季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

センチメント

2009年07月31日 | 動物
もうかれこれ8年ばかり前のこと。

近くに東急ハンズがあり、そこにペット売り場があった。基本的に動物は好きだから、時折覗いて楽しんでいた。基本的にというのは、ワニ、ライオン、ヘビ、ダニ、ゴキブリあたりはちょっと飼えないなあ、といった意味合いだ。

ある日、なんて書くとなんだか昔話のお爺さんが出てきそうだが、お爺さんならぬ一音楽家が通りかかったとき、売り場の台の下に隠れて、黒いウサギがケージに入れられているのが眼に留まった。

値札には2万円くらいの値がついて、ピーターラビットのモデルになったドアーフという種です、とあった。今日、ウサギの値段を知ってしまった身としては、これは異常なくらい安いのだが。

店員に訊くと、もう1歳を超えているのだという。真っ黒にやせた姿を見ていたら不憫になり、つい買ってしまった。店としてはきっとお荷物だったのだろう、ゲージ付きで5,6千円だったように記憶している。要するにケージを買ったらウサギがおまけに付いてきたということだ。

店員には人気があったらしく「クロちゃん、よかったねぇ」と声をかけられた。どうやらクロちゃんと呼ばれていたらしい。性質が良いのに、なぜか買い手がいなかったのだという。確かに飼いやすい性質で助かった。考えてもいなかった動物が我が家に来て、また家計は逼迫する。なんだかやけくそになり、ウサギはポチと命名された。獣医で「ポチちゃん」と呼び出されると他の患者から失笑が漏れる。

さてそれから数ヵ月後、またしても吸い寄せられるようにペット売り場に行ってしまった。こうした心理は何だろうね。電車の中で目つきの怖い人がいると、見てはいけない、見てはいけないと思いながら、つい見てしまいたくなるでしょう、あんな感じ。

今度はほかに客も数人いて、一人の女性がドアーフの子供を買おうとしていた。僕はそれを微笑ましく見ていれば良かったはずだ。店員がやってきたが、あろうことか「この子を買わないほうが良いですよ、人になつきませんから」と言うではないか。

女性はしばらく逡巡してそのウサギを見ていた。横で見ていた僕は、店員の言うのも無理もないと思った。その子ウサギは、店員が抱き上げようとすると気が狂ったように跳ね回って逃げる。とても愛玩には適さない。

結局、買いに来た女性は、隣にいたおとなしいウサギを買って帰った。僕はつまり一部始終を見てしまったわけである。

さあ弱った。店員からまで見放されたウサギはどうなるのだろうか。僕を知らない人は知るまいが、また、知っている人も知るまいが、僕は情にもろい。スポーツの監督になっていたら大変だったろう。

あの選手を使うわけにはいかないが、そうなると首だなあ。その後の生活はどうするつもりなんだろう。ええ面倒くさい、そのまま使っちまえ。負けりゃいいんだろ、なんてことになり、首になるのは僕自身だろうね。

このときも、ええ面倒くさい、家で飼えば万事オーケーじゃないか、1匹も2匹も同じことだ、となってしまった。いまいましい。こんな調子では怖い目つきの人をひたと見つめてしまうかもしれない。この子もケージ代金の方がはるかに高い値段にまけてもらった。

今度のはポチより若くて小さかったのでプチと名づけた。普通ウサギは人に平気で抱かれるものだ。ところがプチときた日には、触ることすらできない。

それでも食欲がある。気づいたらとてつもなく太っちょのプチになってしまっていた。

近所にウサギ専門の獣医があり、それでも2匹とも病気ひとつしないからお世話になることも無いまま時が過ぎた。

ウサギは爪が伸びる。あまり長くなると傷つく危険があるため、病院で切ってもらいに行った。もしやと思い、この子達はドアーフですかと訊ねたら、若い医者はプッと吹き出すではないか。やはりそうだったのだ。ポチとプチは雑種だったのだ。丈夫なはずだ。

ポチは相変わらず性質が良い。プチは身分が保証されたとたんに性格が一変した。触らせないのは相変わらずだが、気に障ると夜中、後ろ足で床をダンダン蹴る。食事を与えようとするときだけは、もの凄い勢いで跳び付いてくる。鋭い歯で手に噛み付いてくる。怖くて餌も与えられない。ウサギの飼い方という本によると、ウサギはガラスのようにデリケートだとあるのだが、プチは神経質かもしれないがデリカシーは無い。それどころか、ウサギは猛獣だと知った。

因みにポチはオス、プチはメスだ。え、何か意味があるかって?べつに。


共通するもの

2009年07月28日 | スポーツ
病院の待合室に自転車の雑誌があった。こういうところで見かけることはあまりない雑誌だから、ことによると医師は自転車好きなのかもしれない。へたに話を振るのはやめよう。理由ですか?お察しください。

自転車といっても勿論ママチャリファンのための雑誌ではない。ママチャリに関しての記事だって探せばあるのだが。いわゆる競技用バイク、マウンテンバイクやロードバイクに関する記事がほとんどである。

ぱらぱらページを繰っていたらプロ選手がテクニックについてアドヴァイスしている記事を見つけた。自分が呼び出されるまでの短い時間だったけれど、およそのことは記憶して帰った。

こうしてみるとまだボケてはいないのかもしれない。プロの立ち読みストの面目躍如である。(そうそう、思い出したが、ブックオフってありますね。あの店では立ち読み自由なのです。先日えらく疲れたときがあって、買うまでの本ではないにしろ中断するのも残念だ。そこでしゃがんで読んでいたら注意された。しゃがんだら立ち読みではないということでした。厳密な解釈に脱帽します。皆さん、ブックオフではきちんと立って立ち読みしてください)

多くのスポーツファン同様、僕はもう自分でスポーツはしないで、もっぱら観戦である。自転車なんかは自分で乗っても良さそうなのだが、歩道を走ると叱られ、車道を走ると心ない車に煽られ、危険なことこの上ない。規則上は自転車は車道を走らなければならない。ヨーロッパの都市部で立派な自転車レーンがあるでしょう、あれは羨ましいな。

自転車も、好きな人ともなると100キロなんてへっちゃららしい。近所の男性も、ちょいと同窓会で伊豆まで、とか自転車に跨っていく。

そのレベルまで来ると、ペダリングが大きな影響を持つのだという。

ここでこの文の題名を思い出して「ははん、共通するものはペダルだな」と思った人はなかなか良い記憶力と注意力を持っている。

だが、おあいにくさま。

そう連想した人はまだまだ並みの空想力しか持たないのかもしれない、と自省したほうがよい。

長い距離をこいでいくと、少しずつの力のロスが大きな差となってくるのだという。まあこれは言われなくとも分かる。

ペダリングの良し悪しは、尻が安定するかにも影響するというのだ。ここはピアノととくに共通しない。尻が安定しないとまずいという点では、しかし共通する。

面白かったのは、尻をどうやって安定させるのか、というアドヴァイスである。

お腹をぐっと引き締めて背中というか、肩甲骨あたりを丸く保って、そこの力で体全体を押し付ける感じで、というのだ。

この感じはピアノを弾いている状態とよく似ている。と言ったところで、解説するのは至難を極めるからそれはやめておくけれど。分かる人には分かるだろうか。レッスンの場で言うと、なるほどと頷くひとがいるところをみると、分かる人もいるのでしょう。

ピアノの世界で無反省に脱力が唱えられているのを見る。これほど害のある教えもなかろう。

上記のアドヴァイスはスキーの選手でも頷くのではなかろうか。スキーはまったくしたことがないに等しい僕が請合っておく。スキーヤーが猛スピードで滑降して瘤を越えるときジャンプしますね、あのときの身体の縮め方と共通するように思われる。

ピアノを弾くときの身体のあり方とも共通する。

土屋賢二さんという哲学の先生が面白エッセイ中でピアノ演奏について書いていたな。この人は、ジャズピアノをたしなむそうだ。

ピアノ奏法でもっとも大切なのは脱力だ。完璧な脱力ができなければ弾けないそうだ。でも完璧な脱力をしたら座っていられないと思うのだが等々、もっともなことが書いてある、ピアノを弾く人たちは笑ってばかりいないで、ちょいと観察したらよいと思う。




再び吉田秀和氏

2009年07月25日 | 音楽
吉田さんの読者、それも熱心な読者は文学好きのひとが多いようである。mixiで吉田秀和を検索したところ、ちゃんとそういった集まりができている。

一通り目を通したのだが、どうも頭の悪い僕にはピンと来ない。

まず「印象批評」という堅苦しい表現が多いのが特徴かな。吉田氏のは印象批評であるけれど他の人に無い説得力がある、といった具合に。

印象批評の反義というのは言うまでもなく論理批評である。ネットの時代になって一層この論理批評が主流になったそうである。論理ならば説得させられるからだという。印象では説得させることはできないからだ。というより、見ず知らずの人に短時間で納得してもらうためには論理の方が便利、そういう次第ではないだろうか。

なるほど、そんなものか。僕はそういった面倒な議論からとうの昔に離れてしまったけれど。

ネット上で見られる多くのブログが、その内容は高度なのにもかかわらず匿名なのはそのせいなのかもしれない。説得ねえ。

説得させるには論理以外にあるまい、と言われてもそもそも説得なんて人間にできるのかな。本気でできると思っているのかな。

僕がいう音の世界だって、厳密に言えば相対的な位置しか占めていない。音楽の歴史なぞたかだか数百年ではないか。今年はメンデルスゾーンイヤーだそうだが、生誕たった200年ではないか。いつかはベルカントもなくなるやも知れず、現に今日の音楽のはるかに多くはまったく違った声で歌われている。

僕自身は説得しようなどとは思っていない。誰かに何かを説得されたと思っている人に、そんなことはありえない、もう一度心の耳を澄ませて聴いてみたまえと言うだけである。

因みにそういう態度を「反知性」というのだそうだ。反知性おおいに結構。利口な奴はひとつ知性的に振舞ったらよかろう。ついでに知性的な恋愛でもしてみればいいじゃないか。

吉田さんのが印象批評だというのは僕にはむしろ意外なのである。彼は印象を軽々しく語ることを強烈に抑えてきた人だ。印象を与える要因を探るまでは語るまいと誓ってきた人だ。

僕はそういうストイックとも呼べる姿勢は、音楽を聴く上で邪魔になることが多いことを繰り返し言うだけである。

吉田さんが、印象批評でも何でもよいけれど、何かを書けばそれに感応するひとが、こうして現に何人も現れる。それは印象批評だからでもなければ、論理批評だからでもない。ただ、吉田さんの文章がうまいからだ。

しかし、文学的にみてうまいと思われる文章も、吉田さんの場合、断定を避けて含みを持つ文体が特徴だが、耳が断定することをためらうからだ、と僕は直覚している。

彼にとって録音の時代とは実に便利な時代なのである。何度も同じ演奏を聴き、自分が感じた(と思われる)ものの「要因」を探し当てる試みを果てしなく続けていけるのだから。これは僕の断定ではない、彼自身が書いていることなのだ。

一般に、断定するものは懐が狭い。それはその通りだが、では懐は深いほど良いのか?そう反問したらどんな答えが返ってくるだろう。これは難問ではないか。

懐が深いというのは中途半端な懐疑主義ではないと誰が言い切れようか。

戦後の懐の深いインテリが僕は苦手である。吉田さんの姿が時折彼らとダブるのはなぜだろう。この難問についても、断片的にではあるが書いていきたいと思う。

この文を結論付けして終わるつもりはない。何度も書いたけれど、僕がブログを書く理由のひとつは、忘れてしまいがちな、ぼんやりした考えの切れ端を、メモ代わりに記録しておこうということだ。

読み捨てる人ばかりでも構わない。ひっかかりを持って、そこから自分で感じ、考えする人がいればなお望ましいと思うけれど。

発音

2009年07月22日 | その他
僕のところへは、音楽専攻の人ばかりが来るのではない。一般大学や、ふつうの勤めをしている人も来る。

簡単に言えば、僕は音楽が好きな人であれば、誰にでも教えることにしている。そういう人が所謂ピアニストよりもずっと音楽的なことも往々にしてある。

先日、そうした生徒の一人がやって来た。ふつうにレッスンをした後、何かの話題から、大学での英語の授業についてちょっと訊きたいことが、という。

僕を英語の達人だと見てくれたのか。さすがに目が高い。こういう人は音楽的なのだ。

しかし質問は、じつにシンプルで、僕の英語に関する知を動員するまでも無かった。人の常識で答えればそれで足りることであった。ああよかった。僕の頭の中では、えっと規則動詞の過去形はどうだっけ?などとちょっとしたパニックが引き起こされていたのだ。

質問とは次のようなものである。(急に偉そうになったでしょう、安心は尊大の父という言葉がなかったっけ、無いよな)

英語の教師がやたらに発音にやかましく、最初のうちは気にしないようにしていたが、発音が完璧でないと通じないと言われ続けているうちに心配になってきた、本当でしょうか、と。

この手の質問は僕のような人間にはうってつけさ。

通じますとも。少なくとも、僕は足掛け10年ドイツ語らしきものを話して暮らしたのだ。

しかし、と僕の良心がささやく。本当に通じていたのだろうか。通じていた確かな証拠はない。逮捕もされず、家賃の滞納もなかったが、それだけのことだったのではないだろうか。それが心配の種である。もしも通じていなかったのなら、あの歳月は何だったのか。僕の青春を返してくれ。

いや、心配が昂じてすっかり弱気になってしまったようだ。

さて、件の教師の発音とは如何に?と訊ねると、典型的なジャパニーズイングリッシュだという。そんなことだろうと思った。

発音発音と多くの人が目くじらを立て、ついに小学校にまで英語が導入されたが、それを主張する人たちはもっと世の中を見渡せばよい。

F1の中継やサッカーの中継なら、目にすることくらいあると思う。どの選手も英語を話す。これが場合によっては大変聞き取りやすい。ドイツ人の話す英語はとくに聞き取りやすい。インタビュアーもブロークンな英語だったりする。

怪しげな発音だって、こうやって理解しあっているのである。発音というのは実際難しい。

僕はドイツで、ある世界的に有名なバス歌手の子供と奥さんを教えていた。ある日、奥さんが、ある日本人のドイツ歌曲の夕べに行ったのだが、残念ながらただの一言も聞き取れなかった、と言った。

その歌手を僕は知っていた。ドイツ人と結婚して、ドイツ語に絶対的な自信を持つ人だった。そんな人のドイツ語だって聞き取れないと言うのだ。

名歌手たち、たとえばピーター・ピアーズやキャスリーン・フェリアのような素晴らしい歌手のドイツリートを聴いても、言葉の発音だけはやや違うのが僕にも分かる。ニコライ・ゲッダなどはドイツに住んでいたし、たしか7,8カ国語を喋ったはずだが、それでもドイツリートでの発音は外国人のそれだった。

先日、ツール・ド・スイスという自転車レースで、スイス人選手が勝った。しかし勝利インタビューでのその選手のスイス訛りは、訛りが強いことで知られるスイスでも、未だかつて聞いたことがない、目を白黒させるものだった。

実況していたのは、日本人とドイツ人のハーフで、言うまでもなくドイツ語は完璧なのだ。その彼が「必死に単語を聞き取ろうと努めたけれど、とうとう一言も分かりませんでした」と笑っていた。まあ、発音なんて気にしなくとも理解される、という話が逆になってしまったが。

このように実例を挙げれば、発音にまつわる面白い話題がいくつでも転がっている。

そのような難しいことを学生に課す、それに意味があるとは思えない。使えるものを使えない心理にするだけではないか。

まず言いたいことを言ってみる。外国語の会話に関してはそれで充分だ。

ほんじゃいけねえというんけえ。


フルトヴェングラーかカラヤンか (別の2)

2009年07月18日 | 音楽
「証言:フルトヴェングラーかカラヤンか」という本について、書ききれなかったので少々補足しておきたい。

古くからの楽員の一人はカラヤンについて「ボス」であったと言っている。結構雰囲気は伝わってくるけれどね、僕はこういった言い草は好まない。

同じ楽員がオーケストラというのは娼婦と同じだ、指揮者を喜ばせるためにあらゆることをする、と言う。ここで僕はまたしても、この手の勇気のない男はどこにでもいるよなあ、と思う。ベルリンフィルだけが例外ではないものなあ。

このような自虐的な見方は別段新しくもなんともない。それなのに(最近はこういう場合「なのに」と書くでしょう、新聞雑誌で。嫌だね)著者は「オーケストラ娼婦説!驚きました」と追従する。いまさら驚く方に僕は驚く。ここいら辺が、僕がこの本にまったく感心しない理由なのだ。この驚きは半ば承知の上で、形ばかり驚いて見せたものだと感じる。

いったい著者は驚くことしかできないのか?このセリフを吐いたのはフルトヴェングラー時代の人だ。同じ口からフルトヴェングラーが忘れがたい指揮者であったと賛美の言葉を吐かれるのを聞いたはずだ。

では彼にとって賛美する理由は何だったのか、それくらいは食い下がるべきなのだ。彼の許でも自らを娼婦と見做していたのかと。それともオーケストラ=娼婦というのは気の利いた警句だとでも思ったのだろうか。

少なくともテールヒェンにとってフルトヴェングラーという体験は音楽するということと同義だった。(世界のどこに「音楽する」という動詞をもつ国語があるだろう。musizierenという言葉が僕は好きである)

フルートに詰まらぬ、ほんとうに詰まらぬ曲がある。伴奏にいたってはド・ミ・ソとシ・レ・ソをスタッカートでただ弾きつづける。

僕が昔これを伴奏する羽目になったとき、こんなばかばかしい曲をばかばかしく弾いたら、自分が馬鹿になってしまうと思った。およそこれ以上できないような美しいスタッカートで弾こう、と必死で弾いた。

演奏後、ソリストが「この曲を重松さんくらい一所懸命弾いた人を知らない」と呆れられた。大げさにいえば、これが僕のフルトヴェングラー体験である。

伴奏者はオーケストラの連中同様娼婦か?そう自虐的にいうことも可能だ。ついでに演奏家なんて所詮ピエロだ、娼婦だ、不特定の聴衆を楽しませるだけだ、そこまで言ってみろ。

僕はその位置づけなんぞどうでもよい。ピエロかもしれない。娼婦かもしれない。では真剣にピエロを演じろ、娼婦を演じろ。

片一方でエリートの矜持をちらつかせながら、オーケストラの楽員は所詮娼婦です、なんて口の片方で笑うような奴は好かない。

この楽員にとってフルトヴェングラーはただ、偉い人(らしい人)と一緒に仕事をした、セピア色の記憶でしかない。テールヒェンのような「自己」に迫る体験ではなかった。

人の資質は様々だから、それを咎めたところで意味を成さない。件の楽員はセピア色の記憶の中で生きているが良い。しかし、一冊の本を上梓しようとする物書きは、自分がなにを、何のために書こうとするのか自覚くらいするものだ。

せっかく色々な団員と接触して話を聞いたところで、うわさ話をかき集めることしかできないのは、この場面によく現れている。

すでに書いたように、著者は心情的にテールヒェンに好意を感じている。しかしそれすらあくまで雰囲気でしかない。自分の感じた好意を信じる力もない。だから空しく幾人も訪ねては公平を装うことしかできない。

この本がじつにぼんやりとした印象しかもたらさないのは当然である。書評のごときは、野次馬はうわさ話を求めるものだから、取るに足りぬと言うしかない。


フルトヴェングラーかカラヤンか (別)

2009年07月16日 | 音楽
「フルトヴェングラーかカラヤンか」というタイトルで書いていたら、偶然知人から「証言」フルトヴェングラーかカラヤンかというタイトルの本を貸してもらった。(別)なんて書かなければならないのはそういう事情だ。

しかし紛らわしい題をつける人だね。今急いで「新証言」フルトヴェングラーかカラヤンか、という本を書きたいものだ。売れそうな気がする。

で一読したが詰まらなかった。

以下理由を述べておく。

これはかつてのベルリンフィルのメンバー11人に対して行ったインタビューを元にした本だ。

フルトヴェングラー時代からの楽員もいれば彼の死後入った、つまりカラヤン時代の楽員もいる。

著者は典型的なマスメディア向きのライターだと思った。彼女は何の意図があってこの本を出したのか。それが僕には伝わらない。

念頭にテールヒェンの本があることは間違いないだろう。現に幾人かの楽員はテールヒェンの本に対して不快感を示している。

著者は、僕の判読した限りにおいて、フルトヴェングラーに、また彼について語るテールヒェンに親近感を持っている。テールヒェンをまず一番先に訪問し、彼の許を辞する際には、ぜひもう一度訪ねてもっと詳しく話を聞こうと願い、実際にそうしているのだから。

その上でできる限り色々な団員から公平に意見を聞こうと著者は努める。

ここで一番問題になるのは、公平というのはいったい何に対してであるかということ、およびこういうテーマにおいて公平な態度というものがあり得るのか、またその必要があるのか、ということだ。

楽員とて一枚岩ではありえないから、当然色々な意見があり得る。そこでさまざまな意見を集めていけばより公平になる、そのような気がしてくるのだろうか。

それは一見もっともらしく見えて、実際にはかなり危なっかしい態度である。まず、著者がフルトヴェングラーとカラヤンを選んだのは偶然ではなく、そこにすでに彼女の主観が入っているということ。

またテールヒェンを選んで訪ねているのも同様である。

その辺をしっかり考えないから、まるでアリバイ工作のように他の楽員も訪ねてみる羽目になる。マスコミがよくやる手口である。

こうした本が「客観的」になることはあるのだろうか。そんなはずがない。できることがあるとすれば、徹底した無私の精神による、徹底した主観だろう。主観の何をそんなに恐れるのか。主観の徹底を恐れるのは現代の病気だ。

なるほど、世の中には我田引水が溢れている。だからといって臆病にパッチワークよろしくさまざまな意見を取り集めても、出来上がるものはせいぜい世の中にはいろんな人がいる、という身もふたもない結論だ。

その人の主観が無私の精神に貫かれているか、それともただの独りよがりか、それは作品や行動が示しているはずではないか。

ところでこのレポートのレビューは、僕の意見とはまったく反対に概ね好評で、むしろ次のような反応に代表される。「テールヒェンの本は彼が一方的に自分の思いをぶち撒けた本だったが、この本は公平だ」こうした反応は僕がネット上で見つけたものである。

残念ながらこのレビューを書いた人は読書のコツを知らないと僕は思う。テールヒェンの本から僕が読み取るのは、音楽に対して謙虚であろうとする態度、同時に人は自分を認められたいと言う(正当な)野心から完全に自由にはなりきれない、という苦い思い、またそれを咎めず包み込む暖かい心だ。それを読み取れずに思いのたけをぶちまけた、などと下品な表現を使用する。それがその人すべてを語ってしまう。

さて、困ったことにまだ終わらない。続きは別2にしましょう。

東方見聞録補遺 ピアノコンクール

2009年07月13日 | 音楽
コンクールの審査上の提案をもうひとつしておこう。

見物!した僕の感じたままをいうけれど、いったい誰が誰にどんな点数をつけたのかを知りたい。なんだか有名なリンカーンの演説みたいになっちまったけれど。受験者の、受験者による、受験者のためのコンクール!あれ、こいつはおかしいね。審査員の、審査員による、審査員のためのコンクール!こいつもおかしいか。でもこっちだとおかしくないような気もする。リアリズムの極のようにも感じる。

僕があるコンクールの審査に携わっていたとき、いちばんもどかしかったのは、非常に優秀だと僕には聴こえた人が落ちたときである。僕の意見を通したいというのとはちょっと違う。

コンクールなんて、人の演奏に人が点数を付けるものだ。演奏を点数で評価するのはそもそも不可能なことだ。落ちるときは落ちるし、受かるときは受かる。評価する人の顔ぶれが代われば評価自体も変る。結果について、他の審査員を莫迦やろうと思うことはあっても、不服に思うことはない。

もどかしさというのは、落ちた人がただ落胆しているように見えることだ。僕は君を評価したのだが、と声をかけたいことがよくあった。今でもそうだ。

反対に受かって意気揚々としている人に、君の演奏には大きな問題があると僕は思うよ、と一声かけたいこともないわけではない。

当時も提案し、今また再提案したいのは、全採点表を公開するということだ。いっそのことそうしてしまったら、どんなにさっぱりするか。しているコンクールもあるようだが。

点数というものは、何も語らない。あるのは当落という結果だけだ。これでは詰まらないではないか。抽象的な数字も、ちょっと扱いを変えればある程度人間らしいメッセージを込めることになる。そう思いませんか。

受かった人が、あるいは聴いていた人がその表を目にする。すると全員が高得点を与えている場合もあれば(一番よくあるのは)全員が平均的な点数だったりする。
あるいはある審査員が極めて高く評価していることもあるし、反対にある人が極端に悪い点数を与えていることだってあり得る。

落選した人の表からも同じようにして色々なことを読み取ることが可能だ。

落ちてしょんぼりするのは人情として当然だが、自分が敬意を払う審査員からは高得点を得ていたら大きな励みになろう。落とされた理由が自分は尊敬しない審査員の点数だったら、なんだ、あんな人から悪い評価でも気になるものか、と思う人も出よう。

受かっても尊敬する人からの評価が思わしくなければ、有頂天になるという弊害からはまぬがれる。

審査員にしても、より責任がある態度で採点するだろう。

この点数公開は僕が関係していたコンクールでも提案したのだが、よく訳のわからない理由で却下された。

たとえば、そんなことをしたら演奏者は点数のことばかり気にするようになる、とか。ちょいと待ってくれよ、コンクールを受ける人はみんな点数のことばかり気にするはずではないか。これは少なくとも点数を付ける人が言うセリフではないな。

これはね、受ける人が自らに、点数のことばかり気にせずに、音楽をしよう、と自戒の念を込めていう言葉だろう。

その他、時期尚早という人もいた。なんのこっちゃ。いつになったら時は満ちるのか。時が満ちるのを待たずにコンクール自体が消滅した。他にも具体的にいくつか提案したが、結局なんだかんだの理由にならぬ理由が出てきて消滅の危機感を持ったまま消滅した。間抜けを絵に描いたような話だ。僕の提案に反対があるのはちっとも構わないが、その場合、それなりの理由を挙げてくれ、と願うね。

ついでに言っておくとね、幕末の様子を描いた大仏次郎「天皇の世紀」を読むとじつに面白い。黒船が来航し、幕臣たちが右往左往し、結論を出さずに、出せずに引き籠ってその場しのぎの会議をし、フランスやイギリスの代表に子供だましみたいな言い訳をする。そしてそれを激しく非難されると、またしても城内に引き籠って会議をする。いつになっても変わらない。登場する○○衛門から裃袴と髷を取っちまったら、そのまま現代人だよ。読書しているときにはイライラせずに面白いものだ、と思うよなあ。


ツール・ド・フランス

2009年07月11日 | スポーツ
今年もツール・ド・フランスの季節になった。5月にイタリアの緑を満喫して、6月にスイスに行った気分になって、今また地中海でヴァカンスを過ごす。まあこんなに楽にその気になっていたらいかんなあ。

中華街の旨いものを写真や映像で見て食べた気持ちになることは絶対にないのに、自転車競技を見ていると行った気分にすらなるのはなぜだろう。

フィンガルの洞穴を聴くとイングランドの北方に行った気持ちになる。こうした心の動きと中華街の旨いものとの差はなにか。素朴な疑問だが、あれこれ思いは巡らせることができそうである。こういうところから考え始めるとおもしろいでしょう。

さてそれはさておき、自転車競技は日本では競輪のイメージが強すぎて少し間違った目で見られているようだが、ヨーロッパの3大スポーツといえば、サッカー、自転車のロードレース、F1に代表されるモータースポーツを指す。

モータースポーツは日本人ドライバーで有名な人が何人かいるけれど、自転車競技で世界的な選手はほとんどいない。世界的に有名どころか、最大のイベントであるツール・ド・フランスには過去たった2人しか参加していない。

最初に参加したのは名前は忘れたが、個人参加が可能だったころ、よほど変人だったのか、船で渡仏して出場したそうだ。

大会がおよそ現在の形になってからはたった1人、13年前に今中大介選手があるのみだった。今中選手は残念ながら3週間完走できず、リタイアを余儀なくされた。

それほど大きくて過酷な競技に、今年2人の日本人選手が参加している。新城選手と別府選手という。別府選手は日本のロードレース界でのエリートだったから、僕でも名前と顔は知っていた。世界の強豪チームに籍を置いたこともあり、そのうちに大きな大会でテレビに映ると楽しかろうと期待していた。

新城選手も、熱心なロードレースファンの間では知られた存在だったらしいが、熱心なファン層が限られているわが国では、高が知れている。高校ではハンドボールをやっていたそうで、福島晋一さんという選手(かな?ちょっと前までは選手だった)が見出して両親を説得してフランスのチームに(この時点ではフランスに本拠を置く日本のチームに)入ったという。

この人は選手を発掘するのが大変上手なのだそうだ。どの世界にもそういった名伯楽はいるものだなあ。

13年ぶりに、それも一度に2人も出場するのでメディアはこぞって配信している。

3週間のレースは、毎日が独立したレースにもなっていて、それをステージというのであるが、第2ステージで新城選手が何と並居る有名選手に伍して5位になった。解説者もかつての選手であったが、驚きのあまり声が出ない。アラシロー?5位?・・・こんな感じ。

さあ、その後ネットで見ると大変だ。例によって日本のメディアが馬鹿騒ぎを始めている様子だ。

今中選手の時も凄かったらしい。彼らはマイナーな競技をメジャーなものにしたい気持ちが強いから、大勢の皆さんに取材に来ていただいてありがたい、と言っている。しかし、メディアもひとつ大人にならないと、あらゆる分野で育つものも育たない。

過酷な3週間を考えると、心ない持ち上げ方をしないでもらいたい。ロードレースの何が過酷といって、ひとつ例を挙げるならば、一日9000キロカロリーを摂取しなければならないことだ。胃腸がよほど丈夫でなければやっていけないという。僕の周りには摂取するだけなら大丈夫だ、と胸を張りそうな人間が多いのであるが、普通の人にはできることではない。そんな日々に、周りで銀蝿のようにぶんぶん飛び回って顰蹙を買わぬように願いたい。

2選手の活躍を僕も大いに喜んではいるが、何といっても途轍もない大きな大会の脇役でしか、今のところないのだから。トップとタイム差が付きすぎると失格になる。落車による骨折、擦過傷、その他のアクシデントも日常である。21日間完走するだけでも大変な快挙だ。完走を祈る。

東方見聞録2 ピアノコンクール

2009年07月09日 | 音楽
コンクールの課題に練習曲を入れるのは、受験者が果たしてテクニックを有しているかを見たいからだろう。

僕にはなぜそんなに心配するのかがまず分からないね。練習曲を練習する(変な日本語だなあ)理由は、技術を身につけることにある。ということは曲を見事に弾いたとしたら技術があるということではないのか。

僕は寡聞にして、グレン・グールドのショパン練習曲を聴いたことがない。もしも聴いたことがある人は是非教えてください。聴いたことがないのにも拘らず、グールドが類まれな能力を持っていることは分かる。それともショパンの練習曲を聴くまではグールドのテクニックを信じないとでもいうのだろうか。

まあ、そこまで理屈をこねるつもりではない。ただ、理屈をこねているのは僕ではない、むしろコンクールの一次審査は練習曲と決めて、何の疑問も感じていない音楽関係者だと思う。

指が回る(これは業界用語だな、一般には指が動くという方が正しい。指が回ったらきっと折れてしまうか、その人は宇宙人である可能性がある)かどうか、それが気になるという意見をまったく無視するつもりでもない。

たとえば二次審査以降で練習曲を含むプログラムを組む、これが僕の提案である。政治家たちはよく反対のための反対はいかがなものか、代替案を提出していただきたい、とか言うね。よく言うよ、とは思うけれど、まあその通りでもあるのが癪の種だ。その点でも(僕の態度は)模範的だろう。

一次審査は古典派、ロマン派あたりで適当な長さの曲に限定する。その上で一定の時間が経過したら、止むを得ない、カットする。本来はカットするなんて芸術に対する正当な扱いではない。しかし時間の制約上練習曲がもっとも適当なのだ、という意見に対するには、この方法しかないだろう。芸術に対して失礼だ云々は、ショパンに対してなんという軽薄さだ、と感じさせるよりずっとずっとましだろう。

適当な長さの曲と僕がいう訳は、さもないと長大な曲で、終結部がむつかしい曲を提出して、わずか数分弾くだけ、といった「知能犯」が出てきかねないほど、コンクールという場は荒れているのである。なにせ、知られていない曲だったらアラも目立たぬ、という知恵を得て、現存するロシアの作曲家の楽譜を手に入れて弾く人までいる。この調子では近い将来チベットとかマヤ族の末裔とか南極の作曲家も出てきそうだ。

演奏自体の荒れ方も含めて、これは一方的に受験者が責められることではない、と僕は思う。

二次審査に普通の曲と練習曲だったら、まず二十数名の練習曲を聴けばすむ道理だし、他の曲も挟まるし、耳ははるかに落ち着いて反応できる。ショパンはなんて軽薄な男だ、などの失敬千万な言葉が出ることは少なくなるだろう。

落ち着いて考えてみればよい。指が動いて音楽はあるかないか分からぬ人をまず選別するのと、まず音楽的な人を選別して、その後指が動く人を厳選するのと、どちらが手際よく、また芸術的に選別できるかを。

指の動きを含め、技術はその人の音楽性に応じて高めることは可能だ。ところが音楽性、こんな言葉が抽象的過ぎるならば、音楽への愛着といっても良いが、これはいったん失ったらまず後々取り戻すことができない。だからこそ高校、大学あたりの過ごし方が大切なのだ。

さて最後に、練習曲ばかり聴かされて僕が発狂寸前だった、ということに対し、一般の人は全部聴こうなどという酔狂はしないのだ、と言いたい人もいるだろうから、本当のところを書いておく。

僕は審査員に対して同情と危惧の念を抱いているのだ。心ある人は、心ない演奏を聴いて発狂寸前までいくだろう。しかし自ら不感症の権化と化した人は、心痛めることはないかもしれないが、音楽を傷めるであろう。いずれにせよ、ほめられたことではあるまい。ちょっとした改変でも、それを最小限に抑えることはできる。まず一歩動いてみることを勧めたい。

題名は検索に引っかかりにくいことを考慮して今、ピアノコンクールという語を付け足した。むつかしい時代になったなあ。


東方見聞録 ピアノコンクール

2009年07月07日 | 音楽
ある大きなコンクールのひとつを聴きに行った。我ながら酔狂だとしかいえないのであるが、生徒が出たし、この際全部毒を呑んでおこうと覚悟を決めた次第だ。ノーギャラですよ、酔狂どころか、発狂だね。毒食らわば皿まで、という気分で70人近く聴いた。その感想を書いておく。この文は忘れないうちに大急ぎで書き上げよう。リアルタイムだ。タイトルは「見聞録」としか書けない。僕のうちから見ると東にある地方のコンクールだから「東方見聞録」と洒落込んでおく。

一次審査はショパンの練習曲と、その他の任意の作曲家(何人か指定してあるが)の練習曲、計2曲を弾く。

さきに発狂と書いたが、本当に発狂しそうだった。審査員たちはよく発狂しないものだ。プロだからだろうか。それともすでに発狂しているのであろうか。

ショパン、ショパン、ショパン、ショパン・・・・と70人続いて御覧なさい。しかもコンクール受けするように、とチャカチャカ速い曲ばかり続く。

しまいには、ショパンという男は何と軽薄な奴だ、と呪わしくさえ感じた。僕は発狂に関してはアマチュアだから、正直にこうやって感想を述べていられる。

発狂のプロ、若しくはすでに発狂している人たちは平然と、粛々と採点を続けるのであろうか。今にして思えば、呪わしく思ったなんて、ショパンに対して申し訳ない気持ちである。僕は所謂ショパン好きではないのだが、それでも本当に申し訳なかったと思う。

コンクールの印象については、まあどこもこんなものか、と言うに止めておこう。響きのまったくないホールで、悪い楽器で、それを当然と思っている人たちに質の高い、愛情のこもった音、音楽を期待するのは酷だろうか。

だいいち点数を付けられているという意識がないはずがないものな。

以前書いたことを繰り返さざるを得ない。今回はそれを体験したし。通販なんかでお試し期間が設けてあったり、レビューが載せてあったりする。僕の記事もその程度のものと思ってくださって結構。

一次審査で練習曲を弾かせる「常識」の馬鹿らしさについて。練習曲というのは音楽的に制限がある。もちろん作曲家はそれぞれ工夫している。だが、まず同じ音型の連続からなる。これは練習曲というのが同じ音型を駆使した曲なのだからやむを得まい。

受験者は、少しでも他の受験者よりも音楽的であることを誇示しようとする。これもまあ当然といえよう。繰り返すがコンクールだからな。私は他の人より非音楽的なんですよ、と宣伝する馬鹿もおるまい。ただ、曲は表情らしきものを付けられる箇所は限られているから、そこでいかにもやっていますよ、と言わんばかりのほとんど自動化された表情が付けられる。

ためしに市販されているショパンの練習曲集でも聴いて御覧なさい。僕が嫌いなポリーニでもアシュケナージでもいいから。素っ気ないほどだ。そして誰もそれを怪しまない。

今日、コンクールでそれと同じことをやったら、この人は音楽がわかっていない、演奏は指の運動ではない、と正論の許に一次で落とされるだろう。正論は今日日泣いている。

以前、あるピアニストが「でも、練習曲だって音楽的に弾いて欲しい」と言った。これは言うまでもない「正論」だ。しかし、その正論に従おうとした結果が、今回聴かされたような、化粧された演奏だ。

このような課題曲の出し方では、上記のごとき弊害が起こる。課題曲のせいだとは言わない。しかしもう少し工夫できないものか、と思う。(のは僕だけであろうか、と書くのがジャーナリズム内での書き方。僕だけで結構、と居直るのが僕流の書き方さ)

まず投稿してしまう。続きは後で書く。この手の文を数ヶ月経ってから読むくらい馬鹿げたものはないと思うから。