季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

疑問 宇野功芳氏

2009年12月31日 | 音楽
例によって立ち読みネタである。

音楽評論家で合唱指揮者でもある宇野功芳さんの本だったか、それとも彼について書かれた本だったか、定かではない。本屋で次々にページをめくったり本を取り替えたりしているうちに何の本だったかが分からなくなったりする。立ち読みの欠点である。何のことについて書かれていたかすら忘れることがある。これも立ち読みの宿命である。きちんと払えということなんだろう。

宇野さんは合唱指揮こそ本当の演奏だと力を込めて語っていた。オーケストラは2回ほどの練習で本番をしなければならないのだから、自分は好きではない、と。

この気持ちは良く分かる。まっとうすぎるくらいの意見だ。

ただ、僕は昔から批評家としてのこの人の強引さが嫌いである。きっと正直な人だろう。そのままそっとしておけば僕の人生に何の拘りも持たないはずだし、正直な人を嫌うことは本来ないはずである。しかし、この人の信奉者も多いからね。とくに所謂クラシックファンには。正直な人だから、まあ良いかと放っておくわけにはいかない。

彼の文章に接したことのない人のために付け加えておく。彼が讃えるのはフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ等、僕が敬愛する人々である。それにシューリヒトが入ったかな。
つまり、政治の世界でなら宇野さんと僕とがおなじ党に入っていてもちっともおかしくない。立ち読みした印象では、老境に入ってから彼の論調は聊か変化し、より幅広い見方をしようと心がけているようだが。


今日の音楽評論家はとてつもない量の仕事をこなしているのだろうか。聴かされるCDの数だけでも半端ではない。

こういう稼業は辛いだろう。聴くに堪えないと思うものにも一応耳を傾けてさ。レッスンで聴くのは疲れはするけれども、ちっとも嫌ではない。まあ指揮者がオーケストラとプローベするようなものだ。

演奏批評家となると事情は一変する。たとえば僕は先ごろ、トスカニーニをたくさん聴いたわけではないと書いた。その底流に流れるものが決定的に相容れないと感じたらあとは時間と感受性の浪費であるから、もう聴かない。

それなのに批評家ときたら聴かずに論じるわけにもいかないから、嫌だと思う演奏を延々と聴くのだろう。(ホントにそうかしらん。疑えばいくらでも疑えるよね)

むかし演奏評をしていた人からレコードを貰ったことがあった。リリースされたものがドーンと届けられ、置き場所に困ったのではないか。好きなものを持っていってよいと言われ、貧乏学生は小躍りして喜んだ。しかしほとんどが屑のようなものばかりで、がっかりしたのを覚えている。まあそうだよね。良い演奏だ、歴史的名演だ、と思ったら手許に置くよね。

さて宇野さんのどこに疑問か、と言われると返答に困る。文章がいけないのである。正直な人だということだけは分かる。

前述の本の中で、むかし他の音楽批評家と一緒に、当時まだ世に出ていなかったフルトヴェングラーによるベートーヴェン「第九」の演奏を予想するという仕事をしたことに触れている。

他の2人と宇野さんとはまったく違う予想をしていて、いざその録音が出てみるとはたして宇野さんの予想通りの演奏だった、と自慢している。

気持ちは分からなくもない。しかしくだらない仕事もあるなあというのが正直な感想だ。

そんなことが当たって何になる。競馬の予想でもしたほうがよほど気が利いている。

第一楽章は重々しく神秘的に始まる、と予想したらその通りだったとか言ったところで何になる。ついでに誰かのリサイタルを予想して第一楽章で暗譜を忘れるとか言ってみたらいかがか。

続きはまた。
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東ドイツとジルバーマンオルガン

2009年12月26日 | 音楽
僕はベルリンの壁の破片を持っている。壁が崩壊した折に東ドイツ人の知人が記念に贈ってくれたものである。

この人は僕の生徒であった老婦人の女友達の息子である。

当時の東西ドイツについて本当の規則はどうだったのか知らない。でも一定の年齢を超えるとドイツ人も東西を行き来できた。年金を払わずにすむという東側の思惑だったと聞いている。

そんなわけで僕の生徒を通じて東側の人と知り合いになった。この老婦人はドレスデンとマイセンの中間辺りに住んでいた。

一度東にもいらっしゃい、私の家に泊まればよいのだから、という言葉がなくともいずれは東ドイツを訪問したであろうが。

当時外国人でさえも東ドイツを訪問するにはビザを取得するなど、とても面倒であった。

ましてドイツ人の家に宿泊するともなると、気も遠くなるほどの手続きが必要であった。どんな手続きが必要だったのかまったく覚えていないところから、僕がほんとうに気が遠くなっていたことが知れる。

車でまずアイゼナッハ(バッハ生誕の地)へ。最終目的はドレスデン近郊のフライベルクにある有名なジルバーマンオルガンを聴くことだった。

まあ出かける前の緊張といったらなかった。バッハの足跡を追うように旅をしながらドレスデンのおばさんの家に数泊、その後はベルリンの息子さんを訪問してハンブルクに帰る。

このような旅程を組んだのだが、ドイツ人の家に泊ったり訪問したりする許可を取るためにいったい何度電話をしたか。

電話くらいと言うなかれ。相手が出るまで交換手を経由し、時には会話を交わすのに半日近くかかるのである。

やっとの思いで出発したが、国境の検問所のシェパードは怖いし、検問自体も厳しい。パスポートと本人をあらゆる角度から見るのである。笑ってみろとか泣いてみろとはさすがに言われなかったが。

車で行くと、車体の下に怪しいものを隠し持っていないか、厳重な検査を受ける。車体の下に鏡まで突っ込む。アイゼナッハのバッハ博物館(バッハの生家)では西側のマルクと1対4で交換してくれないか、と受付のおばさんがこっそりささやいた。うっかりするとおとり捜査だと教えられていたので、気の毒だと思いながらも断った。

バッハゆかりの地のひとつ、ミュールハウゼンでは文字通りなんにも記念すべきものが残されていない様子で、それに驚いた。教会に見つけるのに苦労するくらい小さく「バッハがいた」程度の文字を見ただけであった。

仕方なく入った喫茶店で紅茶を頼んだら、ティーバッグの中は藁くずのような乾燥した草が入っているようなもので、待てども待てどもベージュ色で、馬小屋のような匂いがした。

当時タバコを吸っていたのでマールボロをくれ、とレジで注文したら店中の客が一斉に僕を注視し、悪いことをしたと思った。ドイツでは僕などはやたらに若く見られ、そんなガキが東ドイツ人にしてみたら途方もない金額のタバコを買ったのだ。

今思い出しても申し訳なかったと思う。

エアフルトでも閑散としたマルクト広場を通り抜けながら、バッハの足跡のあまりの薄さに気が塞いだ。その後ミクシーで知った人がエアフルトに住んでいて、少し詳しく情報を教えてもらったところでは、今日ではすっかりきれいに整備されて、バッハゆかりの地だと感じさせるのだそうだ。

こうして駆け足でバッハの後を追いながら、ついにフライベルクに到着した。地図を頼りに大聖堂を目指す。嬉しさに頬も緩みがちになる。

すぐに見つかって、さて扉を開こうとしたが閉まっていて開かない。訝しく思った僕の目に「オルガンは修復中にて閉館」という文字が飛び込んだ。

何ということか。あれだけ時間をとって取得したビザだというのに。よりによって修復中とは。オルガンは大修理をしたり、メンテナンスが大変だ。それは分かっているが、大修理は百年に一度くらいだろう、なにも僕が訪ねたときに修理しなくても、と恨めしかった。今ならこんな思いをすることはないね。パソコンで調べてから行けばよいのだから。

そんな次第でモーツァルトが絶賛したといわれるフライベルクのジルバーマンオルガンはレコードで聴くことしかできない。それでも充分に美しい。言葉で表現するのは不可能だが、ずっしりしていて艶がある。

どこかでバッハはジルバーマンよりもシュニットガーを好んだと読んだことがある。真偽のほどは分からないけれど、フライベルクのオルガンをモーツァルトが絶賛してバッハはやや距離を置いていたという話を本当だと思いたい。そんなオルガンだ。できればもう一度出直して聴きたいものだ。前述のミクシーの知人から、このオルガン修復作業も無事に終わり、今ではコンサートが頻繁に開かれているときいた。

東ドイツのことはまた書く。

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ウソのような本当の話

2009年12月22日 | 音楽
僕がここに書き付ける音楽関係の記事はあまりに現代の音楽事情について批判的だと思う人もいるかもしれない。

若い人たちは好きなことを、できる限りにおいて誠実にしている。僕はそれを知っている。概ねそういってもよい。ただ、如何せん人が良すぎる。

人が良いのも結構であるが、強く求めるものが足りないために疑うことがないのではないか、と思うのである。

最近ある超有名音大におけるフランス人客員教授の話を聞いて、笑おうとしたが顎が外れてしまい笑うこともままならなかった。この話を紹介しようか。

レッスンで生徒に目をつむらせて、香水をシュッとひと吹き。「これであなたもフランス人です」

また、爪に赤い色を付けて「あなたの音色はこれで変わる」

ああ、ドビュッシーやラヴェルが生きていたら何と言うだろう。カペー、コルトー、ティボー、スゼー等はもはや額に飾られて埃っぽい部屋の隅に掛かるだけになった。

笑うのは待ってもらいたい。

それを聞いた日本人教授は「不思議と音色が違う気がする」ということだし、学生たちも「そんな気がしてしまう」らしい。

カメラマンが女性を撮影するとき「そう!いいよ、いいよ。綺麗だよ。ウンウン、いいね!いいね!オッケーオッケー・・・」なんてやりますね。これは傍から見れば可笑しくもあるけれど、なかなか効き目があるらしい。ついそんな気になる、とは撮影された経験のある生徒から聞いた話だ。

これは信じるに足りる。実際被写体の表情は違っていくだろう。

しかし香水を一振り「そうそう、パリの香りだよ、あなた立派なフランス女!ラヴェルも母国語、ドビュッシーも親戚!オッケー!」なんてこれはナンじゃ。

それともその気になって「ウィ、ムシュー」と返事でもするのかね。
ウィと酔っ払っちまうね。悪酔いだ。

ひどく好意的に見れば次のような次第だ。

演奏に際してはまず心の底から作品を感じなければならない。フランスの作品を演奏する場合には自分があたかも彼の地に生まれ彼の地で暮らしているかのように思うことが肝腎である。

非常に好意的に見てもこんな有様だ。だいいち、彼を好意的に見れば、今度は日本人も馬鹿にされた話だと思う。こんな子供じみたことをしてやれば喜ぶと見られているのだから。


まず思うこと。これを思い、これを思う。それは音色を変化させる重要な要因だ。しかし思っただけで音色が変わるものなら警察は要らない。おっと、間違えた。ごめんで済むなら警察は要らない。思って変わるなら技術はいらない。

強く思うこと、これは必要条件であって充分条件ではない。


それもこれも、日本の音楽人たちが自分から求めることを止めた結果だろう。なぜ一笑に付してしまえる人が少ないのか。

あきれ果てて検索を掛けたら、件のフランス人教授の許には大勢の日本人留学生がいるようだ。彼らは今や本物のおフランスで本物のフランス語のレッスンを受けているのであろう。そして日本とフランスの洟のかみかたの違いを熱心に説いて、文化の橋渡しをするようになるのであろうか。

「ウソのような本当の話」という芸のないタイトルしか与えられないのが残念だ。吉田健一さんの小説に「本当のような話」と人を食ったような題名を持つのがある。今回の記事は貧弱な現実からは芸のないタイトル及び内容しか産まれない好例である。
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作曲家と演奏家

2009年12月19日 | 音楽
遠山一行さんの逆説的表現に「作曲家は音楽家といえるであろうか」というものがある。以前ちょっとだけ紹介したけれど。

以前は作曲家と演奏家がはっきりと分れてはいなかったから、こうした逆説も意味を成さないに等しかったであろうが、今日では大いに考えられて良い問題だ。

たとえば武満徹さんはピアノが弾けなかったらしい。彼のピアノ曲を(存命中に弾いたとして)彼に指導してもらうのは絶対に必要だろうか。

必ずしも必要はあるまいと僕は思う。

こんなことがあった。以前、大学で作曲科の学生の副科ピアノを受け持っていたときのこと。一人の学生が「きょうは僕の曲を持ってきたのですが」とやってきた。2台ピアノの曲だった。

ピアノでいったいどのような表情までが可能かよく分からず、作曲の先生に訊いたらちょいと無理ではないか、と言われた箇所があり、そこが本当に無理なのか、記譜上の問題でもあるのか、それが知りたいということだった。

2台ピアノで合奏が可能か、それも分からぬ箇所がある、そんな質問もあった。

その曲自体はとくべつ感心するものではなかったけれど、彼が出した疑問の箇所はまったく不可能というわけでもなかった。合奏上の問題も、読み方しだいでは何とかできそうだった。

僕は問題の箇所を弾いてみせ、自分ならこうやって解決する、と説明した。その学生が僕の意見をそのまま取り上げたかどうか、僕は知らない。しかし、少なくとも作曲の先生が無理ではないかと言った箇所が、ピアニスティックな見地からは無理ではなかったとは言える。その学生も非常に喜んで帰った。

例に出した武満さんがどのように作曲を進めたのか、これは興味のあるところだ。仮にピアノが弾けなかったことが本当だとしても、それは不名誉なことではない。

ブラームスだってヨアヒムにヴァイオリン奏法について詳しく教えてもらっただろうし、すべての楽器を弾きこなす人がいるわけでもない。

ただ、武満さんの曲を彼が聴いたこともない音で演奏するピアニストがいたならば、彼はどう言っただろう。これは興味深い問いだろう。たとえばハンゼンの音を彼が知っていたならば。もし彼の曲をハンゼンが弾くのを聴いたならば。

もしかしたらこの音は厚みがありすぎると言ったかもしれない。温かすぎると嫌ったかもしれない。何とも分からないが、武満さんの風貌や書いたものを読んでいるとそんな気がする。


ここでちょっと触れておこうか。作曲家でピアノの名手でもあると謳われた人たちが自作を演奏しているCDがある。

作曲家にとっても、いったん手を離れた曲は自分の自由にならない、一種の他者なのだと改めて思わざるを得ない。自分の曲なのに苦労する、こんな馬鹿げたことが起る。

当たり前のようにも思われるが、ではなにがどう当たり前なのかをはっきり言える人は少ないだろう。

CDにはマーラー、ドビュッシー、ラヴェル、グリーク、リヒャルト・シュトラウス、マックス・レーガー、スクリアビン、サンサーンスなど、近現代の主要な作曲家が顔をそろえる。

この中で圧倒的に上手なのはサンサーンスだ。まぁ呆れるほど上手だ。同時に「この男は悪人だ」と直感的に思う。情の動き方が冷たく、ほとんど機械的に美を産んでいくとでも言おうか。

ドストエフスキーの「悪霊」のスタヴローギンを作者はじつに見事に描写している。それをどことなく思い出させる、という意味で悪人なのである。興味あるひとは読んでみて下さい。

ドビュッシーは手が実に柔らかい。グリークは清潔な男だ。スクリアビンやシュトラウスはピアノ演奏も天才的だったと言われるが大したことはないようだ。

ヒンデミットが自身の「ウェーバーの主題による交響的変容」を指揮したものと、これを初演したフルトヴェングラーの両方が録音で聴ける。こうまで違うとびっくりする。その上でヒンデミットがフルトヴェングラーの音楽性を心から賛美したことに思いを馳せるとじつに面白い。

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思い出したこと

2009年12月15日 | その他
最近の親は昔と違ってきているらしい。教員をしている人に聞いてもだいたいそのようなことを言う。

運動会の見物に来て、昼食を宅配などに注文する人が後を絶たぬ、あるいはバーベキューセットを持ち込んで焼肉パーティーをする。そしてそれを禁止しようとすると何故いけないのだと反論して自分の行為を決して改めないという。

そんな話を聞いているうちに思い出した。記憶の不思議さである。昔からいったい記憶というのはどんなメカニズムなのだろう、と不思議で仕方ない。記憶は脳の内部には無いという話を聞いたことがあるけれど、それは今でも覆されていないのだろうか。

さて、こんなところで脱線すると、どこまで行ってしまうか見当もつかぬから急いで戻ろう。

僕が高校生だったころ。山手線に乗り込むと、同じ車両に同級生とその母親とおぼしき人がいた。その男とはまったく話もしないような間柄だったので、僕は素知らぬふりをして、先方は幸いにも僕に気づいていなかった。

彼は上体を大きく崩して深々と腰かけ、股をこれ以上開けないくらい開いて、それは見苦しい格好だった。僕は嫌なものを見てしまったと内心舌打ちしてつり革にぶら下がっていた。

とある老紳士が「君、立っている人の邪魔になるではないか」と注意した。僕は背中を向けていたのだが、思わず「やったぜい!」と快哉をあげた。

喜びは一瞬しか続かなかった。

「何てことを言うんですか!今の子はね、足が長いんですよっ!」母親らしき人が猛烈な剣幕でまくし立てたのである。僕はちらと目をやったが、その男の足は格別長くもなさそうであった。

その後のバトルは僕は見聞きしていない。その場に居合わせるのが恥ずかしくて、こそこそと次の車両に移ってしまったからである。

今日、僕は自分の態度が卑怯だったと反省している。僕は姿を現してはっきり言うべきであった。「お前の足は短い!僕のほうがまだ長い!」と。

こういった親が今日では増えたというわけだろうか。それとも昔から一定数はいたのだが、昔は宅配ピザやバーベキューセットがどこにでもあるわけではなかっただけなのだろうか。

この点は今後の研究に俟たれる。(何でもこう言えば小難しく聞こえるでしょう。)世間ではそういった親が急増したというのが定説だが。僕は聊か疑問に思わないでもない。

それよりも気に掛かるのは、教師がなぜきっぱりといけないと主張できないか、ということだ。

この頃の親はと嘆くよりも、この頃の教師はと思う人も出てくるだろう。そうならぬために、少なくとも校長はそれくらいの決意が欲しいね。

親たちが仮に言うことに耳を貸さなければ、運動会くらい中止してしまう、そう覚悟を決めてしまえばよい。学校行事なんて理を捨てて後生大事にするようなものではないよ。


学校はキャンプ場ではない。当たり前である。出前を取るのがいけないというのに特別な理由はいらない。

理屈を言われるのを恐れて黙っているのか。それでは教師は子供に対してなにを示せるというのだろう。今時の親を難じて嘆くのであれば毅然とした態度を見せるべきだろう。

あるいは世の中便利になったワイと宅配ピザだろうがバーベキューだろうが認めてしまうか。僕には抵抗があるけれど、なぜかと問い詰められたって説明はできかねる。

いくつかの変化には付いていけて、いくつかには付いていけないという僕の心があるばかりだ。

因みに、最近は見てみぬふりをする人が多くて情けない、と耳にするでしょう。これについては僕は複雑な顔をして、でも怖いですよ、と言っておこう。

まだ高校生のころ、向こう見ずであった僕は悪さをしているチンピラに注意をしたばかりに家まで押しかけられて大変怖い思いをしたことがある。怖い目にあったときにはもう手遅れということもありうる。
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子供の怖さ

2009年12月12日 | 音楽
先日ある人の甥ごさんのことで面白い話を聞いた。

だいぶ以前、10年近く前のことらしい、小学2年の時にある小さなコンクールを受けた。ブルクミュラーを弾いたそうである。

話をしてくれた方はそれを聴きに行っていたそうで、ごくごく普通の意味で素直に聴ける演奏だったらしい。

審査員の評が対面して直接もらえるコンクールで、一人の審査員が「もっときっちりとテンポを守って」とアドヴァイスをした。そうは言っても、聴いていて所謂テンポが崩れてしまうような演奏ではなかったという。

その子供にはアドヴァイスが不服だったと見え、「だってオレは同じ気持ちで生活しているわけじゃないよ、同じ気持ちで弾くことなんか無理に決まっているじゃん」と言ったというのである。

どうです、話だけから判断してもどちらが生きた情感を持っているか。

この子供は時間の認識を持っていたわけではないだろう。ただ、正直にものを言ったに過ぎない。

しかし正直に素朴にものをいう子供がそのまま育つ環境が今の日本の音楽事情にあるのかと問われたら、否定的にならざるを得ない。

実はこのコンクールに友人が審査員として加わっていて、「これこそが生きた音楽だと思う」と大変褒めたという。これも同じ人が報告してくれたのである。

「音楽を一所懸命やらないかい」と問いかけたところ「オレは野球第一でピアノは第二なんだ」と答えたらしい。

単純明快である。もっとも、自分の演奏を認めてくれた審査員がいたということはよく覚えているのだという。今はピアノはあまり弾かないらしい。もったいないことだ。最近はいろんな自覚もできたらしく、クラシックだけではない、どんな音楽でも同じ感情や感覚で動いているはずがないと言っているそうだ。どこにも怪しげなところがない正論ではないか。

ハテナみたいな名前や何とか連盟なんて、団体ばかりむやみに増えて、お題目だけは大層立派であるが、演奏における洟のかみ方や上品に見えるゲップの出し方なんぞを教えているようなものだ。彼らはなにを求めているのか。なにを示さねばと考えているのか。僕には、音楽家それもピアノ弾きが団体を作らなければならない理由がまったく理解できないのである。

この少年が仮に複数の肯定的なアドヴァイスをもらっていたとしたら、彼はピアノをメインにするようになったか。これは不明である。

しかし身の丈にしっかり合った音楽好きにはなれたであろう。そうした大勢の中から生きた演奏をする人が出て、またそれを評価できる人も出てくるのだ。

コンクールやオーディションがいくつあっても一向に構わないけれど、審査する人は常に、自分の心が固くなっている危険と向き合っているのだという自覚を持つほうがよい。

音大の教師も、学生募集の秘策に頭を捻るよりも、自分が音楽好きだった(かもしれない)ことを思い出すことだ。

ここに挙げた例は、自発的な(これがまた何と好まれる言葉であることか!)演奏をする子供が、固くなった心と耳にすぐさま抵抗感をもつことがあることへの好例だろう。

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犬の認識力

2009年12月09日 | 
犬はどのくらい人や動物の姿を認識するのであろうか。ささやかな日常体験から探ってみたい。どうですか、学術的な雰囲気でしょう。

動物学的にはいろいろ調べが進んでいるだろうが、日常レベルの素朴な発見のほうが楽しい。というわけで学術的雰囲気はあっというまに消え失せる。

たまはノーリードで歩いた。ドイツでは街中でそれが許されている。躾がなされているのが前提なのはいうまでもないけれど。

僕が在宅で家内が出かけているとき、帰る時間になると「お母ちゃんを迎えに行こう」と声をかける。たまはいそいそと外出の態勢になる。家の前は交通量が多い幹線道路だったから渡るまではリードを付けて。

すぐに写真の通りに入る。ここは年中歩行者天国である。ネットで探してきた写真だが、当時と殆んど変わっていない。店舗は変わっているけれども、全景はこのままである。一番手前の左側の店は絨毯屋。今もあるかな?

ご覧のように道幅はかなり広い。その上、店舗ごとにショーウィンドウのために奥まったスペースがあったりして、出入りがあってなかなか複雑になっている。

この通りに入ってたまを放すと、シェパード特有の、首をもたげて人を探す姿勢になる。右の店、左の店と家内を捜し求めて縫って歩く。

とくにふだん散歩のとき覗くことがある店付近では念入りに探し回る。

遠くから最初に姿を見つけるのは、しかし家内のほうであった。シェパードのシルエットは目立つからね。犬はどうやら近視らしい。本で知ったけれど、経験からしてもそうだ。立ち止まって腰を屈めてたまが気づくのを待つ。しばらくして気が付くと一瞬耳をピンと立てる。そのあと一目散に走り寄って足元をぐるぐると回るのである。

歩行者天国の端に一軒、大きな鏡がある店があった。初めてその鏡を覗いたたまは、毛を逆立てて吠えた。まだ犬社会にデビューする前のことである。

どうやら自分の姿を知ってはいないのだろう。犬を飼った人は知っていると思うが、彼らは自身を犬だと認識していないようだ。といって人間だと思っているようでもなし。

鏡に映った自分を異形の動物だと思ったのだろうか。

アルバムをひっくり返せば、「名犬ラッシー」を放送中の画面に見入るたまの姿が見つかるはずだ。この時は長い時間じっと見ていた。ここから犬は二次元の映像を認識することが知れる。あまりに面白くて横から観察していたら、結局小一時間見ていたな。

では彼らは僕たち人間をどう認識するのか。最初は姿全体のイメージではないか。我が家を改築した折、ミケとアイは狭い犬舎に入れて玄関脇の部屋にいさせた。もっと分かりやすく言うと家族全員がその部屋に寝泊りした。

ある日理由は忘れたが僕が深い麦藁帽を買ってそれを被ったまま帰宅して部屋に入った。

普段は宅配にもほえる事がない2頭が猛烈な勢いで吠えついてきた。びっくりしたね。思わず自首しそうになった。

何だ何だ、と麦藁帽を脱いだら(当たり前だが)吠えるのを止めて甘え声になった。

僕はヘアスタイルを極端に変える。昔は半年に一度くらい散髪に行くだけだったから、散髪直後に知人と行き会っても気づかれぬほどであった。

今では4ヶ月に一度くらいになったが、それでも頭部のシルエットはずいぶん違う。それにもかかわらず散髪から帰って吠えつかれることはない。ということは犬は僕という全体像を認識しているのだろうか。

麦藁帽を常に被っていたらそれが僕の全体像になるのかもしれない。

そういえば、家の犬たちは他人に向かって吠えつくことはないのであるが、携帯で話しながら歩く人がまだ珍しかったころ、向うから電話しながら人が来たところ、毛を逆立てて吠えたなあ。

道端にしゃがみ込んだ姿を夜見たときも吠えた。そういう人がたくさん見られるようになったら反応しなくなった。順応するのがはやい。「昔はこんな姿は見られなかった」なんて言わない。言ったら面白いのだが。






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井上ひさし氏

2009年12月05日 | その他
「小学五年のとき、近所の猫を煮干し用雑魚(じゃこ)でおびきよせ、とっ捕えてやつの鼻の穴にわさびの塊を押し込んだことがある」
「小学六年のとき(略)近所の猫を雑魚でおびきよせて捕え、火の見櫓の天辺から落したのだ。猫はにゃんともいわずに即死した」
「高校時代、日向ぼっこをしていた猫にガソリンをかけ、マッチで火をつけたことがある」


「動物愛護家には人間を愛することのできない人が多いような気がする。
あの人たちは自分と同じ種族である人間が飢えているのを見すごすことはできても、
自分の傍にいる犬猫が飢えているのは黙視できないのではないか。
わたしたちの動物虐待は、屁理屈をつければ、
そういう人たちの<動物愛護精神>にたいする無意識のからかいだったのだ。」

いきなり以上を読まされて不快に感じた人も多いと思う。これは芸術院会員で著名な作家である井上ひさし氏の文章である。氏はまた平和運動家としても有名である。

平和運動に携わる人がこんなことをするのか、という非難が多いだろうと予想する。しかし人間の心が単純ではないことを考えると、これは必ずしも核心を突かないかもしれない。だから僕はあえてそこには触れずに書こうと思う。

僕が一番に目をつけるのは強引な自己弁護はさておき「わたしたちの動物虐待は」という言葉である。虐待に理屈をつけることへの違和感同様に、氏が「わたしたち」と言う、そこに僕は不潔感を覚える。

(因みにニュースキャスターという人種は殆んどが「わたしたち」という。)

「わたし」という一人称が「わたしたち」になると、とたんに責任を分かち合うニュアンスを帯びる。分かち合うというのは本当は正確ではない。責任の所在をうやむやにするという方が正しい。両者の違いを正直に感じてみようではないか。

「わたしたち」という言い方は意識的にも無意識的にも「政治的」である。

「わたしたちは日本という国で幸せに暮らしています」こんな使い方が通常であるが、いったいこれは正確だろうか。

僕は現在幸せに暮らしているかもしれない。しかし僕たちは今幸せだ、とあなた方も念頭において発言したらどうだろう。実際には一人一人が小さな、あるいは大きな不幸を抱えているかもしれぬではないか。

私たちは、という言い方の中には、小さな個人的な事情はあるだろうが、おしなべて幸福だから、この際は個人個人の事情は無視しても差し支えない、という暗黙の了解がある。

しかし幸福にせよ不幸にせよ、小さな個の出来事ではないのか。このように、あらゆる個を無視してひと塊の集団として見做すことを政治的というのである。

井上氏は「私たちの動物虐待」という。彼は虐待を行ったほかの人も彼同様「人類愛に燃え」ていたとどうして知っているのだ。

そもそも動物愛好家という人種がある、それは共通の特徴を持つという強引な理解の仕方が非常な政治的思考の典型なのである。こうした思考法をする人が「わたしたち」と言うのは驚くに足りないのかもしれない。

一度書いたように思うが、井上氏のような極論がある一方で動物好きに悪人はいない、こんな言い草も耳にする。とんでもない。ここでもひと括りにしないでもらいたい。

作家とはこんな当てずっぽうで粗雑な頭でもなれるのだろうか。こんな杜撰な文章を書いても芸術院会員になれるのだろうか。

もれ伝え聞くところでは、井上氏はじつに論戦に強く、彼と思想を異にする右翼の論者もお手上げだったという。それは当然である。上記のごとき論法と、論難するためだけに鍛え上げたかのように見える知識があれば。この人は全作家中、いちばん多くの雑誌を講読しているそうだ。それを生かすも殺すも当人次第だ。

彼の言葉を素直に読めば、巧妙に結論にこじつける論法がみえる。

動物好きは人間が飢えているのを見過ごすことができても、自分の傍らにいる犬猫が飢えるのは黙視できないと井上氏は言うが、自分の傍らにいるからこそ黙視できないのだ。傍らに飢えた人間がいたらばやはり黙視できないだろう。

それなのに人類愛という大きな概念と傍らにいる飢えた犬猫という比較しようのないものをこけおどしのように出して、自らの「論理」を正当化しようと試みる態度はじつに卑怯である。

人は傍らにある不幸に対してしか実際に手を差し伸べることはできない。こういう考えだってありうる。むしろそれだけが真実だと身にしみて感じている人も必ずいる。

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エキエル版

2009年12月02日 | 音楽
少し前にエキエル版でショパンのノクターンを持ってきた生徒がいる。

自慢にならないけれど、この版を実際に見るのは初めてであった。評判も知らなかった。だいたい、研究というものを最重要と見做していないので、どうしてもそうなってしまうのである。

有名な変ホ長調のノクターンだったのであるが、普段聴き慣れているものとまったく違う。一番の違いは、楽譜でいうと小さな音符で記されているパッセージの音型だ。

通奏を聴きながら、これはリストの手による編曲だろうか、と訝しく思った。

ここまで書いて久しぶりに自分のタイトル関連、つまり今回はエキエル版を検索してみたら、もうどっさりあって、とてもではないが読みきれない。

これらを全部読むよりは研究したほうが良いと確信した。そうか、研究者というのは他の人の書いたものを読むのが面倒になった人がなるものなんだな。深く納得さ。重大な発見をしたね。

先生から今ならエキエル版が良いでしょう、ショパンコンクールでも推奨されているし、と言われたとか、友達から絶対これと言われたとか、読んでいると頭がくらくらしてきた。鎌倉散歩のガイドブックで、昼食は絶対ここ!なんて読んだ気分だ。

で、肝腎のことはわからずじまいなのである。パデレフスキィ版の進化したものだという珍説にも出会ったから、きっとそうなんだろう。音符を見ただけで音が出るとか、そんなことだったら進化したと言ってあげてもいいな。

とまあ例によって脱線気味なのだが、リストの手による編曲のように見える、というところに戻りたい。

これはなかなか面白い発見であった。

上述したように、エキエルによって公にされたこの作品が決定稿であるのか、初稿であるのか、僕には知ることができない。

解説を読めば知ることはできようが、元来の方がよくできていると感じる以上、そこから先はむしろ空想しておいたほうが楽しい。

なぜリストの編曲に聴こえるのか。

ショパンやそうした流れを汲む作曲家は、いわば手で作曲する。それがじつにわかり易く示されたと僕は思う。

リストの諸作品は、どれも卓抜なアイデアを示しているけれど、彫拓されつくしたという印象からは遠い。アイデアマンだ。アイデアの秀逸さでものの価値が決まるのならば、リストのそれは素晴らしいといえる。

彼の手は(もちろん困難さを避けてはいないけれど)まず第一により弾き易い音型を探し求めていく。そうして・・・そのままだ。改作も推敲もしたらしいけれど、それも新たな弾き易く効果的な音型を求めるに止まる。

ショパンの作品には決定的というべきものがある。それがエキエル版では(例に挙げたノクターンに限れば)まだ決定されていない装飾に聴こえるのである。いかにもショパンの手が今しがた即興的に動いたかのように。

おそらくショパンの諸作品はこういう過程を経て姿を現したのだろう。

僕はいろいろ空想して楽しかった。

この版が正しい、とかショパンコンクールがどうこうとか、研究の成果とか、それらはどうでも良いことのように思われた。
コメント (2)
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