季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

作曲家の意図 補足

2014年04月29日 | 音楽
作曲家の意図について書いたが、伊藤さんのコメントに対して、というかそれに関して少し補足しておきたい。

そもそも作曲家の意図とは何か?あるようで無いものだとも言えよう。

伊藤さんの言うように、リストやショパンは自分の曲の「意図」ははっきりしていたはずだ。

しかし、作曲家以外の人でも「意図」をすぐさま理解することはできる。ブラームスがリストを訪ねた折、リストは複数の曲を初見で弾きブラームスは驚いたという。

何も天才の例を挙げるまでもない。初見で弾き切ることはさておけば、こうした意味で「意図」をすぐさま理解することは別段難しいことではない。

ところでここに面白い問題がある。リストやショパンがピアノの名手であったとして、そして自作を演奏した時でも、弾くたびに同じ表情であったはずもない。では作品はその都度違う意図なり姿なりを見せたと言わねばならないか?

こう書いてみれば作曲家の意図、意図とうわ言のように唱える空気に僕は少々嫌気がさしていると解ってもらえるだろうか。

演奏における音は飴細工の飴のようなものだ。固まってしまった飴から細工は出来ない。意図意図と騒ぐ人は出来上がった形が不変なものと勘違いしてやしないだろうか。

ショパンやリストの演奏は残念ながら残っていない。ではラフマニノフは?ラフマニノフは名人ではないか。彼の自作の演奏は幸いどっさりある。

で、その演奏は拍子抜けするほどあっさりしたものだ。少なくとも今日のラフマニノフに慣れた耳には。正直な?人たちはラフマニノフは下手だ、と宣う有様なのである。

そうした人たちには苦笑するしかあるまい。だがそれはまた別の問題だろう。

伊藤さんはさらに、

解釈は多様であるし、そうならざるを得ない。作曲家の想像だにしなかった演奏というものもあるのではないでしょうか。それは作曲家の意図を外れていると言えるのかもしれません。しかしまた、作曲家は演奏家による解釈の自由を初めから許容していることもありそうな気もしますが、

という。これはまったくその通りだと思う。許容するというよりも、そうなる以外ない。作曲家ですらいざ自分が演奏するや否や、他者として接する以外ないのだから。

作品の意図、姿というものが無いのではなく、その言葉が(なんとなく)示しているように思われる確固とした固定したものではないのだと解って貰えれば良い。

サッカーとセルジオ越後さん

2014年04月18日 | その他
セルジオ越後さんを嫌う人は多いようだ。曰く「選手が一所懸命やっているのにあんなに批判するのは可哀想だ」「何でも否定的だ」

そう、彼を知っている人は思い当たる。いつもの辛口かあ、あれじゃあね、無理もないよと。でも知らない人のためにちょっと紹介しておく。

名前からも知れるように、日系2世のブラジル人である。ブラジルで一番強かった(今も強い)フラミンゴというサッカーチームでレギュラーを張っていた。当時は今日と違い、主だった選手がヨーロッパのチームに籍を置くことは盛んではなかった。そのときにレギュラーだったといえばその力量も知れるだろう。

と、選手としての実績を紹介したが、そもそもそれは必要だろうか?選手として一流だったから意見が正しい訳ではない。

ヨーロッパのスポーツ中継や記事が日本のそれと決定的に違うのは、たとえ自分が選手でなくても、よく鍛えられた観戦眼を自分の責任において伝えるアナウンサーやライターが沢山いることだ。

試合が終わる。次の日には各紙に選評が載るのは日本と同じだが、全ての選手が採点の対象になる。監督の采配まできちんと点が付く。

スポーツ担当の記者はそこまで目が肥えていなければ務まらない。時には各紙まちまちの点数だったりする。記者はよほど腹を据えていなければならないだろう。したり顔は許されない。選手を採点する自分達もまた採点されるのだ。

さて横道に逸れたがセルジオ越後さんは引退後子供たちにサッカーを教える活動をずっと継続してきた。

その上で、辛口という世評に対していう。子供たちにもっと上手くなれと言い続けた結果、上手になった。これからもっと上手くなれということは辛口ではない、愛情だ、と。

その通りだ。僕の駄文で関心を持った人は「セルジオ越後のサッカー人生」や「セルジオ越後 さわやかサッカー教室」で検索してみたら如何?

作曲家の意図

2014年04月12日 | 音楽
演奏家は作曲家の意図を汲み取ろうと務める。これほど分かりやすいことはあるまい。

ここにヒンデミットが自作の「ウェーバーの主題による交響的変容」を指揮した録音がある。

同じ曲をフルトヴェングラーが同じベルリンフィルを指揮した録音もある。

両者を比べると面白い。ヒンデミットの演奏は終始明快だ。他の曲をプローべしている映像を見たことがあるが、まぁ頭の回転の速いこと速いこと。途中で止めて矢継ぎ早に欠点を指摘する。

フルトヴェングラーは冒頭がやや重いが、次第に音の質と流れが一体となって行く。

3楽章になるとヒンデミットがオーケストラを、というかオーケストラの音を扱いかねているのが判る。ゆっくりした音の流れが窮屈なのである。

フルトヴェングラーはほぼヒンデミットと同じテンポを選んでいるにも拘らず、音に奥行きと空間が与えられる。


では最初に戻って、作曲家の意図とは何だろう?古くて新しい難問を思い出してしまう。当たり前に思うことすらできないではないか。

序でにもうひとつ、関連する難問を出しておこうか。

作曲家は自身の作品が演奏された「姿」を知っているのか?

タッチを科学する?

2014年04月09日 | 音楽
タッチによってピアノの音は変わるか?こうした検証が科学畑の人によってなされている。

でもこれは問題の提出方法がまずいと僕は思う。

違って聴こえることを疑う処から始める、これは科学の常道だから当然だが、タッチという概念が曖昧に過ぎる。というよりもタッチと通常言われているのは疑う余地がないのだろうか、と疑っていない。

結論だけ言ってしまおうか。タッチというのがアフタータッチを身体が知っていることだという理解、これだけは共有しておかなければならない。そしてそれに基けばタッチによって音が変わるか否かという問自体が成り立たない。

つまりタッチという概念を問わないで疑うのが科学的ではないと言わざるを得ない。

僕は科学的にアプローチをしなければと主張しているのではない。

単に、科学畑の人が中途半端な疑念或いは興味で研究してしまうのはピアノ畑の人を混乱させるだけではないか、と言いたいのである。以前にも書いたが、ピアノ関係者の科学への畏れ、ピアノへの自信のなさは大きいのである。


シーシェパード

2014年04月06日 | Weblog
以前、日本の調査捕鯨船とシーシェパードの船が衝突した。

僕はシェパードが大好きだが、シーシェパードは嫌いである。ドイツ語でHund は犬、それにSee(海)を付けるとアザラシになる(Seehund)。ところがシェパードに「海」が付いたら海賊になる。シェパード好きとしては耐え切れないな。

これは名目上は環境保護団体になるのか?立派な目標を掲げているところほどアグレッシブになりうる、というパラドックスの恰好の見本である。人間は団体になればその行方を知らない。そういう動物らしい。

でも調査捕鯨が禁止されるとまるでシーシェパードに理があるように見えてしまうのは嫌だね。

捕鯨の是非のような議論は僕にはよく分からない。僕が頭数を調べたわけではないからね。分かっていることは、人間も他の生命を捉えて生きながらえているということだけだ。

フォアグラは残酷ではないのか?そもそも残酷ではない食があるのか?

そのテーマは決して突き詰めて考えられていない。と言うか考える必要はない。もっと正確に言うと、考えていったら宗教家になるか生きるのをやめるかしかあるまい。

誰もが曖昧なままで生きるしかない。曖昧という言葉が適切でなければ一種のバランスの問題だといっても良い。こんなことは誰でも知っていることだ。僕が言うまでもない。

世界中(誰もがと言っても良い)自分たちの価値観で押し通そうとしている現実を知っておくだけで良いはずだ。腰が引けたり、無理に正当化しようとしないことだ。

ところで僕は調査捕鯨という名称にひっかかるのだが。どういった経緯でこのような名称に落ち着いたか知らないけれど、いかにも日本的な感じがする。

調査とは何を調査するのだろう?だって売って料理屋で食べているではないか。現に鯨漁の地元の人がインタビューに答えて「細々とで良いから調査捕鯨が続いて貰いたい」と言っていた。

僕は笑うけれどね。でも、何か文句を付けられるのを恐れて曖昧な名前を付ける、そんな感じだ。鯨、食べませんよ、調査のためですよ。え?獲った鯨を 保管する場所がない?仕方ないなぁ、お客さんの胃袋に保管して貰いましょう。

命名の経緯は知らないから、あくまで空想だが。主張をきちんとする代わりにボンヤリとした言い回しにして議論することを避ける。そんな感じがあって嫌だなぁ。

サービス残業、援助交際等々いくらでもある。











紋切り型

2014年04月03日 | その他
紋切り型は詰まらない。ある時には滑稽ですらある。

例えば映画やテレビ番組の吹替えでもそれは見つかる。

一見して労働者と分かる男が出ている。すると「俺はあんたに言っておきてぇことがある。ここはあんたの国じゃあ ねぇってことよ」

こんな具合。吹き替えの背後から切れ切れに聞こえるオリジナルな声はごくごく普通の口調なのにね。

スーパーカーのオークションを紹介する番組ではどこから見ても金満長者が出る。すると声優は声を低く低くして、その上にあくびをして喉が開いた時のような声で「いやージョン、久しぶりだな、元気かね、私はこの車がいたく気に入ってな、ペラペラペラペラ」

ここでも背後の声はいたって穏やかに喋っている。

映画の悪役だとやはりこれ以上低く出来ない声で、今度はあくびの代わりに押し殺したトーンにする。

背後の声は低い場合もあるが甲高いこともある。

僕は映画やドラマを見ないのではっきりとは知らないけれど、日本の悪役はまず低声なのではないかしらん。ところが日本人は生まれながらの低い声はとても少ないから、無理に低くしている感がつきまとう。

家に帰ってもああやっているのだろうか、と人ごとながら気の毒でも滑稽でもある。

「あああ、明日の朝は早起きなんだ、辛いなぁ」とか「お腹がペコペコだよ、何か食べる物無いかな?」といった日常会話をあんな声で言っているのだろうか?疲れるだろうなぁ、と同情してしまう。

悪役はいつでもどこでもバス、バリトンが担うのはオペラだってそうだが。でもオペラは様式美の世界だからリアリティが問われているのではない。現実の世界に「俺はお前に復讐する」なんて歌う奴はいないからね。

「あいつを消せ」とキンキン声で言ったところを想像して御覧なさい。かえってゾッとしませんか?

多くの人がそう感じるからこそ、洋画は吹き替えよりも字幕の方が好まれるのだろう。

ましてやニュースやドキュメントなどでこの手の紋切り型が見られると鼻白む。鼻白むだけならまだ良い、もしかしたら不必要なイメージを僕らに押し付けるのかもしれない。