季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

人気と本質

2009年08月10日 | 音楽
コメントに対して返事を書くにはずっとそのページに留まらなければならないようで、長く書く必要がある場合や、まとめる時間、気力がない場合不便を極めるから、記事にしてしまうのがいちばんだ。

大分前に書いた「録音と実音 2」に伊藤治雄さんから寄せられたコメントは、ひとつの典型であり、返事を書こうと思ったのだが、たいへん時間がかかりそうなので記事にしてしまおうと思った。思ったは良いが、今頃になってようやく書く気になった次第。忘れてしまった人はもう一度読んでくださいな。ここに引用しないのは不親切かもしれないが。

「人気と本質」なんて書いたけれど、その両者の違いなんて僕には関心がないのである。そもそも音楽の(ある楽曲の)本質が何か、という問い自体は無意味であろう。

(重松は)音楽史的な偉大さを人気と言っているのだろうか、という伊藤さんの問いには、こう答えてみよう。仮に初演が今のような、優雅さも真の感動も見受けられず、機械化された「感情もどき」の演奏だったならだれの心も動かさなかったかもしれない、と僕は感じてしまうと。心が動かぬ以上、人気も出るはずがない。

僕が「今日のショパンコンクールのような演奏だったらショパンの諸作品は人気なぞ出なかったろう」というのは、非常に明快にいってしまえば、今日のピアノ演奏は美しくもなんともないということだ。なんなら僕にとってと付け加えても良い。でも、僕らは昔演奏会に行った後「綺麗だったなあ」とため息をつきながら家路についた。今人々は「凄かった」と言う。この差はなんだろう。これは大きな違いではないだろうか。凄かったという言葉から、僕はボクシングの試合の後のような興奮しか連想できない。そして本当にそんな聴き方をしているのである。これでもか、これでもかと繰り広げられる「技」と「感情」は、ボクシングというより、アメリカのプロレスに近い。

現代の好みという問題ではないのである。現代に生きる僕らは「名曲」であるという「保証」の上で聴くからあとはどうにでも理屈がつく。

僕は「審査員たち」の耳なぞ信用しない。聴衆はそれにもかかわらず、あるいはそれに追従して(偶然の出来事だという点において、これらは同じことなので、区別する必要はない)喝采する。もちろん僕はその「自由」を否定はしない。そんな傲慢さを持ち合わせてはいない。

ただ、臆病な自尊心にかられた音楽家と、よいものを紹介しようという善意に溢れた批評家に異議申し立てをする音楽家もいるのだ、いなければおかしいだろうと言うだけのことだ。

ショパンの時代と例えばコルトーの時代ではまったく違った演奏だろう。楽器自体も大きく異なるのであるから当然だ。

どんな音楽でもそれに固有の音を持っている。ビートルズが同じ曲をリコーダーを携えてデビューしたと想像してみればよい。笑う人すらいなかったはずだろう。ただ無視されただろう。もちろん何かの拍子に喝采されることはありえるさ、明日も知れぬ世界だからね、人間世界は。

万が一リコーダーで喝采されたとしようか。その時はビートルズという存在は僕たちが知っているものではないのだ。今日それをやったら笑う人が出るのも、ビートルズとエレキギター、という既知の音に「保障」された世界だからではないか。

そして何より忘れないで貰いたいのは、僕も現代人だということさ。僕が昔の演奏家の名前ばかり挙げるからといって、懐古趣味だと思われるのならば残念だ。もちろん、そう受け取る人がいてもちっとも構わない。でも僕がコルトーの名前を挙げたのは、現代にもコルトーがいて欲しいといった意味ではない。

現代人は現代の好みで聴くのではないか、と伊藤さんは言う。それは意見としてはまったく反論の余地がないほどまっとうである。反論もへったくれもない、常識だ。もう一度繰り返すけれど、僕も現代人だ。ただ、僕はそれについて語っているのではない。好みがあるひとなんか本当にいるのかい、と訝っているのさ。

ちょいと長すぎるから、後日続きを書きます。




コメント (7)
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