季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

大騒ぎ

2009年04月25日 | その他
人気タレントが泥酔して裸になって騒いだらしい。

人気があるというのは結構辛いね。僕にはそれを大騒ぎしているマスコミの方がよっぽど異常に見えるが。

新聞に大見出しで出したり、テレビニュースでトップに持ってきたりする騒ぎを見ていると、いいかげんげんなりする。

ひとつ例を挙げておこうか。

旧制高校の寮歌祭とやらがあった折、七高出身の誰でも知っている著名人(つまりタレントではない)が興奮しすぎて赤ふんどしひとつになった。その上その格好のまま新幹線に乗り込み(ということは駕篭かきの昔ではない、近現代だよなあ)山手線に乗り換え自宅に帰ったそうだ。

鳩山大臣が、地デジ(こんな汚い響きを平気な顔してよくもまあ)推進コマーシャルに出ているせいもあって「人間として最低。絶対に許さない」とかのたまっていたが、大臣が大騒ぎすることは他にあるだろう。

前出の社会的地位もある御仁について何と言うかタイムスリップしてみたいね。

件のタレントは臍をかむ思いだろう。だってそうでしょう、僕よりも格好良くてさ、人気もあってさ、それが好奇と失笑に包まれてしまったのだから。

それで充分ではないか。

というか、そんなことがニュースにならなければいけないことか?

有名人は子供たちの手本になるべきだ、とかいうお決まりの文句も出るのかもしれない。

まあ僕だって褒め称えはしない。泥酔してしまう人を見ると苦々しい気持ちになる。下戸の特徴かもしれない。でもタレント本人にとっては取り返しのつかぬ大失態だろうが、ちょいと冷静な第三者からみれば愛嬌さえあるではないか。

格好よい男も結構間の抜けた、酒を飲めば羽目をはずしてこんな体たらくを演じるただの男でもある、ということではないのか。あるいは、普段は人気者ともなるとかえって思い通りに振舞えず、そういうストレスはあるのだろうな、と無名である喜びをかみしめても良い。

友人の友人がアルカイダだというほどの顔の広さを誇る鳩山大臣の談話に戻れば(こんなにあちこち話題がとぶのは作文としては落第です)ちょいと前に同僚の大臣が泥酔して(本人は違うといっているがね)全世界に醜態をさらした時にこそ激しく非難すべきだったのさ、人間として最低なんて大仰な言葉を使いたいのなら。

いずれにせよ、メディアに苦言を呈したものを書いていたら、典型的な出来事があったから書いておこう。

報道なんていうと聞こえは良いが、何のことは無い、空疎な空騒ぎだ。

事件があるとパタパタヘリコプターを飛ばし、上空から青いビニールシートを映したり、近隣の人に訊ねまわったり、こんな空騒ぎをしていて肝腎なことに触れるはずが無いではないか。いいかげんにしたらよいと思う。



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刑務所での盲導犬育成

2009年04月22日 | 
コメント欄に島根で受刑者による盲導犬育成の試みがなされているとあり、早速検索してみた。

何度も書くけれど、ここがインターネットのフットワークの軽さである。島根でそうした試みがなされたと新聞で知った人がすぐに知らせてくれる。そして僕はそれを検索するだけでよい。

いくら関心が高くても、さすがに島根まで足を運んだり新聞社に問い合わせをしたりすることはない。いかに僕が好奇心が強くてもそれをしてしまったら単なる馬鹿者だ。何だって、そうでなくても馬鹿者だってか。そうかもしれない。

で、ありました。日本の受刑者の皆さん、お喜びください。じゃあなかった。

たしかにあったけれど、そしてきちんとした訓練師の指導の下で実施されるようだが、いかにも日本的なのである。僕はすこし(本当はとっても)失望した。

以前アメリカでの凶悪犯が犬の訓練をする話を紹介したが、それと一番違うのは、島根の場合、4,5人がグループを作って一頭の犬を育てようとする点だ。

まあ、たかが刑務所での犬の飼い方だという人もいるだろう。

しかし僕はどうしてもそうは思えない。

「アメリカでは受刑者に犬の訓練をまかせているらしいですよ」「ほう・・・面白いかもしれませんねぇ」「ひとつ日本でもやってみましょうか」「そうねぇ、うまくいけば盲導犬などはまだまだ足りていないから一石二鳥かもね」「しかし日本でうまくいくという保証はないですからな」「ここはひとつ数人で一頭を育てるようにして様子をみましょうか」「そうね、うまくいくようだったら拡大するという線でひとつ」

どうもこんな会話の末発足したプロジェクトなのではあるまいか。つい空想が先走るが。

僕の空想はまあどうでも良いのであるが、この試みはあまり実を結ばないのではないか、と思う。成果が思ったようにあがらずに頓挫することになったら残念だ。あんまり残念がると、僕が刑務所に入るのかと勘違いする人も出そうだが、その心配は今のところ無いよ。

ここでは犬の性質も人間の性質もあまり考慮に入れられていないと思わざるを得ないのだ。

犬という生き物は一人の人間をボスと認知して従う。人間のほうが頼りないと自分がボスとして振舞わなければ、と責任を感じて行動するくらいだ。

数人で一頭を訓練してごらんなさい。必ず下手な人と上手な人が出る。犬は更生プロジェクトなんて思わないから、上手な人をボスと認め、下手な人の言うことはあまり聞かなくなるだろう。

人間の心理から見たってあまりうまい方法とはいえない。どんな人間も自分に託された場合にのみ本来の「やる気」を示すものだ。かつて共産主義国家が次々に崩壊した理由の最たるもののひとつは、働いても働かなくても評価は変わらないという、あまりに人間的な、「理想」とは遠くかけ離れた現実だったではないか。

犬が自分を低く評価?し、4番目に懐いていると想像してごらんなさい。まあ普通の人ならば犬に対する愛着は減ってしまうだろう。そうしたら訓練する意欲も減り、犬は犬でよけい服従することをしなくなる。

こうやって考えてみてもうまくいくはずがない。盲導犬の数頭はできるだろうが、とても当初の目論見どおりに行くとは思えない。

何よりいけないのは、プロジェクトを進める側の臆病さだ。数人で扱ってみるという発想をした段階ですでに及び腰である。

失敗した場合のことばかり考慮していると僕には見える。アイデアが面白いと思ったならば、それを最大限に発揮できるかもしれない方法を採ってほしいものだ。それが成功を保証するものでなくとも。殊にこのケースでは「危険」な試みではないのだから。

いかにも日本的な用心深さをこんなところでも発見してしまい残念なのである。

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新聞の用語 続

2009年04月15日 | その他
読みにくいと思い、記事例を改めて挙げておく。


例3
 灰色の2隻が静かな緊張感を漂わせ、ゆっくりと桟橋を離れていった。北朝鮮のミサイル発射に備え、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」と「ちょうかい」が28日午前8時すぎ、佐世保基地(長崎県佐世保市)を出港した。


これはいちばん最近のもので、何のことだか分からないという人はまずいないだろう。この記事が何についてのことだか分からない人は、心の底から幸せに暮らしている人で、僕も心の底からうらやましく思える。皮肉じゃないよ。

ここに挙げた例の最初の一文はそっくり捨ててしまうほうが新聞の記事としてはるかに勝る。


北朝鮮のミサイル発射に備え、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」と「ちょうかい」が28日午前8時すぎ、佐世保基地(長崎県佐世保市)を出港した。

どうです、なんてことのない文章だが、伝えることはこれで全部言い尽くしている。

記者はそれだけでは満足しないようである。僕が削除した一行こそが彼の「文学的才能」を駆使したところだろう。

軍艦が灰色だろうとピンクだろうと本当はどうでも良いではないか。(と書いたとたん、横須賀港に展示されている帝國海軍の「三笠」を思い出した。軍艦はなぜどれも灰色なのだろう?それなりの理由はあるのだろうか?)

記者は軍艦の色を書くことによって、いったい何を言おうとしたのか。まあ言わずと知れたことだろう。冷酷だとかその種の出来合いの連想。そして緊迫した空気。

しかし、静かな緊張感を漂わせたと見えるのは、記者が先入観を持って見るからに他ならない。ここで読者に伝えるべきことは2隻の軍艦が出港したことだけである。読者にその様子を想像してもらう必要はない。

想像させようとするのはむしろ危険なことである。静かに平穏に見えるが、じつは未来は危険をはらんでいるのだと暗示したいのだろうが、そのこと自体がむしろ危険である。他の先入主を暗示することも可能であるから。

熱くたぎる愛国の情に導かれて「こんごう」と「ちょうかい」は一躍、前線へ向かい出航した。

こんな感情に衝き動かされる記者だっているわけだろう。

いざことが起これば(それは何も軍事のことと限る必要はない。僕たちの日常の瑣末な出来事であってもだ)ただでさえ公正さを保つことはむつかしい。

そのためには普段からものごとを正直に見ようと努めておく必要がある。僕はそう思っている。

昔から新聞やテレビの報道には疑念をいだいてきたけれど、何度も書いたように、現代はその疑念(格好つけているなあ、疑念なんて言うとね)を裏付ける情報がたちどころに手に入る。その情報にも正面から付き合う必要があるのだから、よほどの力が要るのだろう。

歴史家は資料が多ければ多いほど良さそうであるが、互いに矛盾さえ示す膨大な資料に呑み込まれてしまう危険がある。大変な空想力が要る、という逆説の中に放り込まれる。

現代に生身で生きるのもまったく同様だ。せめて形容詞で飾り立て、先入観というか結論があった上でのニュースを流すのはやめてくれないか。松本サリン事件での河野さんへの扱いから変化したものは何一つないと言ってよい。




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新聞の用語

2009年04月07日 | Weblog
日本の新聞の文体や用語に我慢がならない。

と、いきなり宣言してしまうのも何か芸がない気もするのだが。

我慢がならないだけなら、各人の趣味の問題に帰することも可能であるが、この文体が何に由来するかを考えると、簡単に引き下がらないほうが良いと思われる。

さて、ここまで書いて、例を出そうと思ったが、なにぶん新聞をとっていないものだから、適切な例を挙げることが出来ないことに気がついた。作家と呼ばれる人は必ず新聞、雑誌に目を通すらしいが、作家にならなくて良かった。うっかりなっていたら新聞を何紙も読まねばならないところだった。

去年の3月くらいからほとんど外出もしないので、外出すれば電車の中で拾うなり、最悪の場合は一部買うなりするのだが、それもできない。この調子では僕の裡にある想念はむなしく消えてしまう。ここまで書いて、明日にでも2,3紙買ってくるとしよう。

一日だけは作家気分だ。うーむ、書けない、と唸るところまでそっくりだ。

さて。

例1
「静かで控えめ」な17歳の少年は、教室内で後輩らに狙いを定め、拳銃の引き金を引き続けた--。生徒・教師12人が射殺されたドイツ南部ウィンネンデンの中等学校では11日、校門前に生徒や親が深夜まで残り、涙を流して抱き合い、凶行への怒りをあらわにした。
 少年が三つの教室に相次いで侵入し、銃を乱射したのはわずか約10分間の出来事だった。教室に居合わせた女子生徒(16)は毎日新聞に「黙ったまま冷静に1人ずつを狙い撃ちした」と震える声で語った。


例2
必勝の一戦へのカンフル剤だ。岡田監督就任後2勝2敗のバーレーンに敗れればA組3位に転落する可能性もあり、進退問題浮上も避けられない。日本協会の犬飼会長からクギを刺された非公開練習を2回行うことも明言。「自信もクソも、勝つこと以外考えてない。勝つと信じているから」。冷たく底光りする指揮官の目は「勝ち点3」だけを凝視していた。


例3
 灰色の2隻が静かな緊張感を漂わせ、ゆっくりと桟橋を離れていった。北朝鮮のミサイル発射に備え、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」と「ちょうかい」が28日午前8時すぎ、佐世保基地(長崎県佐世保市)を出港した。

手当たり次第に3つ記事を選んだ。ドイツでの銃乱射事件、サッカーの記事、北朝鮮のミサイル発射予告を受けての記事、とご覧のように何の関連も無い。どれもが普段見慣れた新聞の典型的な文章である。もっとも、サッカーの記事はスポーツ新聞だったかな。

共通するのは、いずれも出来損ないの小説の文体に似ているということ。それは問題なのか?大いに問題なのである。

新聞は読者に臨場感を与える必要は無い。そんなことを目指せば、余計な形容が入る。ということは、出来事をなるべく正確に伝えるという使命から離れていく。

ドイツでの事件。凶行への怒りをあらわにしたとあるが、これは新聞の常套句だろう。震える声で云々も然り。最初の「」も誰かの発言だと言いたいのだろうが、こうやって少年を形容する意味はどこにあるか。

次第にある出来事をステレオタイプに分類する安直さが頭をもたげるだけだ。

サッカーの記事の冷たく底光りする指揮官の目・・・に至っては笑う以外に無い。これで負けてご覧、目は虚ろで動かず、不安を隠すことは困難だった、となるから。

こんなところで記事を書いた人の主観を語ってどうする。

この手のメディア側の「味付け」がいかにその場限りのものであるか。たかがスポーツ欄と言うなかれ。色んなところに同じ精神は表れる。

続きは改めて。


コメント (2)
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