季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ピアノのタッチとは

2016年03月29日 | 音楽
ルノアールはゴッホについて、技術に過剰な自信を持つ人による技術の濫用、と誤解していたらしい。「絵は絵筆で撫でられるように描かれなければ」と言ったそうだ。

確かにゴッホの絵筆の動きは荒々しく、劇的である。

ルノアールはルノアールで、上記のような感想を述べるに相応しい撫でるようなタッチだ。

セザンヌの慎重な、重ねていくようなタッチも特徴的である。

タッチという言葉の持つ意味は、何ら不思議なものなぞなさそうである。

ピアノのタッチと言ったところでどこにも意味の分からない処は無さそうに思える。

そこでピアノ関係者は口を揃えて、優しいタッチ、力強いタッチ、繊細なタッチ、僕タッチ、私タッチなどと口走る。

試しにピアノ、タッチなどと検索してご覧なさい。ある説によれば10通りのタッチがあるそうだ。僕の説によれば108通りなのだが。ボーンと響きノーンと反響する。

オペラグラスでタッチの研究をしている人もいるという。僕は顕微鏡を使っているぞ。

疲れていると詰まらぬ脱線ばかりしてしまうが。襟を正し真面目に続けよう。

例えば熱情ソナタを冒頭から追ってみようか。ピアニシモのユニゾンがあり、直ぐに和音と右手にトリルがある。これが2度繰り返され、低音に運命のモティーフが現れる。この音型がいきなりフォルティシモで奏され強烈な走句になる。

フォルテの和音に続けてピアノの和音が来る。

続けて冒頭の音型の変化形が最初の2音ピアニシモで、続いてフォルティシモで奏される。

この調子で書いていくと気が遠くなるから止めておく。

ここまでで一体何通りのタッチが使われるというのだろうか?タッチというものを普段通りに使うとこんなことになるのである。

もちろんその辺りは、あるタッチはひとつのニュアンスとは限らず、あくまである種の特徴を纏めたにすぎない、とか僕の知らないであろう理論が確立しているのであろう。

しかしピアノのタッチというのは、もっとずっとずっとシンプルなものだ。シンプルというのは簡単に出来るということではないからね。

鍵盤が沈む過程において、音が出るポイントがあり、そのポイントを今弾いている箇所に相応しいように捉えてあげること、もっと簡単に言えば音が出るポイントを身体全体で知ること。それをタッチというのである。

荒々しい、繊細な、深い、浅い、それらは曲のある部分の表情などであり、それに応じて音を出しているにすぎない。

その際に特有な手の形、指の形、身体の動き方等々が現れることもあるだろう。しかしそれを外側から観察していく通りかの「タッチ」に纏めたりするものではない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インタビュー

2016年03月12日 | 音楽
前回の記事の補遺みいなものだが。

近頃はメディアが身近になったせいか、コンクールや演奏会の前後に取材やらインタビューやらがある事が多い。

何に注意して演奏しますか、演奏しましたか?これがそこでの定番の質問らしい。

練習の時には色々とあるさ。計画、注意、希望など。絶望だってあるかもしれないではないか。

しかしいざ人前で弾くときに注意も希望も絶望もヘッタクレもないのである。顔芸する輩ですらそうである。

バカな質問するんじゃないよ、という訳にもいかず、ハイ、○✖️△を考えて弾きます、弾きましたと答える。

全くもって付ける薬が見つからない。日本のジャーナリズム?には。

僕は卒業試験にベートーヴェンのOp.31を弾いた。

確か朝1番目だったはずだ。教室で練習をしていたら教授の1人が入ってきて、やおら「この様な曲を選んだ君に敬意を表します」と深々と一礼して出て行った。

うるさい邪魔だ、早よ失せろ、と僕は恨めしかった。集中なんか出来たものではない。いいさ、出来が悪かったのはこの教授のせいだとしておこうっと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感情の伝播

2016年03月10日 | 音楽
もらい泣きというのは誰しも経験しているだろう。人に伝播するのはまた悲しみだけではない。

あらゆる感情は伝播しうる。ドストエフスキーの「罪と罰」でラスコオリニコフがソーニャに、婆とその妹リザヴェータを殺したのは自分であると告白する。はっきりとした言葉も無しの告白なのであるが。この場面は実に美しい。そしてソーニャの恐怖が奇妙なことにラスコオリニコフに伝播する。

若い人がコンクールで優勝する。インタビューは判で押したように、これからの抱負を訊ねる。するとこれまた判で押したように「これからは人を感動させるような演奏家になりたい」と答える。

人は他人を感動させることなぞ出来やしない。出来ることは己が感動することだけである。その心の波長にもしかしたら同調する他人がいるかも知れない、ただそれだけである。このような考えは難しいことであるか?僕には一番簡単な、当たり前のことに思われるのだが。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月の講座

2016年03月04日 | 音楽
3月27日(日)14:30開講
KMアートホール(京王新線・幡ヶ谷)


今回取り上げるのはリストの編曲したワーグナーの諸作品の中で「イゾルデの愛の死」です。

僕はリストの編曲に関心を持って接したことが無い。名高い「リゴレットパラフレーズ」も何とも退屈だし、人気がある「献呈」にしてもシューマンは顔を背けたであろうという出来だ。

すべてはリストの善意から出たものだろう。諸君!ここに素晴らしい作品がある。私がそれを紹介しよう、聴いてくれ給え。
そんな声まで聞こえそうだ。

リストという男は、善意ほど人を傷つけるものはないということを嫌というほど感じさせる人だ。

ブルックナーの弟子たちを見てもそうだ。彼に改作を勧め、気の弱いブルックナーはそれを受け容れて、それなのに遺言が「自分の曲は元どおりの姿で演奏して貰いたい」哀しすぎる。

しかしリスト=ワーグナーは善意と恩着せがましいところは非常に少ない。

この曲は最近では取り上げられる機会が増えたのでしょうか、youtubeでも幾つも見かけるようになりました。

いわゆる指さばきが難しくないからでしょう。しかしもっと他の事柄、ポリフォニーの処理、ハーモニーを美しく作る能力など、技術的、音楽的課題はどっさりある、練習して面白い曲だという風に受け止められてはいないようです。

第一、ワーグナーの曲を聴いてはいるでしょうが、それはこの曲を「料理」するためであって、深い愛着をもって聴いてはいなさそうだと聴こえる。

そんなことをひとつレッスンしてみたいと思いました。

ラ・カンパネラは説明を要しないですが、これも僕は気持が動くことが少ない。でも大層人気があり、といってここでの技術的課題が他の作品にどう生かされているのかも曖昧です。練習曲というからには、リストといえども何かの意図を持っていたはずでしょう。

その点にも言及します。

はじめに四年生の女の子が無言歌を二曲弾きます。モーツアルトやハイドンをとても上手に弾き、初めてロマンティックな曲への入口に立っています。

そんな生徒に無言歌などは最適です。残念なことに昨今ではほとんど真面目に受け取られていないのですが。

化粧を施して一見豊かな表現だと騙すのは簡単ですが、それをすればするほど表現から遠ざかる。これも現代では理解すら難しくなってしまったのでしょうか。

同じ年頃のお子さん、生徒さんをお持ちの方も是非足を運んで下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする