季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

三善晃のメソッド

2009年08月07日 | 音楽
作曲家三善晃について深く書く用意はない。語れるほど勉強したわけではないから。いくつかのピアノ曲、合唱曲等を通じて、たいへん器用な人だという印象を持っている。世評のような天才とは思わない。というか、いかに有能な人でも周りに恵まれなければ成長するのは難しいとつくづく思わされる人だ。

それは無責任な評、僕だけが合点する印象評(この胡散臭い言葉については少し前の吉田秀和さんに触れた文を参照してもらおう)の見本かも知れないと断って、さて本題に入る。

この人は音楽教育に真剣に取り組んでいる。数年前に自身の初心者向け作品集を出した。三善メソッドと呼ばれるらしい。作曲家三善晃について書く用意はないと言いながら、結局書いているが。

ずっと以前にテレビの幼児向け番組に登場して、子供たちに音楽教育を施している姿を見たこともある。

そのとき大変痛ましい思いがしたのを忘れない。

この人は音楽について、何か大切なものを感じている。しかしそれが何かを知らない。また、現代では音楽にとって大切なものが失われつつある、という危機感を持っているらしい。

不器用に子供に語りかける姿を見ながら、そんな感想が勝手に出てくるのを抑えられなかった。

ただ、子供に接するにはこちらが構えていてはいけない。三善さんは元来は子供が苦手だろう、僕はまた、そんなことも思った。

一所懸命打ち解けようとすればするほど彼の不器用さだけが目立つのだ。それも彼が音楽に対して誠意とある種の危機感を持つところから来るのだから気の毒ではある。

三善さんはここで話題にしたメソッド以外にも子供向けの曲集をたくさん作っていて、コンクールの課題曲になることが多い。
ここでの三善さんの作品群は一定の評価を、いやたいへん高い評価を受けている。

僕は、三善作品を評価しすぎるのはよろしくないと考える者である。相変わらず器用だ、センスが悪いわけではないな、というのが正確な感想だ。世の中の多くは素晴らしいセンスだというだろう。

しかし子供が好んで弾く曲だからといって頻繁に弾かせるのはどんなものだろうか。

少なくともそういう根本的な議論があまりなされていないのは相変わらずの日本だと思う。

そもそも、三善さんは現代の音楽事情の何に対して危機感を持っているのだろう。僕には分からないのである。

ただ、彼が作る子供向けの曲の数々から推察すると、現代の(少なくとも日本の)演奏家、殊にピアニストは表情に乏しいという気持ちを抱いているのではあるまいか。あくまで僕の推測であるが。

だから彼が作る子供向けの曲は、そうだなあ、強いて言えば形容詞のオンパレードとでも言うべきものになる。

僕が現代日本の演奏界に感じている最大の問題は、演奏家が「表現しよう」という観念の虜になっている点である。表現をしなければ、しなければと焦燥感すら持っていることにある。

三善さんはきっとそう感じてはいない。表現しようという気持ちがなくて、あるいは空想力が欠けていて、そのために無味乾燥な演奏が多いのだと思っているのではないか。

もしそうではないのならば、彼が新しいメソッドを出して、その普及に並々ならぬ意欲を示していることが理解できなくなる。

文章と同じく、音楽も形容詞が多くなりすぎて、そこに気持ちが傾中するだけになると骨抜きになる。

洒落た形容詞の見本市のような三善作品は、いわばうわべの表情を作る日本の演奏教育に油を注ぐ結果となっている。僕の意見は以上である。

三善さんがどのような耳を持っているのか知りたいと思うのは僕だけであろうか。
コメント
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