季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ブゾーニの演奏

2008年09月30日 | 音楽
フェルッチョ・ブゾーニを知らない人は、ピアノをある程度以上弾く人ならば、まあいないだろう。バッハ:ブゾーニのシャコンヌは人気の高い曲のひとつだから。

ではブゾーニは何者か。ピアニストだということ位は知っているし、ブゾーニ版という一連のバッハの注釈があるのも、たいていの人が一度は見たことがあるだろう。

伝説になるくらいの名人にもかかわらず、彼の演奏を聴いたことがある人はあまりいない。音楽愛好家には結構多いかもしれないが、ピアニストや音大生ともなるとその数はぐっと減るだろう。

ピアニストや音大生ともなると、というのは変に聞こえるかもしれない。でも僕が間違えたのではない、リアリズムだ。音楽家というのはあまり音楽を聴かないものらしい。少なくとも本気ではね。

ところで、ブゾーニを聴いたことのある人というのは、断るまでもないが生演奏ではない。1923年くらいに68歳で亡くなった人だから、実際の演奏を聴いた人もいないわけではあるまいが、そういう羨ましい人はもうきわめて少数になっただろう。で、僕がいうのは録音でのことだ。

何種類かの演奏が残っているらしい。ぼくはそのうちの幾つかを聴いただけなのだが。ショパンの「黒鍵」「OP.25-5」リストの「ハンガリー狂詩曲」その他。

名人という言い方をすると、音楽の世界では何だか胡散臭いニュアンスを持つようになった。あるいは内容がない巧みさ、と反射的に思われるようになったと言おうか。

では反問してみよう。内容とは何か?

僕はそれに対する答えを持っていない。ただ、本当の名人に対して、心から感心する。

では本当の名人とは?

そうやって行くと、どうしても言葉では言い尽くせないものがある。唯一の答えは、僕が名人だと思える人のことだ、と木で鼻をくくったような言い方になる。そこで再び、ブゾーニを聴きたまえ、と戻らざるを得ない。

ぜひ聴いてみたらよい。たとえば「黒鍵」で、オクターブ多く弾いたり、装飾的に1小節余分に弾いたりしていて面食らうかもしれない。そんなことはしかし、小さなことだ。いやならそうしなければ良い。僕もしない。

こんなことは時代の空気というにとどまる。平安時代には女性は歯を黒く染めていた。いやならしなければよい。今日は髪を茶に染める。それで良いではないか。良いではないかもへったくれもないのだ、本当は。後世には2000年代、若い男女は髪を茶色に染めた、とだけ伝わるのさ。

オクターブ多いと、顔をしかめる人は、ついでに源氏物語を読んで顔をしかめたら良い。

演奏とは面白いもので、奏者の精神までが丸出しになる。演奏がくずれているかどうかは「編曲」したかしないかで決まるものではない。それにもかかわらず、昔の演奏は作曲家の精神をゆがめたものだと、まことしやかに語られる。「専門家」がそう思い込んでいるからね。

でも僕に聴こえるブゾーニは、なるほど同時代人の中でも抜きん出て自由に演奏しているが、その「編曲」にもかかわらず、気宇壮大とでも言おうか、実に力強い。どうしてどうして、気ままに崩れた精神、弱い精神で演奏しているのは原典版を使用しているわれわれの時代によっぽど多い。

こんな人が、ベルリンの音楽院ではピアノ科ではなく作曲科の教授にいたのだから、シュナーベルにしてもフィッシャーにしても、尊大な態度なんかとるはずないね。
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捨て犬記(続)

2008年09月28日 | 
当時僕たちは、昔風の○○荘といったアパートの2階に住んでいた。もう住人はおらず、だから犬を計3匹も飼えたのだ。

子犬が成長して夜中に起きる必要が減ると、大分楽になった。といっても、この子犬たちを自分たちで飼うことは不可能だったから、いろいろ里親探しを続けたのである。

近所の雑木林にたまとアリスとテレスを連れて行くと、実の親子のようにたまの後を追い可愛かった。それでも手放さないわけにはいかない。

あちこち、といっても僕は今でも交友範囲や人付き合いが極端にせまいのだ、当時はたかが知れていたが、貰い手を探しているうちに、生徒の家庭が雌を一匹もらっても良いと申し出てくれた。

ある日、その一家が全員お揃いでアリスを引き取りに来た。ほっとする気持ちと、寂しい気持ちが一度にやって来た。僕がアリスを抱き上げ、奥さんの手に「はい、どうぞ」と渡した。

なぜそんなことをくだくだしく書くかというと次のような次第である。

この一家では奥さんだけが幼いころの経験から、犬が怖くて仕方がなかったという。それでも家族中が飼いたがるから承知して、我が家まで一緒にきたわけだ。

それが、予想もしない展開になり、怖くてたまらない犬をいきなり手渡されてしまった。後日談だが、腰が抜けるほどびっくりしたそうである。僕たちは僕たちで、まさか犬が怖い人が貰ってくれるとは想像だにしていなかったから、花束を家庭の主婦に渡すでしょう、そのような感じで、ひょいと手渡したのだ。

奥さんは数日悪夢にうなされたそうだ。こんな話も聞いた。アリスは(名前はアリスのままになった)最初は玄関に繋がれていたそうだ。ある日奥さんが外出から帰ったところ、どうしたことか、綱からはずれて、ウロウロしていた。それを見た奥さんは本当に腰が抜けてしまって、大変だったという。

触るにも、軍手をはめて、といった調子だったらしい。それにもかかわらず引き取ってくれたことに僕は深く感謝している。しかも、いつの間にかアリス一筋になり「アリスが死んだら私も死ぬわ」とまで変わったそうだ。本当に良いところに貰われたものだ。

結局アリスは16歳を超えるまで生き、家族中に看取られて天寿を全うした。幸せな子だったと思う。奥さんはもちろんご健在である。

さてアリスが貰われて車を見送り、部屋に戻った僕たちはテレスが寂しい思いをしているだろうと、気を遣った。

心配は無用だった。

犬の社会を冷静に考えれば当然のことだ。テレスはアリスと仲は良かったが、アリスがいなくなったとたん、よりのびのびと振舞い始めた。通常は飼われる犬の数は限られるわけで、テレスにしてみれば争いに勝ったわけなのだ。

動物の社会は厳しいなあ。人間の感傷なぞ吹き飛ばされる。

写真のような按配で、充分に甘えていた。

市が主催する里親探しの会に足を運んで、とうとうテレスも貰われる日がやってきた。何度も、拾ってこなければ良かった、と思いながらも、お別れは辛い。市の里親探しでは、トラブルを避けるために、貰い手と連絡を取ることを禁じている。年配の夫婦に引き取られたテレスについては、アリスと同じように可愛がられてそだったことを祈る。

それにしても、自分が味わうべき苦労や辛さを人に丸抱えさせた奴に呪いあれ。僕たちがどんな気持ちでテレスを手渡したか。
たまを飼ったいきさつで書いたドイツ人同様に振舞うかどうか分からないが、とにもかくにも大きな差だと言わざるを得ない。

我が家はその後、捨て猫にも悩まされることになる。それはいつか書く。

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捨て犬記

2008年09月26日 | 
帰国して現在の住居に住み着いて、一番初めにしたことといえば、たまの散歩できる所を見つけることだった。

あらためて感じたのは、いかに日本の公園がちっぽけでみすぼらしいか、ということだった。

それでも、偶然迷い込んだ道から見えた公園は、芝が青々として、木立も多く、散歩するにはもってこいだった。時折ドイツの森や公園を思い出してため息は出たが。僕たちはここをホームルラウンドにすることに決めた。

当時この公園を管轄する市は財政が潤っていたのだろう、芝生の養生もよくなされていた。今は、「まちぼうけ」の歌詞ではないが、ぼうぼうの荒地のようになってしまっている。

ここでいつものようにノーリードで歩いていたときのこと。ふと気づいたらたまがいない。

振り返ってみれば、桜の木の下で立ちすくんだままである。「来い」と声をかけても一歩も動かない。おかしいな、今までそんなことは一度もなかったのに。もう一度、今度は強く命令したがやはり動かない。傍らに何やら段ボールがある。

妙なこともあるなあ、と訝りながらたまの処へ行くと、段ボールの中から子犬の声がする。上蓋を開けてみたら、黒と茶の2匹の子犬が動いていた。

予想もしなかった事態で、戸惑った。目がたまと合った。この子の特徴だった、染み入るような目がじっと僕を見つめていた。

思い込みが激しいな、という人もいるだろう。ただ、僕は思い込みが激しいタイプとはまったく反対の人間だ。人が犬を擬人化するに当たっての心理もよく承知している。

それでも、この子は他の子とはまったく違ったと言わざるをえない。

ドイツのように犬との生活が日常に溶け込んでいる社会でも、特別扱いだった。自分の飼い犬をそっちのけでTama,Tamaお前さんは特別だねえと可愛がられ、いつも嫌がらせをするボクサーにとうとう怒って、あっという間に組み伏せたときも、飼い主の爺さんまでが他の人たちと一緒に「やったぞ、Tama、それで良いんだ!」と拍手をしたほどだ。いつも「Tama怒れ、怒って良いんだ!」と言っていたなあ。

ドイツでの犬の話はまたいずれ書くことにして先を急ごう。

たまは結局僕たちの気持ちを先取りしていたわけだ。心では、2匹を捨てた奴を罵りながら、結局2匹を連れ帰った。名前がないとね、というわけでアリスとテレスにした。雌がアリス、雄がテレス。2匹でアリストテレス。

それからが大変だった。何しろ目が開いたばかりの子犬である。夜中に3時間おきくらいにミルクを与えなければならない。犬用の哺乳瓶を買い、犬用の粉ミルクを買い、このミルクが溶けにくいのである。そうだ、思い出したが、物凄く高いのだ。帰国した直後で「貧乏暇無しというが、貧乏すぎると暇だよなあ」と笑っていたほどだったから、まあ堪えたな。泣きたかったね。

ミルクを呑み終わると用を足す。お腹をさすると出てくる。普通は母犬がするのだ。出しておかないと後で悲惨なことになるから、眠い目をこすりながらも最後までする。時折、何の因果でと怒りがこみ上げるが。捨てた奴は今頃ぐっすり眠っていやがるだろう、とフツフツと怒りがこみ上げる。誰だかわからないのが癪の種だ。

たまもよく世話をした。この子は母性本能が強いのか、と改めて思った。離乳食に切り替わっても、2匹の横でじっと見守るばかりで、少しでも自分が欲しがる素振りを見せない。

子犬が少しずつ成長すると毎日遊び相手になるのだが、これがまた実に上手なのである。見ていて飽きなかった。もちろん不安などは一切感じない。たまが所有していた犬用のおもちゃを、アリスとテレスが次から次へ自分たちの巣箱へ持っていってしまう。それをただじっと見ているだけである。

夜になって2匹がぐっすり寝入ってしまうと、ひとつひとつくわえて静かにまた自分の寝床へ持って帰るのだ。ちゃんと所有欲というか、自分のものが自分の場所に無いことを知ってはいるのに、主張しない。ドイツの森での振る舞いを思い出したものだ。

思い出したからついでに書いておこう。ドイツで他の犬に怒ったことがもう一度あった。クヴァックスという群れのボス的な猟犬がいて、この子がいたずらに僕が手から外して持っていた手袋をさらって逃げたことがあった。するとたまは猛然と攻撃して、クヴァックスはほうほうの体で手袋を放した。

似たことが日本でも一度あった。友人宅に麻雀に行き、たまも部屋にどうぞ、というので連れて行った。友人宅にも当時犬がいたが、その子は庭にいて、たまは部屋にいるのだから、なんだかおかしいね。

奥さんにも、もちろん誰にも、とてもよくなついていた。あるとき、僕がソファーの上に脱いで置いたジャンパーを、奥さんがハンガーに架けてくれようと手にした。するとたまが、それまで麻雀卓の下でじっとしていたのに、「触るな」というように低い声で威嚇した。「たまちゃん、どうしたの」奥さんはびっくりしていた。僕が事情を飲み込み「たま、良いんだよ」と声をかけたら安心して再び卓の下にもぐりこんだ。

アリスとテレスの顛末は書き足しましょう。



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勝ち組

2008年09月23日 | Weblog
タイトルには一応最近よく目にする言葉を使ってみた。でも、書くことはそれとあまり関係しないかもしれない。

僕の小さかったころは、まあ色んな遊びがあった。ピアノを職業にしようとは夢にも思わなかったが、今にして思うと、子供の遊びは動作の宝庫だ。ピアノの技術をより良くしようと努めていると、ふいに子供のときの遊びにおける動作と同じ要素を発見することがある。最近の子供は不器用だといわれれば、そんな気もする。

そこで大人は最近の子供は外で遊ばないのが問題だ、と昔の遊びをいろいろ紹介して、楽しさを体験させようと試行錯誤している。

めんこ、ビー玉、おはじき、ベーゴマ数え上げていくときりがない。地方地方で偏在する遊びもあった。

僕の育ったところは、近くにグラモフォンだったか、レコード製作工場?があって、ドーナツ盤製作の際に余る中心部が大量に廃棄されていた。敷地の中であるが、悪がき達がどうやってか嗅ぎつけて、金網の破れから入り込んで、それをごっそり持ち帰ってゲームを考案した。入り込み方を知っているところを見ると、僕も悪がきの一人だったのかもしれない。

当時の小学校の机は2人掛けだった。その端に真ん中に穴の開いた円盤を置いて、掌でポンと叩き、机の反対側にとばす。勢いがつき過ぎたら落ちてしまう。そうしたら負けで、できるだけ反対の端に近くに行ったものが勝ち、という単純そのもののゲームだった。

この遊びなどは、僕の育った地域限定の遊びだろうね。

さて、かつての子供である大人たちが、現在の子供たちにこういった遊びを教えて、どんな反応があるのだろうか。まったく見向きもしない、ということはあるまいが、それが再びかつてのように盛んになることもあるまい。

だって考えてごらんなさい、メンコなんて、ボール紙の一片を、地面に打ちつけて、相手のボール紙が裏返ったら勝ちだ。ビー玉だって、いくつか遊び方はあったが、基本的には相手の玉にぶつければ勝ちだ。こんな単純なものがそう面白いはずがないじゃないか。

では僕たちはどうしてあんなに夢中になっていたか。単純な理由による。賭けていたからだ。強い奴は、みかん箱にいくつもメンコを持っていた。ベーゴマを米袋に詰め込んでいる奴もいた。

僕は強くなかったから、メンコは特に弱かったから、ずいぶん巻き上げられていた。何が違うのか、当時は研究しようとも思わず、ただ悔しいばかりであったが、強い奴はいつも強かったところを見ると、コツがあったのだろう。

小遣いが多かったわけではないのに、毎日のように巻き上げられていたのには、実は深い深いわけがあったのだ。

強い奴は、ふんだくるだけふんだくると、相手がスッカラカンになり、ゲームを続けようにも相手がいない。そこで僕にも「あげるよ」と一束差し出すのだ。この瞬間は嬉しかったなあ。ものすごく得をした気分で。一束と言ってもメンコだよ、札束ではないぞ。

書きながらふと思ったのであるが、この快感が忘れられずに汚職に走った奴も多いのではなかろうか。いっぺん収賄側の少年期を調べてみたらよい。贈賄側も、子供ながらに、一束攻勢は丸め込むのに効果あり、と学んだのだったりしてね。どうだい、学説なんてこうやって簡単にでっち上げられるのかもしれない。

まじめに言っておけば、勝った奴は、自分ひとりで勝ち続けても世の中は回らないのだと知ったのだ。勝ち組だけが勝ちまくるのはどうもまずい、とね。負けた方は、引き際を知る大切さを学んだといえるかな。

いつから子供の遊びから賭け事の要素が消えたのだろう。僕はそれが残念でならない。負け続けの僕がいうのだ。今となっては、人為的に復活させるのは無理だろう。そうすると、年寄りが言うような、昔の遊びは元気があった、テレビゲームとは違って、という「昔は良かった」式に復活させるのはまあ、風物記念館以上の働きをするはずがない。

子供の社会は、大人が思うような無垢なものではない。同時にそんなに愚かなものでもない。子供のうちから賭け事なんかとんでもない、という健全な建て前が、「健全な」子供社会を奪い取ってしまった。
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ショパン前奏曲(おまけのおまけ)

2008年09月20日 | 音楽
この稿はおまけのおまけである。グリコのおまけなんかと違って、気前がよいのである。

ところでグリコは今でもおまけが付いているのかな?そもそもグリコってまだあるのかな?

そのような基本的な疑問を持ったところ、ある人から最近のお菓子は、おまけの方がずっと立派で、肝腎のお菓子は申し訳程度なのだ、と知らされた。成る程そうだったのか。本ブログと同じ発想だったのだ。どこかで現代作曲家の方が、音の読みにくさを除けばずっと簡単だと書いた。どうです、同時代人だと、おまけの発想だって似通ってくるでしょう。

しかし、本編はおまけのおまけだ。お菓子の比ではない。おまけにおまけが付いているお菓子はどこを探してもあるまい、どうだ。その上こうして脱線付きだ。

さて本題に入ろう。

第13番「異国の地で、星をちりばめた夜に、はるか彼方の最愛の人に思いを馳せながら」「外国で星の多い夜、遠くにいる恋人を思う」(外国っていうのはきっとハワイだな。ショパン作曲フラダンスの楽譜はどこかに埋もれているはずだ)

第14番「荒れ狂う海」「嵐の海」(ここでまでいちゃもんを付けるのは大人気ないな。でも何事も蓄積なんですね。前科10犯くらいあると、心証もよろしくない)

第15番「しかし死はそこに来ている、その闇の中に・・・」「しかし死は物陰にいる」(ゴキブリか!物陰にいるのは)

第16番「奈落への道」「深いふちへ向かって走る」(ホップ、ステップ、ジャーンプ!)

第17番「彼女は私に言った、私はあなたを愛している、と・・・」「彼女は私に言った。あなたを好きです」(即物的なあなたを僕は嫌いです)

第18番「呪い」「祈り」(神よ、あの男に災いの降りかからんことを!という祈りだってあるからなあ)

第19番「翼を、翼を与えたまえ、わが最愛の人よ。あなたのもとへ飛んで行くために」「つばさ、あなたのところへとんで行く、私の恋人」(最近、日本語、ぽく、むちゅかしい、解らない)

第20番「葬式」「葬送」(八田さんの負け)

第21番「愛の告白の場所にひとり寂しく戻ってくる」「先祖のもとへ一人帰る」(お彼岸ですものねえ)

第22番「反抗」「反乱」(言葉だけだとどちらでも、と思いそうだが、曲を知っている人には反乱というのは無理があると思われよう。誤解されるようなものなら題名なんぞ要らないね)

第23番「戯れる水の精」「水の精のたわむれ」(語順がひっくり返っただけでこんなに違う。言葉の面白さを教えてくれてありがとう)

第24番「血と、快楽と、死」「生、官能、死」(風呂、メシ、寝る)

いやはや、僕も結構暇なのだということが判明し、安心した。過労死するかと心配だったのであるが。それとも、文字通り忙中閑ありなのか。

いただけないのは、美しい日本語を扱えないことではない。美しい日本語を使おうと思いすぎるところなのだ。まるで最近開発されたタウンの名前みたいだ。

どうです、僕もタウンなんてトレンディな言い回しを知っているんです。
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ショパン前奏曲集(おまけ)

2008年09月18日 | 音楽
コルトーが前奏曲すべてに題名を与えていたことはすでに書いたとおり。

全音から出ている邦訳に、ちょっと注文をつけたりしたが、他の出版社から出ている前奏曲集の解説に、コルトーが題名を与えていたことに言及したものがあって、腰を抜かしたので、暇つぶしがてら紹介しよう。

武士の情けで、日本語訳を与えた女性の名前は伏せておこう。僕はフェミニストだからな。八田さんのと併記しておく。八田さんのを最初に記します。( )は、僕がコルトーになったつもりで突込みを入れたもの。

1番「愛される女性の熱っぽい期待」「いとしい人を待つ」(曲想を暗示する力は八田さんの方に軍配が上がる)

2番「悲痛な瞑想、人気のない海、遠く彼方へ・・・」「郷愁の思い、遠く開けた
海のような」(これも同様。八田さんの訳からは、力なくさまよう眼差しを感じるね、うまく表現できている)

3番「小川のせせらぎ」「小川のうた」(まあ、違えようもないが、せせらぎとい
う語が躊躇なく出てくる感性が好ましいとは思うね)

4番「墓の上で」「親指で」(???僕はフランス語が解らないと言ったじゃない
か。それにしてもこの差はどこから来るのだ、誰か教えてください。気になって夜も眠れない。親指で?指圧の心か?それともヒッチハイクか?)

5番「鳥のさえずりに満ちた木」「うたであふれた木々」(木も切り倒されるときには叫び声をあげるそうだが。木々がうたうなんてスタジオジブリだよな)

6番「郷愁」「ホームシック」(間違いなの?と詰め寄られてもねえ。せっかく
2番で郷愁という言葉を覚えたのに、この人は。ああ、ショパン作曲ホームシック。日本語は・・・どこへ行った、とホームシックを覚えるぞ)

7番「甘い思い出は、香りのように記憶の中に漂う・・・」「すてきな思い出が香水のように記憶の中に香っている」(すてきな思い出、ひと夏の体験、女性週刊誌の読みすぎじゃ。香水のような思い出!むせ返りそうだ)

8番「雪が降り、風がうなり、嵐が猛威をふるう。しかし私の悲しみに満ちた心の中では、嵐がもっと凄まじく荒れ狂っている」「雪が降り風が吹き嵐が吹きあれる。しかし私の悲しい心の嵐はもっとすさまじい」(甲乙つけ難い。もとい、甲乙つけ難い、というのは両者に高評価を与えるときだな。凄まじいという言葉がよろしくない。八田さんのを使うのなら、嵐が、ではなく嵐ははるかに激しく吹きすさぶ、とでもしたらどうか。

9番「預言者の声」「預言者の声」(同じになるであろうと予言しておった)

10番「消え行くのろし」「降りてくるロケット」(・・・ロケット・・・李白は五言絶句、ここでは余白無言絶句。それにしても、ウーム、ショパンの時代にもしかしたらUFOがいたのかもしれない。否定できる根拠はない。それにしても・・・)

11番「乙女の願い」「少女のあこがれ」(月刊マーガレットか)

12番「闇夜の騎士団」「夜の乗馬」(夜景を見にドライブに行かないか、ベイブリッジあたりに。中華でも食べてさあ)

いや、恐れ入りました。もうやけのやんぱちだ、あと12曲紹介しちまうわ、持ってけ、泥棒!と寅さんのようになってしまう。おまけをもういっぺん書きます。お付き合いください。
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ショパン前奏曲集

2008年09月16日 | 音楽
この題名が検索にかかってさ迷い込んだ方にはお気の毒である。勿論まったく無関係ではない。

コルトー版を推奨する旨はすでに書いた。この版による前奏曲集の興味ある点は、すべての曲に題名が与えられているところにもある。もっとも、24曲すべてに思わずうなるような題名を与えるのは不可能だから、多くは平凡な連想からなる。

たとえば3番のト長調が「小川のせせらぎ」となっているのは、別段異議を唱える気持ちにもならないけれど、はたと手を打つこともない。小学生にだって思いつく。

しかし、どれもこれもはたと手を打つ題にしようとすれば、奇を衒うことになりかねないから、平凡な題が混ざるのはよしとした方が無難だ。

もっとも意表をついて、しかも真実味があるものはと問われれば、躊躇せずに15番変ニ長調を挙げる。通常「雨だれ」と呼ばれている曲だ。なお、僕はフランス語は一言も理解しないので、日本語版の八田惇さんの訳にしたがう。

「しかし死はそこに来ている。その闇の中に・・・」

これは実に適切な、コルトー以外の人にはできなかった、発想である。ひとつだけ八田さんに注文しておきたいのは、日本語が、コルトーのテンションの高さを充分に伝え切っていないと感じることだ。ここは、たとえ意訳になってもひと工夫してもらいたかった。そこに来ている、なんて宅配ピザみたいじゃないか。

たとえば「しかし死はすぐ傍らに潜んでいる、その闇の中に・・・」とか。

24番ニ短調も「血と、快楽と、死」となっていて、間違いではないだろうが、これでは3点まとめていくら、といった感じだ。テレビショッピングで「ネックレスとイヤリングと指輪3点で驚きのお値段」とやっているね、あれに似ていないですか?僕なら「血、快楽、そして死」とするなあ。もっとも、テレビショッピングこそ「ネックレス、イヤリング、そして指輪もお付けします」と叫んでいるのだが。でも「血、快楽、そして死」から滑稽な感じはしないと思うね。

ちょいとしたことで様相ががらりと変わる。言葉というのは面白いなあ。役人が法案を骨抜きにしようと、句読点ひとつにもこだわるでしょう、あれもイライラせずに面白がればよいのかな。

2番のイ短調は長い間評判が良くなかったそうだが、ここでのコルトーの題もなかなか良い。題にしては長く、むしろこの曲への随想とでも言っておいた方が良いけれど。「悲痛な瞑想、人気のない海、遠く彼方へ・・・」

ここまで自分の心象風景(宮沢賢治風に言えば)に寄りかかることを現代人はためらうだろう。

でも、曲目解説やレッスン、CDのジャケット等を見ればわかる。どんな人でもある程度は曲から受ける印象について触れないわけにはいかない。

僕は理屈っぽく言うのはあまり好みではないから、急に断言調になるけれど、要するに皆臆病なのだ。私はこう感じる、と言い切るのをためらうのだ。

指揮者のチェリビダッケは「私はコルトーの所謂詩的なものは好みではない」と言ったけれど、僕は好みだな。チェリビダッケにしたところで、詩的表現そのものを非難したのではなかろう。だって彼のプローベでもその手の表現はままあるのだから。彼はただ、自分はコルトーとは違った感じ方をする、と言っただけだ。

でも、いくら力説しても足りないのが、この訳業の価値である。これがなければ、僕なぞはこれらの「題名」は知る由もなかった。まあ、最近ではいろいろな出版社が楽譜出版に精を出しているし、フランス語に堪能なピアニストは多いから、いずれ目にしただろうが。

と書いて、いや八田さんのおかげで助かった、と思うことがある。続きはまた。
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ケンプと録音

2008年09月13日 | 音楽
僕の少年時代は、裕福でもなかったし、それは日本全体にもいえることで、簡単に音楽会に出かけることはなかった。今でも覚えているのは、たぶん二期会の公演だったのだろうが「コシ・ファン・トゥッテ」を観に連れて行かれたこと。まだはなたれ小僧のころだ。なんにも覚えていない、ということをよく覚えているのだ。舞台がとっても美しく見えたことと、コミカルな演技があって笑い転げたことだけを覚えている。舞台が美しく見えたのは当然だろう、当時僕の知る唯一の舞台は学芸会の舞台だったから。

演奏会らしい演奏会の記憶は、もう少し歳がいってから、小学校4年生のころかな、神奈川県立音楽堂にケンプが来たときのものだ。ただ、ここでも行った記憶は確かにあるのだが、座った場所までおよそ覚えているのだが、演奏についての記憶はないのである。彼自身の「イタリア組曲」というのがプログラムにあったはずだ。

以来、来日のたびに東京の演奏会はほとんどすべて行ったのではないか。ベートーヴェンの協奏曲すべて、ソナタ全曲演奏等、こちらはさすがによく覚えている。

こういった演奏会では、よくNHKのテレビカメラを見かけたのだが、すでに書いたこともあるが、そのほとんどが上書き消去されているという。日本は当時すでに高度成長期に入っていたのであるが、成長は、こんな薄っぺらな価値観、文化観によってかろうじて支えられていたのだ。

僕が子供のころから、何とはなしにうそ臭さに反抗を覚え、希望だの、成功だのという言葉に嫌悪を示したわけは、今にして思えばこんな処にあったのだ。当時の僕の口癖は、繁栄は水面に浮いた油のようなものだ、広がるかもしれないが、深まることなく、しかも汚れている、というものだった。大学の友人の一人が目をむいて「重松は無政府主義者か」と言ったのをよく覚えている。

そんな訳がないだろう。僕はおめでたく振舞えなかっただけだ。それでも、およそ僕の言ったとおりになっているではないか。

ケンプの演奏会は、僕にとって福音とでもいうべき、特別のものであった。彼が舞台の袖から姿を現すと、空気は光を帯びるように感じた。緊張したものは一切ないのだ。なんだか、ルネッサンス期の坊さん画家、フラ・アンジェリコを連想させる、柔らかい光だった。

ポリフォニーを自在に操り、その操り方はグールドの真反対で、まるで手品師がいくつものボールを空中に放り投げて遊ぶ、それを思い起こさせた。

音も、時には無造作といって差し支えないように扱い、それでいて、一晩聴き終わると、音楽を聴いた充実感が体中に溢れるのを感じた。

聴いた演奏会の録音を数日を経てラジオでふたたび聴いたことがある。どんな演奏でも、「生」と録音ではまったく違うものになる。

それでもケンプほどその差が激しい人を僕は知らない。mixiに入っていることは以前書いたように記憶するが、そこでケンプのコミュニティーを覗いてみると、意外なほど大勢の人がこの人を好意的に聴いている。CDではじめて聴いたという人、You tnbe でみて心惹かれた人が殆どである。

そうしてみると、録音と実際との乖離が大きいことを理由に、ケンプの良さが伝わるだろうかと心配するのは杞憂に過ぎないのだろうか。

どうもそこは分からない。ただ、何かに心動かされたことだけは確かなのである。その人たちの心の動きを、耳と直結させることが出来れば、と思う。

後に、この人の母方の先祖は農夫だったと知り、納得がいったような気がした。日本では、音楽家一家に育ったことばかりが強調されていて、そういう「エリート」臭がまったくないのが不思議だったから。

演奏家の一コマ漫画があって、ケンプは、森の切り株に座っておもちゃのピアノを弾いている。それをウサギ達が周りで聴いているのが、もうよく覚えていないが、じつにぴったりで感心したことがある。

明恵上人が木の又で座禅を組んで、周りに鳥や動物が遊んでいる有名な画がある。どことなく似たところがあるな。
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学校のウサギ

2008年09月11日 | 動物
今でもたいていの学校でウサギなどを飼育しているのだと思う。僕はこれを即刻止めてもらいたいと願っている。

僕はウサギに詳しい。昔から詳しい。小学校時分、銀座通りでだったか、売っていて買ったことがある。

若い人へ。銀座でコンクールや発表会があるとふらつくのが楽しみでね。でも、今と違って、ウサギを売っていたり、怪我を負った軍人が白い服を着て杖を突き、物乞いをしていたりでね。こんな昔話をすると、ああ僕もジジイになったなあとしみじみ思う。未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声だったっけ。本当だよなあ。

さて、家でウサギが跳ねるのを見て、僕は満足であった。数日後ウサギは死んだ。

今にして思えば、水を与えなかったのだ。可哀想に、どんなにのどが渇いたことだろう。当時、ウサギは水を飲むと死んでしまう、という俗説が流布していた。この俗説は今も残っている。子供の僕がそれを疑うのには幼稚すぎた。母親および父親が、ペットをもっと本気で大切にするべきだったのだ。いくら情報を集めることが困難な時代とはいえ。

僕が詳しいというのは、つまり、そのレベルということだ。

この不幸なウサギのことは僕は今でも思い出す。今、我が家には2匹、高齢になったウサギがいる。小さい種類で、両手にすっぽり入る。もっとも一匹はデブで、凶暴だから両手にすっぽりなんて可愛いことはないが。なにしろ餌を与えようとすると、早くくれと飛び掛ってくる。歯が鋭いから痛いのだ。この子達の水を飲む姿を見るたびに、死んだウサギを思い出す。

二匹のウサギは雄と雌だから、離して飼っている。ヒポナッチ級数というのはウサギ算というくらいで、ウサギの繁殖力は旺盛だ。しかも避妊手術が大変難しい。隔離するのが現実的な唯一の避妊方法である。

また、雌同士は良いが、雄同士だと噛みあいになって、耳くらいちぎれてしまう。歯は干草とか野菜を食べていても伸びてくるから検査が欠かせない。伸びると食欲がまったく無くなって、放っておくとすぐに死ぬ。伸びた歯は、麻酔をかけて削るしか方法がない。

こんなことを書くと「そんなに面倒なものか。では野生のウサギはどうやって歯が伸びるのを防いでいるのだ?医者にかからずにやっていっているではないか」という人が必ず出る。

簡単さ。次々に死んでいるのさ。だから旺盛な繁殖力があるのだ。

学校で何らかの動物を飼う理由は何か。子供達に情操教育を施そう、ということだろう。控えめに言っても、かなり怪しげな発想である。そんなに簡単に情緒が育まれるのなら誰も苦労しないね。

そもそも、動物が嫌いな人は情操面で問題があるというのだろうか。動物が苦手だという人だってたくさんいるのだ。まさかその人たちが人でなしと言うのではあるまい。

動物を飼っていると、たしかに癒される。それは僕が動物が好きだからだ。札束を見ていれば癒される人だって必ずいる。それもたくさんいる。僕?どちらか分からない。まず、それを知るために持ってみたいものだな。

動物好きな教師が、ぜひ子供たちにはこの気持ちを一緒に味わってもらいたい、と願うのは自然である。しかし、もしもそうであるならば、その教師が率先してウサギ小屋を掃除し、餌をあげ、ある時には獣医に連れて行くことをするべきだ。範を垂れるとはそういうことだろう。飼う以上、それをしない限り、子供は動物を物以下に扱うことしか覚えない。可愛い可愛いと都合よく抱き上げるばかりが動物を愛することではあるまい。その教師はとんでもなく忙しくなるだろうが、動物を通して情操を豊かにと願う以上、やりとげなければならない。

もうひとつ。動物が好きになれない子に、無理強いしないことだ。これは難しいぞ。動物好きは良い人だ、という馬鹿げた考えを捨てることだ。

序でに触れておくが、ウサギを扱える獣医は少ない。良心的な人ならば「自分はウサギは診られない、扱えない」と、専門医を紹介するくらいデリケートなのだ。ウサギを飼っている学校の教師たちの何人が知っているか、訊ねてみたい。

要するに発想が安直なのだ。その上、良いことに決まっていると信じて疑わないものだから、それを止めることすらできない。子供は知らぬ間に大人の怠惰を真似する。いつくしむ心、なんてお題目をいくら唱えても無駄なのである。

それくらいなら、何もしない方がよほどましだ。センチメントからは何も生じないだけではない。無感動が生じるのである。

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真剣

2008年09月08日 | スポーツ
またぞろ、オリンピックのメダリストのドーピング違反が発覚し始めている。日本の選手でドーピングに手を染める人が少ないらしいのはよく言われる。

僕もおそらく今のところはそうではないかと思っている。

その理由を色々な人が憶測している。日本人はアンフェアなことが嫌いなのだ、というのもあった。それはたちどころに否定されるであろう。政治家を見よ。役人を見よ。教員採用試験を見よ。接待漬けの社会を見よ。みよみよみよ、と力のないヒヨコのさえずりではないか。

勝負というものに対して、一種の潔さを尊いとする血脈はあるかもしれないな。

真剣という言葉はそんなに古くからあるのではないだろう。江戸時代、宮本武蔵らが果し合いをしていたころに出来た言葉ではなかろうか。

例によって素人の憶測、空想の楽しみにふけっているだけだ。詳しく真実を知っている人は、ぜひコメント欄にご教示ください。

武士は徳川の世になって、基本的には仕事がなくなった。戦うのが本分であるから。身分だけは最上位に保証され、僕たちはひがみ根性から、結構なことだ、羨ましい限りさ、と思いがちであるが、人間はそう簡単な生き物ではなかった。

自分たちが生きている理由は何か、次第にそう問いかける武士が増えたのである。よく何十億も籤で当たった人が事業を始めるでしょう。当たっていない僕たちは「なぜそんな無駄をするのだろう、利子だけで遊んで暮らせるのに」と訝しがる。でも当たってみたらきっと分かる。することがない、というのは拷問に近いのだ。僕もそれを本当に知りたいから、なんとか3億円くらい当たりたいと願う。

江戸の武士たちは、生きる意味を模索した。それが武士道という言葉を生み出した。今日あまりに簡単に使われているように、腹を掻っ切る潔さという簡単なものではないのである。

たしかに葉隠れには、死ぬことと見つけたり、とある。しかし、そこに至る思考を辿らず、単なるキャッチフレーズに貶めているのはまったくいただけない。

そういった思考は伊藤仁斎、荻生徂徠などの天才に繋がっていくのだ。因みに演奏する人にとって、この人たちの成し遂げたことは大変参考になると僕は思っている。

他方、武士本来の武術も鍛錬を怠るわけにはいかない。各地に剣道場が出来、稽古に励んだのだろう。もちろん怠け者も多かったことだろうね。

道場ではもちろん竹刀が使われていたから、いかに厳しい稽古であっても、勝負はゲームに近いものにならざるを得なかったと想像する。「いたたた、ウーム、もう一本(リポビタンDではないよ)。今度こそ、しかし、おぬし腕を上げたな」「ふふん、返り討ちにしてやろうかい」

なんだか調子に乗って、安手の時代劇を見すぎたような感じだな。やめておく。

でも、戯画化してはいるが、およそこんな風だったはずだ。それに飽き足らぬ思いを持つ侍たちが大勢出てきた。竹刀で戦うから、負けても「もう一本」と叫ぶだけでことが足りる。こんなことで剣の道を究めることが出来るはずがない。本物の刀で試合(仕合い)をすれば、油断や慢心はたちどころに命を落とす結果を招く。

突拍子もないアイデアを出したものだ。仮に江戸時代にオリンピックがあって剣道が種目に入っていたならば、このようなアイデアは出てこなかったのではないか。道を究めようと志す者は金メダルを目指せばよいのだからな。武蔵は金、小次郎は銀、塚原朴伝は銅なんていう結果になったかもしれない。

人間という動物は、本気で何かをすることに快感を覚えるのだろうか?人より0.01秒速いだけのことに興奮し、誰より大きな筋肉を有することに優越感を持つものがいて、そのためには健康を損ねることも厭わぬ。

本物の剣、真剣。この文字を眺めていると、いろいろ取りとめない空想が浮かぶ。
金メダル・・・貴金属。あまり空想力を刺激しないなあ。そう思いませんか。





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