季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

責任

2014年12月08日 | スポーツ
サッカー日本代表監督のアギーレが、過去の八百長に関与したとの疑惑をかけられている。

その当否はともかく、監督要請にあたっては、慎重にその人物について調べるのが当然で、それはサッカー協会が自らの責任においてすることだ。

そもそも先だってのワールドカップ後、総括も無しに、惨敗の責任が何処にあるかも真剣に議論せずに新たなプロジェクトを発足させる愚を僕も当ブログで書いたが、責任を取るどころか、直接の担当者だった原氏は理事に昇格する有様であった。

そしてその原氏が中心になって決めたのが今回のアギーレ監督である。前監督も同じ原氏が決めた。

ある出来事の根幹を問わぬままうやむやに次に進めるのがこの国のお家芸だと言わんばかりである。

新たなプロジェクトの前に現状への認識をきちんと持ち、徹底的に考慮し、論議を尽す。それはそんなに難しいのだろうか。

時には思い切った決断をしなければならない、それが苦手なのかもしれない。希望だの、前を向くだの、この手の ホンワカした言葉を並べておく方がはるかに楽だからな。

そこへ持ってきて良識派とやらのたしなめる声が聞こえる。

ワールドカップの敗戦の責任を言えば、たかがスポーツにそこまで言う必要があるだろうか、とか選手も周りも一所懸命したのだから、とかね。

たかがスポーツとか言う人にはその通りだが、人生すらたかが人生だと答えよう。たかが僕の人生ではあるが、僕にとっては引くに引けない(かけがえないとは敢えて言わない)のっぴきならぬ事実である。

良識派とやらの話はせいぜいこんなことを言っているにすぎない。

良識派とは何か、に触れたくなったが、それは次の機会に。





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芸大の提案する早期教育

2014年12月02日 | 音楽
東京芸大が新たなプロジェクトを立ち上げたらしい。立ち上げる予定だったかも知れないな。新聞記事をネットで紹介していて、飛ばし読み後、腑に落ちぬまま他のサイトへ移ってしまったので詳細は不明なのだが。

それによると、札幌や福岡など、ピアノ教育が盛んな都市に芸大教授が出向いて、選ばれた子供たち(小学生だったと思う)にレッスンを施すという。

子供たちは、該当地にいる20人くらいの芸大OBが選別する。

夏季合宿のようなものあり、その他色々盛りだくさんのようである。

以上の記事を読んで、どことなく変だと思うのでそれを書く。

この記事を何も知らない人が読んだら、日本の音楽教育には早期教育が欠けている。そして芸大がついに改革に乗り出した、と理解するのではないだろうか。

だが僕は首を傾げたくなる。

昨今芸大に受かる人は、途轍もなく高いレベルにあり、演奏家としての力量をすでに備えている。音楽関係者たちはそう繰り返し聞かされてきたし、殆どの人が認めているのではないか。

それに、教師陣も含めて、小さい時から充分な早期教育を施されて来た人たちの集合体ではないのだろうか。

それにもかかわらず新たなプロジェクトとして早期教育を謳う意味が僕にはわからない。何が不足しているというのだろうか?

今までも早期教育自体はなされてきた。しかしもっとシステマチックに、堅牢なものにするのだ、というのかもしれない。他に今までと違うものは見出せない以上、そんな理由ではないかと忖度する以外ない。

しかし現在多くの「選ばれし」俊英がひしめいているということは、日本の音楽早期教育が機能している証ではないのか?僕のひねくれた?耳の判断はさておく。

話を僕がはっきりと知っているピアノの世界に限定しても、芸大だけでも毎年26人のピアニストが世に送り出されるのだ。この上になお有能な人材を確保しようというのは、どこから見ても過剰供給ではないか。

それとも学生の質は巷間言われているような高度なレベルではないのだろうか?

仮に学校の学生に対する認識がそうしたものだとすれば、プロジェクトが誕生する理由の根拠にはなる。

だがそれはそれで問題がある。

教授の皆さんは、まず4年間、目の前にいる学生を全力で育てる責任がある。そのための学校、そのための教師なのだから。

仮定に従って学生の力が足りないとすれば、その責任の一端は当然教授陣にある。大学生を教え切れない教授陣が小学生にどのようなエリート教育を施すのか、僕には見当がつかない。

まさか日本を代表する音楽家たちの能力を疑うわけにもいかないから、以上の仮定もありえない話として扱うしかあるまい。

そうこう考えを巡らせてみると、どうもこのプロジェクトは早期教育そのものというより、より早い時期に芸大という名前でお墨付きを与えるだけが目的ではないだろうかと思えてくる。

しかしお墨付きはもうピティナをはじめ、幾つかの団体がとっくに与えているし、そのお墨付きの効力はなかなかのものだと聞く。

お墨付き、レッテル貼りは何も産まない。危険ですらある。与える人たちはそれを熟知しているだろうか、という疑念だけを僕は表しておこう。

また、お墨付きにもかかわらず成果が出なかった場合、誰が責任を持つのだ、ということにも触れないわけにはいかない。まさか子供の努力が不足したとは言わないとは思うけれど。

蛇足ながら付け加えておく。

20人とやらのOBはどうやって決めるのか?へたをしたら政党の評議員制度のようになりそうではないか。

僕の師ハンゼンは10歳から始めたそうである。そういう子供もはじき出されてしまう。

才能さえあればそうした子供は頭角を現してくるから心配要らないというならば、プロジェクト自体が不必要ということになる。

必要なのはあれこれの制度ではなく、音楽そのものだろう。






コメント (3)
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