切手の印刷も、ずいぶん雑になったような気がする。子供のころ切手収集家が大勢いた。現在もいるに違いないが、その数はかなり減っているのではなかろうか。

僕は集めていなかったけれど、図案も印刷もずいぶん綺麗だったのは覚えている。外国の切手を見せてもらって、けっこう雑に印刷するものだと思ったのも覚えている。そういえば切手屋というのは今もあるのかしらん?羨ましくて店頭を覗いたこともあったな。

そのころに比べて、図案も印刷も安っぽくなったように思う。

どこで読んだのか、もう不明だが、日本人のお札に対する態度はヨーロッパ人とずいぶん違う。銀行員がお札の束を虫ピンでブスリと刺したのを見て心からびっくりした、という。

それはその通りで、日本でアルバイトがお札をブスリとやったらきっとクビだね。

デンマークのお札が粗末だったなあ。オランダも。他の国のことは覚えていないが、なんだか漫画みたいな肖像だったような気がする。

お札なんか、それ自体の価値ではないから、貨幣価値が認識されれば良いのさ、といったところなのかな。

留学する前に、都心の銀行本店で100万円をドイツマルクに換金した。銀行に着くまではカバンをしっかり抱え、辺りを窺いながら、犯人さながらの様子でひっそり歩いていたのに、マルクに換えたとたんに気が弛み、ふと気づけばカバンの蓋が開いていて驚いた。所詮紙切れだから、実感のないマルク紙幣は何の価値も感じられなかったのだろう。このときの僕の油断に気づかなかったスリはプロではないぞ。

この人間心理を上手についているのが、カジノのチップだ。現金をただのプラスチックのチップに換えて遊ぶところがみそだ。アラブの長者はともかく、ふつうの人はお札だったらびびって賭けきれまい。

お札の印刷職人が練習のために名画の模写?をしていることは書いたことがある。僕が感じるのは、お札のデザイン化が進むにつれて、名画の模写も何だか粗くなったということである。新しいシリーズも出ているけれど、そんな印象を受ける。
もしそれが当たっているならば残念だ。名画のコピーを再び版画で、というのが僕の願いだから。





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ネイガウス

2008年11月07日 | 音楽
ネイガウスといっても知らない人が多いようになったかもしれない。スビャトスラフ・リヒテルやエミール・ギレリスの先生だと説明するよりは、ブーニンのお祖父さんと言ったほうが通りが良いだろうか。

ソ連の有名なピアノ教授だった人だ。世評では、ピアニストとしてよりは教師として、より有能だということであった。

最近この人のレッスン風景の映像を見た。ネイガウスの記念番組のようだ。ロシア語で、当然字幕もなく、なにを言っているのか皆目見当が付かない。

若い時分のギレリスや、ブーニンの父親(つまりネイガウスの息子ね)、若くして亡くなったタマルキーナという女性ピアニストら、ソ連全土から選ばれた(であろう)生徒たちが次々に演奏し、寸評めいたことを言っている。

言葉は分からなくても、色々感じるところはある。僕の勘で言うけれど、この人は教師として、そんなに有能だったとは思えない。むしろ演奏家としての方が良い。録音を聴いたことがある。端正な演奏だったように記憶している。ドイツのヤマハのスタジオで社員のひとに聴かせてもらった。当時ようやくピアノの音の判別がついて、何を聴いても面白く、ネイガウスの演奏も演奏全体よりも、ああ綺麗な音を出す人だったのだ、と感心したのだけれど。

レッスンをしているネイガウスは、尊大で気取っている。なんだか2流の映画で決まりきったくさい演技をしているようである。

息子をはじめ、選ばれし選良たちは、それぞれ達者で(ギレリスがいるのだもの、当たり前だよね)中には「どうだ」と言わんばかりの顔つきで受講している者もいる。それでも、中には昨今の演奏の欠点にそのまま繋がりそうな弾き手もいる。それは身体の動きだったり、手の動きだったり、あるいはほとんど自動化された表情だったりする。間違えないように。表情がないのではない。「豊かな表情」自体が自動化されているのだ。

ネイガウスが手や身体について言うことはおそらくあるまい。彼自身はピアノの弾き方についての本を出しているが、これは観察という点からみても上等とは言いがたい本である。

実は僕はこの本を以前から持っていて、その後に彼の演奏を聴き、そのギャップに戸惑ったのだ。本は有名なものだから、少し熱心に学ぼうと思った人ならば大抵所有しているだろう。なにせリヒテルの先生だものね。ネイガウスもしきりにリヒテルの名前を挙げていて、それも分かるがなぜギレリスの名前は出ないのだろう、と素朴な疑問を持ったことが思い出される。

ここで本当に久しぶりでこの本に目を通したら、ギレリスについても何度も言及しているではないか。僕が疑問を持ったことだけは覚えているのだ。記憶もあてにならないなあ。

でもそんなことよりも、次のような一節に目がとまった。

近代の作曲家になるに従い、音量の強大さを求める、という。これはどうか?近代の作曲家ほど音符をいっぱい書くのは一目瞭然さ。しかし、それを音量の増大を求める、と表現するだろうか。

せめてより微妙な色彩感を求めた、くらいは書いてもらいたいね。音楽家としては。それが本当によりいっそうの微妙な色彩感を生んだかは措いておく。

少なくとも、その言葉に呼応して、ピアノ演奏の困難は強大な音を持続していくところに尽きる、という断言があるのだ。でも、当の本人は、すでに書いたように、そんな意見とは無縁の、美しい音を出すのだ。

物理の速度記号やら、エネルギー式やらも頻繁に出て、「力作」めいてはいるのだが、肝腎の加速式は、僕がこの記事を書くために大急ぎでとばし読みした限りでは無かった。もしも物理式で説得しようと思ったら、これこそ噛んで含めるように、繰り返し言及されてしかるべきだった。

あとで詳しく目を通してみよう。こういう本については、何度取り上げても無駄ではあるまい。



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室町の鈴

2008年11月04日 | 骨董、器
馴染の骨董店で買ったものである。

写真では伝わらないが、それも安物のデジカメで撮ったものだからなおさらであるが、この肌合いがなんとも好きである。

工業製品と違って、大小のでこぼこがたくさんある。その手触りが目にも映る。

僕にとっては高い買い物だったが、一目で気に入って買った。
室町時代のものだろう。中に入っているものが、時代が下れば金属の塊になるのだが、これは小石が入っている。写真で見えるだろうか。中に見える白いものがそうだ。

と書いて2枚目の写真を載せようとしたが、どうやるものだか見当がつかない。説明を読んであれこれ試みるがうまくいかない。そもそも、説明はパソコンにある程度以上慣れ親しんだ人しか分からない書き方をしている。不親切といおうか、とにかく不愉快になって本文に戻ってきた。

中に白いものはここに出した写真では見えない。底面に割れ目が入っていて、そこから白い小石が覗いているのだ。写真はピンボケながら、石がはっきり写っている。載せられないのが残念だ。そのうちに写真だけ載せるかもしれない。ピンボケのね。

鈴は魔よけに使われたらしい。人によっては、こんな古びたものを家に置いていたらよけい貧乏神が取りつくのではと敬遠するかもしれない。ほんとうにそうかもしれないね。貧乏神は我が家にしっかりと住み着いているもの。

僕は系統だった勉強が何より嫌いだった。知識もそれに伴って貧弱なものだ。ただ、こんな鈴を眺めていると、いつのまにか、これをどんな人が所有していたのだろう、とか実朝の暗殺の記録とかがえらく身近なものに思えてくる。時代は少しずれるが、まあ室町以前に鈴はあったであろうし、それなら勝手に空想した方が買った甲斐もあろう。

小学校のころ、歴史も好きだったな。それが中学に入ると、もう無味乾燥で、それが歴史という「学問」だと思わされるものだから、俺は歴史は嫌いだ、となってしまった。高校ではそれに拍車がかかった。

今では再び自由さを取り戻している。僕はどうも学校でする勉強方法は性に合わないのだな。あらゆる科目にいえるね。待てよ、そうすると単なる出来損ないというのかね。本当はそういう人がいっぱいいるのだろう。ただ、僕のように我儘に強引に振舞うのをためらっただけなのだろう。

歴史を研究する人と僕ら演奏家とどこが違うのだろう。少なくとも18,9世紀に関しては、ほとんど同じことをしているのである。

もっと思い切って言えば、一人の人間の中に入り込もうと努める点では、歴史家の比ではないのだ。その人を生きてみようというのだから。ヴァレリーが歴史を嫌悪した理由はよく分かる。訳知り顔をする歴史に対してなのだ。

例えばベートーヴェンを演奏する。そうすると、作品に入り込めば入り込むほど、この人がナポレオンと同じ時代の空気を吸っていることを実感せざるを得ない。僕自身がベートーヴェンという男を体験する。そんな感じかな。僕は巷間言われるような時代考証について、大して関心がない。むしろ道筋は逆ではないかとさえ思っている。

今、歴史家たちは名高い人物よりも、その周辺に暮らした人、あるいはまったく世に知られていなかった人々の資料を発見しては考察を推進する。

阿部謹也さんという学者の著書は親しみやすい。この人はたしか一橋大学長を務めたように記憶するし、よく読まれた本が多いから知った人もいるだろう。

ヨーロッパ中世が専門だったはずだ。読んだことのない人は読んでみることをお勧めします。鹿爪らしい感じがなくて、昔のヨーロッパを旅するような気持ちになれます。

室町の鈴がいつのまにかヨーロッパ中世に関する本の紹介になったが、構うことはあるまい。
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