とあるお屋敷である。夜も11時を回ったであろうか。二階の一室で男女が四方山話に花を咲かせている。
「ちょっと、今下の部屋でピアノの音がしなかった?」「ああ、したね」「誰か入ってきたのかしら」「何を心配しているのさ、猫かねずみだよ、だれも入ってくるはずがないじゃないか」「それもそうね、ああ、びっくりした」
これが
「ちょっと、今下の部屋でヴァイオリンの音がしなかった?」となると会話はまったく別になる。
「ああ、僕も聞いた・・・」「誰かいる・・」「しっ、声を立てるな」「怖い・・」「・・・」
以下略 と相成る。
「ちょっと、今下の部屋でヴァイオリンの音がしなかった?」「ああ、したね、僕も聞いた」「誰かいるのかしら」「猫かネズミでもいるんじゃないの、誰もいるはずがないじゃないか」「そうね」という会話をする男女だとしたら、このふたりは変な人だと断言してよい。
これがピアノの音の特徴だ。いわく、猫が踏んでも音が出る。
大学生の頃は、他科の連中によく言われたな、ピアノは楽器とはいえない、猫でも弾けると。今の他科の学生はそんなことは言わない。なぜなら、ほとんどがピアノくらい習ったことがあるから、反撥心はもう持っていないのだ。僕の観察するところではね。ではピアノに関して理解が深まり愛着も強まったかといえばそんなこともなさそうだ。
僕も当時はうまく反論できなくてね。常識論では間に合わない。決定的な理屈が欲しいのだが見つからず、地団駄踏む思いをしたものだ。見つからないのも当然で、僕は何ひとつ知っていなかったのだ。
きょうは僕が、猫はピアノを弾けないということを証明いたします。どうです、なんだか偉そうに聞こえませんか。今この駄文を読んでいる人は襟を正していただきたい。
まずピアノという楽器は紛れもない打楽器の仲間であることを認識するべきである。発音の原理は打楽器のそれとかわらない。
これを容認することがなかなか難しかった、僕には。今から思えば打楽器への侮蔑だ。ピアノにメロディーが弾けるはずがないではないか、とからかう他科の連中にしたところで同じである。多分副科ピアノでいじめられていたのだろうね。
ピアノの良し悪しはともかく、音は鍵盤の中ほどより少し下、グランドピアノではアフタータッチと呼ばれる、ゆっくり押し下げるときにいったん抵抗を感じる、その点でハンマーが弦をたたくことにより生じるようになっている。例外はない。
他方、人間の動作はある感情を表出するために動くとき、必ず加速ファクターを持つのである。いや、例外もあるぞ、○○子さーんなんて視点が宙をさまよっている奴を考えてみよ。手はそんな時には力なく泳いでいるだろう。困ったな。
しかし、そのような放心状態を除けば、それがゴール後の雄たけびであれ、可愛い動物を見たときであれ、旨い鮨を食ったときであれ、動作にはある種の加速感があることを簡単に確認できるだろう。色々な場面を想像してやってごらんなさい。
その加速の頂点がアフタータッチのところと合致すればよいのである。理屈からいえばこんなに簡単なことだ。つまり、加速の頂点は、鍵盤が底板を打つよりも前になければならない。
では日本で、レッスンの際どのような言葉が飛び交うか。曰く「鍵盤を底まで弾きなさい」
これは前述のことからも分かると思うが、大いに間違った方向へ導かれる恐れがある。底板に力が集中する、つまり加速の頂点が来るということは、頂点に達する前に音は出てしまっているのだ。打楽器をこんな風に扱う奏者はいるはずがないだろう。
ざっとこんな理屈である。猫が鍵盤に飛び降りるとき、必ず加速ファクターを持つのだ。音楽家以外の人に自明なことでも、音楽をやる人相手には一応言及しておかないとなあ。むかし、友人と、無重力訓練では、飛行機を急降下させるのだ、と話していた。すると隣でそれを聞いていた男が「なぜそんな面倒なことをするのさ、真空にすればいいじゃないか」とのたまって、ひっくり返ったことがある。
猫はアフタータッチに向けて仮想の頂点を設定できず、必ず鍵盤の底に頂点が来るから音は詰まってしまう。これはピアノの音とは以って非なるものである。猫が永遠にピアノを弾けぬ所以である。
「ちょっと、今下の部屋でピアノの音がしなかった?」「ああ、したね」「誰か入ってきたのかしら」「何を心配しているのさ、猫かねずみだよ、だれも入ってくるはずがないじゃないか」「それもそうね、ああ、びっくりした」
これが
「ちょっと、今下の部屋でヴァイオリンの音がしなかった?」となると会話はまったく別になる。
「ああ、僕も聞いた・・・」「誰かいる・・」「しっ、声を立てるな」「怖い・・」「・・・」
以下略 と相成る。
「ちょっと、今下の部屋でヴァイオリンの音がしなかった?」「ああ、したね、僕も聞いた」「誰かいるのかしら」「猫かネズミでもいるんじゃないの、誰もいるはずがないじゃないか」「そうね」という会話をする男女だとしたら、このふたりは変な人だと断言してよい。
これがピアノの音の特徴だ。いわく、猫が踏んでも音が出る。
大学生の頃は、他科の連中によく言われたな、ピアノは楽器とはいえない、猫でも弾けると。今の他科の学生はそんなことは言わない。なぜなら、ほとんどがピアノくらい習ったことがあるから、反撥心はもう持っていないのだ。僕の観察するところではね。ではピアノに関して理解が深まり愛着も強まったかといえばそんなこともなさそうだ。
僕も当時はうまく反論できなくてね。常識論では間に合わない。決定的な理屈が欲しいのだが見つからず、地団駄踏む思いをしたものだ。見つからないのも当然で、僕は何ひとつ知っていなかったのだ。
きょうは僕が、猫はピアノを弾けないということを証明いたします。どうです、なんだか偉そうに聞こえませんか。今この駄文を読んでいる人は襟を正していただきたい。
まずピアノという楽器は紛れもない打楽器の仲間であることを認識するべきである。発音の原理は打楽器のそれとかわらない。
これを容認することがなかなか難しかった、僕には。今から思えば打楽器への侮蔑だ。ピアノにメロディーが弾けるはずがないではないか、とからかう他科の連中にしたところで同じである。多分副科ピアノでいじめられていたのだろうね。
ピアノの良し悪しはともかく、音は鍵盤の中ほどより少し下、グランドピアノではアフタータッチと呼ばれる、ゆっくり押し下げるときにいったん抵抗を感じる、その点でハンマーが弦をたたくことにより生じるようになっている。例外はない。
他方、人間の動作はある感情を表出するために動くとき、必ず加速ファクターを持つのである。いや、例外もあるぞ、○○子さーんなんて視点が宙をさまよっている奴を考えてみよ。手はそんな時には力なく泳いでいるだろう。困ったな。
しかし、そのような放心状態を除けば、それがゴール後の雄たけびであれ、可愛い動物を見たときであれ、旨い鮨を食ったときであれ、動作にはある種の加速感があることを簡単に確認できるだろう。色々な場面を想像してやってごらんなさい。
その加速の頂点がアフタータッチのところと合致すればよいのである。理屈からいえばこんなに簡単なことだ。つまり、加速の頂点は、鍵盤が底板を打つよりも前になければならない。
では日本で、レッスンの際どのような言葉が飛び交うか。曰く「鍵盤を底まで弾きなさい」
これは前述のことからも分かると思うが、大いに間違った方向へ導かれる恐れがある。底板に力が集中する、つまり加速の頂点が来るということは、頂点に達する前に音は出てしまっているのだ。打楽器をこんな風に扱う奏者はいるはずがないだろう。
ざっとこんな理屈である。猫が鍵盤に飛び降りるとき、必ず加速ファクターを持つのだ。音楽家以外の人に自明なことでも、音楽をやる人相手には一応言及しておかないとなあ。むかし、友人と、無重力訓練では、飛行機を急降下させるのだ、と話していた。すると隣でそれを聞いていた男が「なぜそんな面倒なことをするのさ、真空にすればいいじゃないか」とのたまって、ひっくり返ったことがある。
猫はアフタータッチに向けて仮想の頂点を設定できず、必ず鍵盤の底に頂点が来るから音は詰まってしまう。これはピアノの音とは以って非なるものである。猫が永遠にピアノを弾けぬ所以である。