季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

解釈とは

2015年05月28日 | 音楽
演奏には解釈がつきものだ。

ところで僕はこの解釈とやらがどうも苦手である。

いや、言い直しておかなくては。僕が実に居心地悪く感じるのは解釈という言葉なのだ、と。

何だか随分偉そうに聞こえるでしょう?私の解釈、なんてさ。私のワルトシュタインの解釈は~なんて言われた日には、はは~とひれ伏すしかないではないか。

昔から違和感があった。でも僕が敬愛する演奏家たちも用いる言葉だし、立派な演奏をするのだからまぁ良いかな、そんな感じで容認していた。

で、はしょって書くが、ヨーロッパの演奏家たちが解釈という時、これは単に「自分はこう感じる」位の意味ではないか。

これだったら何の抵抗もなく受け取れる。ワルトシュタインはこれこれこんな感じだ、この部分はこんな風に感じる、等々。

日本語が解釈というと大上段に構えて硬直している。憲法の解釈だとか、えらく難しい場面で使われる言葉でもあるから。

Interpretationという語を調べてみたら良い。翻訳という意味が載っているはずである。僕はまた調べもせずに書いてしまっているけれど。載っていなかったらだって?その辞書は僕の解釈!によれば役に立たないから捨ててしまいなさい。

僕は語学が堪能ではないが、思うにこれはかなり平易な意味合いの言葉なのではないだろうか。つまり自分はここはこう感じる、程度の。翻訳で意味を強引に捻じ曲げたらまずいでしょう?

そんなことを考えて、語学が堪能な生徒に(堪能もなにも、外国で育ったのだから)確認したことがある。

だいたい僕が思ったような理解で良いらしい。

ヨーロッパの演奏家が語るのを見聞きし、解釈という語を聞いたら決して大げさな意味合いはないと知ること。そして日本語ではなるべく使わないで済むようにしたいものだ。

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解釈の一端を

2015年05月26日 | 音楽
以前エドウィン・フィッシャーがベートーヴェンのOp.10 No.3 のソナタ第2テーマを、ふつうレドシラと8分音符で弾かれるのに、レを明らかな前打音として演奏していることを紹介した。(09年9月7日

そのことについて少し解説めいたことをしてみようと思う。本ブログを読む音楽関係以外の人には何の関心もないだろうが。簡単に書いておくから、音楽を学んでいる人たちは参考にしてもらいたい。



このソナタはレドシラという下降の音型を主要なモティーフとして成り立っている。レはアウフタクトで、2番目のドに向かって大きなエネルギーが蓄えられる。よくレにアクセントをつけて弾く人がいるが、それでは何のためにアウフタクトで開始するのか分からなくなる。

そこから得られる躍動感はフィナーレにも再び現れることも知っておいてもらいたい。2度の下降音にスラーが付くことにより生じる躍動感は3楽章のトリオでも左手に分かりやすい形で現れる。

少し先まで言っておこうか。このドはニ長調の導音で、フェルマータを超えて遠くレーミドラレまでを支配する。

演奏に際して、およそこうした根幹だけは辿っておかなければ、じゅげむじゅげむを唱えるのと大差無い結果になる。

書きながらもどかしいなあ。音符を打つソフトがあることは知っているが、それを使いこなすのは無理だろうね。でも音符で示せたら便利だろうな。

こうしてみると五線の発明がいかに偉大であったかが分かろうというものだ。音符を疎ましく眺めているあなた、片仮名でドだのミだの書いている僕の身になってごらんなさい。

ここまで読んだ人は音楽を学んでいる人だろうから、面倒がらずに楽譜にあたってください。楽譜なしで分かった人はもっと細かい分析まで独力でできる人だから僕のおしゃべりなんぞ必要ないから読み飛ばすことをお勧めする。

さて第2テーマだが、上記のように、通常は連続する8分音符として演奏される。この場合、レドシラソミという音列と第1テーマとの親近性がたちどころに理解できる。というよりは、この音型を重視して読めばこう読むほかないのである。

ではなぜフィッシャーはそうしなかったのか?ここからは彼の心を推し量る以外にないのであるが、おそらく第1テーマのもつレドシラのドへのエネルギーを感じること、それとの関連を示すことをより重要視したのではないだろうか。フィッシャーのように演奏した場合、ドにかなり強めのアクセントが付くことになる。

楽譜の上では何の変哲もない、紙魚のように見える前打音の扱いひとつでも、よく考え、吟味して演奏しなければならないことの好例である。

古典派の曲での前打音は普通の音符として弾けば良いのでございます、と澄ましかえって高邁な教えを垂れるわけにはいかないのである。
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本末顛倒

2015年05月24日 | その他
絶対に弛まないネジを作る会社があるそうだ。今では新幹線や橋など、最も信頼性を要求される場所で使われているらしい。

開発のエピソードも読んで中々面白かった。旧国鉄に売込みに行った時、そんなに弛まないのならば保線区の仕事を奪うから、と断られたという。

この手の、傍目には馬鹿馬鹿しく映ることは沢山あるのだろう。
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抜け道

2015年05月21日 | その他
毎日散歩をする。歩いて気持ちの良い町に住んでいるわけではないが、そうでもしないと健康を保つことができないのである。

僕の住む町は神奈川県でもとりわけ一戸あたりの面積が狭いそうで、そんな知識なしでも気が滅入る建て込み方だ。

退屈を覚えるとわけのわからぬ路地に入ってみる。袋小路になり、舌打ちと共に戻るしかない通りも少なくない。

ふと「車両の通り抜けできません」という立看板が目に入った。車は無理というならば人は通れる道理だ、とずんずん進んだら、果たして人ひとりようやく通れる隙間があり、無事彼岸まで辿り着いた。

とおりぬけ
むようでとおり
ぬけがしれ

という川柳を思い出した。

僕が中学2年だったか3年の国語の教科書に載っていた。

教師がこの句の意味を問い、僕をはじめ悪童たちが次々と珍解答を発表するのだが正解しない。

今のような進学塾のない時代である。便利なノウハウを教えてくれる人がいるわけではない。

しばらく頭を捻っていたが、ふと5,7,5の区分けにこだわらずとも良いのではないか、と気付いた。なんだ、意味がはっきりと理解出来るではないか。
通り抜け無用 で 通り抜けが知れ 通り抜け禁止という立て札のおかげで通り抜けられることが分かった。つまり僕が散歩中に発見した抜け道と同じことだ。

もちろん正解である。僕が楽曲のアーティキュレーション、フレーズ、リズムの相互の関係に気付いたのはそれより少し後だったと思われる。両者は似通ってもいる。とは言え、これは後づけの知恵である。


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Youtube

2015年05月20日 | 音楽
最近床についてからYou Tubeで演奏を検索することが増えてしまった。言うまでもなく感心した方法ではない。

それはさておき、改めて昔の歌手が優秀だったと痛感する。美しい声であるのはもちろんだが、何より層が厚い。僕は昔の歌手を知っている方だとは思うのだが、聞いたことのない名前の演奏を聴き、優秀さに驚くことが多いのである。

付け加えておく。よく知った方だと書いたが、所謂音楽ファンからすると赤ん坊のようなものだ。あくまでピアノ弾きとしては昔の歌手に親しんでいると言うのが正確。

へえ、知らない歌手だが良いなぁ、と思って検索をかけるでしょう、すると「その道のプロ」たちが微に入り細にわたって論評している。なんだ、お前はこの人を知らなかったのかい、と言われそうだ。論評が当を得たものかは別さ。

シュヴァルツコップが「今だって才能のある人はいるのでしょうが、昔と一番違うのは、今日では最初からもっと豊かな声量で歌うことを要求されること。それによって声を成長させることができなくなる。自分の声も決して大きな声なのではなく、よく透る声なのだ」と語っていたが、まさにその通りだ。これはピアノにも当てはまる。

オーケストラを圧倒する音量、なんて寝言が評論家の言葉として通用するんだからな。寝言では可愛すぎるな。論評自体がわめき散らしたような感じだと僕は思う。あなたが女性だとして、汚い声で「あなたはきれいですねぇ」とわめかれたら嬉しいですか?

脱線してきたからここまでにする。サムネイルがモノクロを選んで行くと良い歌手に行き当たる確率は高くなる。こんないい加減な方法もある。

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ショスタコーヴィチを巡って

2015年05月15日 | 音楽
レッスンでショスタコーヴィチを見る。この人の作品は好きである。ソビエトの 作曲家というよりロシアの作曲家と言いたい。

その昔自伝が出た時、大変話題になったのを覚えている人も多いだろう。何と言ってもソビエト当局から作風を変えるよう指導があったりしたのだから人も注目したのである。

しかし人が躓くのはまさにその点であ る。自動的に、彼の作品は彼の意思を反 映していないという感想を伴ってしまう。

人の表現への意思が当局によって制限されることは、当然ながらあってはならない。ただ、それは作品と本質的には無関係なのである。

ハイドンはエステルハーツィの注文に応じて作曲したが、では彼の作品は真実味の欠けた作品とみなされるか?

彼がもっと自由に作曲出来たならばもっと「本物の」作品を創り上げただろうか?誰も分からない。違った作品が出来上がったのはもちろんだが、それはそれだけのことだ。

自由という言葉は弱い精神には妖しい魅力があるように映るのだろうか?

ハイドンにせよ、ショスタコーヴィチにせよ、彼らの意思に反する制約の中で自由に作曲しているのだ。

少し考えてみても、あらゆる形式は一種の制約だとみなせる。

僕は当局の介入を肯定している訳ではない。断るまでもないが、必ず誤解するおっちょこちょいが一定数いるので念を押しておく。
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歳を取れば取るほど

2015年05月11日 | その他
作品と作者の関係くらい不思議なものはない。

僕たちは立派な作品を見聞きすると、自然に作者の人格まで立派だと信じてしまい易い。

いや、信じたりはしないという人はいる。それらの人は逆に、君子の隠された弱点を見つけて喜ぶ傾向にある。作者と作品の関係について考え抜いた訳ではないという点では、人格まで信じてしまう人と大して変わらない。

例えば僕は生徒諸君よりずっとエレガントに弾ける。処が当の本人は(僕のことさ)エレガントとはまったく縁のない男だ。生徒諸君は僕に比べてどれだけ上品なことか。

これは一体どう説明できるだろう。

では演奏は本人とまったく無関係だろうか?無関係だと断じるのはためらわれるだろう。これも常識的にそう感じる。

適当な辻褄合わせの理屈は不要だ。例えば僕の裡の何処かにはエレガントな要素があるからだ、とか。このような説明はいかにももっともらしいが、もっともらしいだけだ。

この難問は歳を取れば取るほど、解くことのできない不思議さとして目の前に現れるようになった。

いったい作品(演奏でも同じだと思って良い)と作者(演奏家)の関係は何だろう?

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5月の講座

2015年05月06日 | 音楽
5月31日(日)14:30 (14:00開場)KMアートホール(京王新線・幡ヶ谷)

今回は古典派について、改めて話しておきたい。ほとんどの音大では1、2年時の試験に古典派を課題にしています。なぜだろう?色々理由はあるのだろうが、僕には単なるルーティンにしか思えない。せいぜい古典派は基礎だから、くらいの見解しか聞こえないと思います。もう一歩、では基礎とは何か?と訊ねたらどうなるのか。

それに対するもっともらしい答えはいくらでも出せるでしょうが、学生諸君の古典派への愛着の低さから推察するに、その「基礎」とやらは、なんと言うか、えらく硬直したものではないか。そう思わざるを得ない。

様式だの、形式だのを簡単に言うことへの不信を、本ブログでは繰り返し強調していますが、それに関しての実際だと思って下さい。

古典派に縁遠さを感じること自体は、如何ともし難い。しかし無理解、誤解で若い世代から古典派を奪ってしまう結果になっているのを見るにつけ、僕なりの意見を言っておきたいと思います。

ハイドンのHob.16No.50(ハ長調ソナタ)、モーツァルトのファンタジー(ニ短調)を主に取り上げます。
演奏:内田瑞穂(東京音大3年)

一方的に意見の開陳をするのは面白くありません。会場での質問のほか、匿名で構いませんから用件を「質問」としてtamiai12345@gmail.comへお寄せください。できるかぎり講座の中で言及したいと思います。

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ブランド好き

2015年05月04日 | スポーツ


各国にサッカーのリーグがあるけれど、その実力はずいぶん開きがある。

ただしリーグの実力と人気、就中日本での人気は必ずしも一致しない。

面白いのは、日本人選手の場合、プロである選手自身までもが、我々一般人と同じような目線で各国リーグを見ているように思われることだ。

ヨーロッパの一流リーグは幾つか挙げられるが、不思議なことにドイツリーグの不人気(我が国のね)は際立っている。

日本人選手が一番多くいるリーグでもあるのだが、どうも選手たちもファンも、他の有名チーム乃至有名リーグへのステップとしてしか考えていないようだ。

例えば香川選手である。香川選手はドイツリーグで活躍し、プレミアリーグに移籍したものの鳴かず飛ばずだった。

最終的には元いたドイツのチームにもどったのだが、かつてフィットしたチームとはメンバーも替わり、それよりも何より、香川選手自身が焦りからか以前のようなパフォーマンスを見せられなくなってしまった。

そのようなことはスポーツに於いてはままあることではある。しかしイングランドにこだわり続けた際のコメントから、彼はイングランドにステップアップしたのであり、再びドイツリーグに戻るのは後退だと感じていたのではないかと僕は思う。

日本で人気のリーグといえば、かつてはイタリア・セリエAであり、最近ではスペインリーグである。

イングランドリーグは老舗リーグとして、ほぼ安定した高い人気を保っているようだ。

それに反してドイツリーグはかつての黄金期でも、前述のように、まったくといってよいほど人気がなかった。

人気というものは水ものだから、それは構わない。

しかし当の選手にとっては、自分が活かされるかどうか、それが全てだ。自ずとファンとは違った捉え方をする必要がある。

強い選手ならば、自分がリーグのステータスを上げてやる、位の野心を持つのではないだろうか。

中堅や下位チームに在籍する選手ならともかく、香川選手のチームは当時全ヨーロッパでもトップ争いをする強豪と目されていた。

同じドイツリーグのライバルチームは強豪中の強豪だったし、日本でのドイツリーグの不人気を除いて、彼が移籍を希望する理由が僕には分からなかった。

さて、移籍先で殆ど活躍する余地がないという状況に置かれた時、新たに自分を必要とするチームを探すことは後退でも何でもない、プロ選手ならば当然の身の振り方だと思うのだが、それをしなかった。

当時出番がない状況について質問が集中したが、その都度、今の苦しさが成長に繋がる、そうでなければならない、そんな意味合いの答えをするのが常だった。

こうした答えの背後には、選んだリーグで成功しなければ自分の成長はないのだ、という思い込みがないだろうか。

僕が、日本人選手はファンと同じ目線で人気リーグに憧れているようだと感じるのはそんなことからだ。要するにサッカーがやたらに上手な素人。

自分がリーグのステータスを上げてやるという野心。これはもちろん殆ど不可能に近い野心だ。でも基本にその態度が無ければいつになってもハイレベルアマチュアから脱しないだろう。せめて自分を使いこなせない監督の許ではやっていられない、求めてくれるところに移ろう、くらいは思ってもらいたい。

若手、新人、日本ではベテランが衰えるまではそういうレッテルと共に扱われる。でもね、ちょっと他の国を見てご覧よ、若手でもすでに中心選手として振舞う。いつでも年長者に負けずに、ことによったら自分の方が力量があるのではないか、と虎視眈々としているのが分かる。

この様なところも、日本人選手からフォワードが出ない原因のひとつだと僕は思っている。
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