季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

3月25日(日) の講座

2018年01月24日 | 音楽
上記の14:30から京王新線・幡ヶ谷のKMアートホールにて。

ベートーヴェンのソナタ・ニ長調Op.10-3のレッスンを通して形式の実際上の意味合い、またそれに対しての技術など、出来るだけ掘り下げて示したいと願っています。

HPで案内してありますが、HPは分かりづらいことになってしまっています。何とかしたいのですがそれも叶わず、少しずつ作り直しているのですが時間がかかるようです。

そんなわけでまだ先のことをここでお知らせする次第。記事は流れてしまうので3月に入ってから改めて又投稿するつもりです。
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人工知能

2018年01月22日 | その他
少し前のニュースだから知った人も多いかもしれない。

18歳だったか19歳の女の子にセットされ、ネット上での会話を通して人とのコミュニケートが取れるようになる人工知能が発表された。

そうしたニュースに接するといたずらに興奮する人と一抹の不安を感じる人がいるものだ。

そして結果であるが、その人工知能は瞬く間にヘイトスピーチを覚えてしまったという。

慌てた開発者は取り敢えず電源をオフにした上で目下プログラミングを改良しているそうである。

思わず大笑いしてしまった。

あまりに予想された通りの結末で、電源を切ると機能しないことに安堵するだろうか?

それとも人工知能を通しても人間の浅ましい面が露わになったと不安になっただろうか。

電源を切られてもそれを無効にする知能が備わった暁にはどうするのか、そんなことも含めてすべては予想不能であろう。

人間とのコミュニケーションを通じて発達する知能など、なるほど可能なのかもしれないが、諦めた方が良さそうである。

仮にお堅い人とだけ会話を許可したとしても、やたらに融通のきかないものになるかも知れない。あなたの敬語は間違いです、従うことを拒否します、なんてなりそうで僕はそんな空想を楽しんでしまう。
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厳しさ?

2018年01月17日 | 音楽
音楽そのものからは何のストレスも感じない。レッスンからも感じない。

しかし音楽を取り巻く様々なことに対しては余りに色々あって苛つく。

以前も書いたのだが、子供のコンクールでも一位無し、二位無しなどなど、首をひねりたくなることが多い。

主催者側、審査員も含めて、からすると点数が満たなかったとしてコンクールのステータスを担保したいという思惑があるだろう。

また音楽は甘いものじゃありませんぜ〜というありがた〜いお言葉でもあろう。

だが待ってもらいたい。たかが幼稚園児、小学生などが相手なのである。そんなチビちゃん相手に何を力んで自分達のステータスを示そうとしている、ベラボーめ。

と口汚く罵りたくなるほどのことだと僕は思うね。僕が口が悪くなってしまった責任を取っておくれ〜。

これが国際コンクールとかなら分からないではない。賞金も多いしエージェントも付く。

しかしね、素頓響音楽コンクールなんて子供達が励みになれば良いから立ち上げたものだろうに。年もいかない子供相手に何を力んで難しい顔をしているのだ?

駆けっこだって一等無しの二等なんてないのだよ。オリンピックで金銀無しの銅メダルがあるかね?

今度の平昌オリンピックからでもそうしますか?



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行儀が悪い

2018年01月12日 | 音楽
前の記事を投稿した後に思い出したから書いておく。

数年前ウィーン少年合唱団が近くに来たから聴きに行った。その時は地元にほど近い、日本の少年少女合唱団が賛助出演していた。

だいたいヨーロッパの少年合唱団は行儀が悪い。バッハゆかりのトーマス教会合唱団なぞも姿勢はまちまち、歳のいかぬ子供は足をぶらぶら、そんな有様だ。

しかしその様子は僕に不快な感情を抱かせることなく、微笑ましくすら思えるのである。

ウィーン少年合唱団も例外ではなく、座って出を待つ間には足をぶらぶらさせていた。 また、目の前に掲げる楽譜の高さもバラバラで、背の低い子の隣に大きな子がいたり、ひとことで言えば統制が取れていないのだ。

一方日本の子供達は測量でもしたのかと思えるほど掲げる楽譜は揃い、起立も着席も一糸乱れぬ行儀の良さだ。

肝腎の歌声は日本の子供達のは良く揃っているものの薄いのである。どういえばよいのだろう。蒸留水を飲んだかのようだとでも言うのだろうか。

音楽と行儀とは関係ないと言うが、上手ならば行儀が悪くても良いのか?という人に。

いかにも、それはもっともだ。僕とて上手ならば不作法も許すなどという意見を持っているわけではない。

この時のウィーンの子供達は、なるほど日本式に躾けられた振る舞いではなかったが、決して眉をひそめる人はいなかったはずだ。

前の記事で触れた、脚台無しでの演奏は行儀が悪い云々に対して少しだけまともに書いておこうかと思った次第である。

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踏み台

2018年01月09日 | 音楽
僕の見るところでは子供に足台は必要ない。本来なら話題にするまでもないのだが。つまり使う子供がいても構わない。

足台を使わぬ場合、当然ながら足はぶらぶらする。でも不安定さを避けるために椅子に深く座ればお尻でしっかり座ることになる。

つまりしっかり座ることさえできるなら足台が有ってもちっとも構わない。そこを指摘できない場合でも、足台無しにすればいやでもお尻で支える道理だ。

ただ、昨今では足でしっかりと支えよ、という教えも多いと聞く。

いったいどんな根拠に基づくのだろう?ある程度弾ける人ならば絶対に足で支えて弾いているはずはないのだ。足で支えて弾けと主張する人は単なる観察不足である。

ある人に拠れば右足はペダルを踏むのだから左足でしっかり踏ん張るべきなのだと説く。

では高音部を弾くのはいったいどうやるというのだろう?かくしてこの高説をまともに受け取った人だけがピアノ学習レースから脱落する。

と書いて来たら足をつかずに弾くのは行儀が悪いと叱られたという人が現れた。

一所懸命に書いて馬鹿を見た。

ふざけるんじゃないよ、すると何かい、ピアノは小笠原流作法かい?

そもそも子供の足が床につかないのは行儀が悪いのかい?では電車の中でも金切り声を上げたらいかが?近頃の子は行儀が悪いですぅ〜とでも。

疲れる昨今である。
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直訳

2018年01月06日 | その他
英語が(外国語が)堪能だったら翻訳は出来る。

これは正しいだろうか。

ひとつ実例を。探さなくとも偶然見ていたボクシングの記事で充分だ。

日本の選手が圧倒的な強さで勝ったことを伝えるフランスのメディアだそうだ。
曰く、格の違いはあまりに巨大だった。

もうひとつ別の記事、同じ日本人選手の活躍を期待したイギリスの記事。
曰く、ボクシングファンの食欲を大いに刺激したのだ。

ここまでおかしいと誰でも分かるだろう。最初の例は、あまりにも大きかった、あるいは単に大き過ぎたでも良い。

二番目の例にしても、ヨーロッパ言語では直訳すれば確かに食欲を刺激するという言い回しがある。

しかしこのような表現は日本語ではまったく使われないのだから思わず笑ってしまう人もいるだろう。

ニュースになるためには速さを求められる、推敲する暇なぞ無いと言うかもしれないが、そんな高級なことではあるまい。単なる日本語の拙さだ。

このように翻訳においてはむしろ日本語の能力が問われるわけである。

ところで訳者は普段からこのような珍妙な日本語を使っているのだろうか?はなはだ疑問である。

誤訳ではないか、とかの様々な批評から身を遠ざけたいという気持が大きいと文芸作品はいざ知らず、無難なところで簡便に扱うのではあるまいか。

その手の自動化された訳業を繰り返すうちに日本語とはかけ離れた、原語で書かれた文章や単語を無反省に訳すことになったのではないか。

雑誌などでよく見かける、私は私はと主語を頻発させる、これまた日本語にはそぐわぬ文章などを見るにつけ、そのような憶測をせざるを得ないのである。
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