この人の本は何冊か読んだ。明恵上人についての「明恵 夢に生きる」「おはなしの知恵」これは日本昔話にあらわれる民族及び人間の深層心理の本、その他何冊か。もっとも書名は確認するひまもないから、うろ覚えです。
日本におけるユング派の心理学者の代表である。白州正子さんも彼を天才と呼んでいた。当然のことながら、交流は多岐にわたり、「河合隼雄その多様な世界」というシンポジウムの出席者の顔ぶれは大江健三郎さん、中村雄二郎さん、今江祥智さん、中村圭子さん、柳田邦男さんという多彩さだ。
子供達の間にいじめ(このことばはヨーロッパでそのまま通用するらしい)や自殺が頻繁に起こるようになり、なにか対応をしなければと焦った文科省は、心の問題の第一人者であるこの人に白羽の矢をたてた。名称は忘れてしまったが、なにかの諮問会議の座長に指名したのだったと思う。
その結果「こころのノート」というものができあがったらしい。文科省のサイトやウィキペディアを見てみると、ちょっと出ている。修身の復活だといった批判もあるそうだが、僕はそうしたことを語ってみたいわけではない。
こころのノートの目的のほんの一部、そこに引っかかりを感じるから、それについて書きたいのだ。
このノートには生徒が自分の悩みなどを正直に綴って、担任の教師はそれを読んで生徒の心の内側を理解する、という機能までもが期待されているらしい。最初にこの構想を耳にしたときは僕は耳を疑った。
これは、方法自体は目新しいものではない。河合さんが彼のクライアントに対してとった方法であり、それがなにがしかの効果があったからこそ、臨床心理士として名をなしたのだ。いや、なにがしかどころか、大きな効果があったのかもしれない。いずれにしても、この方法は河合隼雄という個人の、人の心に入り込む直感力、乃至経験に支えられたものなのである。
しかしそれを一般的な手法にできると考えたならばこれは、単なる耄碌である。少なくとも、河合さんが現代の病巣を真正面から見ていなかったと僕は考える。
クライアントは河合さんを信頼してやって来るのだ。そして河合さんもそれに応えるだけのものを備えていたのだ。その上、クライアントは、もしも気持ちが通じないと感じたら,河合さんから去る自由を持つのである。
では学校ではどうか。ためしに「教師 不祥事」で検索をかけてみればよい。教師に限ったことではあるまい、大人が大人の役割を果たしていないではないか。僕はきれい事について、大人が説く建前の(道徳心だの、国を愛する心だの)立派さについて言っているのではない。子供は動物的に、大人は信じるに足りない、と直感しているだけのことだ、と僕は感じている。だから教師を尊敬すると答える子供の数が世界的に見てきわめて低くなる。
しかも、その手のアンケートは、結果をどの方向から見るかが大切なのだ。新聞等の論調によれば、子供が教師を尊敬しないこと自体が由々しき問題のようだが、そう読み取るべきではなくて、単純に、尊敬されない教師が多すぎると読み解くべきだろう。子供はごく自然に、大人に対して反撥と尊敬の両方を持つものだ。自分たちの少年時を思い出せばよい。
そのような状態にあるというのに、なお子供達に、自分の悩みなどを正直に書くように指導するというのだろうか。だれがそのような「告白」をあえてする?かれらは河合さんのところへやってくるクライアントと違って、去る自由を持たないのである。現に僕が訊ねた子供達は異口同音に「適当なことを書いておくに決まっている」と言った。
こうした答えは予想がつく。けれど、本当は彼らの心は二重に閉ざされるのである。つまり、つかなくて済んだはずの嘘を書くわけだから。
人が他人の気持ちになってみる、などと言うが、これは容易なことではない。勿論厳密に言えば不可能だ。それを河合さんが知らなかったはずはない。
それを、人間として人並みの人情と知性を備えているかも疑わしい、赤の他人に、自分と同じ方法をとらせてみようと考える。僕には理解できないことだ。
「おはなしの知恵」では「桃太郎」は天才を育てる難しさとして読み解かれる。よろしい。頷ける。詳細を書くことはしないから、興味ある方は読んで欲しい。
しかし、現代の子供を巡る問題は、そういうところから、つまり民族の中に眠る無意識や、共同体としての感受性から僕たちが、いかに離れてしまったかを直感するところからしか始まるまい。しかも、本当はこうした心の問題は子供に限らない。
河合さんは、諮問会議の座長としては、問題の真ん中にある、(この場合は)救いがたい教師たちの実情、またそれに代表される大人たちの姿にこそ批判の矢を向けるべきだったのだ。
それをしなかった以上、天才というより、真実よりも自説の社会への浸透を願った俗人に見える。
ユングの本を読んでいて、これもただ頷くわけにはいかないけれど、なにかきな臭い感じだけはまったくしない。気持ちがよい。自分の意見をもういちど確認する、極めて冷静な眼が働いているのをはっきりと感じる。
そもそも、日本の文化人グループというのは、他国の事情はしらないけれど、きな臭い。河合隼雄その多様な世界に集う人たちも、なんだかエール交換をしているようでね。僕はそういう集まりに顔を出すひとの心自体を覗いてしまう。
結局河合さんの望んだ機能は、子供達からまったく無視され、机の中に眠ったままなのだ。当然である。
ついでに書いておきたい。子供達が自殺したり、殺人を犯したりすると、校長が全校生徒を集めて、「胸に手を当ててごらん、どっきんどっきん動いているでしょう。これが心臓で、これが止まったら人間は死んでしまいます」とかお話しする。あんなことはしないほうがよいのだ。各自が自分の胸に手を当てて自省する方がよい。若い人たちから「嘘っぽい」ということばを聞く度にそれを思う。
アンケートで「人間は死んでしまったあと、生き返ると思いますか」という問に、数値は忘れたが異様に高い率で「思う」とあって、おとなは動揺を隠しきれなかったが、僕に言わせると、子供をなめるなよ、ということだ。僕が子供だったら意地でも「生き返る」と答えるね。だれだって馬鹿にするなと思うだろう。
河合さんはそうした馬鹿げた取り上げかたにこそ警鐘を鳴らすべきだったのだ。心から心へと願ったのはベートーヴェンだけではない。心を知るは心なりけり、と歌ったのも西行法師だけではないはずだ。