季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ハノン

2008年12月31日 | 音楽
泣く子も黙るハノンについて。

といっても、技巧と題した文にコメントが付き、面白いからそれに対する感想を書こうと思ったが、それはまとまった分量の答えが要るので、返信代わりに書く。以下が寄せられたコメントの最初と最後の部分を省略したもの。


 技巧は数量化できそうにも思う。指を速く動かすというのは、運動だから、100メートルを何秒で走るか、というのと同じように計測して、達成度を数値化
できそうだ。技巧は言葉で記述できる。科学的に指の筋肉のメカニズムを解明するなどして、よい練習法が開発できたりするのではないか。技巧の習得は、音楽的な感性を育むことと直接の関係はないのかもしれない。
 ハノンなんて技巧を磨くためだけのもので、内容はないんでしょ。バイエルは上手く弾けるものだろうか。「上手く」とは美しく、聴き手を感動させるように、ということだが。ツェルニーや、ブルクミューラーは? 彼らの曲に対し、私は、少なくともモーツァルトやシューベルトと同じように耳を傾けることはできない。
 内容は言葉にしにくい。それについて語ろうとすると、洞窟の壁に映った影を追いかけているような心許なさがある。言葉自体が影なのか。

以上。
 
さて、いくつかの点を明らかにしておきたい。

指の動きを科学的に解明して良い練習方法を考案する、という点から。まあ不可能とは言うまい。筋肉のメカニズムという観点からのみ言えば。それでも以前「御木本メソッド」の胡散臭さに触れたことがあるけれど、ピアノを弾くことが全身の運動である以上、あらゆる筋肉の組み合わせを科学的に調べるのは実際上は不可能だ。少し前の西岡さんに関する文で紹介した「学問が材料に及ばないではないか」という言葉と呼応していると言っても良い。

そもそも、技巧は数値で表せそうな気がするというのは果たして正しいか。

100メートルを何歩で行くか、とか何秒かかるかは数値で表すことができる。同様に一定時間にいくつの音を弾けるかも数値で表せる。しかしこれが演奏に使える音質をもった音の数となるといっぺんに困難になる。音質というからには数値化が不可能である。そうなると、いくつ弾けたかを数値化できたとしても、それを計測できる人は音質を聴き分ける人に限られる。そしてそれができるような人は数値化しようなどといった無駄な努力をしないものだ。この点こそが御木本メソッドを胡散臭いという理由なのである。


ハノンで感動する奴はおるまい。ただしより美しく?弾くことは可能だし、そうしない限り何の練習にもならない。日本人のハノン信仰は恐れ入るほどだが、ほとんど全員が毒を飲んでいるようなものさ。メカニズムという言葉の濫用から来たものだ。薬と同様、使い方次第では役に立つ。僕でさえたまに生徒にさせる。簡単に言えば、といってもかえって分かりづらいかもしれないが、ああハノンだ、と分かるように聴こえていたら、それは害にこそなれ練習にはなっていない。

ブルクミュラーやチェルニーを美しく弾くことだって可能だ。もちろんバイエルも。ただし美しく弾くことと感動させることは必ずしも一致しない。感心させても感動はさせられないだろう。そこまでの作品ではないのだから仕方あるまいね。こればかりはどんな名人でも無理だろうね。ラフマニノフが心を込めてブルグミュラーを弾いた、という「現象」に感動することはあるかもしれないが。これはでも純粋に音楽的感動とはよべないな。

「やきいも」を美しく発音することはできる。だが、それに感動する奴がいないのと同じだ。「やきいも」は単語にすぎないというなら「やきいもは旨い。たらふく食ったらおならが出た」くらいの文にしてもいいさ。

感じの良いアナウンサーなら僕たちの誰よりも美しく発音できるが、感動する奴はおるまい。まあそんなことだ。

ハノンに限ったことではないが、技術そのものを目的にすることは無意味なのである。もっと正確に言えば言葉のあやにすぎない。しかしバイエルやブルクミュラーを美しく弾く技術は、道具と技量を兼ね備えたものに例えてよい。ここでできないことがモーツァルトやシューベルトでできるはずがない。

ハノンが好きな奴はおるまい、と書いて又してももしや、と思ってmixiの検索をかけたら、ハノンが好きで、気づいたら2,3時間経っているという人々が200人以上集まっていた!あらゆる先入観は持ってはいけないな。

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捨て猫記 4

2008年12月29日 | 
思い出すのもいまいましくていやなのだが。

子供がまだ小学生低学年のころだ。こんにゃく2号がようやく貰われてしばらくたったころ。

家内と子供が雑木林に散歩しに行ったと思ったら、段ボール箱を抱えて帰ってきた。中には4匹の子猫がうごめいている。

体中の力が抜けてしまった。今回はミケが一緒にいたわけではない。聞くと、道路の真ん中に、道路といってもほとんど車の通らない雑木林沿いの道路だが段ボールが落ちていた。それを隙間から覗いた子供が「おっ、なにか動いているぞ」と言って開いたら猫がいたという寸法なのだった。たまとミケから、捨てられた猫は拾うべしと教わったのだな、喜色満面で4匹も連れ帰ってきた。

昔話ではこういった場合はいつも、開いてみたら小判ではないか。約束が違う。僕は以来昔話を信じなくなった。

さあ、もうてんやわんやの生活である。大喜びなのは子供とミケだけだ。ミケときた日には、4匹相手にかいがいしく面倒を見るのがじつに嬉しそうなのである。子猫たちもミケの鼻によじ登ったりして、なつくというより、これが当たり前といった態度なのだ。

まあ、つくづく愚かなのは人間であると考えさせられたね。それを痛感させられた、と一応言って納得させずにはやりきれない日々がまたしても続いた。

因みに、名前はもうやけくそ、こんにゃく3号から6号だ。今となってはどれが3号でどれが6号だったかもう分からない。

里親探しは困難をきわめた。知り合いの猫好きに当たってみても、猫好きはすでに飼っていることが多い。今いる子との相性を心配したりして、関心は持ってくれても貰ってはくれない。当然といえば当然だ。

まあ、生活なんていったんある状態が出来上がったら出来上がったで、それなりに楽しいこともある。猫を4匹もいっぺんに飼うなんて思いもよらなかったが、にゃあにゃあ檻の中を動き回るのを眺め、食事のときの振る舞いは、もう子猫のときからはっきりした差異が現れる様子を笑ったり、ミケが可愛がるのを微笑ましく見たり、そんな時にはそれなりに楽しかった。

でも、月に一度の市主催の里親探しの会だけでおいそれと貰い手が見つかるはずもなく、隣の市や、愛護団体に登録してそこの主催する里親探しの会に足を伸ばしたり、ずいぶん苦労した。

一番小さいのがとても可愛い性質で、食事時にも遠慮がちに遠くのほうにいた。一番大きいのがこれが食い意地が張っていて、餌の皿を置くとひとりでまん前に踏ん張って他の子が寄ってくるとギャアギャア騒ぐ。チビは(ほんとうはこんにゃくと呼ぶべきだが、どれが何号だかまるで分かっていないのである。最初からチビとでも付けておくべきだった。名前は大切である。少なくとも他と識別する機能がある。小林秀雄さんの随筆に「同姓同名」というのがあって、出版社から同じ名前の学者と混同された話が書かれている。猫たちは同名ではないのだが、3号、4号では同姓同名以下だな、まるで役に立たなかった)その騒ぎの中で弾き飛ばされてきたフードだけをポリポリかじって、ひとり平安を満喫している。

この子が最初に貰われた。欲のない子が一番幸せになる。ここでは昔話の通りではないか。なぜだ?

さんざん苦労して最後まで残ったのが大きくていやしい奴だった。雄の三毛である。なんでも、雄の三毛猫は珍しいらしい。それでも(顔は可愛いのだが)最後まで残ったところを見ると、マイナスのオーラが出ていたのかもしれない。

この三毛(ミケではないよ)がようやく貰われてしばらく経ったころ、我が家が平静を取り戻したころ、貰ってくれた家族から手紙が届いた。

三毛猫は幸運を運んでくるというのは本当でした。来た次の日にさっそくパチンコで大当たりが出ました、猫はシゲマツと命名しました。だとさ。



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西岡常一さん

2008年12月26日 | 
知っている人はとっくに知っているから、いまさら紹介するのも気がひけるのだが。

この人は法隆寺付きの宮大工だった。

もうかれこれ20年になろうか、小学館から「木に学べ」という本が出ていて、その著者が西岡さんだった。西岡さんについて当時はまったく知らなかったのだが、一読して感服した。この本は今では文庫本として出版されています。若い人たちに、もちろん年配の人たちにも、ぜひ読んでもらいたい本だ。

道具についてずいぶん多くのページが割かれていて、それが退屈でぴんと来ない人はそこをとばして読んでも一応分かる。

しかし、本当は「槍カンナ」(本当はヤリガンナと読むが、関西弁のことだと思う人がいるような気がしてね、いや失礼)など、西岡さんが復元させた昔の大工道具などについての、詳しい解説を是非読んでもらいたいのだが。

ここで少しでも紹介しようと思って本棚を探したのだが見つからない。誰かに貸したような気もする。

こういうことが多い。そういえば数人に数百万円貸したような気もする。我が家に蓄えがないのはそのせいだったのか!安心した。借りた人がいたら返してね。

記憶に頼って書く。

西岡さんが携わった古代建築の修理や薬師寺再建の折、いわゆる建築学者と様式をめぐって激しいやりとりがあったという。学者はたとえば屋根の反りを玉虫厨子と同じにするべきだと主張する。西岡さんに言わせれば、学者は頭での様式論でしかものを言わない、玉虫厨子は模型だからあの反りが可能なので、実際の寺院建築では絶対に無理だという。最後には学者を現場に連れて行き、実際に木を組んで見せて「これでもあんたはできると言うか」とやり込めたという。

学者が何を言おうと、自分は実地で知り尽くしておるから慌てまへんな、と言い切るのである。こういう人は迫力がある。

薬師寺に行ったことのある人は西岡さんの仕事に直接触れているのである。随所に鉄筋やコンクリートが使用されているけれど、じつはただ申し訳においてある、そうしないと建築基準法(だったかな)にパスしないからで、本当は檜だけのほうがよっぽど長くもつのだという。

現代人は鉄やコンクリートに対して信仰といってよいほど信頼感を持っているけれど、いったい誰がコンクリートの本当の強度を科学的に知っているか。また、檜の本当の強度や特性を科学的に知っている人がいるのか。

こういうことになると学問が材料に及ばないではないか、と西岡さんは言う。まったく異論反論の余地はあるまい。

鉄にしたところで、昔のように鍛冶屋が何べんも何べんも打って鍛えたものは、鉄が何層にも重なっているから(パイの皮のようなイメージを持てばよい)一番上が錆びても次の層、また次の層となるので、法隆寺に使われている釘は千年でも保つ。しかし現代のように溶鉱炉から溶けて流れたものを型に流し込むようなものは百年ももたない、という。

彼の言うとおりだろう。学者より現場で腕を振るうひとの言を僕は信じる。西岡さんの本はそういう気迫、迫力に満ちている。それでいてもっとも深いところで謙虚なのである。

四国にひとり鍛冶屋がいて、その人が千年たってもまだ保つ釘を造るのだそうだ。一本に大変な労力を要し、もちろんそれでは食べていけないからふだんは鍋などを作っているらしい。

西岡さんがこの人に目をつけ、薬師寺建立のための釘をつくってくれ、と依頼したという。

この鍛冶屋の仕事振りを昔テレビで見たことがある。胸を打たれた。仕事場に西岡さんの写真が掲げてあった。「この人なくして私はありませんでした」と語る姿も、昔風に言えば、ありがたかった。こういう世界もあるのだ。
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無名の演奏家

2008年12月23日 | 音楽
有難いことに最近では古い録画が簡単に手に入る。もっとも残っていて、価値が認められてはじめて陽の目を見るという点だけは残念だが。価値を認める側にいたいものだね。決定権とか人事権に人間が固執するのもわかるよ。もしも古い録音録画すべてを聴いて価値あるものを製品にする権限を与えられたならば、と夢想することがある。

世の中にはまだいくらでも古い古い映像などが眠っていると思われる。

たとえば、僕が持っているもので、昔のドイツ系指揮者ばかり集めた映像がある。僕はマニアではないので、僕の所有しているものは誰でも手に入るものばかりなのである。

もし他と違う点があるとすれば、演奏者の技量を間違いなく、先入観無く見抜くところくらいかな。読んでくださっている人は何という自惚れだと呆れるかもしれないけれどね。

たとえばマックス・フォン・シリングスという作曲家がいた。後期ロマン派と呼ばれる作曲家たちの一人だ。この人がベルリンオペラのオーケストラとウィリアム・テルの序曲を演奏している。

この曲は冒頭にチェロのソロがある。ここで弾いているのが誰なのか、おそらく主席チェロ奏者なのだろうが、初めて聴いたときびっくりした。実に密度が高く、技術的にも高度なのだ。今日では「無名」の奏者なのに、今日名声をほしいままにしている誰よりも上手い。

映像なので体の使い方まで見えるのが有難い。今日の弦楽器奏者のボーイングはまずい、というのが弦楽器には素人である僕の「玄人的観察」なのだが、この人はやはり密度の高い音を持続させるに必要な腕の使い方、体の使い方をしているのが見て取れる。

シリングスは、いかにも素人指揮といった感じが出ている。もっともこの人はよく指揮もしたらしいが。それでも、動作から見えるのは、何と言おうか、可愛いとでも言っておこうか、そんな感じなのである。これは褒め言葉だ。作品に対する敬愛は大きく、自己愛はできる限り小さく(自己愛がまったくない人間なぞいやしない。自分はそうだと主張する人は偽善者さ)それを感じさせる演奏家がこの時代には大勢いたとしみじみ思う。

彼ら、僕よりもはるかに能力を有していた人たちでも、つい「可愛い」と形容したくなる。裏を返せば、今日の演奏家はまったく可愛くないのだ。ぺんぺん草程度の技量と恐竜並みの頭脳しか持ち合わせていないのに、プリンスだの女王だの貴公子だの美人だの、いいかね、誰でも歳をとる、ジジイババアになっても、いやその時に一層よい演奏ができるように自分を育てたまえ、と忠告しなければならない奏者ばかり出てくる。可愛くないと言う所以である。嘘だと思ったらしわ作りの手術でもしてごらん、潮が退くように人が去るから。それでは悲しかろう、という老婆心さ。

無名の(断るまでもないがあくまで今日ね、当時はそれなりの名声を有していただろう)チェリストといえば、ティボー・デ・マヒュラ(何て読むのかまったく分からないから適当にカタカナ書きしたけれど)という人にも感心した。シューマンの協奏曲を弾いている。

一番よいのは自身で判断がつく耳を持つこと。ただ、それが易しくはないのは認める。それならば絶対信頼できる耳を持つ人を見つけること。骨董漁りしかり、ルーレットしかりさ。博打なんて、いよいよとなったらついている奴に乗っかるのが手っ取り早いのだ。

先入観くらい厄介なものはない。いったん持ち上げられるとついその気になるのは人間の弱さだろうが、聴衆のみならず演奏家本人まで錯覚に陥るようである。

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技巧

2008年12月21日 | 音楽
最近音大に行っている生徒から聞いた話から思うことを。

生徒の友人たちの多くが、自分の教師から「若いうちは技巧的な曲をたくさんやっておけ。内容のある曲は歳を重ねてからすればよい」と助言されて、皆それに従っているというのである。

内容のある曲とは何か、などと話を難しくすると、もう何が何やら分からなくなるが、少なくとも教師たちは例えばシューベルトの諸作品のように、音符の数が少ない曲のことを指すと思っていれば大体正しいようである。

音符の数が少なければ内容がある、というわけではないよ。そうだとしたらバイエルなんかは内容豊富だということだものな。

そうそう、以前楽器店で本を立ち読みしていたところ、誰かがバイエルを弾いていた。僕のことをよく立ち読みする奴だと思った人は鋭い。きっと購入する金がないのだろうと思った人はなお鋭い。ふと我に返ったときに耳に入ったと思ってください。まずい演奏だ。子供だろう、許そう。そうはっきり思ったわけではないけれど、およそそんな感じ。

再び読書に没頭して、しばらくして又我に返ったら、まだ弾いている。えーい、熱心な子供だ、早く消えうせろ、僕は一瞬そう罵って(ひどい大人だね)またまた読書に専念した。

次に我に返って、なおもバイエルが聴こえるに及んで、ようやくこれがCDだと悟った。うむ、最近は録音技術が発達して実音と区別がつかない。なんて感心するはずがないじゃないか。

あんまり下手なので本能的に?子供が弾いていると思ったのだった。しかし理性的に、あるいは事実に即して考えれば、バイエルは「ピアニスト」より子供の方が上手なのだった。読書をしながらだと、冷静な判断が出来ないことが分かって、とてもためになった。

話は横道に逸れそうになるが、今回に限ってはそうでもない。いや、大いに関係があると言ってもよいほどなのである。

そもそも技巧とは何か。内容とは何か。初めに挙げた教師の言葉から、その人は技巧と技術を同義に使っていると思われる。勘違いしてもらいたくないのだが、技巧と技術の差を論じたいのではない。(それについては、強いて言えば技巧は技術に含まれるとでも言っておこうか)

音の数が少ない、一見平易に見えて表現することが困難な曲を内容のある曲と呼ぶところからして、想像が付く。

さて、技巧的な曲をしこたまさらいこんだ若い人が首尾よく?歳をとったとしよう。今や指が動かなくなって技巧的な曲に手を染めることもままならず(この状態は早い人では30位、遅い人で50位かな、効き目には個人差がございますという怪しげな商品同様、個人差がございます)ついに禁断の、いや憧れの「内容豊富な」音が少ない曲を目のあたりにするのだ。

どんな演奏になると思いますか?まず例外なく小学生以下のレベルだろうね。子供は無心に弾くもの。内容豊富なんて余計なことを考えないもの。

もう一度ちょっとわき道へ入らせてもらえば、集中しようと思うのが一番の邪念なのだ。

無心に音を並べる子供に対して、今憧れの「内容豊富」な曲にチャレンジしようという人は意欲と知識がありすぎる。囲碁の格言に下手な考え休むに似たり、とあるけれど、かの知識はそれ以下かもしれない。知識というより噂話の集積みたいなものだからね。

たとえばシューベルトのイ短調のソナタでも例にとろうか。4楽章まである大きなやつのことだ。最初のユニゾンひとつとっても、次の和音をとっても、簡単に見えることこれ以上のものは少ないだろう。それなのにここを弾くことすらできる人はそう多くない。

そういった、演奏に不備不満があった時、奏者は解釈の問題、もしくは気持ちの問題と考えてしまう。奏者ばかりではない、批評家も、聴衆も。それは間違いなのであって、ここでも必要なのは技術的裏づけなのだ。

演奏に不備不満があったとき、と書いたけれど、ありていに言えばそんな自己批判ができるならば、それだけでひとかどのものさ。若いころから避けてきているのだもの、いざ急に音符の少ない曲に挑戦しようにも、美しさ、難しさを実感していないわけだ。実感していないで「ないよう、ないよう」と言ったって「無いよう、無いよう」になるのは不思議でも何でもあるまい。

もっとも、この国では歳を重ねると「枯れた味が出てきた」と勝手にレッテルを貼ってくれることがある。それを期待しても良いのかもね。

最後に真面目に書いておく。枯れるためには成熟せねばならない。成熟するには若々しくあらねばならない。僕は残念ながら成熟した人をほとんど知らず、若々しい人もたくさんは知らない。若々しくある素地のある人なら、おそらくどっさりいる。必要なのは伯楽なのかもしれない。



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勘違い

2008年12月19日 | 
「森林の思考 砂漠の思考」という鈴木孝夫さんの本を閉店間際の書店で見つけた。

僕は書名でおよその内容が関心を持てるかを速断して、次に著者を見、あとは時間があれば1,2分斜め読みをして買うか買わないか最終的に判断する。この日は閉店を知らせるアナウンスが流れていて、特別すばやい判断を迫られていた。もっとも本屋での決断は常にすばやい。レストランと本屋は速い。牛丼屋に行ったらなお速いのではないかとひそかに思っている。

帰宅して寝転んで読み始める。この本は最初に日本人とドイツ人が道を尋ねられたときの答え方の差について書かれていた。日本人は分からないと教えないが、ドイツ人は(これは著者がドイツに住んでいたことがあるからで、一般にヨーロッパ人はといっても良いと書かれている)断固とした口調で教えるが、それが正しいとは限らなかったという。

いつもの調子だなあ、と読み始めたところが、どうも変なのである。何だか文体がちがう。何気なく表紙を見て驚いた。鈴木孝夫さんだとばかり思っていたら、鈴木秀夫さんとあるではないか。もっと違いが分かりやすい名前をつけてくれよ。あわてて著者の紹介を見たら、地学の学者なのであった。閉店間際で気がせいていたためもあるが、こうしたうっかりをよくするのだ。

しかし、この勘違いというか失敗のおかげで、普段ならば絶対に買わなかったであろう本を買った。その上、これがなかなか面白いのである。

その上と書いたが、ちょっと読み進んで面白いものだから一気に通読したのである。つまらないものであれば、絶対に読まない。

ここの書店では少し前にも閉店間際に失敗をした。

買う予定の何冊かをまとめて他の本の上に置いて、もう一冊を立ち読みしているうちに閉店になった。あわてて置いた本を持ってレジに行き、帰宅後見たら、一冊経済学の本があった。どうやら隣だか下の本まで持ってきてしまったらしい。

関心のある人には立派な書物なのだろうが、僕には何の感興も湧かない。経済学の本を買うという不経済をしてしまった。きっと本の内容は不要な買い物はやめろ、とかあるんだろう、いまいましい。

というわけで、鈴木秀夫さんの本は僕にとって本当に面白かったということがおわかりだろう。この本は著者紹介によれば60刷近く出ているようだが、それも良く分かる。

地学と一口に言っても、その領域はきわめて広いことを知った。考えてみれば当たり前のことだが、たとえば文化人類学と重なり合う。言語学とも。紹介するのにこんな堅苦しい文字を並べ立てたって駄目だろうが。

最初に挙げた例は、砂漠の民は水のある場所へ行き着くのに、ある道を選ぶか選ばないかを「決断」しなければならない。それにひきかえ森林の民である日本人は、迷っていてもそれが直接死に結びつくわけではなく、いわば優しく守られた状態だという。ある道を選ぶ決断は必要ない。そこからさまざまの差異が生じるのだという。これはその通りだろう。

その他、この分野ではありとあらゆるデータを駆使して扱うということも知った。たとえばふつう日本人は北国の人が北方系で、南国は南方系だと信じて疑わない。ところがDNAレベルでの調査をすると、四国、九州が北方系で、東北以北は明らかに南方系であるという結論が導かれる。

あるいはある言い回しが(地名の読みなどもそれに含まれるけれど)それぞれ特定の地域を境にしてはっきり分かれる。それらを複雑に重ね合わせて、古代日本においての民族の移動を推察したりする。言語学の分野だとぼんやり思っていたのであるが、それは同時に地学の領域とも重なるのだ。

ひとつだけ具体例を挙げておく。

ヨーロッパは地名の研究が盛んなのだそうだが、日本はそれほどではないという。そのなかで、河川名における○○沢と○○谷の二つの地名分布を調べると、○○沢は近畿以西にはまったく無くて、○○谷は東北以北にはきわめて少ないという。これに他のさまざまな分布要素を重ねて、昔の生活の変化などを推察していくらしい。

いろいろ興味は尽きないのであるが、この人の性格が僕の関心をひいたところをもうひとつだけ挙げておく。正確な引用ではないが。

あまり細かいところで言い出すと異論を持ち出すことも可能であるが、自分はそういったやり方を好まない、というくだりがあった。学者にもこういう人がいるのだ。

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脳内現象

2008年12月15日 | 
利根川進さんに触れた文を書いた折、野蛮な人だと言った。あらゆる精神は物質の働きに還元されて理解されるようになる、と断言するような人で、意見には承服できぬ点もあるが、面白い人だと感じたからだ。

睡眠薬だけではまだ足りず、わけの分からぬ科学書を読みながら口を開けて眠ることにしている。何ページ読み進めるかは時の運だ。そのうちパブロフの犬のように、「量子力学」なんていう表紙を見たとたんにぱったり眠くなるといいと思う。大いに期待している。

プロの立ち読みを自認する僕でも買うことだってある。茂木健一郎さんという人の「脳内現象・私はいかに創られるか」というのが利根川さん式楽観論への僕の疑問に取り組んでいるように(立ち読みの一瞬でだけれども)思われて買った。

一読して面白かった。しかし結局は僕が僕を認識する、あるいはまた僕だと感じることを客観的につまり科学的に記述するのは容易ではないな、という「常識」を改めて思った。

茂木さんという人は趣味が多方面に向う人で精力的で人付き合いもスマートに出来るのではないかしらん、と感じる。

これを読み終わったころ、レッスンに来た人が「茂木健一郎さんが・・」と既知のひとを話すように言ったのでびっくりした。僕の心を読み取られたか、この人は宇宙人かもしれない、あるいは僕がたった今茂木さんのことを話題にしたのを忘れるほど健忘症が進んだのか。いずれにしても少々あせったが、よくよく聞いてみたら茂木さんという学者はNHKによく出演している気鋭の学者で、人気が高い人だという。テレビを見ない僕はそれと知らずに新しい人を発見したつもりでいた。

本を眺めてみればなるほど、NHKブックスとある。その後気をつけてみると、たくさんの一般向けの本を次々に出している。

少し芝居がかった文章が多いのが難点かな。話は当然生理学や物理学についてを噛み砕いてくれているのであるが、それでも難しいものは難しい。簡単に理解が進むわけではない。

通読した後、さてそれでは現代の学問による自我の理解は何だろうと問い直すと、結局ほとんど一歩も動いていない。

利根川さんのように、いずれ物質レベルで解明され尽くすという立場を取らずに、それでいて科学の立場からものを考えようという気構えだけは伝わってくる。そこが良いところかもしれない。

僕は実はシェルドレイクという生物物理学者の本を愛読しているのであるが、この人の魅力についてはいずれ書いておきたい。僕は自分の経験からシェルドレイクの立てたある仮説を「感覚的に」支持するものである。

この人といい茂木さんといい(シェルドレイクは異端扱いされている学者らしいから茂木さんは一緒にしないでくれと言うかもしれないがね)ベルグソンの著作と重なり合うところが面白い。

ベルグソンの作品も、所謂哲学者のように理解しているのではない。直感的に分かるとしかいえない。「創造的進化」という本や「物質と記憶」という読むのに難儀する本も、ピアノ弾きとして乱暴にいえば分かるところだけ読もうとすれば大変分かりやすい。

時折感じるのだが、専門家は何て細かいところにばかり拘泥しているのだろう。最近の文学批評をチラッと見ても、悩む種を強いて見つけ出しているとしか思えない。理屈のための理屈とでもいおうか。

茂木さんは今のところその手の心配はなさそうである。文字通りメモのような文になってしまった。僕の脳内は混乱していると見える。
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複雑な思い

2008年12月13日 | スポーツ
平泳ぎの北島選手は大したものだ。ちょいと古い話題になってしまったが。ありゃプレッシャーに強い面構えだ。同時にえらくデリケートだと僕は思った。彼が人気者になるのはよく分かる。そもそも一流になるアスリートは大変デリケートな面を兼ね備えている。

さて、彼と同じ種目に、もうひとり日本人選手が出ていたことは、いったい何人が知っていただろう。

実は僕は知らなかった。僕のところにピアノを習いに来る人の友人の息子さんだったかな、例によって少々曖昧なまま書いているが、聞いたばかりだから間違いあるまい。

普通に会社に勤めながらオリンピックに出場できる成績を上げたけれども、まったく人に知られずに試合を去った選手だ。普通に会社に勤めて云々も今になると怪しげだな。世の中には、何でそんなことを知っているの、あんた、という人が結構多いから、断りは入れておこう。でもたしかそう聞いた。ような気もする。

僕たちは他人事(老婆心ながら、ひとごと、と読んでね)だから、なんだ予選落ちかい、と一瞥もくれないが、考えてごらんなさい、日本で2番目ですよ。何億円も当たる宝くじですら数人が当たって大喜びするというのに、この選手は2番目だ。途轍もなく速いのだ。

それにもかかわらず、僕たちの扱いのこの格差はなんだろう。アメリカという国名だって、最初に到達したコロンブスではなくて、2番目に到達したアメリゴの名前を記念しているじゃあないか。コロンビアはコロンブスを記念しているのだったな、たしか。

現代のしきたりに従っていれば、アメリカはコロンビアーノとかいう名前で、コロンビアはアメリゴンなんていう名前になっていたであろう。ああ、ややこしい。

スポーツ界では記録の見直しということが行われ、世界記録が抹消されたり書き換えられたりしているのだが、ここはひとつスポーツマンシップに則って国名を替えたらどうだろう。とはいかないだろうなあ。

そうそう、二人のスイマーの話題であった。(スイマーなんて書くと、こそばゆいぞ。今僕は赤面している。しかし水泳選手の話題、と書くとえらく厳めしい。この二人に物申す時にはそう書くだろうが。おや、また脱線だ)

どの時点で二人のスイマーに差がついたのか。北島選手が最初から抜きん出ていたのかもしれないけれど、とにかくある時点で強化選手に選抜されたのでしょう。いや、二人とも選抜されたのかもしれないが、色々なバックアップ体制には大きな差が生じていったのではないか。

これは選手の側の問題ではない。実力主義とはそうしたものだ。僕はただ、現代は複雑だなあ、と複雑な思いで見ているだけである。

冬季オリンピックにボブスレーというのがあるでしょう。あれは旧東ドイツが強かった。リュージュもそう。ドイツにいた時分、日本選手が滑るとき、解説者が(今は知らないけれど、ヨーロッパのスポーツ中継は原則アナウンサーひとりで行う。アナウンサーは担当するスポーツをじつに良く知っていて、状況を正確に伝えることができる。日本の中継だと仮に知っていてもそうはいかないね。解説者という専門家が隣にいるものだから、いちいちお伺いを立てる)「本当はこの競技には日本人には危険だから参加しない方が良いのですが」とコメントした。未熟で危ないということだ。

東ドイツは国家の威信をかけてこの種目に白羽の矢を立てて研究した。それなくして金メダルの量産はなかった。そういう状況を世界中がステートアマと呼んで批判的に論じていたのではなかったか。

ステートアマを批判するのはたやすいけれど、現代は何でもシステムに組み込まれて自分で創意工夫するには適さない時代なのか。今ならばアメリカ大陸を発見したコロンブスがあらゆる賞を総なめしているだろうね。
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2つの訳

2008年12月11日 | 音楽
フルトヴェングラーの「音と言葉」はすぐれた論文集である。はじめて読んだのはいつだったか、高校生のころだろう。新潮社からでている、芳賀檀さんの訳だった。

ドイツ語の原本から数編が省かれていて、順序も替えてある。巻頭に「すべて偉大なものは単純である」が置かれている。

数年後に、白水社から完訳が出た。こちらも購入して読んだのだが、どうも馴染めない。新潮社のでは読めなかった数編が入っているのが有難かったけれど。

翻訳の難しいところだ。語学が堪能でも駄目なのである。

白水社版のどこがまずいのかを書く前に、芳賀檀さんの訳がどう好ましいかを書いておこう。

この本を手にした人は、巻頭に「すべて偉大なものは単純である」というフルトヴェングラーの最後の論文を見ることになる。原著では執筆年順に並んでいるので最後に置かれている。

もちろん芳賀さんが意識してそうしたのだ。この論文こそが本全体を代表するトーンになっているという認識だ。

それは訳の文体にもよく表れる。「ヒンデミットの場合」は新聞紙上に、ナチの文化政策への非難として載ったものだから、である調だが、ほかはですます調になっている。結果、論文集は人の心に染み入るような訴えとして表れる。あとで例を載せよう。

さらに本書の特徴ををよく表しているものが訳者あとがきである。少し引用しよう。

ベルリンやウィーンで、しばしばフルトヴェングラーの名演奏をきくことができたのは、今は幸せな思い出となりました。殊にベートーヴェンの「第5」「第9」など。あの鮮烈な感銘は今なお耳の底に鳴りひびいているような思いがします。演奏が終ってもなお感動して、立ち去ることが出来ない聴衆がハンカチを振って別れを惜しんでいた光景をなつかしく思い出します。

  中略

(フルトヴェングラーの演奏も)三十年代にきいたのと、四十年前後にきいたのとでは、ずい分違った感銘をうけました。たしかに、フルトヴェングラーはひどく苦しんでいたのです。この「音と言葉」をよんでみると彼が何を苦しんでいたか、がよくわかります。

新訳の後書きも紹介しよう。

前略

最後に、全篇に一貫して流れ、時代とともに明確化されているフルトヴェングラーの基本的な音楽観ないしは芸術観について二、三の点を指摘しておきたい。まず第一に、音楽とは音を通して語りかける芸術である。すでに本書のタイトル「音と言葉」がそれを示唆するものでなかろうか。

中略

これら現代音楽界のさまざまな危機を摘発することにかけて、フルトヴェングラーは飽くところを知らない。それはいずれも科学・技術文明の人間支配による芸術破壊の相を示すものにほかならないが、この憂うべき事態は、とどのつまり芸術における全体性の喪失、つまり有機体生命の中核、人間の「生物学的」本能の衰退ということに帰するのではなかろうか。

後略

一見いかめしい論文のようにすら見えるが、その語調は固く、すなおに読者の心に届かない。芳賀さんの文体が平明でいながら、実感がこもるのと大きな差がある。そこから訳全体のトーンの差が生じる。

語学という観点からいうと新訳のほうが正確だと思う。芳賀さんの訳には減7の和音というべきところを、減少された「7の和音」といったような珍語もある。これは芳賀さんが音楽関係者の助言を受けていなかった可能性をしめすけれど、そんなものはご愛嬌だといってよい。

白水社のまずいと思うところを書こうとしたが、芳賀さんの仕事を褒めただけで良いだろう。つまり、芳賀さんの長所としてあげたものが白水社の本には欠けているのだ。正確だが肌の温もりがない。





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2008年12月09日 | 音楽
ちょいと気になる噂話が耳に入ってきた。

実はね、誰にも言わないで欲しいのだけれど・・・なんてはずがないでしょう。

メトロポリタンオペラでは最近、歌手の声をマイクで拾い上げているというのだ。それに類する噂話は昔も日本の代表的なオーケストラについて聞いたことがある。真偽のほどは知らないけれど、いかにもありそうな話だ。

最近生徒がサントリーホールにラフマニノフのピアノ協奏曲を聴きに行ってきた。感想を訊ねたが、力任せに弾いているようには見えるものの、オーケストラにかき消されて、全くといってよいほど聴こえなかったという。

そうなんだよね、以前書いたけれど、サントリーホールはまったく聴こえやしないのです。そこでピアニストはなお楽器を叩こうとする。叩けば叩くほど響とはほど遠い音になるのだが。近くで聴いている指揮者及びオーケストラは、大きな音に聴こえるのだろうね、そこで一層頑張って張り合う。これでは協奏曲ではなくて競争曲でしょうが。僕にこんなオジンギャグを言わせないでもらいたい。

そんな聴こえない演奏でも演奏会評は載るのだからね、いったいなんと書かれるのやら。なに、簡単さ。フランス人ならフランス人ならではのセンス、ロシア人なら北国の憂愁、スペイン人なら情熱、南極ならペンギン、いくらでも書けてしまう。さすがはペンギン、南極のオーロラの美しさと極寒をよく表現していた、とかね。レッテルは張ったもの勝ちさ、とでもいうのかね。構成力なんて高級な言葉を使ったらいちころさ。

聴こえてこないのに聴こえるようになる、聴こえたような気がする。空耳ともいうね。空耳アワーというのがあって、これは大笑いできるけれど、音楽界の空耳はいただけない。

本当に聴こえないのだろうか、と僕は不思議で仕方がない。そうだろうな、と状況証拠的に認識するのだが、こんな簡単なことがなぜできないのだろう、という素朴な疑問がいつも居座っている。

昔から批評家の言葉は影響力だけは持っていた。批評文を批評するには文章に対する勘だけが武器になる道理で、音楽家はその点無防備だものな。ブルックナーが皇帝に批評家の攻撃から守ってくださいと嘆願したのは無理もない。作曲家でさえそうなのだ、次の瞬間すべて消え去っている演奏家はどうするべきか。藁人業をこしらえて呪うくらいかな。

夢の存在があったかなかったか、だけで一文をでっち上げる人、人生の苦悩があるかないか、宇宙観があるかないかだけですべてが片付く人、まあ色々だが、これで結構支持者がいるらしい。

ジェシー・ノーマンといえば僕が帰国したころ、つまり20年余り以前、その名を口にしない人はいないほどだった。僕でさえ聴きにいったくらいだ。そのときの感想。この人はロッキー山脈の中のひときわ高い頂で歌う教祖になればよい、というものだった。つい先ごろチェリビダッケが彼女について「ゴビ砂漠のようだ」と言っているのを読んで大笑いした。同じことを聴く人がいるのだ。

そしてなぜか僕はノーマンのレコードを1枚持っている。買ったものではないことだけは確かだ。だからといって盗んだのではないぞ。これが僕の家の棚にあるのは我慢ならない、ともう何べんもオークションに出品してみるのだが、なんの反応もない。他の録音はどれもすぐ売れた。これだけが売れない。

想像してみるしかないのだが、ノーマンはすでに何か否定的な烙印を押されたのだろうか。当時すごいすごいと騒いでいた僕の知人たちは今なんと言うのだろう。

ただしここで断っておくけれど、この人の声はマイクで拾う必要がないよ。きちんと響いている声だ。そこいら辺も聴こえないのに評価だけが定まっていくのは腑に落ちない。どうです、僕のレコードを買いませんか。

はじめに挙げた噂はさもありなんと思っている。聴き手が聴こえなくなりだしたらあとは形容の勝負に堕ちるしかないのは、繰り返し書いてきたことだ。さも本当らしい形容を伴って持ち上げられ、いつしか忘れ去られ、これを繰り返すうちに声も音も形骸化している。
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