季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

語学教育(補足)

2018年09月20日 | その他
ずっと以前の語学教育について今更ながら書き足しておきたい。

その時のコメント中、恥をかいても良いではないか、という言葉があった。僕がただ英語を話したところで恥をかくだけになりかねないと書いたからだ。

知らぬを知らぬとせよ、これ知るなり、と孔子が言ったけれど、この意見はその意味で大変正しく?オーソドックスなものである。僕も全く同感だ。

ただ、僕が言ったのは遥かにはるかに下世話なものであって、かいた恥から学ぶものなんぞどこにもない種類のことだ。

今日世界中の重要な意見、発言は殆んどが翻訳されている。生半可な語学力で首をひねりながら読むよりもはるかに効率よく学べる、という意見がある。それに対して僕はいかにもそうだ、と答えることしかできない。そんなことだ。

英語(外国語)教育が必要なのは、昔は言うまでもなく西洋化を迫られ、学ぶためだった。今日ではやや事情が異なる。受け身ではなく、発信する力が(この言い回し、僕はあまりに今日的過ぎて好きではないなぁ)必須だからではないだろうか。政治、経済は言うに及ばず、単なる旅行に至るまで。

旅先で、あるいは外国で暮らして一番よく経験するのは、日本について尋ねられることだ。これはもちろんお愛想だが、そこから話が弾むこともある。

こんな日常会話ですら発信することが求められる。だから、ここで恥をかくことがあるとするならば、日本に対する余りの無知ということ以外にない。外国語の力の不足ではない。そんなことで肩をすくめる人はいやしない。

ましてや何かの折に次のような会話になってごらんなさい。それも綺麗な発音で。

「シリアやウクライナの諸問題についてどう思うか?」「日本人は平和を愛します。そのために役に立ちたい」「それはすばらしい。ところで今回のドイツの武器輸出の決定をどう思う?」「平和は何よりも尊いです。そのために働きたい」

このようになるのがオチではちょいとまずかろう。誰だって平和を愛し、それが尊いことは百も承知だから。こんなところでかく恥はちとまずかろう。

僕たちはいったい英語で何をしたいのか、それが僕にはいまひとつピンとこない。言いたいこと、言わねばならないことが山ほどあるから、それを外に向かって表明したいから習う、という意思が見えてこない。

僕が前の記事で書いたのはそういうことだ。それは商業においても同様なはずである。僕には最も縁遠い分野だが。

要するに僕たちはまず日本語でものごとをしっかり言うこと。そのためにはものごとをしっかり見ることが大切だろう。

例にあげたシリア情勢などは一例に過ぎない。

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間抜け

2018年09月14日 | 音楽
YouTubeでヨウムの動画を見ていた時期がある。鳥は実際に不思議な生き物だ。研究者からは次々と報告が上がっている。

もっとも僕はヨウムが人の言葉をよく真似できるなぁと、いつもながらの単なる興味本位で見ていたのであるが。言葉を真似するばかりではない、声色まで真似できるのだ。興味本位とは言え、これは大変面白く思った。

電話の呼び出し音が鳴る。これまでリアルに真似するのだ。もしもし〜 はい〜 うん
うん そうなの〜

こんな調子で飼い主を真似するのだが、他の時に聞こえる当の本人(飼い主ですよ)の声と区別するのが困難なほど似ている。

さて、そんな事を思い出してしまったのも、以前紹介したことのあるコルトーの公開講座のCDに改めて間抜けだと痛感したからである。

ピアニストのペライアがコルトーの息子に会った折この講座の録音がある旨を聞いたのだという。ペライアは公開するに値すると思い一任を取り付けた。そのような経緯により陽の目を見たCDらしい。

以前紹介したし、その折にも書いたがここでは生徒の演奏はきれいさっぱりカットされコルトーの話と演奏だけが聴かれる。この一方的な感じが前述したヨウムの電話芸を思わせるのである。

君の演奏は少し速すぎる、なんて言われたってどのテンポに対して言われたのか?それが分からなければこの言葉など何処にも有難い点なぞ有りはしない。

ソクラテスは人の言葉を受け取る他人はその人の流儀でしか受け取らないということを熟知していた。そこで彼は一行も書き遺さなかった。自分の思考はどうやっても一種の誤解から免れることはないのだから。

プラトンはそれはあまりに残念だと、ソクラテスと他の賢人との対話という形式でソクラテスの思考方法を書き遺そうとした。

簡単に言えばそのような次第だ。それがどうだ。折角生徒が弾いて、それは恐らくはよくありがちな演奏だろうに、そちらはカットされているのでは貴重なコルトーの判断も我々は知る事が出来ない。

カザルスの講座のビデオもある。ここで若い女の子がバッハのある曲をあろうことか倍くらい遅く弾いた。カザルス先生、珍しい虫を見たような顔をしてしばし凝視した後、ニッコリ笑って一言も言わず自ら演奏する。

これだって二人の反応があって初めて意味をなす。

音楽家が音楽の世界で間抜けではならないのである。






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9/23 講座案内

2018年09月08日 | 音楽
ネットでピアノ関係を見ていると大人になってからピアノを習い始めた人が一定数いることに気付く。そうした人たちの中には半年後とか一年後とかに自分の進歩を動画投稿する人もいる。

無論全員が全員ではないが、ほほう!こんな短期間で、しかも大人になってから始めてこれ程の進歩をするのかと驚く人もいる。

そこで不思議なことがある。ほほうと驚かされる人は全くの独習者であることが多い。他方、きちんと教師に習っている 人達は基礎の大切さを学んでいる様子だ。

こうしてみると基礎だと思われているものは本当に基礎なのだろうか?という問いが出るのは必須だろう。

今回は3人の子供たちにレッスンをしてみる。小1、小6、中1にインヴェンション、ベートーヴェンの6つのヴァリエーション、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソを弾いて貰います。

会場は幡ヶ谷にあるKMアートホール
14:30からです。
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死語

2018年09月01日 | 音楽
レストランに行ったとしよう。

大変美味しいと感じた場合、またその店に来ようと記憶に留めるだろう。料理に情熱を持つ人ならばその味の秘密はどこにあるのだろうと舌で探ろうとするかもしれない。

いずれにせよふふん、味はとても素晴らしいですね、、と言いつつ素通りすることだけはあるまい。料理人のセンスと努力を想っているわけである。

味は素晴らしいですね、、の後につけ加わるとしたならば、しかし店内が不潔だ、とかウェイトレスが無愛想だったといった不満くらいだろう。

これがピアノ演奏となるとどうだろう。
音が綺麗ですね、と軽いノリでお愛想だ。
その調子は脚が長いですね、というのと同じような響きを持つ。

脚が長い、、、憧れてしまうね。僕は気が長いと言われたことはあるが脚が長いとはついぞ言われたことがない。言われることはないと半ば、いや完全に諦めておる。

努力して脚が長くなるものならとうの昔にしていただろう。遅まきながら今もするかもしれない。

しかし見よ!胸板を厚くするとかお腹を引っ込めると謳った器具は手を替え品を替え現れるが、脚を長くすると謳う器具は何処にも無いではないか。(あったら教えて貰いたい。厚底靴ではないぞ)

つまり脚の長さは天から授かった特典なのだ。本人は何の努力もしないまま人々の羨望の眼差しを得る。

しかし音が美しいというと話は別なのである。これは得ようと努めて得るなにものかなのだ。天から与えられたものではない。ヴァイオリンやクラリネットの音を考えてみても良い。

流石にヴァイオリンでは美しい音は賞賛の対象になってはいる。ピアノの音でも事情は同じなのであるが。

汚い音を出さないことと美しい音を出すことは全く違うことなのだが、そこの差異を聴くことが困難なのだ、慣れるまでは。汚い音を出さないのは簡単である。フニャフニャ弾くだけで良い。

慣れぬ耳には美しい音も似たようなものに聴こえるのだ。そこで音は綺麗なんですね、という脚の長さを羨む時のような挨拶になるのだろう。

かくしてピアノ演奏における美しいという言葉は半ば死語と化している。忘れてはならないのはプロコフィエフでもラフマニノフでも美しい音の中で曲想を練ったのだということだ。



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