季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

教員評定

2008年03月30日 | その他


ある国立大学の教授とちょっと話を交わした。

「あなた、信じられますか!私の学校では学生に教員の評価をさせるんですよ。まったく世も末です。私ら教員が学生の胡麻をすらなければいけない時代になったのですよ」

僕はなんと答えて良いか分からなかった。たしかに世も末だとは思った。この男とは違った意味で。

この人は最初から学生からマイナス評価をされると決めてかかっているのだ。あれ、待てよ、そうするととても謙虚な人なのか。日本の美風は健在か。

冗談を言っている場合ではない。僕は仕事柄若い人たちと付き合うことが多い。すべての人がというわけではもちろんないけれど、考えられているよりはるかに多くの人が、いつの間にか、深い情感と、好奇心と、そう言ってよければ正義感を持った人に成長する。

べつに音楽に接したからではない。イチロー選手にしても、中田英寿選手(この人は残念ながらもう選手ではないけれど)、またどの道であれ、その成果がどうであれ、一心に続けていると一種の情緒とでも呼ぶしかないものに突き当たるのが面白い。有名人を挙げたのも、無名人を挙げても誰も分からぬからである。ほかに理由はないのである。

さて、そうしたことを毎日のように体験していると、若い人への見方が他の人とずいぶん違っていくものなのだろう。

僕は、僕の処へ通ってくる若い人たちが、より年上の人たちと同様、真剣でものに感じやすいことをよく知っている。常識もわきまえ、ただただ音楽をしたい一心でやって来ることをよく知っている。

上記の大学教授と、そうした若い人とどちらが正しいか。訊ねるまでもないだろう。また、真剣な人は、なにも僕の処にだけいるはずがない。

ただ、率直に言ってしまうが、そうした真剣な気持ちに応える覚悟がある人は驚くほど少ないのである。みんな、かつては自分も未熟であった、おそらくは現在も未熟であることを、あっけらかんと忘れている。

だから、自分の前にいる男が、まったく違った意見を持っているとは夢にも思わず、「世も末だ」などとのたまうのだ。

学生による教員評定も大いにやったら良いだろう。もちろん学生もそうしたことに対応できるほど成熟していないだろう。しかし教員自らが、高い評価を受けるためにごまをする、といった未成熟では、ちと困るではないか。


ひばり

2008年03月29日 | 音楽
チャイコフスキーの小品に、四季の中の三月だったかな、ひばりの歌というのがある。怪しければ調べればよいのだが、どうもそれが嫌いで。

さっそく脱線してしまうが、僕は中、高とある私立の学校に通った。はじめのころは時折小学校時代の友人と会いもしたのである。あるとき、中一の定期試験のあとだったが、友人同士の会話に耳を傾けていた。

「迷亭」「我が輩は猫である」「野だいこ」「坊ちゃん」こんな調子でやっていて、できた、できないのやっている。聞けば試験に出た問題だという。「お前、読んだことあるの?」と訊ねたら、ないという返事だった。

僕は中学に入ったとき、図書室というものがあり、そこで何でも借りて読めるという経験をはじめてした。小学校時代は、正式な図書室なぞ望むべくもなく、自分の持っている本をなんべんも繰り返して読んで飽きることがなかった。これは、今にして思えば、大変得な体験だったと思う。音楽で同じ曲を弾いたり聴いたりして飽きることがないのは、そういうことが影響しているのかもしれない。

そんなわけで「精読」を続けていたエネルギーが濫読に爆発し、僕は図書室の本を借りまくった。何のジャンルだろうと、活字であればよかったような気がする。2.3冊借りて帰宅する電車で読み、歩きながら読み、飯を食いながら読み、それでも足りずに駅前の本屋で、ませた小説なんぞを立ち読みしていた。

そんなガキにはガキなりの矜恃があったのだろう、友人達が読まぬ本の登場人物を言い合っているのが、ひどく馬鹿げたことに思われた。じっさい馬鹿げているのだが、形こそ違え、おなじようなことが現在も行われているはずだ。学校での「勉強」ということに何やら妙な感じを抱きはじめた、最初の出来事のひとつだ。

脱線したままになりそうで弱ってしまったが、ブログなんてこんなものだな。そうそう、ひばりだった。

この曲は題名通り、ひばりのさえずりを想わせる音型が頻繁に出てくるけれど、僕の知っているひばりではない。

春休みに佐賀へ帰ると、まだなにも植え付けられていない田んぼを突っ切って、3段くらい上って家へ着く。風はまだ冷たいが、陽射しは充分に温い。

今年もまた春を迎へるものであることを

ゆるやかにも、茲(ここ)に春は立ち返ったのであることを

土の上の陽射しをみながらつめたい風に吹かれながら

土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら

と、中原中也が歌ったそのままの情景の中、頭上から降ってくるのがひばりの声だった。今はもう、佐賀に帰ることはないが、犬と共に相模川の河川敷にはよく行く。枯れた芝の広場で、同じように陽射しを浴びながら声を降らせている。

ハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」もシューベルトの「ひばりの歌」も僕の知っているひばりだ。

チャイコフスキーの曲は、これらの曲とはまったく趣を異としている。ロシアのひばりは曇った、重い空の中で、まだまだ寒い大気の中で歌うのだろうか。こんな春もあるのだな。

今ふと思いついたのだが、美空ひばりがあんなに人気があったのは、ひとつにはこの芸名がうけたのではないだろうか。美空うぐいす、美空すずめ、美空からす、美空九官鳥、どれもだめでしょう。誰もがピンと納得する語呂があるものな、美空ひばり。僕は別にファンじゃないけれど。

河合隼雄さん

2008年03月27日 | 
この人の本は何冊か読んだ。明恵上人についての「明恵 夢に生きる」「おはなしの知恵」これは日本昔話にあらわれる民族及び人間の深層心理の本、その他何冊か。もっとも書名は確認するひまもないから、うろ覚えです。

日本におけるユング派の心理学者の代表である。白州正子さんも彼を天才と呼んでいた。当然のことながら、交流は多岐にわたり、「河合隼雄その多様な世界」というシンポジウムの出席者の顔ぶれは大江健三郎さん、中村雄二郎さん、今江祥智さん、中村圭子さん、柳田邦男さんという多彩さだ。

子供達の間にいじめ(このことばはヨーロッパでそのまま通用するらしい)や自殺が頻繁に起こるようになり、なにか対応をしなければと焦った文科省は、心の問題の第一人者であるこの人に白羽の矢をたてた。名称は忘れてしまったが、なにかの諮問会議の座長に指名したのだったと思う。

その結果「こころのノート」というものができあがったらしい。文科省のサイトやウィキペディアを見てみると、ちょっと出ている。修身の復活だといった批判もあるそうだが、僕はそうしたことを語ってみたいわけではない。

こころのノートの目的のほんの一部、そこに引っかかりを感じるから、それについて書きたいのだ。

このノートには生徒が自分の悩みなどを正直に綴って、担任の教師はそれを読んで生徒の心の内側を理解する、という機能までもが期待されているらしい。最初にこの構想を耳にしたときは僕は耳を疑った。

これは、方法自体は目新しいものではない。河合さんが彼のクライアントに対してとった方法であり、それがなにがしかの効果があったからこそ、臨床心理士として名をなしたのだ。いや、なにがしかどころか、大きな効果があったのかもしれない。いずれにしても、この方法は河合隼雄という個人の、人の心に入り込む直感力、乃至経験に支えられたものなのである。

しかしそれを一般的な手法にできると考えたならばこれは、単なる耄碌である。少なくとも、河合さんが現代の病巣を真正面から見ていなかったと僕は考える。

クライアントは河合さんを信頼してやって来るのだ。そして河合さんもそれに応えるだけのものを備えていたのだ。その上、クライアントは、もしも気持ちが通じないと感じたら,河合さんから去る自由を持つのである。

では学校ではどうか。ためしに「教師 不祥事」で検索をかけてみればよい。教師に限ったことではあるまい、大人が大人の役割を果たしていないではないか。僕はきれい事について、大人が説く建前の(道徳心だの、国を愛する心だの)立派さについて言っているのではない。子供は動物的に、大人は信じるに足りない、と直感しているだけのことだ、と僕は感じている。だから教師を尊敬すると答える子供の数が世界的に見てきわめて低くなる。

しかも、その手のアンケートは、結果をどの方向から見るかが大切なのだ。新聞等の論調によれば、子供が教師を尊敬しないこと自体が由々しき問題のようだが、そう読み取るべきではなくて、単純に、尊敬されない教師が多すぎると読み解くべきだろう。子供はごく自然に、大人に対して反撥と尊敬の両方を持つものだ。自分たちの少年時を思い出せばよい。

そのような状態にあるというのに、なお子供達に、自分の悩みなどを正直に書くように指導するというのだろうか。だれがそのような「告白」をあえてする?かれらは河合さんのところへやってくるクライアントと違って、去る自由を持たないのである。現に僕が訊ねた子供達は異口同音に「適当なことを書いておくに決まっている」と言った。

こうした答えは予想がつく。けれど、本当は彼らの心は二重に閉ざされるのである。つまり、つかなくて済んだはずの嘘を書くわけだから。

人が他人の気持ちになってみる、などと言うが、これは容易なことではない。勿論厳密に言えば不可能だ。それを河合さんが知らなかったはずはない。

それを、人間として人並みの人情と知性を備えているかも疑わしい、赤の他人に、自分と同じ方法をとらせてみようと考える。僕には理解できないことだ。

「おはなしの知恵」では「桃太郎」は天才を育てる難しさとして読み解かれる。よろしい。頷ける。詳細を書くことはしないから、興味ある方は読んで欲しい。

しかし、現代の子供を巡る問題は、そういうところから、つまり民族の中に眠る無意識や、共同体としての感受性から僕たちが、いかに離れてしまったかを直感するところからしか始まるまい。しかも、本当はこうした心の問題は子供に限らない。

河合さんは、諮問会議の座長としては、問題の真ん中にある、(この場合は)救いがたい教師たちの実情、またそれに代表される大人たちの姿にこそ批判の矢を向けるべきだったのだ。

それをしなかった以上、天才というより、真実よりも自説の社会への浸透を願った俗人に見える。

ユングの本を読んでいて、これもただ頷くわけにはいかないけれど、なにかきな臭い感じだけはまったくしない。気持ちがよい。自分の意見をもういちど確認する、極めて冷静な眼が働いているのをはっきりと感じる。

そもそも、日本の文化人グループというのは、他国の事情はしらないけれど、きな臭い。河合隼雄その多様な世界に集う人たちも、なんだかエール交換をしているようでね。僕はそういう集まりに顔を出すひとの心自体を覗いてしまう。

結局河合さんの望んだ機能は、子供達からまったく無視され、机の中に眠ったままなのだ。当然である。

ついでに書いておきたい。子供達が自殺したり、殺人を犯したりすると、校長が全校生徒を集めて、「胸に手を当ててごらん、どっきんどっきん動いているでしょう。これが心臓で、これが止まったら人間は死んでしまいます」とかお話しする。あんなことはしないほうがよいのだ。各自が自分の胸に手を当てて自省する方がよい。若い人たちから「嘘っぽい」ということばを聞く度にそれを思う。

アンケートで「人間は死んでしまったあと、生き返ると思いますか」という問に、数値は忘れたが異様に高い率で「思う」とあって、おとなは動揺を隠しきれなかったが、僕に言わせると、子供をなめるなよ、ということだ。僕が子供だったら意地でも「生き返る」と答えるね。だれだって馬鹿にするなと思うだろう。

河合さんはそうした馬鹿げた取り上げかたにこそ警鐘を鳴らすべきだったのだ。心から心へと願ったのはベートーヴェンだけではない。心を知るは心なりけり、と歌ったのも西行法師だけではないはずだ。

練習方法

2008年03月25日 | 音楽


こんな題を付けておくと、真面目な人がかけた検索に引っ掛かってしまうかも知れない。でも本当はそんな人こそ読んで欲しいものだ。

以前、苦手克服法とかいう題で特集が組まれた記事が、さる音楽雑誌に掲載された。その種の記事は、ただもうイライラするだけで、まず読むことなぞあり得ない生活をしているのに、どうしたわけか雑誌が送られてきて、思わず世の中を知ろうと思ってしまった。

あるピアニストの記事がやたらに面白く、本人はいたって真面目で、おかげで一瞬ではあるがベルトの穴が2つほど縮んだ。

あなたが漫然と練習を続けたら、そのうちに難しい箇所を克服することができなくなってしまうでしょう。そのときにはどうするか?答えは丁寧に練習することです。

それでも難しいところがまたしても現れるでしょう。その時はどうしますか?もっともっと丁寧に練習するのです。この簡単かつ明瞭な説明に打ち勝つことはできない、と観念した。

あるいはまた。速いパッセージはなぜ難しいか。速く弾けば弾くほど重力が増すからです。僕の乏しい物理の力ではとうてい理解できないのであった。若いときにもっと勉強しておくのだった、と後悔した。

指を鍛えるためには突き指するくらいの勢いで弾いて弾いて弾きまくるのだという。空手の名人はさぞピアノが上達するだろう。突き指の代わりに、鍵盤が割れて、ホールには確実に出入り禁止だ。でも良いさ。江戸時代の剣の道の道場破りのように「弾かせよ」などと叫ぶピアニストが出たりして、ホール側はあわてて金一封を包んだり、対応に大わらわ。こんなピアニストがでるかもね。

僕が冗談を言っている暇はない。この人は、なかなかの人気者らしく、寄稿の常連で、信奉者も大勢いるのだ。ただ笑っただけならば、それをネタに駄文を書くほど僕は人が悪いとは思わない。それほどの暇もない。

世の中に何とかかんとかという流儀ばかり多くて、それぞれ悪いことに理屈を持ち、理屈である限りどこか正しいのである。宮本武蔵に「五輪の書」というのがあって、オリンピックのことではないですよ、そこで同じようなことを書いている。流派ばかり乱立して、ちょっとした差異ばかりで、本質は置き去りにされていると。ああ、何でもそうなんだな、と痛感せざるを得ない。

指を強くすると思う前に、強い指とはなにか、を理解したまえ。強い指が必要なのは、他にも蕎麦職人、ロッククライマー、夫婦げんか等いろいろなジャンルがある。どれもピアニストの強さと違うではないか。

それをちっとも考えないから、指を鍛えるメソッドとして楽器のない!レッスンとかが跳梁跋扈するのだ。楽器がなくても演奏できるようになったら、それは奇跡とよべるけれど。そうなったら中島敦「名人伝」の世界ではないか。これは面白い小説です。読んだことのない人はひとついかがですか。この人はとにかく文章がうまい。昭和初期の人です。大変若くに亡くなったのが惜しまれる。

音楽ではハ長調の曲はハ長調で終わるのが原則だが、僕の駄文は脱線したまま終わる。


感動と評価

2008年03月24日 | 音楽


友人から聞いた話でしかないが、ふだんは下らぬ事しか言わない男だが。

某音楽大学では以下のような会話が交わされているという。

「○○の演奏は心を打つけれど評価はできない」等々。

何というなまくら腰だ。どちらにも取れる、まるで政治の答弁のようだ。解説しておきましょう。その演奏を高く「評価」するひとに対しては「たしかに私もそう思います、心を打たれました」と手形を切り、低く「評価」するひとに対しては「その通りですね、心は打たれるのですがね、評価となると」まあ、良くてそんなところか。

ひとつ景気よく言い切ってみればいいじゃあないか。「ベートーヴェンの音楽には心を動かされるが、評価はできない」とか。いちど言ってみたらよい。そうしたら「評価」とかいう言葉がいかに虚しく空の彼方へ飛んでいくかを知るだろう。それとも、そこで気付く奴はそもそもこんなたわけたことを言いはしないか。

もっと実体に近くいえば、これらの発言は発言している当の本人も何を言っているか分かっていやしないのだ。

「○○の演奏は悪くなかったですね」「そうね、ただ、評価ともなるとね。心動かされますが」「そうですね、グローバル化した音楽市場の現実を見ますとね」「そこなんですね、問題は」「結局社会が音楽になにを求めているかを知ることでしょうかね」「そうね、グローバル化は多様性と相関関係ですからね」「マーケティングリサーチの重要性ですか」「あっ、それはもう一番の重要課題です」「自己をアピールできることも大事でしょう」「それと好感度の釣り合いですよ」「ホントにそうですね」

口から出任せに書いてみるとこうなる。でもこれらの言葉は全部新聞評、コンクール、学校、その他で実際に耳にした、それでいて僕には何のことやらさっぱり分からない言いぐさを抜き書きしたものだ。だいたいこのような感じの会話が(良くても)交わされているわけだ。

友人は芸術に評価ということばを使うのはけしからん、と怒り心頭であった。しかし考えてみれば、評価自体が悪いわけではあるまい。ベートーヴェンも評価されたりされなかったりしてきたのだ。

ただ、感動するが評価しない、などの寝言が悪いのだ。評価するが感動しない、ということはあるだろう。あまり厳密に気持ちを探ったらちょっと分からない気もするが。うん、ある。僕の場合だが、ギーゼキングの演奏は評価する。とにかくうまい。しかし感動しない。そうそう、ラフマニノフの演奏もそういった種類のひとつだ。

では反対のこと、感動するが評価しない、というのはどうだろう。素直に考えればこれはあり得ない。感動というものがすでに一種の評価を含んでいるから。いや、感動しても下手な演奏はある、という人は、どこかでありもしない標準的な技倆とかいった観念を作り上げて、自分が感動したことを信じようとしないのだ。

それよりもなによりも、音楽家達の会話は、本人さえも分からない言葉を延々と受け渡し合うだけだという情けない現実だ。そこでは音楽も自己も信じられてはいないだろう。信じられていないところには、疑いも生じまい。


空ヤン

2008年03月22日 | 音楽


カラヤンはある時期から燕尾服を着ないで、カラーの立った、何ていうのかな、ファッションに暗すぎる僕にはよく分からないが、僧服のような格好で演奏していた。そうそう、リストが着ているでしょう、あれです。

ドイツ人の友達が、あれはなぜだろう、と結構話題にしていた。僕が「難しく考えるな、そういう宗教的境地に達したのだとみんなに知って欲しいのさ」と答えると、そんな単純な理由があるだろうか、と信じなかった。

カラヤンとベルリンフィルはどうしても最後まで聴き通すことができなかった。何ともいえぬ、のっぺりした豊堯さ。むかし山本直純さんという人がコマーシャルで「大きいことはいいことだ~」と歌って、それが時代の空気そのものであるような注目をされていたが、カラヤンの音は、とにかく豊かに豊かに、豊かなことはいいことだ、といった感じなのだ。ブラームスのチクルスでも、フォルテでもピアノでも常に壁土を丁寧に塗りつけたようで、豊かさに意味がないのだ。一晩聴き通す必要もなく、チケットは買えずに僕のような変人が現れるのを、入口で辛抱強く待つ人がいて、あっという間に売れたのである。

客席で(僕は立ち見席が指定位置だったが)ヴァイオリンを抱えた男がいて、自分のことのように得意満面の笑みを浮かべて「全員がソリストの力量を持っているんです」と話しかけてきたことがある。「いや、僕はそう思いませんね」(実際、あるコンサートマスターの主宰するカルテットなど、もうひどいものだった)件のヴァイオリニストはびっくりして僕を見て「あなたはヴァイオリニストですか」「いや、ピアニストです」「私はそうなんです」(Aber ich!)馬鹿じゃなかろうかと思ったが、日本人はただでも黙っていて何を考えているか分からないと批判されてばかりいるから、それは本当のことみたいだが、癪に障って「僕は音楽家だ」(Ich bin doch ein Musiker)と言った。返す言葉が無くて目を白黒させておかしかったなあ。

生前すでに、テールヒェンというティンパニー奏者が「フルトヴェングラーかカラヤンか」という本を出した。これは、2人の間のゴシップの寄せ集めではない。この手の本は多かれ少なかれゴシップ集の域を出ないけれど、この本はそれらと趣をまったく異とする。

一見楽員に自分の楽想を命じているかに見えるフルトヴェングラーを「反応」reaktつまり、音楽への、音への反応と呼び、一見オーケストラの前で敬虔に耳を澄ましているかに見えるカラヤンを「行動」aktの人と呼んでいるのは卓見である。

あるいは、どの指揮者も(音楽家も)内面にいくらかのフルトヴェングラー(音楽への情熱的な没頭)といくらかのカラヤン(なによりも自己愛)を持っていると言う。こうした記述全体にこの人が並の演奏家ではないことがうかがえる。

僧服についての直感と演奏への感想を、僕はこの本で確かめることができた。つまり、もっとも近くにいながらほぼ同じ感覚で見ていた人がいた、という意味である。だれもが同じであったなどと言っているわけではない。どうにも言いようのない、あの空しい豊かさがどこからやってくるのか、それを確認しただけで充分だ。


またホール

2008年03月20日 | 音楽


ホールの善し悪しは、簡単に言って二つの条件による。

ひとつは音が心地よく響くこと。当たり前のことであるが。

もうひとつは弾き手のやっていることがよく分かるということ。こちらに関しては当たり前のようでいて、では演奏者は何をしているか言ってみろ、と問われたら多分あいまいになる人がほとんどなのではないか。

ホールのせいで分からないのか、自分の耳のせいで分からないか、が分からないからだ。

よくピアノの演奏について、強烈なタッチだとか、優しいタッチだとか論評するでしょう。これは控えめに言ってもかなり怪しげな形容なのである。タッチは正確か、不正確かしかない。

強烈なタッチの持ち主と形容された人に対して、僕は高い確率で乱暴に弾き、幸運な場合力強かったのだと判断する。

優しいタッチと形容された人は、高い確率でフニャフニャ弾き、幸運な場合のみデリケートだったのだと思う。

いずれにしても、ホールのことを言葉で表現するのは難しい。でも、昨今の多くのホールが聴き心地はそこそこ良いが、嘘くさく、弾き手が何をしているのかが手に取るように分かる、ということから、あまりにかけ離れていることは言っておきたい。

具体例を挙げておこうか。紀尾井ホールや、浜離宮ホールは心地よさを造りあげた感じで、良いとは言い難い。カラオケでエコーをかけたら気持ちがよい、そんな感じとでも言っておこうか。ホールから「みなさんはご心配には及びません。美しい響きを造って差し上げます」と言われたような気持ちになる。みなとみらい(それにしてもこのネーミング、助けてくれ)ホールも同様。響かない典型はNHKホール。一時期、分からないようにスピーカーで補強していると噂が立ったことがあるが、その気持ちはよく分かる。

津田ホールは弾き手のことがよく分かる。心地はそれほどよくない。王子ホールはピアノにはまったく駄目だが、弦楽器、管楽器だけの場合は良い、ちょっと変わっているが、その特徴を知っていれば何とかなる。カザルスホールは風呂場。サントリーの小ホールなどは、今では使う人はあまりいないのではないだろうか、詳しく知らないけれど。それくらい魅力に乏しい。落雁というお菓子があるでしょう、あの舌触りが耳にきたらこんなだろう、と連想してしまう。

こんな書き方しかできないけれど。そうそう、古賀政男記念館というのがあって、ここが小さいけれど良い響きだ。さんざんホールについて書いたのに、具体例を挙げないのでは無責任だから、僕の耳による判断をしておく。

自転車競技

2008年03月18日 | スポーツ

自転車競技といってもいろいろある。僕のいうのは競輪ではない。ツール・ド・フランスという名前はたいていの人が知っていると思う。100年以上の歴史を持つ、自転車レースである。その種の競技についてだ。

ケーブルテレビに加入したとき、スポーツチャンネルが基本契約の中に入っていて、そこで初めて見たのがきっかけである。

最初は、何時間も自転車が走るところをみる馬鹿もいないだろうに、と何気なく見始めたが、いつの間にか自身が馬鹿になっていた。

競技そのものに関心のない人も、一度見てみたらよいと思う。3週間かけてフランスを駆けめぐるのがツール・ド・フランスというのだが、同じように3週間でイタリアを巡るジロ・デ・イタリア、3週間でスペインを巡るヴェルタ・ア・エスパーニャというのもある。

はじめは自転車という単純な構造と運動の乗り物の上で、ひとがクルクルペダルを回しているだけだろう、とたかをくくっていたが、併走するオートバイや、ヘリコプターから送られてくる映像の景色が実に美しい。ため息が出るくらい美しい。

なんといってもその速さが景色を味わうのに最適なのだ。しかもノンカットである。これがいい。紀行番組だとそうはいくまい。見てくれの良いところを切り取って、ということは撮影者および編集者の判断にならざるを得ない。

ある時は空撮で、ある時は自転車と同じスピードで。ピサの斜塔を見たことのない人は少ないだろうが、斜塔の10キロ手前の町から斜塔の横を通り抜け、10キロ先(実際には一日200キロほど走るのだが)の町まで、全部を見た人はまた殆どいないだろう。

ひとくちにヨーロッパの風景といったってずいぶん違うのだと改めて思い知らされる。ドイツからオランダへ国境を越えただけでも田園風景が違う、そんな経験は何度もしたけれど、こうしてまとめて見るとまた格別だ。

スペインは台地状の地形が多いとは、むかし地理で習ったが、急勾配で直線の道路が延々と続き、ふと気付けばはるか下方に通り過ぎた町や野原が写し出される。なるほど、そうだと納得する。南部へ行けば、景観はもうアフリカのそれだ。

毎日その日その日での表彰も行われるのだが、そこでもお国柄が出る。スイスだと、いかにも田舎然とした娘や中年の女性が、ほとんど普段着のような格好で選手にキスをする。フランスでのプレゼンターはおしゃれな女性という案配だ。

つまりここでのおもしろさは、編集者の配慮というものが最小限に抑えられていることにつきる。シュヴァルツコップのレッスンとは正反対の現象だ。

むしろこれこそがテレビという媒体の最大の魅力だろうに。デジタルの時代とやらで、それの実現は容易であるはずなのに、思い切った決断とアイデアが出せぬまま、技術だけが突出している。

去年のツール・ド・フランスではイギリスまでもがコースに入っていた。僕はイギリスに行ったことがないのだが、郊外の田園風景の美しさには驚いた。文士の吉田健一さんが、イギリスは自然が美しい、と再三書いていて、自然はドイツもフランスも美しいのではなかろうか、と訝しく思ったことがある。しかし彼の言うとおりだ。イギリスの詩人達がうたったのはこういうことかと、感激した。書き忘れるところだった。

傲慢

2008年03月17日 | 音楽


ソプラノのシュヴァルツコップが素晴らしいレッスンをする、これはドイツにいた時分テレビで観てよく知っていた。あらゆる演奏分野で、あの人ほど密度の濃いレッスンをする人はいなかった。草津の音楽祭でも熱心に教えていたようだ。僕がドイツで観たテレビでレッスンを受けていたのはドイツ人(正確な国籍は分からない。ただドイツ語圏の人)で、草津のシュヴァルツコップは、手を抜いているのではないが、一種の距離を保ったレッスンぶりだったように感じる。もっとも僕は草津音楽祭に参加したわけではなく、これまたテレビで観ただけなのだが。

彼女はザルツブルクの夏期講習かなにかでも、歌曲の講座を開いていたのだが、そのレッスンの模様が1時間におさめられレーザーディスクで売られた。おそらくこれもドイツのテレビ放送用にまとめられたのだろう。

これは貴重な記録である。この人がどれだけ細心の注意を払って生徒の演奏を聴きわけようとしているのか、またどれほど熱意をもって受講者に伝えようとしているか、それが手に取るように分かる。

残念なことに、この不世出のソプラノの講座に、少なくとも画面で見た限りでは、そんなにたくさんの人が聴講に訪れたようには見えないことである。受講者の数も予定に満たなかったため、急遽聴講者の中から受講者を募ったのだという。歌手の質も、シュヴァルツコップのレッスンなのに、高くない。

それにも拘わらず、彼女の教えぶりは徹底していて、感動する。受講者から笑いがもれるような、うち解けた空気ではあるが、耳だけは掛け値無しに厳しい。こういうレッスンは見ていても気持ちがよい。質が良いとはいえない生徒でも、根気強く同じことを繰り返し繰り返し指摘する。

どこかの国のレッスンとはまったく逆だ。昔のある有名教授は「なにを言ったらよいか分からなくなったら、怒鳴りつければよい」とのたまわったそうだ。正直なお方だ、まったく。

と、脱線しそうになるのをこらえつつ、先を書く。

このシュヴァルツコップの映像を見ていて切に思うのは、ああ、この場にいて聴講したかったな、ということだ。同時にこの、数日間にわたる講習会は全部記録されていることを思わないわけにはいかない。少なくとも録画はされているのだ。

それがたったの1時間に「まとめ」られている。いくつかの章に分けられ、その細目は忘れてしまったが、見る人は一応の目安をたてられる仕組みである。たとえば「レガートについて」とか。

まあ、見る人にとっては都合良いともいえようか。しかし実際のレッスンというものは、テーマを決めてそれについてのみ言及するものではない。あちらこちら、行ったり来たりしながら又同じ課題にもどったり、の繰り返しのはずである。

これを全部体験できたらどんなに面白いか。

テレビというか、映像メディアはその強みをまったく理解していないと思わざるを得ない。殊に、最近では多チャンネルだのデジタルだの、かけ声だけは何だかわからないけれど現代風に響くではないですか。こうした時代だからこそ、この講座全部を、それではあまりに膨大な量になるというならせめて、カットとか編集とかの手を加えずに「垂れ流す」ようなことをしてみればよいと思うのである。

少なくとも、視聴者のために編集して、理解しやすくするといった態度は、傲慢といった方がよい。演奏の一部を聴かせる、全部あるのに時間の都合で一部聴かせる。そのうえでN○Kが誇るライブラリー等のセリフをいう。そのての放送局ばかり増える。では画面の都合でモナリザの左側半分をお見せします、くらい言ってみろ、そうしたら自分たちがいかに馬鹿で傲慢な態度で文化に接しているか気付くだろう。

2/2

2008年03月16日 | 音楽


ブレンデルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲は、おそろしく速いテンポで弾かれているそうだ。

僕はその演奏を聴いていない。この情報は吉田秀和さんの「時の流れのなかで」のなかの「テンポのとり方 その1」と題する文章中に見つけたものだ。

ブレンデルはなんでも、ボンのベートーヴェンハウスで刊行された新判の資料を実際に見せてもらって確認したそうだ。

それによると、第一協奏曲の普通流布しているものは4/4拍子だが、もともとは2/2で書かれていたというのだ。そこから考えた結果、吉田さんのことばによれば、速いの何の!という演奏に相成った次第らしい。

ここで問題にしたいのは、この演奏が良いか悪いかといったことよりも、次のことである。

2/2で書かれていたというのはきっと、いやぜったいにそうなのだろう。その点では最近の研究はとても進んでいるから。(ちなみにこの文章が書かれたのは1984年のことだ)

ブレンデルにかぎらず、演奏家達はこうした言い方をする。「これは2/2で書かれているから云々」「こちらは2/4だから云々」ハンゼンも時々そんな説得の仕方をした。たとえば別れの曲などで「テンポが遅すぎる。この曲は2/4だ、」といったぐあいに。

しかし僕はそこで示されるテンポ自体よりも、その説明の仕方に、素直にそうかと言えないのである。そこでこうしてブレンデルの説明に疑問を投げかけているわけだ。

実例を挙げるのが一番だろう。ベートーヴェンのOP.51のハ長調のロンドは2/2で書かれているが、ではこれも速く弾くのだろうか。この曲の場合、二分音符を感じて弾くとグラチオーソという指示が良く理解できるけれども、少なくとも普通弾かれているより速いテンポをとるのは無理だろう。

Op.51にはもうひとつト長調のロンドがあるが、2/4である。これは素直に四分音符を単位に取っていって支障はない。しかし2/4という表記は必ずしも四分音符を最小単位でとっていくということではない。第3交響曲の第2楽章の葬送行進曲は2/4であるが、ためしに四分音符単位で弾いてみたらよい。どんなことになるか。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲のフィナーレや二重協奏曲のフィナーレも2/4だったと記憶するが、これらでは八分音符を単位としたテンポの設定が行われているではないか。

つまりテンポ表示も、他のすべての表示も、作曲者が他者へ伝える手段のひとつであって、演奏者はそこから直感的に作曲家の、作品の意図をくみ取る以外にないのだ。作曲家も人間である、指示をするのもやはり自身の勘に頼るしかないだろう。こう書いたらどうか、いやこれでは伝わらないのでは、などと、何度も悩んだに違いない。ベートーヴェンも第1協奏曲を、はじめは4/4で書いたのかも知れない。(これは研究の結果ではない。あくまで可能性がなかったとは言い難い、と簡明に受け取って欲しい)

ブレンデルは第1協奏曲を速く弾きたければ速く弾けばよい。ただし、その根拠は彼の感覚の中にしか有りようはない。2/2だから、ではないのだ。僕はすでに書いたように、この演奏を聴いていないから、そこでのブレンデルの「感覚」に賛意を表明できるかは知らない。ただ、外側の世界に根拠を探そうという考え方に反対の態度をとりたいのである。

この曲に関して言えば、2/2であっても四分音符を最小単位と取りたいが、同時に2/2と書くことによって重い感じから抜け出すことは確かなのである。楽譜とはそう読むべきだと僕は思っている。拍子は音楽全体の表情を暗示する一助ではあるが、規定するものではあるまい。

さらに付け加えるならば、重苦しさを排除するのは(排除したいとして)テンポだけではあるまい。むしろ、音の質そのものによるところが大きいのかも知れないではないか。

非常に簡単に言えば、演奏するということは演奏者の勘にのみ委ねられている。その勘を磨く以外あるまいということだ。そのうちあるものは目で追って「解釈」もできようが、論理的に近づこうにも近づけないものもいっぱいあるのだ。このことも繰り返し書くことになるだろう。