季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

グールド

2008年04月29日 | 音楽


はじめに断っておきたい。これはグールド論とはまったく無縁であるから、それを期待する人は、読まない方が時間の無駄が省ける。

この人について、僕は長い長い間、得体の知れないピアニストとして敬遠していたように思う。

彼の名前を何となく見聞きし始めたのは、たぶん小学校高学年から中学校はじめにかけてだったはずだ。それも録音を通してですらなく、演奏会を否定する「奇妙な」ピアニストとして、雑誌あたりで目にしたのではなかったか。

僕は、いわゆる音楽教育熱心な環境にいたわけではない。もしかしたら本当は、現代と変わらない、やたらに周りからあおり立てられる環境だったのかもしれないのだが。最近になって、昔のことを振り返ってみると、どうもそうらしいことに気付いた。

やたらに我がつよく、それでいて怠け者だったおかげで、渦からは完全に外れて、音楽とは牧歌的というべき関係を保っていた。音楽界のさまざまな因習、うわさ話等から完全に隔絶されて、ただもう心奪われていた。

そんな少年にとって、演奏会を否定するピアニストは、どういえば通じるだろう、否定のための否定、ただのアヴァンギャルドとして認識されたのではなかったか。当時本気で考えたはずがないけれど、その時の漠然とした反感だけは憶えていて、それを今日あえて意識してみるとそんな風に言うしかないのだ。

それでも一度だけ、あれっと思ったことがあった。中2か中3のはじめ頃、シュヴァイツァーが亡くなった。僕は彼のオルガン演奏のレコードを聴き、たしか「文化哲学」を読んでいたと思う。オルガン演奏はともかく、「文化哲学」のほうは以前書いたように、できる限りの背伸びの一環である。この本はそれ以来読んでいないが、いくつかの文章はよく憶えている。ということは、僕という人間の形成に影響力を持っていたことを僕は今日認める。(この一節だけ、なんだかスタンダールの自伝ふうになってしまった。これは読んでいて胸が苦しくなる種類の読書であるが、大岡昇平さんがスタンダールから文学に入ったことがいやでも分かる本だ。最近読んでいたら影響されちまった)

シュヴァイツァーが亡くなったことを悼む記事がいくつか出た。朝日新聞だったと思うが、グールドが書いていた。「シュヴァイツァーのような人が亡くなった今、人類の(だったと記憶する)尊敬と愛(この言葉は記憶が曖昧だが、意味はこんなもので間違いない)を一身に受けるのは、ユーディ・メニューイン以外にいない」

グールドが?僕が当時抱いていたイメージによるグールドの口から、このような言葉が出るのか?そもそも、グールドがシュヴァイツァーについて語るのか?メニューインについて語るのか?(これらは事情通ならば不思議でも何でもないことだ。グールドはメニューインとテレビ用に共演しているのだから)

今となっては、その疑問に対して、なぜ答えを見つけようとしなかったのか、理解に苦しむ。若くて愚かだったし、直面しているイライラに対応するのが精一杯だったのかも知れない。でも、それが良かったのだろう。その時に生半可な「正解」をしていたら、他の道を歩いていたかも知れない。

あとどれ程続くか分からないが、続き物にする。
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ペット可

2008年04月27日 | 


最近はペットブームだそうだ。そのせいだろうが、ペット可というマンションがずいぶん増えた。

ただ、大抵の場合犬は小型犬まで、とか一頭のみとかいった条件が付いている。頭数の制限はまあ分かるな。ときどきニュースで何十頭も捨て犬捨て猫を飼って、悪臭が云々といった事件があるものな。そんな人がマンションにいたら大変だ。

ヨーロッパのアパートはどうなのだろうか?僕はいわゆるアパート暮らしをしたことがないので知らないのだ。友人は猫を2匹飼っていたけれど。ということは犬も良いのかな。

知人の話で傑作なのがある。

小型犬可のマンションでレトリバーを飼っている。当然違反だ。それを買ったときはものすごく小さかった、こんなに大きくなるとは思わなかった、と言い張っているのだそうだ。

僕としては、躾をよくして欲しいと願うばかりである。犬嫌いが多くいるのは当たり前だ。ドイツにもたくさんいた。殊に当時は犬は道路のどこでも糞をしたまま放置するのが当然だったから(掃除は清掃局の仕事)、嫌いな人にとってはたまらなかっただろう。

にもかかわらず犬連れが電車にもバスにも乗れたし、レストランも子供お断りはあっても犬お断りはなかったのは、躾がキチンとされていたからに他ならない。

もし街中で躾をされていない犬がいたら、飼い主がきびしく注意されるだろう。人に吠えつくなど、もってのほかである。

大型犬のブームが去ったのは、いろいろ理由があるだろうが、ひとつには、小さな犬は強引に引きずって連れていくことができるからではないか、と疑いたくなる光景によく出会う。

この国で他人に注意することくらい難しいことはない。犬を巡って見かける情景も、音楽界のあれこれも、サッカーでの問題も、似てくるのは、すべておなじ人間が織りなす出来事なのだから当然である。

どこででも、どんな犬種でも自由に飼えることが当たり前になった暁には、サッカーも強くなっていることだろう。

ピアノも上手くなっているかって?それはきっと違うね。しかし音楽が好きな演奏家が増えるようには思う。

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茶髪と政治

2008年04月25日 | その他


茶髪がいつごろからあるのか、分からない。意識したときには日本中がそうなった。では、それ以前には無かったかというと、多分あった。

などと書くと、僕はよほどモード、とくに女性のに強そうだが、さにあらず。このあいだ「寅さん」を見ていたら、若かりしころの倍賞千恵子さんの髪の毛が茶髪に見えたから、ふーんと思ったのだ。これだって観察眼の鋭さからではない。単に贔屓(ひいき)だったから気がついただけである。ファンとは言いたくないな、贔屓といった感じだ。

もし僕が若ければ髪を染めただろうか?きっと染めていないだろうね。僕は元来整髪料すら好まないし、皮膚の色も、何色の服を着てもどうにも似合わない。きっとピアノの前に座るより、密林で木から木へ飛び移る、太古の人類の直接の子孫なのだろう。そんな男の髪の毛が茶色だったりしてごらん、よけい人間にみてもらえない。

さすがに最近では減ったけれど、スポーツ界、というか野球界などでは、茶色に髪を染める奴は使わない、とか言う監督がいた。

こういった発想の根源には、どんな根拠があるのかしらないけれど、髪の毛を染めるのはけしからん式の感情が入っているのではないだろうか。けしからんと思う人は自分が染めなければ良いだけの話なのに。

髪の毛に限ったことではない。人間という生き物は、あらゆる場面に於いて、類型に分けて判断する傾向が強いらしい。もちろん僕とて例外ではないのだが。

例えば、僕はある種の職業人が好きではない。しかし、その中の個人をもし知っていれば、その個人への気持ちが優先される。当たり前のことだ、と言い切れる人は本当にいるか?

職業と書いたけれど、それを学校と置き換えても同じことだ。ある人がどういうグループに属するかで判断する、こういう心の(頭の)働きを政治的といっておこう。まつりごと、ではない。そういう意味での政治的な見方を僕は極力避けたい。

大学1年の時、学校の名前と実態には差があることを痛感し、一生目の前にいる人の出身校だの、学歴だの、賞歴だの、性別だのを訊くまいと誓った。いまでもそれを守っている。僕は僕の直感以外を信じない。間違うことは当然あるだろうが、人がどこに属するかで判断して間違うことは、遙かに多いだろうし、第一情けない話ではないか。自分の見方で仮に間違えたとしても、それは僕が未熟だったというにすぎない。心眼を研ぐ以外にない。

茶髪からはじめた話だから、茶髪に戻っても良い。当初、反感を示した人々は、髪を染めることが非行への第一歩だという感情を持ったのだろう。馬鹿言っちゃいけないよ。目の前の人を見ないとそういうことになる。

そういう人たちは、黒髪で非行にはしる少年少女がいたら、頭がピカソになるのかな。ある人は茶髪でしっかり者だ、ある人は茶髪でだらしない。また、黒髪でだらしない人と、しっかり者とがいる。

それだけの話である。年寄りが眉をしかめるようなものではない。それより似合ったように染める方がよっぽど大切だろう。要するに趣味の問題だ。

自分の趣味に合致する条件を仕立て上げて、それに沿う人だけを「まとも」な人物だというのは、よくあることではあるが、感心しない。

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喇叭(ラッパ)

2008年04月23日 | 音楽


ドイツに住んでいたころ、文学界という雑誌を時折送ってもらっていた。この雑誌に磯田光一さんという文学評論家が書いた論文が載っていた。「小学唱歌考」と題する文章で、それを読んでいて胸を衝かれた。

日本からの便りや荷物は、滞在が長引くにつれて(9年間、結局一度も途中帰国しなかった)途絶えがちになり、文学界もいつの間にか手に入らなくなり、当然「小学唱歌考」もその後どうなったかを知らないまま時が過ぎた。

その時の強い印象は、それでもずっと消えずに残っていた。もっとも、僕が心動かされたのは、磯田さんの文章というより、そこに引用された明治初期の、音楽に関する記述だったのだ。

僕は磯田さんについて、生真面目な少し痩せた文章を書くひと、くらいの認識しか持っておらず、亡くなったとの記事に接したときも、「小学唱歌考」のことを思い出しただけであった。あの作品はどうなったのだろう、とぼんやり考えた。

そのうちにコンピュータの時代がやってきて、僕も何のことか分からぬままキーボードを操作することに相成った。

少し前、ふと思い出して検索をかけたところ、「小学唱歌考」は「鹿鳴館の系譜」と題する作品中の一章であり、すでに完結して、出版もされていることが分かった。ただ、とっくに絶版であった。幸い古書店から取り寄せて今は手許にあるから、僕の心を衝いた文章を、正確に書き写せる。紹介しておきたい。旧字体は変換できないものがあるから、すべて現代字体にしてしまおう。

彼等の、持ちたる、笛の名をば、何というぞ。此は、喇叭なり。彼等は、楽隊の、兵卒ゆえに、此笛を、吹くことを、鍛錬するなり。此笛は、兵隊の、行列を整うる、合図に用い、又祝日の、音楽に、用いるものなり。此笛は、菅長くして、先きの、開きたるものゆえに、声を発すること、最大なり。

なんと幼い文章だろう。今日、僕たちが何の苦もなく受け入れているかに見える音楽が、紹介されたその日の姿である。僕が心打たれたのは、むしろこの幼稚な表現だったのかも知れない。このことを忘れてはならない、と思ったのである。

僕たちの音楽がこういう出自であることは、何か気まずいことでもあるのだろうか?今日の、いやに見栄を張った「演奏家」を見るにつけ、この時の感動を忘れまいと気持ちを新たにする。

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複雑 その2

2008年04月21日 | 音楽


フランス六人組とうっかり書いて、脱線したまま突っ走ったものだから、オネゲルについて書き直す。

この人は才気もあるけれど、たいへん良心的な音楽家だった。現代に作曲家として生きる苦さ、野心を両方もった人だった。

僕が今書こうとしているのは「私は音楽家である」という本の中の、ある一節についてである。

この本は読んでいて気持ちが晴れやかになる瞬間もない。ため息と愚痴のオンパレードだ。真摯な愚痴とでもいおうか。昔読んだきり、読み直すにはもう気力がない。こんな陰惨な読書をだれがするだろう、と思えてくる。にもかかわらず、ここに書かれているのは、もう50年ほど昔なのに、音楽家達が直視することを避けようとしている、現実の姿である。

彼は、現代の作曲家が、複雑きわまりない曲を書く傾向にあることを憂える。そして、音楽を複雑にした責任はベートーヴェンにもあるというのだ。ベートーヴェンの後期の作品は、周知のように、アダージォ楽章の中に32分音符、64分音符がひしめいている。

オネゲルは、そこを衝いて言う。アレグロで16分音符で書いても、効果、結果は同じであるのに、余計な複雑さを演奏者に課し、楽譜の複雑化という道を拓いてしまったと。

でも、これはオネゲルが無理だ。

彼は、自分がベートーヴェンの後期の作品群をすでに知っている、それも熟知していることを忘れている。

確かに、彼が言うように、ベートーヴェンの後期の作品群の細かい音群は、読譜の際わずらわしい。最後のソナタの2楽章なぞ、初めて見る人は面食らうだろう。譜面は真っ黒というしかない印象で、オネゲルの意見も無理はない、と同調してしまいそうになる。

しかし、この曲を、まったく知らずに、たった今初めて接したものだとしてみよう。アレグロとアダージォでは、まずまったく違う印象だろう。

そもそも、所謂テンポ記号も発想記号と見なした方がよほど正確なのである。アレグロ=快速に、アレグレット=やや快速に、式の教え方、覚え方に呪いあれ。

アダージォという深い緩やかな感情の動きを示すことばの中から、異常な高周波のような32分音符や64分音符が現れる。

逆かも知れない。アダージォの中に64分音符があるからこそ、高周波のような、ゴッホの星月夜の渦巻く夜空を連想させるような、息苦しいまでの高いテンションを感じるのではないだろうか。

この想いは、耳のきこえぬベートーヴェンという男の中で、言うに言われぬ高まりとして感じられていたのに違いない。彼の後期の作品群は、耳がきこえぬ人しか書けなかった音楽だ。

これをオネゲルの主張にしたがってアレグロで、16分音符で書いてみるがよい。もしも、僕たちが何も知らぬ人間としてその曲に接したならば、曲の感じ方はまったく違ったものになったであろうか。その通りだとも、違うともいえよう。

そもそも、この曲想と、この記譜法とは個別に論じることができないのである。すでに良く知っている曲想で演奏されるというのも、ベートーヴェンがその記譜法で書いたからこそなのだ。

曲想が「定まった」あとで、それは速いテンポで16分や8分音符でも書ける、というのは言いがかりというものだ。自身が作曲家でありながら、記譜する際の様々な逡巡や決断についての困難を、すっかり忘れてしまっているとしか思えない。現代の楽譜がいたずらに複雑なものになって、所謂専門家以外の人たちに見向かれなくなったことへの絶望感が彼の眼を曇らせているのだ。

今日、オネゲルのようなベートーヴェン批判をする人はいないだろう。そこで僕は念のために言っておきたい。

僕はオネゲルを非難しているのではない、ということ。むしろ、彼の真剣さに心打たれるのだということ。今日の演奏家の誰が、周知の曲を、新たな、未知の曲であるかのような態度で、読み取ろうと務めているだろう。一般に考えられているよりはずっとずっと少ないはずだ。
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複雑

2008年04月19日 | 音楽
オネゲルの曲は嫌いではない。フランス6人組というのかな、なにかそんなのがあるでしょう。僕は音楽史だのに暗くて、それはどうにかしたいと思いながらも、他に知りたいこと、知らねばならぬことが山積している。知らなくても恥をかくだけだ、と開き直っている。このメンバーが誰だったか、急には思い出せないが、プーランクが入っていたはずだ。最近、この作曲家を取り上げる人が多いけれど、本気かなと首を傾げてしまう。

逸話をひとつ。

クレンペラー(往年の大指揮者のひとり)が、プーランクのピアノ協奏曲を自身をソリストに迎え練習していたときのこと。誰にでも聞こえる声でコンサートマスターに訊ねた。「フランス語でくそったれ、を何と言うのかね?」

クレンペラーは独特の毒舌で、この手の逸話は数知れずある。クレンペラー逸話集なる本まで出ている。僕は一冊持っている。僕がこの本をなぜ持っているかというと、ドイツの家の階下に小さな本屋があって、そこで売れない本を100円ほどで売っていたのだ。

その中でも、上記のセリフは笑える。プーランクという才気走ったつもりの小物にぴったりだ。

サティを評価する人はとてつもないような高い評価をする。僕は好きになれないが、たったひとりで「誰が音楽を難しくしたのだ」と呟いているような風情は、よっぽど正直だと思う。そういう意味では「分かる」のである。

オネゲルはどうした、と訊ねないで欲しい。六人組のことからプーランクへ行ってしまって、話が逸れっぱなしになっている。

オネゲルに「私は作曲家である」という著作があって、その中の発言について書こうと思っていたのだ。でも、この調子だと長くなりすぎるだろう。続き物にするか。

プーランクについて書き始めてしまったから、彼に対しての意見を言い切っておこう。彼について今後それ以上言及することはあるまい、と思うから。

バレンタインにもらうような高級チョコレートね、何だか僕がもらっているように聞こえるが、もちろんそういうことはない。

急に思い出したから書いてしまおう。プーランクと同じくらいバカバカしい話だから、まあよいだろう。

昔、出先で、お義理にチョコレートの箱をもらったことがある。僕は荷物にひもが付いていると、無意識にグルグル振り回すくせがあるらしい。人からよく指摘されるから、きっと本当なのだろう。

で、そのチョコレートの箱を、歩きながらグルグル振り回していた(らしい)。帰宅して箱を開いて驚いた。チョコレートだと固く信じていた中身は、なんとケーキで、ケーキは遠心力の法則により、跡形もなく、紙箱一面に無惨にもクリームが張り付いていた。

教訓。戴いた箱、とくにバレンタインデーやクリスマスに戴いた箱を振り回してはならない。僕自身は、身をもって得たこの教訓を活かす機会がその後ないのであるが。

と、こんなくだらない話をダラダラとして、教訓などと、ちょいと言ってみる。これがプーランクだ。

高級チョコレートの箱の中にあるハトロン紙は、なんとなく高級そうに見えるでしょう。あんなものさ、と書こうと思ったら、即興的にもっと適切な例えができてしまったから、そちらをとっておこう。

友人が最近学識を付けて、プーランクは敬虔なカトリック信者だったそうだ、と言ってよこした。そうとも。横山大観はラッキョウが好きだった。それがどうした。

(これはでまかせです。真面目な人を悩ませるといけないから、念のため書き足します)
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2008年04月17日 | 


猿は笑う。人間が失敗したりすると笑うし、ほめられたりしても笑う。犬山市に猿の研究所がある、というのも笑ってしまうが。霊長類研究所と言ってピンと来ない人も、チンパンジーのアイちゃんといえば「ああ、あの子だな」と気付く人が多いだろう。

この研究所は京都大学に属することを知っていても、ここが哲学科に属することを知る人は、これまた少ないのではないか。

人が猿と分かれた時期については諸説あるらしい。それはそうだろう。現に僕なぞは家族から猿人呼ばわりされている。21世紀にですよ、猿と人の区別がつかないのです!

その中で僕が支持する説は、なんていうとこれを知ったかぶりというのさ。単に気に入っているだけなのだが。僕は研究したこともないから、一生活人として、そうね、音楽家としてでもいいな、感情的によく分かるということだ。

それは、猿が仲間の死骸を埋葬し始めた時期を人類発祥の時期とみなす、というものだ。

高等動物ともなると、仲間の死を認知はする。しかし、埋葬するということは、次元を異とする。埋葬するのは死体が肉食獣に荒らされるのを防ぐためだろう。ということは、ここですでに死者を思い出す、という意識が働いているわけだ。

あいつは良い奴だった、立派な奴だった、自分たちは奴を忘れない、という感情を持っていたのだと想定しても、けっして不自然ではないだろう。

もし食い荒らされなかったら、再び動き出すかも知れない、と思ったと想像することもできよう。ほとんど宗教と紙一重ではないか。

犬の社会は群社会である。しかし、いくら空想をたくましくしても、我が家のシェパードが、私の先祖はドイツから来た、とか90年ころいた○○号は本当に格好よく立派な警察犬で、私は憧れる、とか言うとは思えないな。

犬を飼っている人たちは、それでも、犬が笑うことを知っている。猿と違って失敗するのを見て笑ったりはしないけれど。猿より劣るからではなく、猿より人がよいからだと思いたい。

笑うのはもちろんのこと、犬は泣くことさえある。僕は涙を見たことがある。

たま(にしき)については何度か書いた。この子が9歳のころ、腹部に腫瘍があることに気付いた。犬は体中にいろんな腫瘍や脂肪腫ができる。そんな時でもいつも念のため獣医に連れて行っていたのだが、この時は触った瞬間ギクリとした。米粒大だったが、何というのだろう、妙に根深く、底意地が悪いとでも言おうか、そんな手触りなのだ。体にとって、悪性の異物だと直感できるものなのだと、今になっても思う。

検査の結果はきわめて悪性の腫瘍とわかり、すぐさま手術になった。獣医にかかったことは数知れずあり、手術も経験していたのだが、この時の手術が無事終わって数日の入院後帰宅したとき、居間に入ってこちらを見上げたたまの目が潤んだと思っているうちに、涙が流れ落ちた。驚いた。驚くと同時に、たまの僕たちに対する信頼の強さをあらためて知って、心動かされた。

理屈を説明されれば、そういうこともあり得るらしい。でも、長いこと犬と付き合って、涙を見たのはこの時が初めてだった。その後、ミケという子が流したことが一度だけある。それ限りだ。

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原音

2008年04月15日 | 音楽
オーディオに凝っているわけではないのだが。仕事柄オーディオは持っている。オーディオくらい仕事柄ではなくともだれでも持っているか。

なぜかは判らないが女性より男性がオーディオに凝るようだ。結構な数に上るのではないか。本屋でオーディオ関連の雑誌をみれば、その数が少ないものではないことくらい察しが付く。

その方面で(日本語のこういう言い方は何か微妙だな、なるべく使いたくない言い回しだ。微妙だなという言い方からしてすでに微妙だな)品質のステータスを表す時に、ホールの一番良い席で聴いた音、というのがある。

たいていの人はそれで納得するのだ。製品を気に入るかは別だけれど。

ひとつ質問してみたい。ホールというが、どのホールだろう。良い席とはどこのことだろう。そう問いかけるだけで、了解事項となっていることがすべて、発言している人の主観に基づくにすぎないことがはっきりするだろう。

生の音に近づけたい、という思いがそういった表現を産むのだろうが、生の音というものだって僕たちの主観なのである。言い換えれば僕たちは聴きたいものにピントを合わせるような聴き方をしているのである。生の音ということを口にする前によく考えて欲しい。生の音というものはなにか。本当にあるか。

極端な例が調律師だ。彼らはうなりを聴く。慣れれば誰にでも聞こえるそうだが、とにかくそこにピントを合わせるわけだ。

仮にコンサートホールの音というものがあるとしよう。コンサートホールに限らなくてもよい。広い空間で、離れたところで発せられた音乃至声を、人の耳はどうとらえているのだろう。

次のような空想をして欲しい。舞台上にあなたの恋人がいる。その人の声をあなたは、一言も聞き漏らすまい、と聞き入っている。そのときあなたの耳は限りなく彼(彼女)に近づこうとしているはずだ。広い空間を楽しむより、その空間の広大なことにもどかしささえ感じながら。

これが演奏に耳を傾けたときの「状態」に一番近い。正確に言うと、僕はこうやって聴いているように感じる。たとえばオーボエ奏者の息が余る苦しさを一緒に感じてしまう。ピアノでも、どのように鍵盤に触れたかを、体の各部位の筋肉の緊張に至るまで、共同体験してしまう。

音楽家に特有のこととは言えないはずだ。誰かが泣き叫ぶのを聞くと、ある場合には聞き流すが、他の場合にはその胸腔が圧迫される感覚がする。その時は誰もが、自分の体験を通して「共鳴」しているわけである。

筆跡鑑定というものがある。昔はとても大切な分野だっただろう。人はだれしも、表現をしようと思わずに表現しているものだ。何気なく書いた書体からその人の心理を読み取ろうという、まあ芸といった方がよい、勘に支えられた世界だ。
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逸話から

2008年04月13日 | 音楽


トスカニーニに記者団が(もちろんあなたを抜いた話として、)世界で一番よい指揮者はだれかと訊ねたところ、言を左右にして答えなかったという。それでも諦めずに食い下がって訊ね続けたところ、「フルトヴェングラー」と叫んで立ち去ったらしい。

ゴシップとして別段なにも面白いことはなさそうだが、考えてみればおかしい。トスカニーニはつまるところフルトヴェングラーを音楽家として認めているわけだ。

仮にフルトヴェングラーが同じ質問を受けたのならば、何と答えただろうか。トスカニーニの名前は出なかっただろう。

今日、僕は素朴な疑問を抱かざるを得ない。トスカニーニという指揮者がどうして世に認められるに至ったのか。人の趣味にはいろいろある、式の答えでは納得しかねる。

さいわい今日、彼の演奏は録音で聴くことができる。マイラ・ヘスと協演しているのを僕は持っているのだが、バカバカしいというのが唯一の印象だ。他にことばが見つからない。曲目は一応挙げておく。ベートーヴェンの第3ピアノ協奏曲だ。

この演奏のための練習中も、伝えられるように、「カンターレ(歌うように)、カンターレ」と怒鳴りつけていたのだと思うと、ただ可笑しい。この演奏のどこがバカバカしいかといえば、縦に刻まれた「時間」という枠の中に「歌」を閉じこめようとした不自然さだ。

トスカニーニの「時間」は、正確には分からないのだけれど、数世紀遡ったころの物理学に支えられているだけだ。

それでもウィーンフィルの理事だったオットー・シュトラッサー(バリリカルテットの第2ヴァイオリン奏者)ですら「トスカニーニは私たちに規律をもたらした」と述べている。これはどういう意味なのか?僕はずっと後の世に生まれた者の唯一の特権でこう答えよう。ただ怖かったのさ、と。

ある種の特別良い耳を持っている人がいる。それは本当だ。たとえばオーケストラの中で、たった一人が小さな小さなミスをしてもすぐ気付く耳。そのとき怒鳴りつけられたら、ひるむだろう。どんな人でも完璧でないから、早く、強く言った者勝ちという場面が多々ある。

ピアノを弾いている人に「ちょっと無駄な力が入っていませんか?」と声をかけてみるがよい。言われた方は少し、場合によっては大いにたじろぐ。その瞬間からあなたが上位に立つ。だれでもどことなく思い当たる節があるからだ。

こんな馬鹿げたことでも少なからず影響する、それが音の間違いであったり、音程の不揃いであったり、入るタイミングのずれだったりで、それを間違いなく指摘されたら、オーケストラは受け身にならざるを得ない。言うまでもないが、それを指摘できる耳も「良い耳」なのである。能力なのである。僕はそれを否定しているわけではない。

ただ、それだけのために、トスカニーニという指揮者が絶大な影響力を持つに至ったのが、やりきれない。当時、はっきりとした態度をとりきれなかった音楽家たちは、まさか音楽家の中に、音楽家ではない男がいて、しかもその男が作曲家への献身と尊敬を誰よりも熱烈に語っているとは、夢にも思わなかったのだろう。

スリラーなどで、隣人が実はエイリアンなのに、気付かないというのがある。まあ、そんな感じかな。ひとつにはトスカニーニの前の世代は、所謂ロマンティックな演奏をした(らしい)ことへの反動として登場したことが大きかったのだろう。

しかし、僕ははっきりと決別しないと、いつまで経っても演奏は、軸のずれた独楽同様、さまようばかりだと思う。

今日、トスカニーニ流イン・テンポで演奏する奏者はいないが、イン・テンポの概念はいたって健在である。すると面白いことに、自由にやったつもりの演奏はその時々の思いつきになり、不安定きわまりない。

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日本代表 続き

2008年04月11日 | スポーツ


仕切り直して続きを書く。

昔、野球の名監督に三原脩という人がいた。この人は、野球の技術に関してははなはだ頼りなかったそうだが、人心掌握術に関しては卓越していた。

この人は、そういった人の常として、いくつも名言を残しているから、ひとつ紹介したい。

曰く、アマチュアは和して勝ち、プロは勝って和す。

この言葉をまずマスコミでスポーツを担当している人に噛みしめてもらいたいものだ。実際、三原監督ノチームでは、いわゆる仲良しグループなど、なかったそうである。それどころか、そりの合わない選手同士は口も利かなかったという。

しかし、いざ試合になると、自分が発見した相手の弱点を耳打ちしたり、アドヴァイスを送りあったりした。それはすべて、三原さんの度量に支えられていたからであろう。

僕が常に思うのは、スポーツでも一般社会でも、音楽でもというのも付け加えておこうか、この当たり前なことが、どこにも見られない、ということだ.

前のワールドカップでの日本代表は中田英寿選手が浮いていてまとまりがなかった、という言説もある。

この人はとかく話題になる人だった。自己中という言葉が踊ることが多かった。僕はまったく違った見方をしている。

中田選手が自己中に見えてしまうありかたを続けている限り、日本のサッカーは強くなることはない、と断言しておく。

彼の語っている声や顔をみれば、この人がどういう種類の人間か、想像くらいできる。この人は自分の優しさを持てあましている種類の人だ。コンタクトをそつなくとれる人ではない代わりに、大変正直な目でサッカーを見ていたように思う。

自分の納得いかないプレーには、疑問を投げかけ、議論する。それがチームの和だと考えていたのだと思う。こんな当たり前のことが、日本では当たり前ではないのだ。言いたいことを呑み込んで(あることはあるのだろうが)ふんわりした空気を醸し出すことと、所謂根性論とは同じものなのだ。

岡田さんは、案の定根性を説きはじめた。先日のバーレーン戦の前も、むきになって選手を走らせ続けて、怪我人が多く出た。次の試合はチャーター便を廃止し、一般の航空機利用にするという。この手の精神論に堕ちていくのがこの人の特徴だ。

僕の願いとは裏腹に、今回の予選を勝ち抜くことは、前に書いたとおり、8割方無理だろう。ひとつ大胆に予想してみようか。サッカーそのものの予想ではないけれど。せっぱ詰まったら岡田監督は解任されるだろう。その後、オリンピック代表の反町監督を兼任させようという動きが出てくる。僕自身の意見はともかく、日本の人たちの発想法を読み解くとそんな気がする。

岡田監督が続けるということは、予選を勝ち抜けることだから、それを切に望むけれどね。

オシムさんを懐かしがっているのでもない。彼は非常に有能な監督だが、日本人を知らない。あたりまえだけれど。

たったひとつ例を挙げておく。

中村憲剛選手がミドルレンジからシュートを打ったことがある。オシムさんはこれを激しく叱った。自分が目立とうというプレーだというのがその理由だ。世界基準からいえばおそらくそれは正しい。しかし日本人の特性を知っている人から見ると、このプレーはほめなければならなかった、と僕は思う。最終責任を他人に預けてしまう傾向がこの国には多く見られるのだから。

スポーツだって人間をよく見ないといけない。最初に紹介した三原監督は、中西と豊田の両主軸にまったく違ったアプローチをしたという。気の優しいところのある中西が打つと「さすが大打者」ともちあげ、気の強い豊田が打つと「まあ、あんなものだろう」とあしらったそうだ。

その点から言っても岡田さんの采配に(また岡田さんに戻るが)疑問がある。タイ戦は結果から言えば快勝だった。でもエースストライカーの高原選手は、惜しいシュートを外したりで結果を出せなかった。岡田さんは後半、4対1になった時点で高原選手を他の選手と交代させた。

この辺りが人を見ていないと僕には写る。高原選手はとても真面目な人だ。責任感も強い。ひとたび調子が狂うと、あとに尾をひくタイプの典型だ。試合の決着はついたのだから、楽にプレーしてよい、と使い続けていくべきだった。もちろん、点が入る保証もないが、せめて彼が得点するのを期待はして欲しいところだ。交代させられては、次の試合にマイナスの影響が出る可能性が高い。

そういう点は、サッカーのプロよりも人間通になる必要がある。そこでは何の道でも同じだろう。表現するものは芸術ばかりとは限らないのだ。

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