季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

むかし話 その後

2016年04月18日 | 動物
ウサギの寿命は6、7年と言われる

大邸宅、何度も言うがうさぎ小屋としてはだぞ、に住んだポチとプチは寿命をはるかに超えて14歳まで生きた。

その結果、男の家は通常のむかし話と違い、宝ものが見つかるどころか、光熱費の高騰で傾いた。24時間完全暖冷房なのだから無理もない。

あまりの金額に音を上げて、何とか家庭で電気をつくりだせないかと頭をひねった。

自転車こぎで電気を発生させるというアイデアとか、暇なのを幸いバカげたことばかりを本気で考えた。その際、どれ位こぐ必要があるのかまるで考慮していないのはご愛嬌であろうか。

筆者はこの男と面識があるばかりか、少し詳しく知っているといえるほどである。

ところが彼の諸事一般への知識ときたら適当なもので、筆者は家族が彼を「てき父さん」と呼ぶのを聞いたことがある。諸事一般どころか、彼の専門分野でも適当らしかった。

筆者は偶然この男の「専門分野」のブログを見つけ一読したが、なるほど「てき父さん」とは言い得て妙だと深く納得したのである。

しかし彼は信仰心だけは篤く、筆者も彼が昔話で動物達が恩返しをする話にいたく心動かされているのを知っている。そのために毎週富くじを買っているのを見るにつけ、「待ちぼうけ」を地で行っているではないか、との感想を持ってしまうのは無理らしからぬ所であろう。








むかし話 その2

2015年06月16日 | 動物
ポチと暮らして数ヶ月が過ぎた。ポチの生活はペット売り場の棚の下から大邸宅へと、もちろんうさぎ小屋としてだが、大変遷を遂げた。しかし男の生活には何の変化もなかった。

ある日、変わらぬ生活のまま町に出て件のペット売り場がある店の近くをさまよっていた。

売り場はその後どうなっているだろう。この手の詰まらぬ好奇心は男の心をすぐにとらえるのであった。

今回は棚の下に隠れたうさぎもおらず、男は心安らかにピーターラビットを眺めるのであった。

そのうち若いをなごが店員を呼び、一匹の子うさぎを見せてくれろと頼んだ。

見てくれの悪くない子うさぎであったが、ゲージから出そうとすると大暴れする。

店員がをなごに「この子は神経質だから買わない方が良いです」と進言し、結局他の子うさぎを連れて帰った。

男は足りない頭をひねったが、この調子では誰も神経質なうさぎを買わないであろう、ということだけは理解した。

ままよ、この子も連れて帰っちまえ。この時点で恐らく日本昔ばなしよろしく、何か良いことでも起こるのではと期待したのかも知れない。

男の知識は中途半端であった。鶴は恩返しをしたし、犬やキツネも富をもたらせたりしたが、うさぎはせいぜいタヌキの舟を沈めたり、皮を剥がされたりしただけだった。それをすっかり忘れていたと見える。

かような次第で、引き取られたうさぎはポチより小さかったのでプチと名付けられた。因みに、これまたほとんど無料に近い値段で、スーパーの特売でもあり得ないと男は満足であった。

神経質だったはずのプチはポチと違い、食い意地が張っておった。順調すぎる成長をして、瞬く間にポチの倍近い体重を誇ることになった。

うさぎはデリケートで、骨もガラス細工のようだ。獣医もうっかり扱うとショック死することもある。指南書にはどれにもそうある。

ところがプチは陶器のトイレを咥えては打ち下ろし割ってしまう。本当にピーターラビットであろうか?

疑念を抱きつつ男は獣医に訊ねた。そして訊ねたことを後悔した。獣医は大笑いして言ったのである。雑種ですよ。

では売場で付いていた値段は何であったのか。お買得の幸福感は去り、男は石川啄木よろしくじっと手を見るばかりであった。




むかし話

2015年06月15日 | 動物
ある所に男がおった。その男は音楽を生業にしておった。といってこれという仕事もなく、昼日中からあっちの店こっちの店を覗いては散歩と称しておった。

ある日、当然目的もないまま、ペットコーナーに立ち寄った。そこにはピーターラビットのモデルになったといわれるドアーフというウサギが多数並んでいるのだった。

男に買えるはずのない値が貼られていたが、ふと気づくと、子ウサギたちが並んでいる台の下に真っ黒な、もう子ウサギとは言えなくなったウサギが丸まっている。

店員に訊ねたところ、もう1年近く売れないのだという。性質は良いのに、ねぇクロちゃん、と話しかけるところをみると店ではクロちゃんと名を付けて可愛がっているようではある。

しかし店が売れ残りをずっと飼うことはできない相談だ。男は足りない頭をひねった挙句、自分が飼うことにした。彼はウサギが好きだったのである。

好きだっただけで買える道理もない。クロちゃんには値札がついておらず、不思議に思った男が値を訊ねたところ、引き取って頂けるなら代金はいりませんとのことであった。そこで男は買うことにした。こういう買い物もある、と男は満足であった。

店員は店員で大喜びで「クロちゃん良かったね」を連発した。中古のゲージに申し訳程度を支払って男は帰宅した。

クロちゃんはポチと名を代え、男の暇つぶしの相手をして暮らしましたとさ。

センチメント

2009年07月31日 | 動物
もうかれこれ8年ばかり前のこと。

近くに東急ハンズがあり、そこにペット売り場があった。基本的に動物は好きだから、時折覗いて楽しんでいた。基本的にというのは、ワニ、ライオン、ヘビ、ダニ、ゴキブリあたりはちょっと飼えないなあ、といった意味合いだ。

ある日、なんて書くとなんだか昔話のお爺さんが出てきそうだが、お爺さんならぬ一音楽家が通りかかったとき、売り場の台の下に隠れて、黒いウサギがケージに入れられているのが眼に留まった。

値札には2万円くらいの値がついて、ピーターラビットのモデルになったドアーフという種です、とあった。今日、ウサギの値段を知ってしまった身としては、これは異常なくらい安いのだが。

店員に訊くと、もう1歳を超えているのだという。真っ黒にやせた姿を見ていたら不憫になり、つい買ってしまった。店としてはきっとお荷物だったのだろう、ゲージ付きで5,6千円だったように記憶している。要するにケージを買ったらウサギがおまけに付いてきたということだ。

店員には人気があったらしく「クロちゃん、よかったねぇ」と声をかけられた。どうやらクロちゃんと呼ばれていたらしい。性質が良いのに、なぜか買い手がいなかったのだという。確かに飼いやすい性質で助かった。考えてもいなかった動物が我が家に来て、また家計は逼迫する。なんだかやけくそになり、ウサギはポチと命名された。獣医で「ポチちゃん」と呼び出されると他の患者から失笑が漏れる。

さてそれから数ヵ月後、またしても吸い寄せられるようにペット売り場に行ってしまった。こうした心理は何だろうね。電車の中で目つきの怖い人がいると、見てはいけない、見てはいけないと思いながら、つい見てしまいたくなるでしょう、あんな感じ。

今度はほかに客も数人いて、一人の女性がドアーフの子供を買おうとしていた。僕はそれを微笑ましく見ていれば良かったはずだ。店員がやってきたが、あろうことか「この子を買わないほうが良いですよ、人になつきませんから」と言うではないか。

女性はしばらく逡巡してそのウサギを見ていた。横で見ていた僕は、店員の言うのも無理もないと思った。その子ウサギは、店員が抱き上げようとすると気が狂ったように跳ね回って逃げる。とても愛玩には適さない。

結局、買いに来た女性は、隣にいたおとなしいウサギを買って帰った。僕はつまり一部始終を見てしまったわけである。

さあ弱った。店員からまで見放されたウサギはどうなるのだろうか。僕を知らない人は知るまいが、また、知っている人も知るまいが、僕は情にもろい。スポーツの監督になっていたら大変だったろう。

あの選手を使うわけにはいかないが、そうなると首だなあ。その後の生活はどうするつもりなんだろう。ええ面倒くさい、そのまま使っちまえ。負けりゃいいんだろ、なんてことになり、首になるのは僕自身だろうね。

このときも、ええ面倒くさい、家で飼えば万事オーケーじゃないか、1匹も2匹も同じことだ、となってしまった。いまいましい。こんな調子では怖い目つきの人をひたと見つめてしまうかもしれない。この子もケージ代金の方がはるかに高い値段にまけてもらった。

今度のはポチより若くて小さかったのでプチと名づけた。普通ウサギは人に平気で抱かれるものだ。ところがプチときた日には、触ることすらできない。

それでも食欲がある。気づいたらとてつもなく太っちょのプチになってしまっていた。

近所にウサギ専門の獣医があり、それでも2匹とも病気ひとつしないからお世話になることも無いまま時が過ぎた。

ウサギは爪が伸びる。あまり長くなると傷つく危険があるため、病院で切ってもらいに行った。もしやと思い、この子達はドアーフですかと訊ねたら、若い医者はプッと吹き出すではないか。やはりそうだったのだ。ポチとプチは雑種だったのだ。丈夫なはずだ。

ポチは相変わらず性質が良い。プチは身分が保証されたとたんに性格が一変した。触らせないのは相変わらずだが、気に障ると夜中、後ろ足で床をダンダン蹴る。食事を与えようとするときだけは、もの凄い勢いで跳び付いてくる。鋭い歯で手に噛み付いてくる。怖くて餌も与えられない。ウサギの飼い方という本によると、ウサギはガラスのようにデリケートだとあるのだが、プチは神経質かもしれないがデリカシーは無い。それどころか、ウサギは猛獣だと知った。

因みにポチはオス、プチはメスだ。え、何か意味があるかって?べつに。


学校のウサギ

2008年09月11日 | 動物
今でもたいていの学校でウサギなどを飼育しているのだと思う。僕はこれを即刻止めてもらいたいと願っている。

僕はウサギに詳しい。昔から詳しい。小学校時分、銀座通りでだったか、売っていて買ったことがある。

若い人へ。銀座でコンクールや発表会があるとふらつくのが楽しみでね。でも、今と違って、ウサギを売っていたり、怪我を負った軍人が白い服を着て杖を突き、物乞いをしていたりでね。こんな昔話をすると、ああ僕もジジイになったなあとしみじみ思う。未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声だったっけ。本当だよなあ。

さて、家でウサギが跳ねるのを見て、僕は満足であった。数日後ウサギは死んだ。

今にして思えば、水を与えなかったのだ。可哀想に、どんなにのどが渇いたことだろう。当時、ウサギは水を飲むと死んでしまう、という俗説が流布していた。この俗説は今も残っている。子供の僕がそれを疑うのには幼稚すぎた。母親および父親が、ペットをもっと本気で大切にするべきだったのだ。いくら情報を集めることが困難な時代とはいえ。

僕が詳しいというのは、つまり、そのレベルということだ。

この不幸なウサギのことは僕は今でも思い出す。今、我が家には2匹、高齢になったウサギがいる。小さい種類で、両手にすっぽり入る。もっとも一匹はデブで、凶暴だから両手にすっぽりなんて可愛いことはないが。なにしろ餌を与えようとすると、早くくれと飛び掛ってくる。歯が鋭いから痛いのだ。この子達の水を飲む姿を見るたびに、死んだウサギを思い出す。

二匹のウサギは雄と雌だから、離して飼っている。ヒポナッチ級数というのはウサギ算というくらいで、ウサギの繁殖力は旺盛だ。しかも避妊手術が大変難しい。隔離するのが現実的な唯一の避妊方法である。

また、雌同士は良いが、雄同士だと噛みあいになって、耳くらいちぎれてしまう。歯は干草とか野菜を食べていても伸びてくるから検査が欠かせない。伸びると食欲がまったく無くなって、放っておくとすぐに死ぬ。伸びた歯は、麻酔をかけて削るしか方法がない。

こんなことを書くと「そんなに面倒なものか。では野生のウサギはどうやって歯が伸びるのを防いでいるのだ?医者にかからずにやっていっているではないか」という人が必ず出る。

簡単さ。次々に死んでいるのさ。だから旺盛な繁殖力があるのだ。

学校で何らかの動物を飼う理由は何か。子供達に情操教育を施そう、ということだろう。控えめに言っても、かなり怪しげな発想である。そんなに簡単に情緒が育まれるのなら誰も苦労しないね。

そもそも、動物が嫌いな人は情操面で問題があるというのだろうか。動物が苦手だという人だってたくさんいるのだ。まさかその人たちが人でなしと言うのではあるまい。

動物を飼っていると、たしかに癒される。それは僕が動物が好きだからだ。札束を見ていれば癒される人だって必ずいる。それもたくさんいる。僕?どちらか分からない。まず、それを知るために持ってみたいものだな。

動物好きな教師が、ぜひ子供たちにはこの気持ちを一緒に味わってもらいたい、と願うのは自然である。しかし、もしもそうであるならば、その教師が率先してウサギ小屋を掃除し、餌をあげ、ある時には獣医に連れて行くことをするべきだ。範を垂れるとはそういうことだろう。飼う以上、それをしない限り、子供は動物を物以下に扱うことしか覚えない。可愛い可愛いと都合よく抱き上げるばかりが動物を愛することではあるまい。その教師はとんでもなく忙しくなるだろうが、動物を通して情操を豊かにと願う以上、やりとげなければならない。

もうひとつ。動物が好きになれない子に、無理強いしないことだ。これは難しいぞ。動物好きは良い人だ、という馬鹿げた考えを捨てることだ。

序でに触れておくが、ウサギを扱える獣医は少ない。良心的な人ならば「自分はウサギは診られない、扱えない」と、専門医を紹介するくらいデリケートなのだ。ウサギを飼っている学校の教師たちの何人が知っているか、訊ねてみたい。

要するに発想が安直なのだ。その上、良いことに決まっていると信じて疑わないものだから、それを止めることすらできない。子供は知らぬ間に大人の怠惰を真似する。いつくしむ心、なんてお題目をいくら唱えても無駄なのである。

それくらいなら、何もしない方がよほどましだ。センチメントからは何も生じないだけではない。無感動が生じるのである。