季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ダヴィッド・フリードリヒ

2009年11月06日 | 芸術
フリードリヒはドイツ・ロマン派に数えられる画家である。ハンブルクには代表作のひとつ「希望号の難破」がある。

じつは僕はこの画家があまり好きではない。ロマン派から近代にかけてのドイツ人画家は結構人気があるらしい。問題提起の作品が多いと言った方が良いだろうか。

僕にはその観念的な目の働かせ方がひどく気に障る。その真面目さが空回りしている様子が、僕を幸せにしないのだ。

フリードリヒの世界は真面目である。人物を背後から描くことが多く、鑑賞者は彼らが目の前に見ている広い世界を一緒に覗くような気持ちになる。そのように計算された画である。家の中から開いた窓を通して外の世界を見る、という構図もこの人の好むところだ。

風景はあくまでメランコリックである。乳色に広がる夕方の空。かなたに溶け込む山の稜線。不思議な地形をした山の頂に高く掲げられた十字架。

分かりにくいものはひとつもない。しかし、何という陳腐さだろう。そう思ってしまって僕はどうしても馴染めない。

それでも画集を持っているのである。時折ふと思い出しては眺めてみる。そのつど、何という陳腐さ、とつぶやく。

何年経ってもこの画家を好きになるとは思えない。ただ、じっと見ていると、先ほどまでセンチメントに見えていた乳色の空や黒々と広がる大地が、実にリアルに写し取られていることに気づく。北ドイツの潤んだような空と空気だ。

景色そのものは画家の裡に描き出されたものだろうが、ディティールは忠実な写実的なものだ。

僕がハンブルクに住み始めたころは、まだ市電が走っていた。それに乗ってピアノが置いてある学生寮まで練習に通ったものだ。

音楽学生は大概その寮まで通っていた。日本の大学の上級生、同級生と顔を合わせることも多かった。

僕がドイツに渡ったのは9月半ばで、一日ごとに日は短くなっていった。中心地から郊外へ伸びる市電の窓から見える景観は色を失い、冬が近づくと3時ころにはもう夕暮れ時の様相を帯びるのだった。北ドイツの冬は暗い。

ある日、市電の中で大学時代の同級の男とばったり出会った。27歳でようやく留学生活を始めた僕と違い、彼はもう何年もハンブルクに住んでいた。

夕暮れの中に沈みこんでいく町が流れていくのを眺めながら「おい、寂しいよなあ。日本に帰りたいよなあ」彼は僕に話しかけるというより、独り言のようにそう言った。

僕はそういった景観や空気がとても気に入っていたが、彼の気持ちはよく分かった。確かに寂しい。それでも、この空の下でブラームスは生きていたのだ。

僕はこういう空が好きである。南国の透明感も好きでしばらく暮らしてみたいとは思うが、そのうちに伸びやかな倦怠を感じてきそうだ。それに対し、押し黙って、口を利くのも大儀だ、それなのに体のどこかから力が湧き出る、そんな北ドイツに愛着を感じる。

フリードリヒの描く空を見ているとそんな北ドイツの夕暮れを思い出す。そうそう、こんなだったなあ、と思う。また暮らすような日々がくるとは思わないが、過ごす時間はぜひ持ちたいと願う。

フリードリヒはいったい失敗したのだろうか、それとも成功したのだろうか。


カンディンスキー

2009年10月21日 | 芸術
カンディンスキーの絵は好きだ。

この人は、よく知られるように、パウル・クレーとともにバウハウスで教鞭をとったりした。だからというわけではないけれど、クレーもたいへん好きな画家である。

この二人を比べて見ると、クレーがヨーロッパの(良い意味での)インテリなのに対し、カンディンスキーはいかにもロシアの人だと実感する。

この人の特徴として挙げるならまず色彩の美しさ。透明度が高いというほかない。そして、この透明な強烈さと無垢な感じは、ロシアの寺院などの形状や色彩を連想させる。

演奏の世界で、とくにオーケストラの演奏で、ロシア的厚塗りなんて聞くと、もういけない。ぞっとする。そういう言葉を使う人たちは、ロシアの異様な透明感についてすっかり忘れているのではないか。

なんだったらドストエフスキーの「罪と罰」で、ラスコオリニコフがネヴァ河の橋の上から晴れた空の下に色とりどりに輝く寺院の屋根をぼんやり眺めて、言いようのない孤独を感じる場面を考えても良い。

彼はたしか実在からぷっつりと切り離されたような疲労を覚えたはずだ。これが雲が重く垂れ込めた、いわゆる厚塗りの情景の下だったら彼の言いようのない孤独は僕たちに伝わらなかっただろう。

ロシア的厚塗りという印象は、レニングラードフィルに代表されるロシアのオーケストラを聴いて出てきた言葉だろう。

レニングラードフィルとムラヴィンスキーによるブルックナーをハンブルクで聴いた。僕はたちまち、これはロシアではない、ソ連だと悟った。

ブルックナーの交響曲は何しろ金管楽器が多用される。その出番が来るたびに朝顔が一斉に一定の角度にせり上がって、次に咆哮が来る。まるで高射砲や戦車の砲身のようだと辟易したのを思い出す。

そんな粗雑な音からはチャイコフスキーもストラヴィンスキーも出てくる余地はないと感じた。(思い出した序でに言っておけば、ギュンター・ヴァントが北西ドイツ放送管弦楽団を振ってストラヴィンスキーを演奏したのは感心した)

カンディンスキーは若いころにはロマンティックと言えるような作品を描いている。ウェブ上で見つけることができなかったのでそのうちスキャンして紹介できると良いのだが。

白い馬に一組の男女が乗って行く画である。女は横座りして少し俯いている。男はたずなを引きながら女を抱きかかえている。現代のフェミニズムの闘士が見たら猛り狂いそうな姿だ。背景には例のロシアの寺院が描かれている。ここでは何というか、ほとんど無防備といえるようなセンチメントさえ見られると言ってよい。

この画を見たときにカンディンスキーの色彩から受ける透明感の根源が理解できたように思った。

シャガールはあまり好きな画家ではないけれど、彼の画の青はずいぶん深いところまで僕たちを誘うでしょう。そう見ていくと、この人の根底にもロシア的な魂が流れている。カンディンスキーとはまるで違う人種だが、おなじ魂が流れているのを感じる。

偉大なものは滅びやすい 2

2009年09月18日 | 芸術
偉大なものは滅びやすいという小林秀雄さんの「逆説」から、音楽家のばか者について話が及んだ。それが前回の記事である。

小林さんの論文は、痛切な響きを持っていて、そこからこんなバカらしい話に及んでしまうのが悲しいのであるが、それが今日の現実ならば仕方あるまい。

ベートーヴェンの楽曲は幼稚園児でも考え付くほど単調なメロディーではないか、と学生にしたり顔で力説する音楽家がいると書いた。

音楽家だと本人はそう思っているはずだし、学生のかなりはそう信じて疑わないだろう。しかしね、宇宙人は地球人の姿をして我々の中に入り込んでいる、というのが通り相場ですよ。気をつけたほうがよい。

ただ、僕にも覚えがあるとも書いた。それだけは説明しておこう。

僕がまだ子供だったころ、長い休暇に祖父母のところへ行くのを常としていた。祖父母の家にはピアノはなかったから、裏手にある遠縁の家にお邪魔して少しだけ弾いたりしていた。

もういつのことだったか忘れたが、いずれにしても子供のころだ。5年生あたりの夏だったはずである。

ベートーヴェンのソナタ集を持って帰省していたのだが、蝉時雨のなか(その家ではピアノは広い縁側に置いてあった。農村の昔からある造りを想像してもらえればよい)練習というより、あの曲この曲と渡り歩いて楽しんでいた。

作品110の冒頭を弾いてみたとき、僕はびっくりした。なんじゃ、これは!と思った。ピアノを習っている人ならば楽譜を知っているでしょう。右手の単純なメロディーはともかく、左手の伴奏型を見てもらいたい。

序でに若い人には、当時の小学校にはピアノを弾ける教師など殆んどいなかったことを知っておいてもらいたい。音楽の時間には、仕方なく教師が伴奏を弾くのであるが、当然ながら伴奏はメロディーがどう流れていこうが常にドミソドミソで押し通すのだった。

教師も辛かったろうが僕も辛かった。

僕が始めてみる作品110の冒頭の伴奏型はまさに音楽の時間を思い出させる音型だったのである。

びっくりするというより、どう言ったらよいか、狼狽に似た感じを覚えた。ベートーヴェンは熱情ソナタなどを通じて僕が尊敬してやまない作曲家だった。それが音楽の時間の、苦痛を覚えるほどひどい伴奏と同じ伴奏を書くとは!

例えて言うならばね、絶世の美女(女性からいえば水も滴るいい男)がいたとしようか。その人を密かに見つめていたら爪楊枝でシーハシーハした、そんな感じだ。そしてこれを真面目に受け止めて「人間かくの如し」と言ったら芥川の世界になる。

僕はまだ純朴だったから、見てはならぬものを見てしまったような心地がして、楽譜を閉じた。この伴奏型は、力を溜めに溜めてメロディーが無限に広がっていくのを支えなければあっという間に学校音楽の時間まで堕してしまうことに、子供の僕は気づかなかった。

そのまま僕が歳を重ねて、純朴さを失っていったとしたら「ベートーヴェンなんざ、子供みたいな伴奏とメロディーしか書けないじゃないか」と学生に言い放つバカになっただろう。

しかし考えようによっては、ベートーヴェンの曲は良い、なぜならばベートーヴェンは偉いからである、という感じで尊敬の念を抱く人も多いから、この手のおバカさんには素直に言ったと褒めてあげても良い(ような気がしてくる)。

このようなパロディーは実生活においてしばしば見られる。友人がアメリカに行った折、テレビが(当時の)レーガン大統領の演説を映し出していた。America is great, because America is good! と言ったそうだ。

ベートーヴェンに限ったことではないのだが、彼の音楽は特に分かりやすい。「運命」にしたってソソソミーファファファレーととぼけた声で歌って御覧なさい。フィナーレをドーミーソーファミレドレドーとやって御覧なさい。この作曲家はアホか、と言いたくなります。そしてそう感じたとき、不思議や不思議、感じた当人がアホなのです。

小林さんのパテティックな調べが、こと音楽の現状を目の当たりにすると、ご覧のようなスケルツォに堕ちてしまう。

小林さんが滅びやすいと言ったのは、すでに書いたが、偉大であるが故、追従者の列ができるということであった。

音楽の基本である音は消え去るものだから、再び生き返るということも難しかろうという思いから、こんな脱線をしてみた。

偉大なものは滅びやすい

2009年09月16日 | 芸術
偉大なものは不滅である、というのが通常の人の感覚であろう。巨人軍は不滅です、というフレーズには笑わせてもらったけれど、偉大なものならば不滅とまではいかなくても、他のものよりはずっと長持ちする、というのが素直な感想だろうね。少なくともそうあってほしいと願うのが人情か。

さてここに、小林秀雄さんの言葉で(出典が確かめられぬままだが。例によってね。しかしどこかに必ずあります。疑う人は全集を見てごらん)偉大なものは滅びやすい、という一見逆説めいたのがある。

この言葉は、僕にはじつに素直に入ってくるのだが、皆さんにはどうだろう。

偉大な思想にせよ、芸術にせよ、偉大であるがゆえに必ず信奉者の列をともなう。小林さんはたしか柳田国男と柳田学派、ユングとユング学派について語っていたと思う。

柳田さんの学説は柳田という個人の鋭敏な感受性に支えられたものであるが、その「説」は感受性抜きでも受け継がれる。それどころか柳田さんの「説」を発展させたり、それによって柳田さんの説を未熟なものと見做すことさえできる。ユングの場合でも事情は同じだ。

後継者と称する人たちはこうして「偉大な」思想、作品をこねくり回す作業に陥りやすい。

小林さんが「滅びる」というのはそういうことだ。だから続けて言う。「(偉大ではないものは)滅びることすらできない」と。さらに「(時間を越えた、場合によっては国さえ違った)自分のような存在のうちにふたたびよみがることも可能なのは同じ理由によるのである」とも。

小林さんは、よく逆説的論説をする人といわれるけれど、僕はそう感じたことがない。むしろ当たり前のことを正直に言う人だと思う。文学者はよくまああんな迷い方をするなあと半ば呆れている。

僕たちが無反省に「偉大なものは不滅である」と決め込んで惰眠を貪っているときに滅びやすいというフレーズが飛び込んでくる。それに驚いた人が逆説的だと論評するのではないか。

このごろ、僕はこのことばをよく思い出す。音楽の世界では「再び甦る」ことは大変難しいだろうと思うから。つまり偉大なものは滅びやすい、までは真実であるが、ふたたびよみがることは、こと音楽においてはありえるのだろうか、という気持ちが強いのである。

造られた楽器を見るでしょう、あるメーカーのものは最近良くなった。まあ、1970年ころは、戦前からあるメーカーも、ひどいものだったことを考えると当たっていなくもない。といっても喜べるものではない。それ以前が悪すぎたのだから。戦前に造られた楽器は、どこのメーカーをとっても実に美しいのだが。

良くなった、それはどこも似通った「道具」を作るようになった、失敗作は造らなくなった、くらいの意味だ。

あるいはオーケストラで各奏者同士を「騒音」から隔離できるような防音壁の開発が待たれる、との「正論」を聞かされたり。

この「正論」はおかしい、という別の「正論」だってある。良心的にものを考える人はそちらの「正論」に傾くことが多いようだ。

それにしたところで単なる「意見」であって耳ではないから、防音壁がなくて「自然」を標榜する音の前には簡単に、これこそ本物だと認めてしまうだろう。そう思うと力が抜けてしまう。ちょうど「手作り○○」と銘打てば味や品質が保証されたような気がしてくるのに似ている。

オーケストラが現在人々が知る形態になってようやく百年ちょっとだ。しかもオーケストラがオーケストラとして機能したのはもうだいぶ昔のことになった。そうしてみると所謂クラシック音楽といわれるものは何と短命で果敢ないものか。

音大の比較的若い教師(つまり世間から見れば立派なプロだ)が、学生たちを前に「ベートーヴェンなんか、小学生並だ。有名な第九だって、ファーソララソファミレーミファファーミミなんて誰でも思いつくじゃないか」と得意然と言い放った、とその講義に出席した生徒から聞いた。

このばか者の言うことはある意味で本当のことだ。僕にも思い出がある。こんなばか者は放っておけばよいのだろうが、納得してしまう学生も多いと聞けば、そういうわけにもいかない。

ある意味で本当で、この男がどうばか者であるのか、それは後で書く。その男が本ブログを閲覧する偶然があらんことを。








絵の見方

2009年06月28日 | 芸術
絵が好きになったのは音楽よりもはるかに遅い。まず文学が僕を虜にし、ついで音楽が打ちのめし、絵はその両者のように熱狂的にはならなかった。もっとも高校時代は美術部に所属して、なんだかわけも分からずスケッチに行ったりしてはいたのだが。

僕は絵についての本をあまり読むわけではない。むしろ読まない、と言う方が正確かもしれない。

音楽評論家では、吉田秀和さんと遠山一行さんが絵についてよく書いている。遠山さんのは難しいことが多い。吉田さんのは、ここでも正確で平易な文体が目立つ。

絵についての本が難しく感じることが多いのは、僕の知識が乏しいせいとばかりはいえないと思う。赤瀬川源平さんは本職の画家でもあるのに、彼の絵についての本は実に単純明快で読みやすい。

州之内徹さんのも、難しいと感じさせない。やたら寄り道、脱線が多いのに、いつの間にか行き先に着いている。しかも分析的ではないのに人の心のひだに入り込んでいる。なんとも名人芸としかいえない。

遠山さんの絵画論は、目でみたものを観念的に納得しようとしすぎるように思う。僕が賢くなくて理解できないのかもしれないが。その奥には遠山さんの、苦い思いが見え隠れする。彼の講演を聞いたことがあるが「年老いた人の繰言になってしまうが」というニュアンスの言い回しが多かった。気持ちはよく理解したが残念だった。彼はもっと強い調子の思考を語っていたのだから。

吉田さんのは、絵のマテリアルに触れ、どの要素が彼の心を打つのかを語る。所謂構図について語ることもしばしばだ。その観察力には脱帽せざるを得ないが、ここでもこう言い直しておきたい。

彼が書くと、どの要素が心を打つのか、よりもどの要素ゆえに感心するのか、といった趣になる。吉田さんのこの性質について、出自とでも言うべきことがらを書いた文章を偶然見つけた。色々な人が自らの文章をどうやって磨き上げたかを語っている本にあった。

各界の著名人で、文章家としても知られる人たちの「私の文章修行」という本の中にあった。

それによると、と言いながらここでも再読する気はない。こうやって書くときに正確に引用するのがいやなのだ。僕が再構成したものを書かないと本当に理解したものかどうか怪しげになる気がするのである。

彼はある時に一時期離れていた相撲の魅力に取り付かれた。話は色々に発展できる要素を含んでいるけれど、ここでは吉田さんが文章の修行をするにあたり、取り組みを最初から最後までできる限り克明に書くことを実行してみた、という点だけに絞って紹介しよう。

そうやって何枚も何枚も原稿用紙を埋める修行をしてみると、自分が見たものを本当にはっきりとは書けないことに気づいた。

また、相撲解説者の言葉を聞いていると、勝負にはある絶対的な「分かれ目」というべき瞬間があって、そこから後は必然なのだと痛感した、という。

これは吉田さんが自分の「やりかた」をすべて告白した貴重な発言だ。見たとおりのものをはっきり書けない、という自覚をした、これが吉田さんの文学者としての良心である。

「分かれ目」があって、そこから先は必然なのだという観察も素直に受け取れる。彼が演奏にも同じ原理があるはずだと考えたのは自然である。

これはある意味では正しくもあるが、そんなに簡単に言えるものでもない。その点について僕はあれこれ書いてみるわけであるが、説明なぞしきれるものではないことも承知している。

そんな吉田さんの絵画論がマテリアルに触れ、構図を語り、それが見る人にどう訴えるか、という点に傾くのは当然だ。

ただ、ここでは僕は素人として、半分その通りだと思いながら、あとの半分で何か釈然としない気持ちを持つのである。

画家の安野光雅さんの本を読んでいたら、構図の問題と言うのは画家にとって当然あるのだが、一般に語られているようにはっきりとした意図で描かれているわけでもない、といったことが書かれていた。

胸の支えがおりたような気がした。


アングル

2009年06月21日 | 芸術
アングルに「泉」という名画がある。中学生のとき図書室の画集で見た記憶がある。画集に入っているくらいだから名画なのだろう。

この人は絵画史上でもセザンヌやピカソにまで影響をもたらした人だという。しかし僕にはそういう絵画史は興味がない。

昔からこの絵はなんだか薄っぺらい、安物という印象を持っていた。この人が絵について語ったいろいろ含蓄のありそうな言葉も知ってはいたが、それも僕の印象を覆す力を持つにはいたらなかった。

嫌いな芸術作品について多くを語るのは決して気持ちの良いものではないから、この際洗いざらい言ってしまっておこうか。

クラナッハ、この人がまた大嫌いである。浅薄そのものだ。ルター像や、それにもまして、アダムとイブの像が嫌いだ。総じてこの人の描く人物は表情が浅い。評価する人はどこを評価するのか。本心を知りたいと思ってしまうね。

だいたい、芸術なんてご大層な言い方は僕の実感からは遠いものである。芸術芸術と騒ぐのはやめた方が良かろう。

軽んじることを勧めているのではないよ。芸術は上等なものだという思い込みをさっぱり切り捨てたまえと言っているだけだ。

作品のいくつかにどうしようもなく惹きつけられる、抗いようもない。そうした強い思いだけで充分である。

さもないと、教養の一環として一渉り絵も見ましょう、音楽も聴きましょう、本も読みましょう。それ以外のものはお下品です、という手合いが増えるばかりだ。

芸術なんて上流階級?やインテリのお飾りではないよ。僕が高校生のころ、普通高校だったから僕も含めて勝手なことを、音楽について、絵画について、文芸について語っていた。ラヴェルの「ラ・ヴァルツ」はサロンのための音楽ではないか、取るに足りない、退嬰的なものだ、と語る友人がいた。そんな会話が一定の期間続いたように記憶する。ふと思い出した。

僕が何を語ったか、もう覚えていない。僕は音楽について理論武装なぞしていなかったから、ただ黙っていたのかもしれない。しかしこんなガキの会話の方が、知った振りのインテリよりよほどましである。もっとも卒業以来音信は途絶えたままだから、その後どういう人間になったかしらない。もしかしたら大変な理屈屋になっているかもしれない。

アングルの絵について漠然とした印象を引きずったまま、先日赤瀬川源平さんの本を読んでいたら「泉」について書かれていた。引きずったまま、と書くと何だか僕がこの「問題」について何十年にもわたって心悩ましてきたようだが、もちろんそんなことはない。嫌な絵だ、と思ったら忘れちまえばいいのだからね。

赤瀬川さんの本を読んだら偶然「泉」について書かれていて、それでかつての記憶が蘇ってきたに過ぎない。

これは僕の感じていたものを実にはっきりと言葉にしたもので、僕が何に嫌な気持ちを抱いていたのかようやく得心した。

自分が感じた事柄を言葉にしてみる、これは本当に大切にした方が良い。

この絵はちょっと正直に眺めたらピンクサロンの看板だ、というのだ。これにはさすがの僕もびっくりしたけれど、でもたいへん正直な感想だと思った。

瓶から流れ落ちる水だって、安っぽいビニール製にしか見えないではないか、とも書いている。なるほどそう言われればそうだ。画像を取り込んだから見てもらえば分かる。

少なくとも、この絵が嫌いであった僕の感じ、その正体がはっきり分かって僕は気持ちよかった。


ブリューゲル

2009年02月27日 | 芸術
僕は絵の鑑賞において本物志向が薄い人間である。昔から、絵画展で満員電車の思いをするよりは家で茶をすすりながら好きな画集を眺めているほうが好きであった。いいなあという気持ちだけは本物なのである。

できることならば美術館で見たいという気持ちくらいはあるのだ。常設展などは行く。山梨県に白樺派の人たちゆかりの清春美術館という小さな美術館がある。ここには今も木工をする人たちの工房があったりする。小さな礼拝堂がありルオーの作品が取り囲んで架けられている。そのような小さいところで見るルオーは落ち着いていてよい。

でも正直に考えれば僕の眼なぞ知れているわけだから、本物を見たところで何かが違って見えるわけではあるまい。ずっとそう思ってきた。好きな画家は画集で見たって好きだと思ってきた。それは今でもその通りだと思う。

ただひとりだけ、本物を見て好きになった、いやそれどころか心底感心してしまった例外がいる。ピーター・ブリューゲルである。この人の絵を画集の小さな写真で見ていたころは、決して好きな画家とはいえなかった。

素朴な画家たちというのが流行った時期があって、それらの画家は素人くさい描きかたで細かく人物や風景を描きこんである。素人くさくどころか、正真正銘の素人や素人に毛が生えたようなのが好まれたのではなかったか。

それらのさきがけのような印象を持ってしまってそれ以上見ようともしていなかった。ゴッホが手紙の中で何べんもブリューゲルに言及しているのは当然読んでいたのだが。農民を描いたと言われたってそれが何さ、といった感じ。農民を描けというのなら僕だって描いてやるわい。下手だけどね。下手でいいんだろう?そんな気持ちが少しあった。

初めてウィーンの美術館で期せずしてブリューゲルを見たときびっくりした。まずその色彩の美しさ。

どう言おうか。パッと遠目に見たときの印象は、どんな絵でも一種の模様でしょう。その色調が落ち着いているのに鮮やかなのだ。

僕は古いペルシャ絨毯が好きだが、それはシルクではいけない。絶対にウールでなければ深みのある色彩は出ない。

なんだかそんなことを思い出させる目触り?感だ。ルーベンスのような鮮やかな色もなく、レンブラントのようなずっしりと心に響き渡るような重みでもない。何ともいえず心地よい落ち着き。

近くに寄ってみると、また本当に細かいところまで描き込んでいて、それにもびっくりする。

最も評価の高い(と思われる)「冬」の画面左手では女たちが焚き火をしている。左上方に吹き上がる火は、火の粉の音まで聞こえてきそうだ。北風の痛さも感じるようだ。

凍った池では大勢の人がスケートを楽しんでいる。狩人たちは今ようやく日常の風景を取り戻したのだ。いったい何人が描かれているのだろう、今度数えてみよう。

数えてみるで思い出したが、カラスもたくさん描かれている。これがじつに効果的である。冷たい風や張り詰めた空気を伝えている。うまいとしか言いようがない。

葉っぱが一枚もない枯れ木(実際は枯れていないのだろうが)も画面を分ける働きをしているだけではなく、村という存在を強調しているように思える。

もうひとつ、犬好きな僕が思わず笑ってしまうのが、左手前にいる犬の群れ中一番端にいる猟犬である。しゃがんで用を足しているのだ。その背中の曲がり具合といい、首の角度といい、よく見ているというのか、犬たちと狩人の関係までが見て取れる。

ブリューゲル自身も犬が好きだったに違いない。ユーモラスで、しかも心打たれる。

モデル

2008年10月20日 | 芸術
有名モデルについて書いてみたい。

と言ったらどんな反応を示しますか?僕がお気に入りのモデルでもいるのか?最近のモデルは細すぎるとかいった感想でも書いてあるのか?僕を直接知っている人たちは急に興味津々だろう。実はね、と書いてみたいのだが、モデルなんて誰一人として知らないのだ。

ゴッホが自画像をたくさん描いているのはよく知られている。その理由は、執拗なまでに自分の姿を追求したことのほかに、モデルを雇う金が無かったからという側面がある。

ゴッホは夥しい数の手紙を弟に宛てて(友人や、妹宛てもかなりあるが、弟宛に比べるとずいぶん少ない)書いている。時々、誇らしげに「自分はその景色をもうそらで描ける(見ることなしに描ける)」と報告している。

画家は本当に対象を見て見て見尽くすのだなあ、と思わせる。

そもそもモデルは何故必要なのだろう。

ラファエロがマドンナを描こうと思い立つ。彼がまずすることは、フィレンツェの街中から、美しい女性を探し出すことであった。

これはどこかで読んだ気がするだけの話だ。間違っているかもしれないから、人に言わないほうが良いですよ。ただ、僕はそれはそうでなければならないと思うから、確かめもしないで書いてしまうけれど。

この人こそ、と定めた女性をモデルにマドンナを描く。ラファエロほどの天才が、たかが一人の美しい女性を、モデル無しで描けないのだろうか。イメージはすでにあるというのに。こうした素朴な疑問を持ってみたらどうだろう、考える糸口が見えてくる。

きれいな女性、というイメージだけが強くても、案外蜃気楼のように霞んでしまうものだ。試しにやってごらんなさい。女性は、素晴らしい偉丈夫を思い出そうと、男性は飛び切りの美人を空想しようとしてみるがよい。

結局、各自が自分がすでに知っている顔に似たイメージや、一種ぼんやりとした抽象的な姿しか思い浮かべることが出来ないことに気づく。

漫画はその点が大きく違う。漫画家は、もし美少女を描こうと思えば、自分が魅力を感じるところを強調する。細く長い足とか、パッチリした目とかね。モデルを使うまでもない、大切なのはイメージを持ち、それをなぞる技量を持つことだ。

ラファエロは見つけ出したモデルをスケッチし始める。そのとき、彼はすでにモデルの向こうに、彼の理想を見出している。仮にラファエロがモデルの美しさにぼうっとなってしまったら絵は完成を見ない。その代わり彼はモデルに惚れるわけだ。

ラファエロの絵筆は、いわばモデルというきっかけを待っていたと言っても良い。すでに書いたように、イデーだけでは駄目なのだ。

水溶液に種を入れて冷やすと結晶ができるでしょう。モデルはちょうどその種のような役割を果たすのだ。

ではきっかけを手に入れたラファエロの想像力は天馬が空を行くがごとく羽ばたくのだろうか。

これも違う。モデルさん、私はもう一人で描けるから来ないでよろしい、と言うことは彼にはできない。もしもモデルが帰ってしまって二度と現れなかったら、ラファエロの想像力(創造力でも良い)は再び現実味を失い漫画に成り果てる。

モデルと想像力は鶏と卵に似ている。途切れることのない連鎖だ。

音楽の場合、モデルは音だ。音がイデーを産むのか、イデーが音を産むのか、だれも答えられない。イデーは音を欲し、音は新たなイデーを生む。あらたなイデーは音を欲し・・とどこまでも続く。

ルネッサンス

2008年06月02日 | 芸術

ルネッサンスといえば人間性の復興。正解。暗黒の中世のあと、人間性の復興の時代が来た。いくつかのキーワードと共にポンポンと答えが出たならば、あなたは物識りの仲間入りかもしれない。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」ラファエロの「マドンナ」、ミケランジェロの「ダビデ像」、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」あたりを押さえておきなさい。

なんてね。

実際は、研究が進めば進むほど、その実態は(というか定義は)曖昧になっていくらしい。

それはそうだろう。まず、どんな時代でも、一括りにできるものではない。現代を数百年後の人たちが記述したとしよう。

「当時の人々は自由という不自由を与えられていた。その中でも最も不自由な人をスターと呼んだ。女性達は韓国からやってきたスターに群がって自分の不自由さを忘れようとした」

こんな記述だったら、天国にいるであろう現代のオバサンたちは「そうそう、そんなだったわね~」と語り合い、オジサンたちは相変わらず無視されてふくれ面をするだろう。若い女の子達は(言っておきますが、数百年後も若いという意味ではないよ)「冗談じゃない、あれはオバサン達だけのできごとだったのよ」と気勢をあげるだろう。そのうちのごく一握りが「ヨン様よりシゲ様の方がずっとましだった」と言うだろう、と思いたい。が、ちょっと待て、空想が妄想に走ってはならぬ。

ヴァレリーというフランスの詩人は、大の歴史嫌いであった。歴史家のいう歴史は泡にすぎない、というのが彼の持論であった。それは上述のことと同じことである。

さて話をルネッサンスに戻す。

人間性の復興とレッテルを貼るのが間違いだと主張するわけではないが、まさにその時、ジョルダーノ・ブルーノは異端という理由で火あぶりの刑に処せられている。レッテルによるイメージだけに頼ると、こんなギャップにうろたえることになる。

ウフィチ美術館(と書いて心配になった。日本語表記はどんななのか、定かでない。先日来たダヴィンチの「受胎告知」がある美術館です)も、普段行くと空いていた。有名なボッティチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」の前ですら人がいなかった。

僕はどうもボッティチェリという画家が好きになれない。個人的な好みであるからどうしようもない。まず、すべてに共通する眼差しがイヤだ。女も男も、とろんとした目つきだ。背景も、細かすぎてヨーロッパの陶磁器と同じで生きていない感じだし、色彩も金持ちの屋敷のソファーが色褪せたような印象を与える。

と言いながら、我が家の階段の途中には「春」の三人のヴィーナスだけを描いた版画が架かっている。

なぜボッティチェリについて書き始めたかというと、彼の「聖母像」を見たときに、ルネッサンスというものが「感覚的に」一挙に理解できたように思ったからだ。

この絵も決して好きというわけではない。ただ、聖母の唇の艶めかしさに目が釘付けになった。肉の薄い唇なのに、おそろしく肉感的なのだ。ぬめるような感触。聖母でさえ、こんなに肉感的に、エロティックに描いて差し支えなかった時代がきた、そんな理解の仕方をしたと言っておこうか。

イギリスの伝記作家(イギリスは伝記というのは立派な文学の一ジャンルを形成している)の代表はリットン・ストレイチーだが、この人の(たぶん)最後の作品に「掌の肖像画」というのがある。その中に「ルネッサンスという好色な時代」という表現があって、僕は深く納得したのであるが、それがどこにあったのか見つからない。

見つからなかったらどうしよう。僕が好色ということになるのか?これから探すことにする。


梶井基次郎と音楽

2008年05月19日 | 芸術


僕は梶井基次郎という小説家は大変好きだ。

「Kの昇天」という作品がある。水死した若い男の知人へ、その若い男と偶然海辺で知り合った「私」なる人物が思い当たる節を手紙にしたためるだけの内容である。

ここではシューベルトの「ドッペルゲンガー」(普通影法師と訳される。正確には二重人格といった意味だが、そう訳すのも何だか抵抗がある。訳すというのはやっかいだな。梶井はドッペルゲンガーとドイツ語の発音をそのまま写し取っている)が重要な役割を果たしている。

「私」が夜の海辺でKをはじめて見たとき、その不思議な行動は「私」の存在に気付かぬせいかもしれないと思い、口笛でドッペルゲンガーの旋律を吹く。

Kはそれすら聞こえていないような様子であるが、後に話を交わすようになったとき、君はさっきドッペルゲンガーを口笛で吹いていましたね、と言う。

この小説の内容とドッペルゲンガーが似つかわしいかは措いておこう。話の設定上、他の曲を持ってくるのは難しかったのだろう。

シューベルトの世界は、果てしなく深い深淵を思わせる。それに対して梶井の描くドッペルゲンガーはどこか幻想的で、それは彼の「桜の樹の下には」のような耽美的な世界と通じるものがある。「闇の絵巻」のようなものでも、ドッペルゲンガーの世界のような、そうね、僕たちに過去というものがあることへの呪いとでもいうべき、そんなものは無い。泉鏡花などから流れてくるような感じかな。「Kの昇天」の構造は漱石の「こころ」を下敷きにしているのだろうが。

例によって脱線しそうだ。梶井の作品は少ない。薄い文庫本1冊ですべてだ。関心を持った人は読んでみて欲しい。

で、僕が作品と直接関係なく興味を持ったのは、次のようなことだ。

海辺で偶然出会った2人の男が、ドッペルゲンガーという、今では音大生ですら(というか、音楽を専門にしようとするがゆえに、と言った方が正確なのかもしれない)声楽科以外は知らない曲を共通して認識していたということだ。

この共通認識無くしては「Kの昇天」は成り立たない。もちろん、この小説自体が、当時の文学愛好者たちへ向かって書かれたものだ。ドッペルゲンガーが一般に知れ渡っていたはずもない。それでも、文学を志す人たちの間では、知っていて当然、というに近かったことをうかがわせる。

彫刻家の高田博厚さんが音楽について書いたものによれば、音楽は文学志望の青年達のあいだで盛んに聴かれるようになった。片山敏彦という仏文学者(ロマン・ロランの作品など、翻訳家として名を残した)の安アパートで、若い芸術志望者たちが、蓄音機!から流れるベートーヴェンの作品に心躍らされている様子が記されている。

ここではすでに「喇叭」の時代は過去のものとなり、鳴っているものはベートーヴェンである。夜更け、若い青年達がひとつの蓄音機から流れ出る音楽に耳を傾ける様を想像してみて欲しい。

日本には音楽の歴史こそないかもしれないが、こうした「共同体験」とでもいうものがあった。それを、はるか時代を経た僕は羨ましい気持ちで眺める。

「Kの昇天」はそんな情景を背後に持つことを知らないと、あまり理解しにくい世界なのだ。

梶井も、親しかった三好達治らと、そのようにして音楽に接し始めたのに違いない。小林秀雄、河上徹太郎、青山二郎らのグループも同様だ。