季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

・・・

2009年01月30日 | その他
「思い込み」と題する文章を書いたばかりのところへ、いたましい事故があった。

1歳の子供が蒟蒻ゼリーをのどに詰まらせて亡くなった。周りの人も何と声をかけたらよいか分からないだろう。可哀想に、苦しかっただろう。

一月ほど前、僕もパンをのどに詰まらせ、ひどく苦しい思いをした。昼食を摂る時間がなくて、生徒を待たせて大急ぎでのみ込もうとして失敗した。

幸い何とか無事だったが、怖いものだと思った。

今回事故を引き起こした蒟蒻ゼリー(正確にいえば蒟蒻畑)は僕も時折食べる。子供や老人は食べないで下さい、と注意書きがあるのも良く知っている。

事故後、野田聖子大臣がメーカーを呼びつけ、厳重注意を与え、製造の中止を働きかける、と発言した。

ネットニュースで、メーカーが製造中止を決めたとあった。もっともその後確認はとれていない。

大臣の発言があったとき、僕は違和感を感じた。また、ここ数年間で(数字は忘れてしまった。誰でもすぐ知ることはできるからいちいち探すことはしない)17件も同様の死亡事故が起きているのに、製造を続けたことを難じる報道もあった。これにも違和感を感じた。

僕が留学のため羽田でフランクフルト行きの飛行機に乗ったとき、偶然、1級下のコントラバス専攻のM君に出会った。

彼とは親しく話したことは無かった。静かな、ほっそりした、まじめなそうな男だった。話を交わしたことは無かったが、僕は彼に対してどちらかといえば好感を持っていた。向こうもそうだったかもしれない。

卒業以来だから、少なくとも5年振りだったわけである。

僕がハンブルクに留学するのだと言うと、彼は自分はウィーンに行くのだと言っていた。そうかい、お互いに元気でやりましょう、そんな会話を交わした。彼の顔に僕自身の高揚感と緊張感を見た。

1,2年経ったころだろうか。何かの折に僕がM君と同じ便で渡欧したことを話したことがあった。彼は元気にしているかなあ、と言うと、何と亡くなったよ、とのことであった。

一時帰国の際、餅を詰まらせて亡くなったと聞いた時の驚きを今でも忘れない。久しぶりに日本の味を楽しんでいたのだろう、と憐れさはひとしおだった。

そんな経験があって、違和感のままに、検索をかけると、食品をのどに詰まらせて死亡する事故は結構たくさんあることを知った。

もちを筆頭に、ごはん、アメ、パン、しらたき、流動食、おかゆ等が挙がっている。流動食やおかゆが必要な人は病気で体が弱っているに違いないからさておくとして、他は僕たちが普段から目にするものばかりだ。

蒟蒻ゼリーは死亡事故が発生する頻度としてはおよそ10番目である。単純計算でいうと、もちはゼリーの80倍ほどの危険度、アメもはるかに高い危険度なのである。

僕はいまこんな数字を挙げながら、実にいやな気持ちである。こういう数を列挙したところで、本当の統計にはならないし。

なぜ大臣は蒟蒻ゼリーに限って製造の中止まで求めたのか。それは恐らくは蒟蒻ゼリーが「後発」の食品だからではなかろうか。必須の食品ではないのだから、という理屈はアメがあるかぎり通らない。

そのあたりの心理が、問題が起こったときにサブカルチャーが槍玉に挙がるのと似ていてまずいと感じるのである。

この一文は実は書いてはみたが、投稿などする気になれず放っておいた。しかし最近ちょっと気になって検索してみると、世間の「常識」は行政の対応に対し批判的なものが多かった。だが亡くなった子供の家族に対する心無いことばが多く、これもネットの世界のまずい点であると痛感した。スタンドプレーばかりしたがる政治家と、いたずらに自説の正当性を主張する匿名の多数と。手段を選ばぬという点で両者は似ている。

しかも大臣お膝元の商店では、問題のメーカーは撤去され、他社の蒟蒻ゼリーがその場所を占めているという記事まで発見するにおよび、万事がこの調子で進むのだと再認識せざるを得ない。

敢えて投稿する次第である。

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クーレンカンプ

2009年01月28日 | 音楽
昔のドイツ人ヴァイオリニストである。僕は若いころからこの人が大変に好きであった。どうやって知ったのだろうか、もう覚えていない。フルトヴェングラーとシベリウスの協奏曲を弾いているからそれがきっかけであったのか。あるいはケンプと大学時代から合奏していたから、そんな記事でも読んだのだったか。

この人を評価するヴァイオリニストは昨今の日本ではあまり見かけない。しかし僕にとっては実に、模範的とも言えるヴァイオリニストである。

音の透明度、表情の密度、とりわけ音程の感じ方が美しい。音程と音程感とはまったく違うものだ。ピアノ以外の奏者は一応そう考えている。ただし音程感と「感」がつく以上これは感覚的なものにならざるをえない。いくらピアノの音程は平均率だから本当の音程は違うのだと念仏のように唱えてみても、やはりダメな人はダメである。

カザルスが「ピアノの伴奏で音程が合わなくて大変ではないか」という質問に対し「音楽的なピアノ奏者ならばピアノなりの音程感をもって演奏するから心配ない」と答えている。これはその通りなのである。

クーレンカンプの演奏を聴くと、音程ひとつとっても、音楽の感じ方と密接な関係なのだと改めて感じる。

クーレンカンプは演奏史上、シューマンのヴァイオリン協奏曲を世界初演したことでも知られる。

メニューインが初演しようとしていたそうだが、ナチスの邪魔が入って果たせず、クーレンカンプが弾いたのだという。

そこいらの経緯については関心がないので詳しく知らない。僕はレコードで(今はCDも持っている)聴いて、大変気持ちのよい(シューマンの曲に気持ちのよいという形容が許されるかどうか、そこは僕の気持ちを察してください)演奏だと感じ、今も愛聴している。

こうした経歴でものを言うのが所謂音楽屋である。僕が持っているレコードの解説文も例外ではない。

クーレンカンプは戦後間もないころ50歳で亡くなっている。彼の生きた時代はほぼナチスの時代と重なる。演奏家としての人生を考えればなおさら重なっている。

言うまでもなくこれは単なる事実である。それにもかかわらず、解説者は「結局クーレンカンプはヒトラーと共に台頭し、ヒトラーと共に滅びたヴァイオリニストだと言っても過言ではあるまい」と書く。

これを読む限り、そして愛好家の多くは解説文が読めるからという理由で日本でプレスされたものを買うのだが、クーレンカンプはヒトラーが引き立てたから有名になったのであって、力量はさほどなかったのだ、と受け取るしかあるまい。

日本という国でそのような紹介のされ方をして、さぞかし無念だっただろう。長生きさえすればヒトラーと共に云々は言われずにすんだ。ヒトラーではなくナチスだったかもしれない。すぐ近くにレコードケースがあるけれど、確かめる価値すらない。

こうした手合いを文化的ゴロツキと言うのだ。その文章を読んだ人たちの多くが物知り顔に頷くのだ。

クーレンカンプはエドウィン・フィッシャー、マイナルディーとピアノトリオを組んでいた。残念ながらその録音はない。彼の死後、ヴァイオリンがシュナイダーハンに代わってからの録音ならばある。吉田秀和さんがいうフィッシャートリオというのはこちらのことである。

さがせばかなりの数の音源がある。ブラームスのヴァイオリンソナタ集などもある。ピアノは指揮者になったショルティが弾いていて、大変よい。指揮者ショルティはひどいものだったけれど、ピアニスト・ショルティは立派なものだ。そのあたりの事情について考えてみたいがそれはいずれ。

聴いたことのない人は一度聴いてごらんになることを薦めます。
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地名

2009年01月25日 | その他
もみの木台、みすずが丘、たちばな台、みたけ台、もえぎ野、桂台、若草台、若葉台、霧が丘、しらとり台、等々。僕が通るあたりの町の名前を手当たり次第、地図で見て列記したもの。断るまでもない、新興住宅地だ。

沿線の駅名も記しておこうか。たまプラーザを筆頭にあざみ野、つきみ野等、美しい名前が続く。

ついでに山手線の駅名も。

渋谷、原宿、新宿、大塚、田端、日暮里、鶯谷、秋葉原、田町、五反田等々、ずいぶん趣が違うでしょう。

原宿、新宿などは全国区の名前になっていて誰もなんら感想など持たないと思うが、都心を見渡しても、四谷、赤坂、日比谷といったぐあいに谷だの坂だのがたくさんついている。千駄ヶ谷にいたっては駄ですよ。

現代の新興住宅地は、美しいイメージを創らないと売れないからだろうか、台や丘や野の乱発が目立つ。谷だと日差しが悪いような印象なのだろうね。

上野に野が付くといっても、この素っ気なさは即物的といいたいほどだ。鶯谷から上れば上に野原がある、というまことに当たり前の次第であることがわかる。

谷があれば山もしくは高みがある。それならば低い土地にも高いところの名前をつけて2丁目、3丁目にしてしまえ。推察するまでもない、このような次第で、○○台3丁目は谷底である、と相成った。間抜けなことだ。

まぬけならまだ良いのだが、このやたら美しい名前はフワフワしていて落ち着かない。町並みひとつとっても、おお、これはきれいな落ち着いた町並みだ、というようなものはひとつもない。

つまり貧相な町並みを飾り付けただけの名前でごまかしている。そこには歴史も、現実も、なにもない。今頃荻窪なんて名前をつける度胸は誰にもあるまいね。窪地ですよ、坪単価がぐっと下がるかもしれない。

ご承知のように、日本にはごく少数の例外を除いて道には名前がない。ただ、地元で勝手に付けたものならたくさんある。

近所にはあいさつ通りというのがあって、まあ日本人しか読まないからいいようなものの、恥さらしだね。反射的に、ああ、現代人は挨拶をしないなあと思う。そういえば挨拶週間なんていうのまである。挨拶なんて、挨拶週間を設けて励行するものではないだろう。

この例も挨拶のない不気味さをあいさつ通りなんて言ってごまかしているわけでしょう。でも、それ以上に気持ち悪いと思いませんか。

この通りの名前が正式なものになってごらんなさい。それがうつくしが丘(実際にあるよ)にあってごらんなさい。住所を書くたびに赤面しなければならない。

○○市うつくしが丘1丁目あいさつ通り3番地○○ヴィラ 井伊音鼓なんてね。一二三と書いてワルツと読む名前まである時代だ。ドラムが好きで音鼓なんてとっくにある名前かもしれない。

赤坂なんて、伊藤博文が暗殺されかけたころは真っ暗な、月の光も届かぬような闇に包まれていたのだろう。ビルなんか建っているけれど、そこいらを歩いて名前を唱えただけでも往時を偲ぶことができる。

渋沢村なんてあったなあ。誰だったっけ、石川啄木かな。渋沢村は恋しけれ、だったように記憶するが。たまプラーザでは歌にもならない。今風の歌にはなるさ。でも時が経ったらなんの感情にも訴えかける力はないだろう。

いやでも月日は経つ。数百年後に生きる人たちはどんな風に現代を偲ぶのかね。見ものだな。
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算数

2009年01月22日 | その他
以前、算数ができない大学生という本が出た。学力の低下が叫ばれている折、結構話題になった本である。

僕は正確には知らないけれど、小学校4年あたりから算数での落ちこぼれははっきりと出始めるのではないだろうか。

つまり分数というやつが結構難しい。それまでは加減乗除算でもしもあやふやであっても、なんとなくの勘で通っていく。落ちこぼれていても、ちょっとしたことで挽回することができる。

それが分数になったとたん、今まで足し算では増えていた数字なのに、分母は増えず分子は増える。大抵の子供は分母は加減しない、と丸暗記してことが足りるけれど、中にはそんな丸暗記は苦手だという子も多い。いったん落ちこぼれると脱出しづらくなる理由のひとつだろう。

こんなことがあった。

小学校のクラス会で教育談義に花が咲いていた。かつての同級生に小学校の教師をしているのがいるため、毎回教育談義が繰り広げられるのである。

僕の隣にいた女性(もちろんかつてのクラスメイトだよ)がつぶやくように「私なんか、え、なぜ?と思うともうそこから先にはついて行けなくなったからねえ」と言った。僕はびっくりした。

僕の記憶では所謂学業はそう目立つほうではなかった人だ。「あなたはそう言うけれど、あなた、ものすごく賢い人なんだね」僕は心からそう言った。恥ずかしかった。僕などは丸暗記がやたらに速い部類だったのである。

「いえ、私なんかはただ何故だか分からないだけで」と相変わらず謙遜したままだったが。その分からないことを分からせることこそが教師の役目ではないか。隣に座った人のような人は他にもいるだろう。

少し前に紹介した法隆寺の大工、西岡さんもそういえば「なぜかぼちゃひとつとナスひとつを足したら2になるのか、まったく分からなかった」と言っていた。こういう根本的な疑問を持てる人を本当に賢いという。ただしかぼちゃとナスだったかは例によってあやふやだ。野菜だったことははっきりしているけれど。

分数の掛け算ならば、まずどんな子供にでも視覚的、感覚的に示すことができる。時折生徒に、どうやったら小学生に分数の掛け算を教えるかを訊いてみると、はたして覚束ない。ということは小学校でも本当に上手に教えられているのか、疑わしい。僕が訊いた生徒たちは、全員が、いわゆる優等生ばかりである。

で、僕が示すやり方でびっくりして納得するところを見ると、きっとそう教わっては来なかったのだろうと推察できる。

僕は基本的にアナログ人間で、パソコンで図形を描いたりできないのでここでは示さないけれど。

そして、ここで僕が書きたかったことの一番目は、割り算、分数の割り算のことだ。一度テレビである数学者が、たしか、円を使った図を用いて、じつに鮮やかな説明をしていた。僕はびっくりした。これならばほとんどの子供が理解できる、と思った。ところが、びっくりしすぎて忘れてしまった。驚きすぎて記憶喪失になる映画があるけれど、それはあり得るぞ。それ以来何年もイライラし通しなのだ。

誰か教えてくだされば有難いと思う。

二つ目は、そこから思いついたのではないが。大学を定年退職した数学者を小学校で雇うというアイデアはどうだろう。もちろんクラスを持たせるのではない。算数でここぞというところで教えてもらうのだ。きちんと相応の給料を払ってね。

正直に言えば、算数は生半可な知識、能力では本当には教えきれないと僕は思っている。せめて英会話を教える外国人を雇うくらいの感覚で数学者を呼べないものだろうか。

老数学者の中にも、かつての自分に帰り、数字に興味を持ち、その道に進んだことを思い出し、高度な数理を支える、いちばんはじめの段階を教えることに生きがいを見出す人がいるのではないか。いて欲しいものだ。

以前大学の教授や講師をしている知人にそんな考えはどうだろう、と提案したらみんな難色を示して意外だった。大学の教授まで務めて小学校の教師というのは権威に傷がつくといったことを、婉曲に言っていた。それは失礼だと言っていたな。たまたま彼らがそうだったのかもしれない。けちくさい誇りを持って生きているもんだ。失礼というなら、数学に対して失礼だと言いたいね。

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語学 2

2009年01月19日 | その他
ドイツ語で我流を通した話を続けよう。出稼ぎ労働者たちのたくましさに太刀打ちできずに語学学校を辞めたところまで書いた。

そこで僕が生活を抜きでも心から関心を以って話したいことといえば音楽以外にない、面倒だ、教えちまえ、と決意し、話せもしないうちに新聞広告を出した。ピアノ教えます、日本人より。

考えてみれば奇妙なことだが、数件申し込みがあった。ドイツ人の親は適当なのであろうか?

どこの馬の骨とも分からない外国人に数件の依頼があるんですよ、わが国で考えられますか?少なくともピアノを習うのに。

ともあれ広告を出して教えるといったからには教えなければならない。いや、一応面接には行ったのだ。したがって先方もこちらの「私ドイツ語へたある、説明あやふや、ピアノ生徒より上手らしい」的なドイツ語能力は理解したはずだ、詐欺罪は適応されまい。

いざレッスンを始めてみたが、さすがの僕も出稽古に出かける前は気が重く、出かけた後も気が重く、早い話が気が重く、胃の辺りが痛くなった。

それでもいざ生徒が弾けば、言いたいことは次々にある。まあ大抵の場合、易しい事柄なのであるが。それでも初めのころは、最初の一言が出なかったら調子も悪くなると思い、前回注意したことを必死に思い出しては今日の第一声を決めておいた。「君は先週は手首が硬直していたけれど、今日はやや改善されている」なんてね。

したがって最初の一言は文法的にも選択した単語も適切だったはずだが、その後はしどろもどろに「僕は君はこの曲はなかなかきれいだ。この部分を手はレガートはスタッカートではない。ベートーヴェン、ブラームスその他いっぱい」といった調子に戻るのだった。

出稼ぎ労働者のでたらめな会話でも通じたように、僕のレッスンも何とか通じたのが不思議だ。生徒のほうから単語とか言い回しを言ってくれて助かりもした。

思えばジョン・万次郎や、明治にパリの万博でフランスへ渡りそのまま居ついた大工もそうやっていったのだろう。そんな都合のよい、力強い空想を繰り広げながらあがいているうちに、何とか会話が成立するようになった。

それでも日本人的潔癖な頭は「ほら前置詞が間違った」「ほら発音が」と時折囁いたけれど、次第にこれも気にならなくなった。必要は発明の母というが、開き直りの祖母でもあった。

その後長く暮らして大幅に上達したとは思わない。日常の雑談で、日本語では駄洒落や他愛もない冗談が好きなほうかもしれないが、ドイツ語で駄洒落は結局できなかった。時々試みたけれど、頭で考えた駄洒落くらいつまらないものはない。

語学の先生に、少なくとも音大で教えている先生にお願いしたい。くだらないことに目くじらを立てないでくれ、と。くだらないことではないと叱られそうだが、シューベルトやシューマンの歌曲を聴いて美しいと思ったときにはドイツ語も美しいと思っているはずなのだ。

せめて嫌いにさせないで貰いたい。ドイツ語が所謂ドイツリートの中でどれほど美しく響くかをあなた方は知っているだろうに。なんだかよく分からないけれどきれいだ、というところからしか道は開けていないはずだ。

文字通り角を矯めて牛を殺すことになっている。学生の怠惰をいうより、克服したという自負をなくしたほうが人格形成上もよろしい。誰の?教師だよ。
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語学

2009年01月17日 | その他
和声学について、アバウトな和声学のすすめを書いた。ついでに白い目で見られることを覚悟してアバウトな語学の薦めを書いておきたい。

およそヨーロッパの言語のうちドイツ語くらい簡単なものはあるまい。なんて大きく出たが、他の言語を知っているわけではないし、ドイツ語も今やもう怪しいものだ。見栄を張らずにもっと正直に言えば、ドイツで生活していたころも怪しげだった。それでも英語がたいそう難しい言語だということは分かる。というより、何のことやら分からない言語だということが分かる。

吉田健一さんが何回も英語についてエッセーを書いているけれど、繰り返されるのは英語くらい難しい言語はないということだ。それらはいずれ紹介してみようと思っているが、今日はまずドイツ語はそれほどまでに易しいのに、大学生の間では難しすぎて授業は取らないほうが無難である、という空気があることに触れてみようか。

あとで(覚えていれば)吉田さんの言う「難しい」の意味にも触れましょうか。

ドイツ語を勇んで選んだ人は、まず最初のページからつまずく。名詞は男性名詞、女性名詞、中性名詞に分けられ、それぞれが定冠詞と不定冠詞をもつ。ここだけで英語に対して3倍のビハインドを持たされる。

動詞も人称によって変化する。ここでも英語は簡単でいいよなあ、とため息が出る。目的語も直接目的語と間接目的語がある。4格、3格というけれど。

形容詞の語尾も格や人称によって変化する。ことがここに及ぶにあたり、まず大概の人が憤然として教科書を投げ出し、ドイツおよびドイツ人を軽蔑する。ドイツは理屈っぽいからきらいだ。内心では「でもシューベルトやブラームスはきれいなのに、なにか変・・・」と一抹の不安を抱えながら、そのもやもやとした疑問を押しつぶしてしまう。

ただ、学生の中にはそういったこまごました事項を確実に覚えていくことに快感を覚えるのが必ずいて、当然のことながら成績がよい。しゃくだよなあ。

思わず怠け者の本音が出てしまったが、そういう「優等生」も世の中には必要さ。しかしこのような人種の一般的な特徴として、自分の努力が成功をもたらせたという満足感が強く、柔軟な発想に欠ける。その人たちの中で運の良かった人がドイツ語の教師になったりする。すると面倒な変化を覚えたがらない生徒を怠け者扱いにして、まあ僕を含めて怠け者なのは正しかろうが、悦に入る。他の学習の仕方もある、興味の持ち方もあると考えないのだね。自分が好きな道があれば、それにひとりでも多くの人が関心を抱いてもらいたいと願うのが人の情だと僕は思うのだが。そのためならば一工夫したり、些細なことは見逃しても一向に構わないと思うのだが。

僕もドイツで一応ドイツ語学校に通ったのだ。当時は僕のほかは出稼ぎのトルコ人、ギリシァ人が多かった。

授業の始めに型どおりの小テストがある。毎回返されるのであるが、僕だけが満点なのだ。すごい、と感心する人は、日本的な価値観にやられちまっているぞ。

その後、これも型どおりの授業があって、最後に自由な討論をする。当時はシュミットという人が首相を務めていたが、昨日のシュミットの外国人政策に対する発言をどう思うか、とかね。

ここでテストの満点が何の効力も持たぬことを思い知らされた。僕以外の人は、なにせ生活がかかっているのである。口角泡を飛ばすとはこういうことだ、と深く納得する勢いで喋るのだ。そのドイツ語はもう滅茶苦茶で、しかも不思議なことに僕にも何を言おうとしているのかが分かるのだった。

分かるけれども口は挟めない。当然だろう。こちらは身分も保証され、滞在許可も与えられているのだ。外国人政策といえども対岸の火事なのである。

結論は非常に早くやってきた。学校にいても時間の無駄だ、自分が話したいことを話す以外に方法はない。一番良いのは異性の友を作ることなのは、周囲の女性を見て得心していたが、これは僕の意欲がいかに旺盛でも如何ともしがたい。人間辛抱と努力でなんとでもなる、という教えに決定的に決別したのはそんな事情さ。

予想に反して長くなってしまった。続きは後にする。
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ドビュッシー

2009年01月14日 | 音楽
ドビュッシーもワグネリアンのひとりだと書いた。そして嫌うようになった、嫌うというよりは嫌悪といえるくらいらしいけれど、理由はニーチェがワグナーを非難する理由と大差ないとも書いた。ちょっと間が開いたけれど続きを書いておこう。

ドビュッシーはフランスの代表的作曲家ということになっていて、それはまあ間違いではないし、フランス人だからね、どうでも良いことだが、フランスに留学する人たちが勘違いしたらまずいだろうから、僕の感想を書いておく。

ドビュッシーのピアノ曲はむしろ昔のドイツ人たちのほうがうまく弾く。ギーゼキングの演奏を僕はまったく好まないけれど、いわゆるうすっぺらい音ではないことだけはたしかだ。この人は感じ方自体が冷たいので、音は冷たくない。

奇妙に聞こえるかもしれない。しかし楽音というのは冷たい感じはしないものだ。
ハンゼン先生もドビュッシーがじつに美しかった。正直に言えば、彼のレパートリーと目されているベートーヴェンやブラームスより僕は好きであった。

ドビュッシーのピアノ曲を弾いてみると、音楽の性質はまったく異なるのであるが、何といおうか、手触りとでもいおうか、これはブラームスに良く似ている。これはほとんど誰も指摘しないに等しいけれど。たとえば前の記事で挙げた「雪の上の足跡」でもよい、これとブラームスの小品群の任意の曲、Op.119の最初の曲でもよい、これと一緒に弾いてみたら分かる。音の重なるときの注意力、やわらかくて質量のある音が薄く薄く重なっていく手触り、文字通りピアノに触る感触、これがよく似ているのである。

フランスに留学したいという人たちが躓きやすいのはそこだ。フランスがお洒落だというのはまあ本当かもしれないが、森有正さんの本でも読んでから行ったほうがよい。だいいち数学の国であり、デカルト(これは正確にいえばフランス人ではないにせよ)やパスカルを産んだ国ではないか。あるいはフローベルを、バルザックを産んだ国ではないか。ヴァレリーやアランがつい最近まで生きていた国ではないか。お洒落で感覚的なフランスというのはそれらの上に見えている一種のゆとりなのだ。

そう見ていくと、典型的なフランス的な作曲家はラヴェルなのであってドビュッシーではないのだ。いくら彼の交友範囲がフランス象徴派の詩人や画家であったとしても、彼の評論集の文体がヴァレリーの「テスト氏との一夜」に似ていたとしても、音楽の手触りはむしろフランス的なものから離れる。

彼ら詩人との交流は、よく言われることではあるが、僕には大して重要なこととは思えない。彼らとの交流がドビュッシーの「考え」とか自負に影響したことだけは確かだろうが、音楽に与えた根本的な痕跡を僕は認めない。昔からドビュッシーの音楽を語ると必ずヴェルレーヌが言われ、マラルメが語られる。乱暴にいってしまえば僕は、全部寝言だと思っている。

ワグナーが描写する力量を誇ったのならばドビュッシーは印象を音に託した。あえて言葉で言ったらこんなことだろうか。音の組み合わせこそ違うが、根底でドビュッシーは最後までワグネリアンだったといっても間違いではあるまいと思う。

ドイツ風の厚みのある音という言葉も誤解されっぱなしだ。フルトヴェングラー時代の」厚みのある音はどこへ行った、とチェリビダッケが嘆じていた。熱っぽく温か味のある音と言いなおしてもよいけれど、それは決して濁らない。透明感を失わない。オネゲルが最上のドビュッシーの演奏としてフルトヴェングラーとベルリンフィルを挙げているのは至極もっともなのである。

すでに書いたように、ピアノ曲における感触はブラームスに似るが、それをいうピアニストは少ない。小林秀雄さんがドビュッシーをブラームスと同じような位置にいる人でしょうと評しているのは、どこから嗅ぎつけたのか分からないが、良い勘をしているといわざるを得ない。


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ワグネリアン

2009年01月11日 | 音楽
ブルックナーはワグナーの崇拝者だった。影絵でワグナーの前で腰をかがめている姿を見ることが出来る。

ワグナーは相手が誰であろうと、自分を賛美する人物を見つけて利用することに関して、じつにしたたかだったようだから、このようなブルックナーの態度を好ましく受け取ったに違いない。

ブルックナーの3番シンフォニーはトランペットが奏でる第一テーマで始まる。この開始をワグナーは大変気に入って、ブルックナーのことを「あのトランペット野郎」と呼んでいたそうだ。

トランペットで始まるだけならシューマンの1番の交響曲だってそうだ。でもこれはワグナーのお気に召したとはとても思えない。

面白いことに、ブルックナーがいかにワグナーを崇拝しようが、彼はワグナーの世界とは遠く離れたところにいる。あるところではシューベルトに似ているが、バッハの直系というほうが正しいとも思う。

ワグナーはこのようにあらゆる種類の夥しい信奉者を生み出した。ワグネリアーナ、あるいはワグネリアンと呼ばれる彼らの中でもっとも重要なのはニーチェだろう。

この人は後年、もっとも激越なワグナー批判者になる。このあたりの精神のドラマはじつに面白い。

ニーチェのワグナー批判は徹底していて、ということはそこで言及される細部は本当にその通りだ。同時にそれこそ僕がワグナーの音楽に心奪われる箇所なのだ。

ニーチェはワグナーを「細部における天才」とよんでいる。

たとえば「ワルキューレ」でヴォータンの言いつけに背いて(それは本当はヴォータンの本心なのだが)ジークムントを救おうとしたブリュンヒルデが永い眠りに就かされる場面がある。

ヴォータンは神性を剥奪された最愛の娘が眠る大岩の周りを火で囲み、この火を恐れずに越えてくる勇者だけが眠りを解くようにする。彼が杖を一閃するとローゲという火の神がブリュンヒルデを取り囲む。燃えさかる火の様子が、火の粉までピッコロ(だったかな)を使って表現される。鮮やかな手つきだ。

また、ブリュンヒルデが永い眠りから目覚める。ついに火を恐れぬ英雄が、これがジークフリートなのだが、現れたのだ。そこでの音楽の見事さ。僕たちは永い眠りの時間とまぶしい日の光とを同時に「見る」と言ってもよい。

このような才能をニーチェは「細部における天才」と呼んだのである。ニーチェの非難はたった一点に尽きる。ワグナーは自身の才能のありようを知らず、身の程知らずにも救済劇を創ろうとした。非常に簡単に言えばそういうことだ。

そのニーチェに対してもっとも本質的な批判をしたのはフルトヴェングラーで、「ワグナーの場合」という論文はきわめて優れたものである。

今僕はそれについて語りたいのではない。音楽家の中で、ワグネリアンであり、そこから反ワグナーになったドビュッシーについて、一片の感想を述べておきたいだけだ。書き始めたらつい他の方向に行ってしまった。結局分かったことは、僕がドビュッシーについて言いたいことは多くないということだな。

ドビュッシーのワグナー嫌いは、ニーチェのそれとほとんど変わらない。ニーチェの切実さが欠けているだけだ。もっとも、それは不名誉なことではない。

彼は情景を、印象を描写する。そこから神話を拵えようとはしない。彼の描写の力もワグナーとは違うけれど見事である。プレリュードの中のいくつか、たとえば「雪の上の足跡」や「ヒースの咲く荒地」など、実に良い。

書きたいことはあまり無いと書いたとたんにひとつ思い出した。忘れてしまいそうだから題を改めて書く。

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2009年01月08日 | 音楽
小林秀雄さんの講演がいくつもCDになっている。僕はカセットテープ時代から持っていてよく聴いたものだ。

最近、雑誌の付録に小林さんの講演集の抜粋が付いているのがあり、それを聴いた。ゴッホについて語っている講演の一部だ。これは聴いたことがなかった。しばらく情報漁りをしないと次々に出ているものだなあ。

雑誌ではちょっと前に触れた茂木健一郎さんが小林さんの孫、つまり白洲正子さんの孫でもある白洲信哉さんと対談している。改めて茂木さんというのは人気の学者なのだと思い知った次第。

読んだだけでは分からないけれど、白州さんはやはり身内のこととなると語りにくいのかな。素顔の小林さんを語るところなど、面白いのだが、白州さんの素のまま語ることが少ないように思う。やはり一文士として見る事ができにくいのかな。

小林さんが五味康祐さんと音楽対談をしたこと、それは出版させてもいることは書いたことがあるように思う。ここで小林さんが言っていることは、例によってたいへん直感的に正しいことなのだが、それは読む人が勝手に判断するだろう。

僕は、いつのことだったかもう定かには思い出せないのだが、ずいぶん繰り返し読んだ。五味さんが「原音」に近づくオーディオをどうしても求める、というのに対し、原音なんていうものは無いのかもしれないよ、と答える。だって実際にあるんですから、と抗弁すると耳だって聴きたいものに焦点を合わせるかもしれない、耳はカートリッジではないよ、とたしなめる件がある。

耳という精神の働きを機械的な現象に置き換えようとするのは間違いだ、というのである。

この対談を読んだとき、僕は五味さんの幼稚さにあきれた記憶がある。いま読み返しても、読み返すまでもないくらい繰り返し読んだのだが、感想は変わらない。

後年、たしかこばやしさんが亡くなったあと、誰かとの対談で五味さんが(五味さんは小林さんを尊敬していた)音楽に関して小林さんはねえ、と曖昧にだが批判めいたことを言っていたのも知っている。中島健蔵さんもそうだ。要するに耳が無いから、ということだ。

一流の文学者だってこうして耳があるだの無いだの言うしかないのです、演奏や音について書いたり言ったりしようと試みると。僕から言わせりゃ「このばかやろう」ということになるのさ。因みに「このばかやろう」とは、小林さんの「スランプ」と題する一文中の言い回しで、僕はそんなストレートな表現をいたしません。

話を小林さんと五味さんの対談に戻す。これを読んだときには小林さんが五味さんの意見をたしなめるのがとても厳しいと感じたものである。

それでも後年、対談全体がカセットで売り出されてみると、小林さんはたぶん酒も入っているのだろう、終始上機嫌である。ははあ、この人はこういう声も出す人なのか、と感慨深かった。

おそらく音楽が話題になっているときの声はこういった感じなのではなかったか。
その録音から起こされた原稿に手を入れて出版されるわけだが、なるほどこうやって活字にするのか。順序が入れ替わったり、表現が違えられたり省かれたりしている。それも面白く思った。

活字からは声が聞こえてこないのは当然かもしれない。でも、昔の和歌なんて、投稿するわけではなく、大昔は当然ながら、良寛の時代だって手紙にしたためたりするのが通常だったから、歌は当人の声とともに相手の心によみがえったわけである。

活字のみからの印象と耳に訴えかける印象の差、これはむしろ演奏に携わる人たちによく考えてもらいたいことである。
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携帯電話騒動

2009年01月05日 | その他
このところ各地で携帯電話を学校に持ち込むことを禁止する規則ができて話題になっている。理由は大別してふたつ。

授業中に携帯で遊んでいる生徒が多く困るというのと、危険なサイトに接続する例が後を絶たないということだ。

僕は基本的にいろいろな規制には反対だ。家庭ごとに、個人ごとに決めていれば良いと考える。

授業に集中しないというが、集中しない子供は何を規制したところで集中しないさ。僕が小学校の低学年の頃授業参観があった。後ろには父兄の目がたくさんあることなぞ考えもしない餓鬼だった僕は机の下で本を読んでいて先生に注意された。

仕方なく手を机の上に出した僕がしたことは、本を床に置いて、足でページを繰るというアクロバットであった。この新たな手口は先生の目を盗むのには成功したが、後ろに控えていた大人たちからは丸見えだった。僕はたしか後ろから2番目あたりに座っていたはずだ。あとでこっぴどく叱られたのは言うまでもない。以来僕は授業参観のときに足で本をめくるのはやめた。他のとき?知らんよ。

この場合、学校に本を持ってくることを禁止するだろうか?素朴な質問だ。僕はどんなときでも素朴な疑問しか持たない。この場合でだけ結論を出すのなら、携帯電話は感心しない機器だ、というイメージが大きな役割を果たしている。

もうひとつ、魅力のある授業は(例外もあるだろうが)熱心に聞く生徒も多いというのも真実だ。携帯電話のせいにするのは僕の方法ではないな。

さて、禁止のもうひとつの理由はもう少し厄介だ。しかし、ここでも基本は同じように考える。

出会い系サイトというものは使ったことがないけれど、見当はつく。つくから怖い。サイトばかりではない。

これも僕が自身で体験したことで、高校生の頃だったが、家にチンピラ数人が押しかけてきて非常に怖い思いをした。ちょっと注意をしたところ、仲間を引き連れて家まで来たのだ。どこまで本当か分からないが、横浜に当時あった組の傘下だとわめいていたのを覚えている。

以来、外で他人に注意することは控えている。時折メディア上で、最近は他人の悪い行動を見てみぬふりをする人が多いとか言うでしょう。軽々にそんなことを言うものではないよ。

出会い系サイトの危うさ、暴力団の怖さ、その他諸々のことは、形ばかりでなく教えなければいけない。携帯を禁止したところで、つい先ごろまではダイヤルQ2というのが盛んに批判されていたではないか。そしてこれはまさかそんな目的で設置されたサービスではなかったはずである。禁止されたって繁華街に出て行けばもう危険さ。深夜にあちこちに中学生くらいと思しき子供たちがうろうろしているのを見ると、親は注意をしないのかしらん。と思う。

日本人が海外に出るとなぜきわめてガードが甘くなるのか。それは犯罪件数、また重大犯罪にしても、海外がはるかに多いということを知らされていないこと、日本国内で、人間社会の危険な一面を本当には見せずに、ふたをする方向にばかりベクトルが向くから、というのも原因のひとつではないか。

僕のイタリア人の生徒のお父さんは、自分の故郷でネックレスを首からかけていたのを(当たり前だけどね。ネックレスで縄跳びをしていたなんて言ったら面白いかもしれないが、ここはリアリズムでいこう)強引に引きちぎられて大怪我をした。海外旅行に行く場合、所謂良い身なりで行くのはすでに危険なのだ。

ただ、日本の犯罪件数がずっと少ないといっても、それを危険ではないと捉えるのは間違いだろう。危ないことは至る所にあることをしっかり教えることだ。

喧嘩はいけない、という建前から、子供社会から喧嘩を取り上げる。公園で遊ぶ幼児からすでにそうだ。喧嘩をさせろ、と思う。たたかれたら痛いことを知れ。たたいてばかりだったら仲間はずれになることを知れ。そういったものは実地に限る。道徳の教科書などいらない。千円落ちていたらどうしますか?おとなの気に入る答えくらいだれでも分かる。そういった気休め、大人の気休めばかりしていると、うそ臭い言葉だけが並ぶ世の中になる。

禁止論者たちは、仮に生徒が従順に従ったとして、その後をどう考えるのか。無菌状態で大人になれとでも言うのか。

そうではないだろう。怖いという感情も含めて人の情緒を尊重しようとする以外ないだろう。取り上げて当面の「危険」を回避するようなことばかりしないほうがよいと思う。

自分たちが子供の頃はなかった(当たり前だ)様々な機器や様相に戸惑うのはちっとも構わないが、もう少し冷静に対処するべき問題だ。
コメント (1)
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