季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

調律師に同情する

2021年08月10日 | 音楽
海外で活躍する調律師の方が動画を投稿している。大変だったクレーム三選という内容だったのでつい見てしまった。

ひとつ紹介しておきたい。

このピアノは綺麗すぎる、というクレーム。
この調律師は褒められたのかと思いきやクレームであった。

その理由は美しさを引き立てるためには美しい音ばかりではダメで汚い音があってこそ際立つのだという。

僕はこのような理屈にどんな顔で接したら良いのか分からない。

仮に汚い音が必要ならば自分で出せよ、と吐き出してしまいそうだ。いつもの通りにすれば良いだけではないか、などと口走ってしまうかもしれない。

必要とあらばどんな音も出せるのがピアニストの技量なのだ。もっともそれと汚い音が必要だと言うのとは違うことだが。

分かりやすく言ってみると、ここぞというところで美声を聴かせるためにその他のところでは僕たちのどら声が必要だとは決してなるまいということだ。

調律師は、料理でも肉ばかりではダメでそれを引き立てるために様々な献立を用意してあるのと同じなのでしょうと解説していた。

それは正しい比喩にはならないのである。肉を引き立てるためには他の献立が必要なのは正しい。大好きな豆腐を堪能できる、と八品注文して辟易したことは書いた事がある。

しかしスープにせよオードブルにせよ、腕によりをかけて作るのである。どこの誰がお湯を注ぐだけのスープや売れ残りのおかずを出すのだ。

美味しさをもっと味わって頂くためにまず不味い料理をお召し上がりください、なんて店があるとでも思うのだろうか。

そんなわけでさんざん苦労を重ねて件のピアニストからOKが出たのだという。

この調律師はピアニストの注文をもっともなことだと理解したらしい。何という素直さだろうと僕は思う。こうした話を聞くと僕は調律師の方たちに心からの同情を禁じ得ない。

件のピアニストは、誓っても良いが、なんだかんだ理屈めいたことを言っただけなのである。

投稿主はピアニストに敬意を払い自らの未熟さを痛感したと言っているけれど。

ピアニストならば誰しもが楽器に対しての要求を持っている。それに応えなければならないのが調律師なのである。

しかし要求や希望だけなら誰でもが持ち得るというのも本当ではないか。トヨタのプリウスにフェラーリの加速性を要求しても馬鹿にされるだけだ。

働かずに年収二千万円は欲しいものだと希望しても同調する人がむやみに増えるだけだ。

美しい音のために汚い音が必要だと宣ったピアニストはどんなに頑張ったところで美しい音は出せない。調律師は表向きは従いながら、この時ばかりは自分の職業に恨めしさを持つ。そんなことしか出来やしない。徒にへりくだる必要はない。

書いているうちにあと二つのクレームも書いておく気が湧いた。溜め込むことはよろしくないという証左かもしれない。