季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

臨時講座

2016年07月18日 | 音楽
8月13日(土)18:30から戸塚駅前のさくらプラザに於いて「テンペスト」の公開レッスンをします。
お盆ですし、広い所でする性質のものではないのですが、夜の時間帯を使わせてくれるという人が現れ、広い空間でどう響くのかを聴き比べる機会でもあるな、と急遽強行することにしました。

関心と、何よりも時間がおありの方はおいで下さい。

このホールはやや残響過多ですが、音は散らず悪くないのです。横浜市は各区に1つホールがあるのでしょうか、緑区のホールが特別優秀なのに加えてここも使えるなど、これから出来るのもあるのならば期待してしまいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年7/31(日)の講座

2016年07月12日 | 音楽
暑い盛りの講座の案内です。

7/31(日)の14:30・幡ヶ谷KMアートホール

演奏は桐朋学園2年の稲畑光さん。ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」全曲。

稲畑さんを聴くのは当日が初めてになります。楽しみでもあり、緊張もします。

ドビュッシーは本人がいくら嫌っていてもワーグナーの一分派でしょう。これについては講座の中でお話しましょう。

また、ピアノを弾いて得られる肉体的な触覚はブラームスに似通う。これについても当然言及しますし、レッスンではそここそが大切なのですが、こちらは理解して貰えるか、何とも分からずスリリングです。

フランスの音楽家、と誇りをもって署名した人ですが、演奏することにかけては、かつてのドイツ系のピアニストがむしろ聴くべき演奏をしていたと思います。

その辺りを何とかして伝えたい、それはピアノという楽器の可能性、技術を語ることになる、そう確信しています。

講座の詳細はこちら
テクニックについてはこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静けさと巨大さ

2016年07月07日 | 音楽
Youtubeを適当に検索していると思いもかけない映像に出会うことがある。

シュヴァイツァーがアフリカでバッハを練習しているひとコマだ。こんなものがあるとは知らなかった。

僕は若い時分、同じ年頃の青少年と同様に、よく分からぬイライラに襲われた生活を送っていた。そんな時の昼間はハイドンのカルテット、夜はシュヴァイツァーのオルガンを聴いて気持ちをなだめることが多かった。

シュヴァイツァーの演奏は落ち着きに満ち、静かで、それでいて巨大である。昔シャーマーからバッハのオルガン曲の校訂版が出ていた。買おうにも経済が許さず、後回しになっているうちに市場から姿を消してしまった。今となってはそれをつくづく残念に思う。

彼が亡くなった時、新聞紙上でグールドが「このような人が亡くなった今、人々の尊敬と愛情を一身に受けるのはメニューイン以外にない」といったことを書いていて、当時の僕にはグールドの意外な一面を見たような、怪訝な感情を持ったことを覚えている。

昨今のオルガン演奏は、むしろ豊富なパイプの組み合わせに翻弄されたようで、ざわざわと落ち着かずひとつも心に響くものがない。

練習するシュヴァイツァーの樫の木のような腕を見てもらいたい。このような素朴な力強さが彼の演奏の性質なのである。イラつく小僧の気持ちをなだめるにはこの演奏が必要だった。

音源もひとつ紹介しておこうか。


テクニックのページはこちら



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フランツ・フェルカー

2016年07月05日 | 音楽
ちょっと前にロスヴェンゲを紹介した。ベルリンオペラのアンサンブルの一員である。僕が芋づる式に名歌手を知った経緯も書いた。
そうした中で知ったテノールをもう一人紹介しておこう。

Franz Völkerという。初めてワーグナーの「リエンツィ」の中のアリアを聴いた時は驚いた。無理なく響く、柔らかい声でワーグナーが歌える、これは僕にとっては発見であった。
今日ではウィキペディアなどにより、当時の名テノールで、ワーグナーの1典型を確立した、などのわけ知り顔の知識を持ってはいるものの、そんな知識は邪魔である。

ついでに、相手役はアンナ・マリア=ミュラーという。興味のある人はこの人も検索してみたら良い。日本ではもうほとんど検索する人もいないと思われるからこれをコピーすれば良 maria Müller Soprano


ピアノのテクニックはこちら




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

引いた

2016年07月04日 | スポーツ
今まで何度もサッカーについて書いてきたが、今回のW杯予選は時々見るがあまり気が乗らない。こんなことは50年弱見続けたサッカーファンとしては考えられないことである。

前回のW杯への壮行会や、毎度繰り返される実に「独特な」応援スタイルを見るにつけ、いつしか気持をそがれるようになった。
それくらいのことで気持ちがそがれるのは本当のファンとは言えない、という人へ。断言しておくが、もしこれから先、予選落ちが続いた時に真っ先に離れていくのはユニフォームを着てのべつまくなしに歌い、両手を組み涙ぐむ人たちだろう。

国立競技場にほとんど人がおらず、野原で試合しているようだった頃からのファンとしては、このような壮行会を平気でしてしまうサッカー協会は冷酷だと感じてしまう。

心ある選手がいればいたたまれなかったろうし、平気で臨んだ選手ばかりならばここから強くなる道理はない。

スポーツでも我がピアノ界でも天才の安売り、夢とやらの叩き売りである。夢は持つべきというより、誰しも持っている。問題はそれはこのような馬鹿げた形で語られるものだろうか、ということだ。

天才とやらが小国の二部リーグのスタメンにすらなれず、失意の帰国をしてもなお天才と称される。本人のためになるはずがない。サッカー自体への関心を失ってはいないからヨーロッパカップなどを見て、その仮借のない厳しさを羨ましくため息をつく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする