季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

英語上達法

2009年08月23日 | 
以前から吉田健一さんの英語論について紹介文を書いておきたかった。ようやくそれを果たす。

僕が付け加えることは無いに等しいから、吉田さんの文章を抜書きしておこう。続英語上達法というエッセイにある。面白いから、できればじっくり読む人が出てくれれば嬉しい。



英語が旨いとか、旨くなるということは、一般には、ぺらぺら喋れることを意味している。その証拠に、そういう英語が旨い人間が外国人、或は極端な場合には、やはり英語が旨い日本人を相手に英語を話しているのを見ると、兎に角、ぺらぺら喋っているということが先に立って、当人は得意満面、人間が人間と話をしているのよりも、軽業師が多勢の前で何か芸当をやっているのに似た印象を受ける。立て板に水というのは、こういうことを言うのであろうか。(重松注、これを読んでひざを打つ人は多いだろう)これを擬音語で表せば
「テケテンドンドンテンドンドン、テンツク、ドンチュウ・シンク?」
これに対して相手の外国人が何か返事をする。或は、それがやはり英語が旨い日本人ならば
「テンドンテンドンテンドンドン、テケテン・アイ・シンク」
そうすると初めの日本人は前にも増して勢づいて
「テンテンテンテンテンドンドン、テンドンドン、テンテケテケテケテケ」とやり出す。
 そしてそれを感に堪えて聞いているのは、主に日本人である。これは考えて見れば、当たり前のことであって、我々は日本人がこのように立て板に水式に日本語でものを言っても、別にその日本人が日本語が旨いなどとは思わず、ただよく喋る奴だと、それだけでいや気が差して来る位のことにしかならない。

     中略

我々は軽薄才子でない限り、日本語を話している際にもそんな、落語に出て来る野太鼓のような口の利き方はしない。併し英語の場合は、それから段々舌の回転が早くなることが望まれていて、そうすればこれは頭の理解力よりも肺活量、それから人間がどこまでおっちょこちょいであり得るかということの問題になり、その困難を克服するのが英語に上達することであるならば、この頃の日本ではよく見掛ける二世の通訳風の人間が一番、英語が旨いのだという結果を生じて、 後略

はじめてこれを読んだとき、笑い転げた。

この人の笑い声が奇妙奇天烈だったため、青山二郎だったかが「お寺の破れ障子」というあだ名を付けたと聞くが、そんな笑い声を出す人だというのも、上に挙げたような文章から窺うことができる。

笑い転げたと書いたけれど、本来はこんな当たり前のことをよくぞ書いてくれたという感謝の念を抱くべきかもしれない。

同じ文章の中に「学校の体操の時間に、並足で進むのに左足を踏み出した時に右手を前に振り、右足の時には左手を出すことがどうしても出来ないものを見掛けることがあるが、そういう人間は幾らやっても、英語に上達する望みはない」とある。ところが吉田さんはこの手の人間だったそうである。

この文章はここだけ読んでも何のことだか分かるまいが、吉田さんが右足が前に出ると右手も前に出してしまう人だったことを書き足しておきたかった。なお蛇足ながらもうひとつ付け足しておく。吉田さんは乞食王子とあだ名されたくらい、吉田茂から独立した生活を送っていて、戦後は着るものにも事欠いて、海軍の水兵服を着たままだったそうだ。米英の当局者の間では「あの水兵服を着てケンブリッジ英語がペラペラの男は何者だ」と噂されたらしい。

繰り返すけれど「英語と英国と英国人」という本を読んでみたらいかが。講談社文芸文庫にあります。僕は面白おかしいところだけを書き写したが、本格的な文明論です。


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