季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

トスカニーニ

2009年08月26日 | 音楽
DVDの全集が出たり、どこかで必ず話題になったり、相変わらずこの人は音楽演奏の場には何らかの影響を持っているようだ。

そろそろ本当にものが言える人が出てもよさそうなものだが、その気配すらないから僕が言ってしまおう。損な役割だよなあ。

この男はばか者である、と。あるいは単なる道化役者だ。音楽家は皆、正直ではない。言質を取られないように言を左右に、むにゃむにゃ言ってごまかしているものだから、理屈を言うに長けた愛好家がいつのまにか先導している有様さ。

一言でいうならばこれで足りてしまうのだが、それでは子供の喧嘩ではないかと思う人が大半だろうから、少し言葉を補足しておく。

とにかく厄介なのは、この指揮者が作曲家に心から畏敬の念を持っていたということだ。たとえばプッチーニの「トゥーランドット」は最後の部分が作曲家が死んだせいで欠けている。

トスカニーニはこのオペラを演奏した際、プッチーニが書き記した音符まで来たとき指揮棒を置き「先生がお書きになったのはここまでです」と言ったと伝えられる。

話を逸らせると、プッチーニをそこまで尊敬する気持ちが僕には分からない。「トゥーランドット」は成る程人気のあるオペラかもしれないけれど、プチーニという人は「ラ・ボエーム」ですべてを出し尽くしてしまった人ではないだろうか。

それはさておき、トスカニーニの態度は律義者のそれに見える。ベートーヴェンと何とかのコラボなんていう催しばかりが流行する今日から見ればなんとまあ可愛い、と思えなくもない。美談だ。

つい数日前にも「美しい巻き毛のエリーゼ」だったか、少なくともそういう類の名の「エリーゼのために」を愚にもつかぬアレンジした楽譜を見せられて疲労した。

そういう意味では彼は野心家ではないのかもしれない。自分の成功のためには手段を選ばなかったカラヤンとは違う。自分が指揮するとき以外は、楽員の数を減らしていた、それを絶対に譲らなかったといった真似はできなかったかもしれない。

僕はこの人の演奏をすべて聴いたことがあるわけではない。批評家ならそれが要求もされるかもしれないけれど、そこまで暇人ではない。いくつか聴いてあとは判断してしまえばもう聴かない。

例えばマイラ・ヘスと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、あるいはルドルフ・ゼルキンとの、やはりベートーヴェンの第1番を聴いてみよう。

前奏ひとつとっても、とてもとても音楽とは思えない代物である。

なぜこんな男が当代きっての指揮者と見做されるようになったか。原因のひとつは、楽員も当時はそれなりに作曲家への畏敬の念を持っていたからだろう。どこにそんなことが書いてある、作曲家の意図を踏みにじるつもりか、君たちは、と猛烈な勢いで怒鳴りつけられてごらん。悪いのは自分たちだ、と恐れ入ってしまうような可愛らしい時代だった。演奏家ならば少しマンネリ化してサボってしまっている、という後ろめたさは皆持っているだろうし。

人間はそんなに単純なものだろうか、という疑問を持つ人もいるだろう。しかし、警察で厳しく尋問されて、覚えもない犯行を「自供」してしまうのも人間だ。

ましてや、自分の演奏の不備でも衝かれてごらんなさい。いったん守勢に回ったが最後、そう易々と形勢を転じることはできないものだ。

上述のヘスと共演しているベートーヴェンの3番は比較的楽に手に入る。聴いてご覧なさい。この曲の冒頭の付点のリズムひとつとっても、正確に聴こえないのである。つんのめって聴こえる。

それはちょうど、コンピュータが演奏したものがイン・テンポに聴こえないのと同じである。

もう少し続けよう。

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