季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ピアノの塗装

2016年09月21日 | 音楽
古いピアノを探すことが多い。
その際もっとも厄介な、その上詰まらぬ問題、それは見た目、つまり主に塗装である。

僕がまったく理解出来ないのは、再塗装していないピアノは中々売れないという事実である。そしてそれは4、5百万するスタインウェイなどの「高級」ピアノになるほど目立つ傾向にある。

楽器を正面から論じるのはもう何度もしたし、繰り返したところで詰まらないから、今日はまったく違う処から書いてみようか。

皇居の宮殿が新宮殿と呼ばれていた頃のこと。建設中の銅葺きの屋根は当然ピカピカだった。宮内庁の担当部所には何という悪趣味だと抗議の声が絶えなかったらしい。

緑青が全体を覆うようになるまでは我慢して下さいと説明に追われたそうである。

奈良の薬師寺は東塔だけが残っていたのを西塔、講堂などを西岡常一さんの指揮のもと再建し、西岡さん亡き後も現在に至るまで作業は続いている。

東塔は現在解体修理中だが、千数百年風雨に晒された古寺特有の佇まいの周りに赤や緑鮮やかな再建された御堂があるのは成る程ちょっとした違和感を感じるのもやむを得まい。

しかし奈良の昔はこうした極彩色があちらこちらに見られたのである。でもそうした知識は目からの印象を拭い去るようには働かない。

僕たちはこうして、史実に反してでも歳月に洗われた美しさを感受するようになった。これはまた、日本人特有なことではない。恐らく人類に共通した感情ではあるまいか。

それがどうだ、ことピアノになった途端、ピカピカに磨き上げたものでないと売れないのである。

高級ピアノを買うからにはきっと審美眼とやらを何より大切にしている方々なのだろう。

僕は常々思っているのだが、部屋の中に真っ黒に光っているピアノが鎮座ましましているのは何とも暑苦しい。

それは仕方がないのだが、せめて歳月に洗われくすみを帯びた楽器、どこの誰がつけたかも分からぬ擦り傷などから一種独特な美しさを感じるくらいにはなって貰いたい。

彫刻刀で相合傘が彫ってあるのではないのだから。なに、もし彫ってあったらその場合はどうするかって?ふん、そこの名前を自分の名前に変えたまえ。

音楽に携わる人は半ば義務のように絵について語る。でもこんな所でお里が知れる。そう僕は思っている。

ピカピカしか売れないというのは、どうもピアノに限られるのではあるまいか。

あなたのストラディバリウス、新品同様の輝きを取り戻しませんか?お部屋にマッチした白にも致します。

こんな広告でも出して見たい。応じる人がいると思いますか?




弦の錆

2016年09月18日 | 音楽
講座で使用しているホールには古いスタインウェイがある。とても美しい音の楽器だ。

オーナーは音楽とはまったく無縁の人で、こんな楽器を購入出来たのは幸運だという以外ない。

7月の講座で音が随分変わっていて、見ると弦が張り替えられている。ロシア人ピアニストが演奏して低弦を叩き切ったのだという。

古い楽器故、弦は全体に少し錆が出てはいた。そのせいかもしれないと慌てて張り替えをしたそうだ。

断言しても良いが、件のロシア人ピアニストはとんでもなく汚い音の持ち主だろう。低弦は殆どの人が一生に一度切れるのを経験するかしないかなのである。

このピアノに手を加えるべきはハンマーに針を刺して整音し、メカニックを調整することであった。

美しいがやや固めの響きがして、もう少し柔らかい音になればもっと良さが出ると最近は感じていた。

(もっとも、そうしたらそのロシア人はもっと力任せに叩いて、低弦の5、6本は切っていたのかもしれない)

オーナーはもちろんそれを判断出来るはずはない。しかし技術者はそれくらいのアドバイスを与えることは出来ただろう。

技術者たちは錆が出た弦からは本当の響きは出てこないと必ずと言って良いほど説いてくる。

待ってもらいたい。今現在美しく響くのならば張り替える必要はない。錆が無くなればその美しさが一段と増す、これは単なる理屈の世界である。

箸にも棒にもかからないような代物に丁寧に手を入れて復活させることができるのは事実だ。その経験が言わせるのであろうか。

ホールのオーナーが張り替えを依頼して来た時、それは決して悪い結果を産み出す筈はない、リスクゼロ、張り替えを決意する良いチャンスだ、と考えたのではあるまいか。

結果は失敗とまでは行かないまでも、余計コントロールしにくい、弾いた感触が、そうだなぁスプーンを噛んだ時のような不愉快なものになってしまった。スプーンを噛んだことなぞないという、お下品とは縁のない人には伝わらないだろうが。

僕の所有するベヒシュタインのコンサートグランドは弦は錆だらけで、理論的には最低なのである。ロシア人なら低音域数十本切るであろう。

でも1本ずつ張り替えるならともかく、弦は全部外して張り替えるのである。響板にかかっていたとてつもない張力はゼロになり、再びかかる。

外す前とまったく同じたわみ方をするというのは無理だ。結果、どうしても以前とは違った響きになる。

それは必ずしも悪い響きではないだろう。しかし僕の場合、現在の響きに充分魅了されているのだ。

要するに単純にプラスαになるというのは妄想に近い。楽器は生き物だと言いたいのならば、生き物にはその年齢に応じたバランスだってあることを考えてみたら良い。僕の首から上だけを高校生の頃に戻すことを想像してみたら良い。

熱中症2

2016年09月06日 | その他
つい数日前に熱中症で生徒が亡くなったことを書いたばかりだが、今日のニュースによると又しても部活中に亡くなった。

対策を講じるのも結構だが、本気でものを考えてみたらどうか。数日前に書いたことを繰り返すばかりだが。

例えば

部活はそもそも何のためにそこまで重要視されるのか。

一度入ったが最後、そこの掟にがんじがらめに縛られる。運動部とは限らない。吹奏楽部なども、休みともなると朝から夜中まで吹き通しという学校もあるという。

音楽家を作るのか?学校は音楽家を作る機関ではないだろう。

運動部もスポーツマン養成機関ではあるまい。むしろ学校と結びつくことによりスポーツ選手の能力が伸びないという指摘すらある。

いや、話を広げるのは止めよう。これらは日を改めて書いておきたい。

部活は必要だという人へ。

社会性が身につく?社会性とはなにか。
協調性が身につく?協調性とはなにか。

断るまでもないが、僕は社会性や協調性が不必要だと主張しているわけではない。

ただ、それらは学校で教えて身につく種類のものか、まず考えてみたらどうか。

今回の事故にしても、いつもよりランニングの時間が短かったのを「誤魔化した」からと追加して走らせたようだ。

僕には言うべき言葉もない。

15分毎に水分を補給する、とかで解決しようとは思わないことだ。

W杯予選

2016年09月03日 | スポーツ
前回本大会へ向けての壮行会のバカらしさ、いやだらし無さについて書いたことがある。僕の気持ちは残念ながらサッカーからも離れつつあると。

今回は予選突破は今まで以上に困難だとも折に触れて書いた様に思う。

昨日の試合は、それでも観てしまった。

付け加えることはひとつもない。

有言実行という言葉に自分達が躍らせられて、世界を驚かす、と事あるごとに言っていたのが前回である。それを言うならあのような壮行会を催してはいけない。

昨日の観客席は、あの壮行会がそのままスタジアムに移動してきたような様子だった。

選手は?何も変わっていない。弱さを自覚する選手が多くなっただけのようだ。

真面目な選手はプレーが小さく、固くなり、少し自信を持つに至った選手はプレーが軽くなる。(例えば清武選手のシュートミスは大選手がほんの時折り見せる小技の鮮やかさをしようとして空振りしたものだ)

そもそももう何年もの間、日本のプレーは本質的には変化していない。

リスクを怖れシュートよりパスを選択する。
そのパスはあまりに弱いボールに終始して、相手にしてみれば何の怖さもない。
パス回しが巧みだと思い込むとそこにこだわり過ぎる。
センタリングの精度が低い、等々。

監督が交代してもそれらは一向に改善されないままなのである。

力量は如何ともしがたいけれど、協会としては子供のチームに至るまで、その原因を求めるべきなのである。

ところが、壮行会などを企画し、それに踊るファンさえ集まれば良いかのように、前回の責任者である原氏は昇格する有様だ。

ここまで書いて1日置いてしまった。

記事は急に采配への疑問などに溢れているけれど、そしてそれはその通りかも知れないが、自分達のあの「情緒的な」文面や協会への批判や反省はどこからも感じることはできない。

こうしたことはことサッカーに限ったことではないだろう。

僕の知る音楽の世界(これは本来の意味とはもって非なるもので、正確には音楽業界と言うべきだろう)から様々な業界、学問の世界、そして政治に至るまで、どの瞬間にも露わになる光景だ。

言葉に寄りかかることと言葉を信じることはまったく違ったことなのである。

「絶対に負けられない戦いがここにはある」だったかな、こんな寝言を言ってはいけない。このフレーズに寄りかかっているだけだと誰も言わない。

前述した「世界を驚かせる」にしたところで、このフレーズ及び「有言実行」という「厳しい」言葉に寄りかかっただけなのだといい加減気付いたらどうか。

繰り返しておくけれど、そこが変わらない限り、選手を取り替えようが監督の首を切ろうが絶対に同じことの繰り返しだ。