季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ピアノ

2008年07月30日 | 音楽
とあるお屋敷である。夜も11時を回ったであろうか。二階の一室で男女が四方山話に花を咲かせている。

「ちょっと、今下の部屋でピアノの音がしなかった?」「ああ、したね」「誰か入ってきたのかしら」「何を心配しているのさ、猫かねずみだよ、だれも入ってくるはずがないじゃないか」「それもそうね、ああ、びっくりした」

これが
「ちょっと、今下の部屋でヴァイオリンの音がしなかった?」となると会話はまったく別になる。
「ああ、僕も聞いた・・・」「誰かいる・・」「しっ、声を立てるな」「怖い・・」「・・・」
 以下略  と相成る。

「ちょっと、今下の部屋でヴァイオリンの音がしなかった?」「ああ、したね、僕も聞いた」「誰かいるのかしら」「猫かネズミでもいるんじゃないの、誰もいるはずがないじゃないか」「そうね」という会話をする男女だとしたら、このふたりは変な人だと断言してよい。

これがピアノの音の特徴だ。いわく、猫が踏んでも音が出る。

大学生の頃は、他科の連中によく言われたな、ピアノは楽器とはいえない、猫でも弾けると。今の他科の学生はそんなことは言わない。なぜなら、ほとんどがピアノくらい習ったことがあるから、反撥心はもう持っていないのだ。僕の観察するところではね。ではピアノに関して理解が深まり愛着も強まったかといえばそんなこともなさそうだ。

僕も当時はうまく反論できなくてね。常識論では間に合わない。決定的な理屈が欲しいのだが見つからず、地団駄踏む思いをしたものだ。見つからないのも当然で、僕は何ひとつ知っていなかったのだ。

きょうは僕が、猫はピアノを弾けないということを証明いたします。どうです、なんだか偉そうに聞こえませんか。今この駄文を読んでいる人は襟を正していただきたい。

まずピアノという楽器は紛れもない打楽器の仲間であることを認識するべきである。発音の原理は打楽器のそれとかわらない。

これを容認することがなかなか難しかった、僕には。今から思えば打楽器への侮蔑だ。ピアノにメロディーが弾けるはずがないではないか、とからかう他科の連中にしたところで同じである。多分副科ピアノでいじめられていたのだろうね。

ピアノの良し悪しはともかく、音は鍵盤の中ほどより少し下、グランドピアノではアフタータッチと呼ばれる、ゆっくり押し下げるときにいったん抵抗を感じる、その点でハンマーが弦をたたくことにより生じるようになっている。例外はない。

他方、人間の動作はある感情を表出するために動くとき、必ず加速ファクターを持つのである。いや、例外もあるぞ、○○子さーんなんて視点が宙をさまよっている奴を考えてみよ。手はそんな時には力なく泳いでいるだろう。困ったな。

しかし、そのような放心状態を除けば、それがゴール後の雄たけびであれ、可愛い動物を見たときであれ、旨い鮨を食ったときであれ、動作にはある種の加速感があることを簡単に確認できるだろう。色々な場面を想像してやってごらんなさい。

その加速の頂点がアフタータッチのところと合致すればよいのである。理屈からいえばこんなに簡単なことだ。つまり、加速の頂点は、鍵盤が底板を打つよりも前になければならない。

では日本で、レッスンの際どのような言葉が飛び交うか。曰く「鍵盤を底まで弾きなさい」

これは前述のことからも分かると思うが、大いに間違った方向へ導かれる恐れがある。底板に力が集中する、つまり加速の頂点が来るということは、頂点に達する前に音は出てしまっているのだ。打楽器をこんな風に扱う奏者はいるはずがないだろう。

ざっとこんな理屈である。猫が鍵盤に飛び降りるとき、必ず加速ファクターを持つのだ。音楽家以外の人に自明なことでも、音楽をやる人相手には一応言及しておかないとなあ。むかし、友人と、無重力訓練では、飛行機を急降下させるのだ、と話していた。すると隣でそれを聞いていた男が「なぜそんな面倒なことをするのさ、真空にすればいいじゃないか」とのたまって、ひっくり返ったことがある。

猫はアフタータッチに向けて仮想の頂点を設定できず、必ず鍵盤の底に頂点が来るから音は詰まってしまう。これはピアノの音とは以って非なるものである。猫が永遠にピアノを弾けぬ所以である。


ヴルストハウゼ 川上

2008年07月28日 | Weblog
近所にドイツ風ハム・ソーセージの店がある。ドイツで修行してマイスター号を獲得した人だ。最近は、ドイツで修行を積むハム職人も珍しくないようだ。ドイツのソーセージはじつに旨い。スタンドで一口頬張るのが楽しい、と感じる。寒い時期に、殊にクリスマス前にあちこちに立ち食いの屋台が出て、グリューワインという温めた赤ぶどう酒にシナモンと砂糖を加えたものが出回る。それを飲みながら食べるソーセージが堪えられない。

しかし書いているうちに暑くなってきた。真夏の話題ではないね。と言いつつも、固いパンにはさんだだけのソーセージの味と香りがよみがえる。

近所のハム・ソーセージ屋さんを見つけたときは嬉しかった。すぐ近くにドイツの味を思い出させる店ができたのだから。値は張るけれど、何度か通った。

少し経ったころ、きっかけはもう忘れたが、肉の川上という店に行ったところ(こちらは車で15分歩いて45分くらい)ドイツ風のハム・ソーセージが置いてある。見ただけで旨そうだったから買い求めて驚いた。これはドイツ国内で売っても、旨い店としてやっていける、と思った。因みに、見て旨そうだと感じたのは僕一流のヤマ勘だが、まんざらでたらめでもないらしい。

それっきり、マイスターの店には行かなくなってしまった。情に流されそうになるのだが、舌は従ってくれなかった。いとも簡単に乗り換えてしまったわけだ。

肉の川上というから川上さんというのかと思いきや、ご主人は斎藤さんというのだ。以下斎藤さんと書くことにする。

この人を一目見たときから、直感的にこれはとても旨いだろうと予感したものだ。食に携わる人たちに対して僕がどう見るかだけ簡単に書いておく。

当然ながら、目が据わっていて頑固そうな面構えでなければいけない。同時に同じくらい重要なのは、どこか可愛くなければいけない。

時折そば職人が「そんな食い方をするのなら出て行ってもらおう」とか客を叱りつける場面を見聞きするでしょう。僕は嫌いだね。「馬鹿やろう、豪そうな口をたたくんじゃねえ」と僕だったら啖呵を切って出てくるね。たかが蕎麦、されど蕎麦なのだ。何でもそうさ。お高くとまった奴ほど気に障るものはない。

斎藤さんは信念に満ち、それでいて気さくで、僕が行くとわざわざ奥から出てきてくれて、食は大切な文化である、と何度も話してくれた。ドイツに関しても話が合った。

あるとき話題がドイツのマイスターを有する、最初に行ったハム・ソーセージ店のことになった。僕が、実はこちらにお邪魔する前は、と言ったのだったが。斎藤さんは「いかがでしたか?」と真剣に、かつ興味深そうに訊ねた。「ええ、悪くは決してないのです。でもなんと言おうかな、レシピに従おうという態度が味に出ているように感じる」僕がそう答えると、斎藤さんは、ゴールを決めたサッカー選手のように両手を握りしめて「その通り!」と力強い声で言った。

聞いてみると、さきの職人さんも、斎藤さんのところへ教わりに来たとのことであった。

斎藤さんはドイツをはじめヨーロッパで、ハム・ソーセージのコンクールで賞をたくさん取っている。この分野のコンクールは音楽よりもはるかに信頼できる。流行の味という曖昧なものがないせいもあるだろうが、まず食は生に不可欠なもので、どんな人も深い関心を(本気で)よせることにも拠るだろう。

今回のタイトルで検索してみればいくらでも出てくる。ご本人のインタビューもすぐ見つかる。

通販でも注文ができるから、興味を持った人は購入してみれば、僕が大げさに書いたのではないことがお分かりだろう。もしも、あまり気に入らなかったという人がいたら一報ください。責任を持って食べてあげます。

このお店は去年、箱根に引っ越してしまい、斎藤さんや奥さん、娘さんと雑談する楽しみは奪われてしまった。残念だが仕方ない。

襲撃訓練 2

2008年07月26日 | 
我が家を(あくまでドイツでの話しだということをお忘れなく!うっかり素晴らしい、田園調布の一等地に住んでいるのか、と思われても困る)取り巻く環境は、長々と書いた。

ようやく犬の話になる。犬を愛する人にとって、その散歩する環境を語ることは、なによりよい説明になるので書いた。

そもそも何を書こうと思ったのか?そうそう、シェパードの襲撃訓練について書こうと思っていたのだった。

たまが我が家に来て数週間経ったころ、ハンブルク中央からの帰路、町に入るところに林があり、そこに「シェパード犬協会」の看板があるのに気づいた。

この道はそれこそ毎日のように通るのだ、それでもシェパードを飼うまではまったく目に入らなかったと見える。画家がただただ対象を見ろ、というはずである。

シェパードの並外れた賢さに気づいて、気持ちも高揚していたせいだろうか、看板が目に入ったときには、それに従って林の間の道に入ってしまった。

少し奥まったところに、大きな掘っ立て小屋と広大な広場がある。広大といっても、今回の文章では日本基準で考えてください。そう、郊外の小学校の校庭くらいかな。もう少し広かったか。粗末だが芝生が張ってあった。

あとで聞いた話では、この施設はドイツ・シェパード協会のもので、誰でも無料で出入りできるらしかった。維持費はどうしていたのか、そういう自分に関心のない話題は、もしかしたら教えてくれたのかもしれないが、まったくわからないままである。今となってははっきり知って、日本の訓練関係のシステムと対照できたらよかった、と残念に思う。

その施設に訓練士とおぼしき人が数人いて、10頭あまりのシェパードが集まり、訓練をするのである。訓練は飼い主がじぶんひとりでする。訓練士はただ見ていて、特別なアドヴァイスを与えるわけでもない。見よう見まねといったところだ。

若い女性もいれば、爺さんもいる。爺さんの飼っている雄のシェパードは甘えん坊で可愛かったなあ。名前は何といったかしらん。

必ずやるのは、一列に並んで広場を一周だか二周だかすること。Fuss!(つけ!)と一声掛けて自分の左側につかせる。他の犬といさかいを起こすこともなく、どの犬も模範的に歩いている。爺さんの甘えん坊でさえ、ピシッと歩いている。

子犬は我が家のたまだけだったから、最初はなかなかうまくできない。全員が黙々と歩いているところへ先頭にいる僕の「Fuss!Fuss!」と叫ぶ声だけが聞こえて、家内は笑いをこらえるのに骨を折ったという。

若い女性と彼女のシェパードが、訓練試験前の練習をしているのに出くわしたことがある。書いていると、いや書いていなくてもその時の光景は鮮やかに蘇る。こうした訓練になると、きちんとした指導のもとに行われる。

訓練士扮するところの暴漢が、彼女を襲うという想定だった。物陰から男が襲い掛かるやいなや、シェパードが猛烈な勢いで男に噛み付く。犬は左腕に噛み付くように躾けられているのだ。屈強なドイツ人が、分厚い防具を装着してはいるが、間近で見るととてつもない迫力だ。

暴漢から自由になった女性が「やめ」と一声叫ぶと、今まで喰らいついていた犬がパッと離れる。しかし目は暴漢(善良な訓練士を暴漢、暴漢と呼ぶのも気がひける。キレイだ、キレイだというと女性は美しくなるというでしょう、暴漢、暴漢と連呼したらあの訓練士が暴漢になりはしないだろうか、心配だ)から一瞬たりともはなさない。

暴漢が隙を見て再び襲い掛かろうとしてピクリと動く、そのとたん牙をむいて激しく吠え立てる。四肢を踏ん張り、尻尾は興奮の極を示す角度だ。まあ普通の暴漢ならそこでひるんでしまうだろう。だがこの暴漢は筋金入りの暴漢なのである。そこでひるむわけにはいかないのだ。吠え立てるのを無視して女性のほうに近づく。「かかれ」の号令と同時に犬は再び男の左腕に跳び掛る。見ているほうがわくわくする光景だった。他人の、しかも相手は犬なのに、感情移入してしまってね。

シェパード好きには堪えられない。勇敢さと従順さ。一度喰らいついたら、振り回されようが、叩かれようが、絶対に離れない。

誤解されないように言っておきたいが、犬はこの一連の訓練を遊びとして、嬉々とした態度でこなすのである。たまは並外れて遊び好きで従順なシェパードだった。訓練士がちょっと性格を試すために遊んでくれ「この子はすごい、素質がある。集中力も抜きん出ている」と嬉しそうに言った。

高次の訓練を入れるのは、決して人を襲ったりすることにはつながらない。ドイツのように飼い主と犬の共同作業にしていけば、飼い主の言いつけに絶対的に服従する素晴らしい犬に育つ。それは、これまでにも書いたように、犬の幸せでもあり、飼い主の幸せでもある。地位関係がはっきりして、自分の力に自信があると、犬はむしろ落ち着いて穏やかになる。

僕はたまをそこまで訓練する、正確に言えば自分を訓練する時間を見出せず、このドイツ・シェパード協会の施設からは次第に足が遠のいてしまった。それは今でも残念なのである。あそこでなら本格的に習うことができたなあと思う。もちろん、一人ででもできる。そうやっている人も知っている。でも、自然な態度でお互いに学び合う環境だけはない。

ここで躾けのこつを学んだことは、とても幸運だった。高次訓練こそしなかったが、たまは模範的な犬に育った。日本で知り合った、今では有名な訓練士のひとりに数えられている人が「たまちゃんは特別でした。自分は何百頭もシェパードを見てきたけれど、あの子は他のシェパードとはまったくちがった」と言っていたそうである。

僕はパソコン操作に不慣れである。試しに一枚、そのころのたまの写真を入れてみる。どこに配置したらよいのか、だいいち配置位置をどうやって決定するのかも分からないが。





襲撃訓練

2008年07月24日 | 
シェパードをひょんなことから飼い始めて早くも27,8年経つ。

ひょんなことについても、いずれ書いてみようと思っているのだが、きょうは他の事を。

飼い始めたのはドイツ時代のことで、昨日のことのように鮮明に覚えていることと、曖昧になっていることとが混在している。

僕はハンブルグの中心からから車で15分ほど走った町に住んでいた。日本の感覚でいえば、都会のまん真ん中に住んでいたように響くかもしれないが、さにあらず。

ドイツ人の友人知人は、「なぜあんな不便で遠いところに住むのだ」と言いたげであった。確かに車か、さもなければ電車で18分以外のアクセスがない。不便である。住んでいると、僕までがそういった感覚になっていくのだ。

ハンブルクの「片田舎」に住んでいたのは、僕がそこをいたく気に入っていたからだ。渡独した当初はハンゼン先生の近くに学生寮があり、そこに住んだ。

まもなく、東のほうにザクセンの森というビスマルクゆかりの森があると知って、ある日さっそく中央駅で乗り継いで終点まで行った。終点はもう森の中にできた村落といった風情である。

山が好きだったのは少し前に書いたが、森も好きだった。もしかすると僕の祖先は猿だったのかもしれない。

終点より3駅手前にまとまった感じの小さい町がある。そこから先、電車はただ緑の中を走る。僕はその小さな町に目をつけた。3ヵ月後に新聞広告で貸間を求めたところ、じつにうまい具合に、この町に住むお婆さんから申し出があった。僕は小躍りして見に行き、練習もできる環境だと確認してすぐに契約した。

僕にとっては申し分のない下宿だった。台所の窓からりんごの樹が見える。調理の真似事をしながらこの樹の緑色が目に入る。そうだ、この大根が煮えるまで散歩してこよう。数軒先は森の入り口なのである。

散歩をしていると、いつのまにか時間が経ち、はっと気づいて帰宅すると、大根は真っ黒になり、炭化していた。いったいいくつ鍋を駄目にしたか。僕専用の小さな台所の隅には、天井近くまで、使えなくなった鍋が積まれていた。

そういえば、この下宿で面白いことがあった。ある日、おばあさんがお茶に呼んでくれた。そして、一冊のアルバムを取り出してきて「ここには昔日本人が下宿していたのですよ」と、ひとりの日本人男性の写真を見せた。驚いたことに、それは高校のときの音楽の先生であった。そういえばある年にS先生は留学のためいなくなったのだった。なんという偶然か。以来、僕は世の中は狭いと思いながら生きている。どこでも徒歩圏という気分になる。いや、世の中は狭いとはそんなことではないですね。

前置きばかり長くなったが、この町は犬を飼うにはもってこいの環境であった。結婚してからは下宿を出て、それでもこの町を離れたくなくて、すっかり住みついてしまった。とにかく散歩の場所に事欠かない。当時は仕事に行くにも犬連れ、ということもあった。ハンブルクは緑が多い町である。大きな公園もあちこちにある。たまに外出先で、それらの公園で散歩をしようか、と思う。だが、家の近くの森に比べると、公園の広さなどたかが知れる。もっと広いところで散歩しよう、と考えるとつい帰宅してしまう。時間だけはその分遅くなって、結局あまり散歩できなかったりしたことも多い。今、その公園の写真を見ると、まあ広いこと。

グリム童話だったかな、漁師とひらめのお話があるね、捕らえたひらめが、逃がしてくれたら願いをかなえると約束する。最初はせめて小ぎれいな家をと望む。漁師が帰り着くとそこにはもう家が建っている。おかみさんもその家の中にいる。

そのうちおかみさんの望みはエスカレートして、女王になりたいとまで言い出し、そこまでは願いが叶う。しかし海は鉛色に荒れている。おかみさんがついに神様になりたいと言い、その願いを海に向かって叫んだところ、もとのボロ屋に住んでいた。

これと同じでね。もっと広い森で散歩を、と願ったあげく、日本のボロ屋に戻っていましたとさ。

どうも脱線ばかりだ。なかなか犬の話に行き着かない。続きは書き直します。




テレビ番組

2008年07月22日 | Weblog
僕はメンデルスゾーンが大変に好きである。

今書こうと思っていることは、しかしメンデルスゾーンの音楽についてではない。昔ドイツのテレビで見た番組についてである。

とはいうものの、もう僕の記憶には、それがどのような内容だったか、はっきりと残ってはいない。そもそも、僕はこの番組を冒頭から見たのであったか。テレビをつけたら偶然写っていたのではなかったか。

これは、フィンガルの洞穴を訪ねたメンデルスゾーンの旅程をふたたび辿って行く、という趣向だった。その詳細はすっかり忘れているが、そこには幸いなことにタレントもレポーターもいなかった。それだけでもヨーロッパのテレビ番組が日本のそれとは質が違うと言ってしまって良いくらいだ。

鮮明に覚えているのは、鉛色の海の上を、船が突き進んでいくだけの場面が続いていたこと。アングルは舳先が海水を切ってゆく様と、水脈とを交互に(といっても、決して頻繁にではなく)映し出す、ただそれだけである。

ナレーションは一言もなく、背景に「フィンガルの洞穴」序曲が流れていた。全曲、中断することなく流れていた。

音楽をバックグランドに流すこと自体は、なにも珍しいことではない。また、僕はそうした音楽の使い方を好ましく思っているわけではない。

しかし音楽のほうを主体に撮られた映像であっても、これは日本の放送でよく見られるけれど、演奏に、適当な美しそうな風景をあてがっただけで、僕はバックグランドより、はるかにいらいらする。名曲アルバムとかそういった類だ。

音楽と映像についての僕の否定的な見方にもかかわらず、僕が心を奪われたのは、映像が音楽の邪魔をしていない、じつに珍しい一場面だったからなのだと思う。

いや、そこではあの美しい曲が映像から直接出てきているようにすら感じられた。番組制作に携わったひとが「フィンガル」という作品に感動していることがよく伝わってきた、と言ったほうがよいかもしれない。

テレビが僕の生活の中に入ったのはかなり遅かったが、それでも何十年も経過している。この媒体の功罪をいろいろ言ってみても始まらないけれど、いずれにせよ、大変なインパクトの強さを持ってもいることは否定しようもない。

製作者は効果をより盛り上げようとあの手この手を尽くしている様子であるが、手を尽くしすぎて逆効果な場合が多い。

東ヨーロッパの共産国家が次々に崩壊し始めたころ、ポーランドで民衆が教会に通い始めたことを報じた映像は、実に印象深かった。薄暗く、霧が包み込んでいる、とある村の中に古びた教会が浮かび上がり、そこにつめかける押し黙った人の列だけが映し出された。ここでもバックグランドミュージックはなかった。小技に走ることが番組を盛り上げることだと、浅はかにも信奉している日本の番組だったら「沈める寺」でも流して白けさせたかもしれない。

でもこの映像は日本で見たはずだ。僕がいたころは、東欧の社会が崩壊するということは考えられもしなかったのだから。東ベルリンの喫茶店で、知人の東ドイツ人が政府を罵るのを聞いてもうっかり相槌を打つのもためらわれた。おとり捜査が日常だったからだ。

そうだ、日本で見たのに、あの映像にはバックミュージックはなかった。無音だった。人々が押し黙っている心がはっきり伝わる映像だった。それとも無音だったのは僕の記憶違いだろうか。あるいは僕の記憶どおり、配信されたものをただ流したものにすぎなかったのか。すべては遠い記憶になり、やがて忘れ去られる。

テレビの番組で心底感動することはほとんどないが、こうして幾つか印象に残ったものを挙げてみると、効果を狙ったものほど、テレビの力を表わせていないことが分かる。インパクトが強いだけに、いくらでもゆがめられるし、小技に頼りたくもなる。それが真実味を薄れさせる。

イギリスの自然番組などは落ち着きがあって、なんていうことはないのだが、気持ちがよい。風に吹かれて揺れる野の花が映し出される。聞こえてくるのはマイクにぶつかる風の音とミツバチのうなりだけ。そんな番組を思い出すと、自然にフィンガル紀行番組のことまで思い出す。


楽器を選ぶ再

2008年07月20日 | 音楽
最近でも相変わらず色んなピアノを見て歩くのが楽しい。さすがに買うことは叶わないから、ただ見ている。時には生徒を連れて行く。そうやって耳を養ってもらわないと、ピアノの生命なぞ、知れているのだ。

製作者たちは、木材が悪くて、もう良い楽器ができないと嘆く。昔はボヘミアのどこそこの森で伐採された木を使用するとか、決まっていたそうだ。今はアラスカなどから来るのだと言われれば、そうかと納得する以外ない。

その点に関しては僕だって同じである。木を見ただけで、いやアラスカではないでしょう、シベリアですね、なんて言えたら面白いが。はったりをかまして相手がひるむのを見るのは楽しそうではあるが。今度やってみよう。

木材の質、および乾燥のさせ方に問題があるのはピアノにとって重大なことだ。しかし、こればかりはなくなったものはなくなったのである。諦めるしかあるまい。

木材だけが問題なのではない。ピアノにとってもうひとつ重要なのがハンマーである。これはフェルトを固く巻いたものなのだが、フェルトというからには、羊の毛だ。羊毛が昔と今とでは変わった、と主張する人はおるまい。

と言いつつも、世の中奇抜な人もいるからなあと内心ビクビクしている。人口飼料になったとか、牧草が農薬汚染されているとか、昔と違う条件は山ほどあるからな。

冗談を言っている場合ではない。ハンマーは(ほぼ)昔と同じに造れるのだ。そのはずなのに、たとえば僕の持っている楽器のハンマーが減った場合、取り替える勇気がない。現に、ブラームスが生きていたときに製造されたピアノは、フェルトが減っているが、中音域以下はじつに美しく、それを失うのが惜しくて辻文明さんに無理をお願いした。辻さんも同じ意見で、ほんとうに苦労して高音域だけフェルトの上に皮を張ってくれた。もちろんそこの音域の音はやせる。それでも、よく使う音域は美しい。とても現代のハンマーに取り替える気にはなれないのである。

現代のピアノは、録音で聴いても鋳物の音がする。戦後60年代のスタインウェイは良かったな。どこのホールで弾いても聴いても。いものではなく、いもの音がした。イモです。ホクホクした焼いも。木と鋳物の絶妙なハーモニーと言ってよい。それがいつのころからか、金属の音が目立つようになった。

この調子ではいつの日か金属製のハンマーが出てくるかもしれない。文字通りハンマーだね。

昨日もある技術者と会って、ハンマーについて訊ねたのだが、近頃は良い品質のところはピアノ用に回ってこないらしい、という。僕は流通に関しては素人以下だから何とも言いかねるが、そんなことはあるはずがない、ただ弾き手が求めないだけだろうと思っている。

何台か例えばスタインウェイが並んでいるとしよう、すると必ず僕が駄目だしをしたものから売れる。これは良いと判断したものはなかなか買い手が現れない。面白いくらいだ。面識のある技術者になると「あっちが売れてしまうんですからねえ」とニヤニヤする。

コツではないから、何の足しにもならないが、書いておく。

ピアノを選定に行って、やおらメフィストワルツなんぞを弾く奴は選べるはずがない。ロデオってあるでしょう、暴れ馬に跨って制御するのが。あれと競馬の騎手の違いを思ってください。

楽器は暴れ馬ではない。ロデオの騎手は、とにかくどんな形であれ、暴れる馬の上に座り続ける。要するにカウボーイの世界だ。それに対して競馬や馬術競技の騎手は、調教された、いわばインテリジェンスを持つ馬との関係を、いかに築くかが彼らの技量なのだ。

そういえば日本のピアノコンクールなどは人数が多いこともあり、試弾できないのが通例だ。入試でもね。これは本当は良くないことだ。ロデオの名手を見つけても馬術競技に秀でているとは限らない。


中田選手

2008年07月18日 | Weblog
サッカーの中田英寿選手について、デビュー当時から密着取材していた女性記者が書いた本を立ち読みした。

印象は変わらなかった。やっぱりそうだったのだ、と得心がいった。

この人はシャイな人懐こさをもった人なのだ。それは、彼が時折見せる笑顔で分かっていた。その上で、いわゆる日本人的なところが少ないのだ。

いわゆる、を付けないと日本人というのは分かりづらい人種なのだろうか。河上徹太郎さんの「日本のアウトサイダー」という本は非常に面白い。

アウトサイダーという語はインサイダーの対語としてある。河上さんは、中原中也、河上肇、内村鑑三らの評伝を通して(彼らをアウトサイダーに見立てて)日本のインサイダーを見抜こうと試みる。

そして、日本にはインサイダーと呼べるものがないのだという結論に至る。ちょうど土星の輪にあたるのがアウトサイダーならば、土星本体はすっぽりと抜け落ちて、周りを取り巻く輪に照らし出される空気とでも言おうか、それがインサイダーのような役目を果たしている、というのだ。

これは日本の特徴を非常に良く捉えていると思う。

左翼学者の論客丸山真男さんは、日本には保守がいない、と指摘する。これが日本の悲劇だと言うのだ。つまり、守るに足りるものがない、という意味だ。その点では、河上さんの論と同心円を描くと言ってよい。

中田選手は、判で押したような、何の意味もなく繰り返されるインタビューに、次第に批判的な態度を募らせていった。メディアは、これ幸いとばかり、ジコチューなる形容を与え、その言葉の範疇で彼を理解しようとした。いや、理解しようとしたことを演じた、と言うほうが日本の低級なメディアには相応しいか。

日本代表監督だったトルシェも彼を見損なったひとりである。トルシェはそもそも、日本を理解しようとしなかった。そこから中田選手への誤解が生じたと僕は思っている。

記者団に対しトルシェはこう語ったそうである。「フランス代表のジダンは本当にサッカーが好きな男だ。諸君がもし公園で彼を見かけ、一緒にサッカーをしよう、と誘ったらすぐさま応じるだろう。諸君が中田を見つけて、同じ声をかけたならば、彼はすぐさまマネージメントに電話をして、いくらでならプレーしてよいかを訊ねるだろう」

誤解自体は、よくある話だ。それについて中田選手は「それを聞いたとき、悲しかった」と言っている。こういう情緒を表す言葉を、彼は時折使う。その時の、気持ち自体は押さえ込んだような表情を見れば、この人を誤解することはないだろうに。

監督がジーコに代わったとき、代表からは引退しようと固く決意していたそうだ。ジーコはそれでも彼を選出した。

中田選手は、ジーコと直接話しをするためだけに帰国したという。そして、トルシェの誤解(正確にいえば、トルシェの中田理解だ)に、傷つけられたことも話した。ジーコは中田選手について、トルシェとはまったく違った見方をしていると言い、自分のチームには絶対に君が必要だと説いたそうだ。

直接話を聞くために、わざわざ帰国したというのがこの人らしい。もしも何かをしたり考えたりするには、伝聞などでは気がすまない、という気持ちなのだろう。

僕が中田選手を弁護したりする必要はない。嫌いな人がいても当然だ。ただ、中田的な(ついでに言っておく。私的には、という言い方をする人が多くなったでしょう、あれは僕的にはいやだな)正直さを持った人が浮き上がってしまうのがこの国の弱いところだと思う。

井口基成さん

2008年07月16日 | 音楽
井口基成さんといっても、若い人にはピンと来ないかもしれない。桐朋学園を創設した人だとか、春秋社版の校訂をした人といえば、ああそういえばという人もいるのかもしれない。

朝比奈隆さんについて書きながら、僕が音楽家に対して用いる基準は、ただその人が音楽を好きかどうかだ、と言った。そのときにふと井口さんのことを思い出したから書き留めておく。

僕が音楽家になろうと思ったのは、随分遅かった。はっきりしていたのは、会社員になりたくない、これだけであった。高3の夏、それでも人並みに桐朋学園の夏期講習にひょこひょこ出かけたのは、当時の僕の生活ぶりからすると、想像がつかない。

当時は井口基成さんが中心にいて、他の先生は随行員のような印象を受けた。違っていたら謝るけれどね、高3のガキの印象ですから。

講習会にはオーディション参加が含まれて、僕は曲目提出を「ラ・カンパネラ」にしていた。ところが当の僕といえば、そのころからの10年あまりが一生のうちで一番弾けないころで、とてもではないがまともに弾けず、とうに白旗を揚げて曲目を変更していた。自分の中で勝手にね。

オーディション当日、井口基成さんがでんと中央に腰を下ろしている会場で、僕は曲目を「熱情ソナタ」に変更する旨を告げた。

「どうした、ラ・カンパネラは無理だったか」と井口さんが揶揄するように訊ねた。「ええ、無理でした」と応えると実に愉快そうに笑った。

僕がベートーヴェンを弾き終わったとき、井口さんは机をドンと叩いて「よーしっ」と大声をあげた。僕は何のことやらあまり分からずお辞儀して退室した。悪い印象を持たれなかったのだけは分かった。

最終日だったか、個人面談があった。ここでも井口さんだけが質問をしたように思う。「君はどこを受験するんだ?」と訊ねられた僕は非常識にも「はあ、芸大でも受けようかと思っています」と答えた。井口さんはひっくり返るほど大笑いした後「よーし、頑張れ。落ちたら俺の処へ来い、いつでも迎えてやる」と大声で言った。今にして思えば、桐朋に行って芸大を受験するつもりだとストレートに言うのは、まあ礼を失するだろうか。

世間知らずの僕はなんとも思わなかったが、後に、音楽家の世界がバカバカしい因習に満ちていることを知るにつれ、井口さんのその時の態度を好ましく思い返すようになった。

大学を卒業して少し経ったころ、僕と直接関係のなかった某教授から電話があった。ある国立(こくりつ)大学に勤めないかという話だった。(こくりつ、と振り仮名したのは、某くにたち音大に勤める友人が、間違えられるといやだから必ず振り仮名してくれ、と泣いて頼むから約束を守るのである)

僕は当時はぼんやりとでしかなかったが、全部やり直すしかないと感じていたし、それにはドイツあたりに行ってみようかと考えていたので、それを話して、お話はあり難いけれども、他の人に回してくださいと答えた。

数日後友人に出会ったら「お前、非常識だと教官室で話題になっているらしいぞ」と笑う。よくよく訊いてみれば、次のような次第であった。

こういう有難いお話を戴いたときには「数日考えさせていただきます」と即答を保留して、後日「よく考えたのですが・・・」と断るのだそうだ。それが礼儀というものだそうだ。

僕には未だに分からない感覚だ。僕は自分の返事がはっきりしている以上、早く返事をしたほうが相手に気をもませなくてすんで、それが気遣いだと思うのだ。でも、その人たちはそう考えないわけだから、それは仕方ないね。それを否定する気持ちは僕にはまったくない。礼儀もさまざまだとその時に学んだ。教官室の人たちは、さまざまな礼儀のあらわし方があることを知らなかったのだね。もうひとつ学んだことがある。僕の友人の学生にそのことをペラペラ喋るのは明らかに礼を失するということ。

井口さんの思い出話から、つい他のことまで思い出した。こうして、若い人へのまったく違った対し方を思うと、僕は井口さんが、音楽を好きな若い人に単純に好感を持ってくれたのだと思わざるを得ない。間違いないと思っている。

某国立(くにたち)の友人も、高校生のころ井口さんの公開レッスンを受けたという。そのとき「君の演奏は宗教的なものがあるなあ」とボソッと言ったそうだ。井口基成という音楽界のドンしか見ない人には意外な言葉だろう。

井口さんのそういった言葉を僕は素直に受け止める。その他の井口さんへのもろもろの批判は、知らないのだから放っておく。



丸谷才一 日本語のために

2008年07月14日 | Weblog
この本は丸谷才一さんの若いときの(たぶん)国語教科書批判が主になった本である。現在も国語教育の状況はさして変化もないと思われる。丸谷さんの意見は大変正しいと思われるから、何度かに分けて(連続しないと思う。こういったきちんとした文章を紹介するには、それなりの気力も必要で、暇なときに書き足している、本ブログの手に負えるものではない。でも、黙っているには惜しいから、せめて読んでくれるきっかけをと思うのである)それに触れてみよう。まずひとつ紹介しておく。

子供に詩を作らせるな。

国語の教科書はあまりに文学趣味に偏っているではないか。これが丸谷さんの意見の集約である。僕もそのとおりだと思っている。

その文学趣味の先端に、子供に詩を作らせるという単元があるのだ。僕が生半可なことを言うよりも、丸谷さんの文章の一部を書き抜いておく。

 牛が水を飲んでいる。
 大きな腹をバケツの中につっこんで、ごくごくごく、がぶがぶ、でっかいはらを
 波打たせて、ひと息に飲んでしまった。

 と書いたのを、次のように直すという実例をあげている。(丸谷さんは旧仮名)
 「書こうとすることがらを、いっそうきわだたせるためには、このように、改行 のしかたや句とう点の打ち方など、書き表し方のくふうをすることがたいせつで ある」

 牛が水を飲んでいる。
 大きな顔を
 バケツの中につっこんで、
 ごくごくごく、
 がぶがぶ、
 でっかいはらを波打たせて、
 ひと息に飲んでしまった。

 「牛」という「詩」がこれでよくなったつもりらしいが、果たしてそうなのか。
 わたしの見たところでは、改作前も改作後もどちらも詩ではないし単なる文章と しては(別にどうと言うことはない代物だけれども)、手を入れないうちのほう が数等すぐれている。詩でなんかちっともないスケッチをいい加減に改行して

  中略

 もちろん、作文の練習というのは大事だろう。これにはじゅうぶん時間をかけ  て、丁寧な指導を受けることが望ましい。字も覚えるし、言葉や言いまわしの意 味もはっきりするし、筋道を立てた表現のし方も身について、いいことづくめだ からである。

中略

 文章がきちんと書ける子供なら、優れた詩をたくさん読ませれば、ごく自然に、 詩の真似ごとのようなものを書くことはあり得る。それはそれで結構である。そ
 のなかには本ものの詩を書く子供もごくまれに出るかもしれない。まことに結構
 な話だ。しかし百万人に一人の天才を得るために、日本中のあらゆる子供に対  し、インチキきわまる詩の作り方を教えねばならぬ道理があろうか。

   後略

以上、僕が付け加えることはない。以後改まったという話は聞かない。僕がこうしたことに深い関心を寄せるのは、僕たちは何を措いても日本語でものを考えるのである以上、日本語がどういう教え方をされているのか気にかかるからである。

子供たちの様子を見ると、達意の文章を書くどころか、はっきりした意見を持つことすら「禁止」されているように見える。

しかも教科書の文学趣味も、上記のようにいい加減なものだから、情緒めいたものにべったりと寄りかかり、それでいて情に薄いものばかりが増える。子供たちの文集を見て、その類型的な表現に接すると、新聞雑誌をはじめとするメディアが類型的なものの見方しかできないのも無理はない、と思えてくる。



朝比奈隆さん

2008年07月12日 | 音楽
朝比奈隆さんを貶すつもりはない。そこは誤解しないようにしてもらいたい。

第一、僕が仮に批判したところで、朝比奈さんを大指揮者だとみなす音楽批評家がいるし、その言葉によって動かされる人の数は、馬鹿にならないほど多いだろうと推察される。

僕は実に素朴な疑問を呈してみたいだけである。本当に朝比奈さんは大指揮者なのだろうか。

僕はこの人を知っていないのだが、実際に会ってみたらおそらく好感を抱いただろうと思う。僕が音楽家に対して好感を抱くか抱かないかは、じつに単純なことだ。その人が音楽に深い愛情を持っているかいないか、ただそれだけである。音楽家には音楽が好きな人がなるのだろう、とは大きな誤解だ。残念ながら、一般に思われているよりははるかに少ない。

根拠を示せといわれてもね、僕がそう感じるのだとしか言えないな。顔が、声がすべてを語るのさ。

学生のころ、何人かの有名な演奏家のところに伴奏で付いて行った。「そこはもう少しウィーン風に」(ウィーン風ってなんだい、と突込みを入れる人は少なかったな、ハイとか答えてアラスカ風に弾いてさ)「時間だけど、もう一枚切る?(レッスンがチケット制)」「まあ、そんなもんじゃあないの」こんなセリフばかり、しかも声帯が口の中あたりにあるのではないか、といった声で、僕は「こういう出来損ないにはなるまい」と憤慨したものだ。

口先だけで「声は腹の底から出さなきゃ」と言ってごらんなさい。素直に従ったあなたは、きっと大変恥ずかしい思いをしたはずだ。その恥ずかしさを捨てるために、彼らはどれだけの苦労をしたのか。僕も歳を重ねて、そう思えるようになった。そしてよけいに憤慨する。

朝比奈さんはそういった人たちとはまったくちがっていたのだろう。

そういう点では、繰り返すけれど、僕はいやな感じを持っていない。けれど、それは音楽家として当然のことなので、当然のことすら満たしていない音楽家が多いということだ。

朝比奈さんが大指揮者だということに、僕が素朴な疑問を持たざるを得ない理由は、単純なことだ。演奏については、あらゆる意見が正当性を主張できるから、どんな討論をしたところで空しいのだが。

彼が50年の長きにわたって率いた大阪フィルは、世界に冠たるオーケストラに成長したであろうか。ただこれだけだ。

あるいは、指揮者はトレーナーではない、芸術家だという反論もあろうか。しかし、それは幾分かの真理を含んでいるが、やはり空論に近い。

50年も常任でありえたのは異例のことで、やはり何か特別な力を楽員に感じさせたのだろう。それを才能といってもよい。

しかし、音楽家が音に自分の表現を託す以上、音が彼の意匠を具現化しているわけだろう。チェリビダッケは、数年の間にミュンヘン・フィルを世界有数のオーケストラにした。彼が来る以前、歴史あるこのオーケストラは惨憺たる有様だった。アラウが共演するのを聴いて、世界的な名声をもつピアニストもこんなひどいオーケストラと演奏するのだと身につまされたものだ。

クーベリックと前任者ヨッフムはバイエルン放送交響楽団をやはり一流にした。僕がよく知っているところでは、テンシュテットが固い響きにしてしまった北西ドイツ放送管弦楽団を、ギュンター・ヴァントが柔らかい深い響きを持つオーケストラに変えた。

ついでに言えば、ヴァントは二流の指揮者だったが本物だった、と僕は思っている。一流ぽいまがいものが多いのは、焼き物ばかりではない。演奏も同じなのである。二流にせよ、三流にせよ、本物のほうが良い。小林秀雄さんは、茶器の衰退した姿から推して、利休の打ちたてた茶の湯の精神は意外に短命だったのではないか、と言った。演奏芸術が同じではないと誰が言えるだろう。

朝比奈さん自身は自分が一流かどうか、そんなことに関心はなかっただろう。ただ音楽したかっただけだっただろう。そこに傍から、巨匠だとか、大げさな修辞がついただけのことだ。僕があえて指摘するまでのことはないはずである。

つまるところ僕は、音楽は言葉の限界を超えたところでその力を発揮する、というオスカー・ワイルドの言葉を是認する一方で、いったん音楽から「音」が失われたときには、いとも簡単に言葉の軍門に下る危険がある、ということを言いたいだけなのだ。朝比奈さんにはお気の毒としか言いようがない。