季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

中原中也

2017年03月21日 | 
中原中也は若いころから好きだった。演奏に携わっていると彼の詩がずいぶんモダンでもあるのだと改めて感じる。

昭和初期、渋谷駅の周りが草野原だったころ!道も舗装されず、どぶ板(若い人はこの言葉ですらもう知らないこともありそうだ)とおかみさんの姿を書き割りにしながら、どうやってあのヨーロッパ風な叙情ができあがったのだろう。

ロマン派の曲をレッスンしているとふいに中也の詩句が頭に浮かぶことがある。

ロマン派、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブラームスあたりだろうか。

ある特定の作品同士が似通っているというわけではないのだが、何かの拍子によく知った感情を発見して驚く。とは言え固定化されたものではないため、今こうして改めて書いてみると、困ったことに具体的な例が浮かんでこない。

しかしレッスンの時に中也を紹介して、ある箇所を説明すると、生徒たちは僕の意を汲んでくれるところからも、あながち我田引水とはいえないだろう。                                

中也はヴェルレーヌを好きだった。好きでは足りないかもしれない。貪るようにその生き方を模倣した。

この時代の詩人たちを見てみると、人は感じ方さえも学ぶのだと納得する。

例えば萩原朔太郎の詩や評論は、今日読むといかにも幼い感じがする。フランス-ヨーロッパに憧れながら本当には血肉化していない。それが幼い感じを与えるのだろう。

中也になるとそのような感じは全くない。
抒情詩というものはそんなものなのだろうか。

ひとつ例を挙げておこうか。代表作とは言えないと思うが。

 
月の光が照っていた
月の光が照っていた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れているのは死んだ児(こ)だ

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持っては来ているが
おっぽり出してあるばかり

  月の光が照っていた
  月の光が照っていた


原始的

2015年02月23日 | 
解剖学者の養老毅さん、今は退官して昆虫学者だと自らを紹介している。

新幹線の車中でふと手にした雑誌に短文が載っていて面白かった。

都会的な思考は発展が速いという。たとえばリンゴとひとくくりにすると理解も早くなる。でも個々のリンゴはすべて違う。青いの、赤いの、酸っぱいの、甘いのとさまざまである。

それを考えると、当たり前のようにリンゴとくくって理解するのは難しい。そんな思考回路をもつのを田舎的な理解と呼び、自分はそちらだという。

法隆寺の宮大工、西岡常一さんも似たようなことを言っていた。

小学校の時分算数がよく分からなかった。リンゴ一個とミカン一個で足して2個になるのがどうしても腑に落ちなかったという。

こうした種類の頭の緻密さをもつ人がいつの世にも必ず出てくる。大抵の人はそんなこと無しに、いとも簡単に納得していくし、その速度が速い人を秀才と呼ぶのだが。

もっとも、皆がみなこんな思考回路だったら世の中の進行が滞るだろう。納得するのが素早い人もいないと困るのである。


日本語のために 2

2014年02月17日 | 
「日本のために」を書いてから誰もが忘れたころに「2」がやってくる。僕のスローペースぶりは18世紀並だね。ベートーヴェンが「先日はお手紙ありがとう」なんて一年近く経ってから返事をしているでしょう、たしか。ああいうペースがいいね。金婚式過ぎてから「結婚しました」なんて通知がいったら面白かろう。生まれる前に性別が分かってしまう忙しい時代に逆行しているようだな。

大風呂敷を広げたところで。忘れてしまった方はどうぞ遡ってお読みください。いつ書いたか本人は忘れているが。

と書いて、いくらなんでも不親切だと思い直して自分で探してみた。2008年7月14日「丸谷才一 日本語のために」という記事。(クリックすればそれが開くようにできるのは承知している。その方法を教えてもらった。ただ忘れてしまった。道具というものは使い続けて初めて道具になると痛感する)
注)最近また知ったからリンクするようにしてある。人間、進歩するものだ。

テクニックを用いずに早速引用する。丸谷さんは旧仮名で書いていて、その通りに書き写したいのだが、それ用のソフトは(手許に)無い。現代仮名にせざるを得ない。


 わたしの見たところでは、教科書にぜったい選ばれない二種類の詩がある。一つは言葉遊びの詩で、これは堀口大學の「数えうた」や岩田宏の諸作品はあるにせよ、一体に明治以後の詩人が不得手なものだから仕方がないかもしれぬ。しかし、教科書に決して載らないもう一つの詩、恋愛詩となると話は違う。恋を歌わなかった詩人は、蚤取りまなこで探しても見つからないくらいではないか。

丸谷さんがこの本を書いてからいったい何十年経つのか。上記のうち言葉遊びの方はかなり取り入れられた。かっぱかっぱらった、かっぱらっぱかっぱらった、とってちってた、なんて谷川俊太郎の作品を知っている人は多い。

しかし恋愛詩に関しては未だに変わっていないようだ。なにをびくびくするのだろう。万葉集などを挙げるまでもない、現在生きている中学生、高校生(いや、小学生だって)もいちばん身近に知っている、切実な感情のひとつではないか。

音楽の教科書にも通じる臆病さだ。例えばシューベルトを紹介する。まぁ良い。その是非は他のところで存分にしたい。

今の教科書には「魔王」が載っているのが多いようだ。昔は「野ばら」だった。

これらが悪いとは思わない。それどころか、僕は大変に好きである。だが、これらは直感的に掴むことが容易な曲だろうか?「野ばら」の詩はゲーテ作だが、これは簡単な詩だろうか。

詩にしても曲にしても、一見余りに平易である。退屈する生徒が殆んどではないだろうか?あるいはありきたりの「安全な」感想でも書いてお終いだ。まるで予定調和だけが学校の狙いであるかのようだ。

とは言うものの「糸を紡ぐグレートヒェン」などが教科書に載ることは天地が逆さまになってもあり得ないだろう。

でもなぜ?という問いかけには殆んどの人が「だってネェ」と頷きあうだけだろう。答えは簡単さ。クライマックスの「そしてあの方のキス!」というのが躊躇いの一番大きな原因だ。

確かにこの箇所の激しさは並外れている。憧れ、不安、官能が捩り合いながら達する頂点。

安心してもらいたい。僕はこの曲を鑑賞曲に、と主張するわけではない。僕を知る人は皆知るように、僕は至って穏健な人間だ。

だが、何かの拍子にこの曲を中高生が知ったら、普段取り澄まして、教養の代表のように思っている「クラシック」が、実は驚くほど激しいものだと知って、他の曲にも関心を持つようになるかも知れない。

ここからもうひとつ、丸谷さんの文章で大切だと思われることに触れて行きたいのだが、余りに長くなるからその3に譲る。ということは10年後かい?いやいや、僕の身体がもたぬ。なるべく早めに書こう。








うろ覚え

2013年04月19日 | 
青空文庫に「ピアノの迷信」というのがある、と書いたのはつい先ごろ。

で、今日もう一度読もうと思ったがなかなか見つからない。それもそのはず、本当の題名は「音楽界の迷信」というのだった。どうも僕は適当に覚えて、調べずに書く癖がある。
正式な論文なんざ書けないはずだね。ペケペケばかり、ペケペケペケペケまるでエレキギターのような朱が入るだろう。

もっとも救いはある。先日書いた小林・河上対談の中でソクラテスが「記憶で書くのが正しい」と言ったとあった。ふふん、そうかい、ソクラテスがね。そうだろうな。

でも今ちょっと心配なのは、そのソクラテスの言葉も適当かもしれない、ということである。僕が家族からテキトー人間と言われているのも一理あるね。もしも本ブログを読んで「ピアノの迷信」を探した人がいたら謝らないと。

水と原生林の間で

2013年04月08日 | 
高校の国語の教科書だったと思うが、シュヴァイツァーの「水と原生林の間で」の一節が載っていた。

国語の教師は粗野な知性を露わにした人だった。

もう当時のことを思い出すことが殆んど無いのだが、この教師がシュヴァイツァーのアフリカでの活動を評して「独りよがりである。彼が救えたのはほんの一握りの人間であり、はるかに多くの人々は不幸なままだったはずである云々」と言うのを聞いて非常な違和感を覚えたことだけは思い出す。

当時僕はその違和感が何であるか、分からなかったのだが、今になってみるとよく分かる。

この教師の感じ方というか考え方が政治的見方の代表だったから僕は反撥を感じたのである。

政治的といっても誤解されるだろうから少し補足しておこう。

政治的というのは民主党や自民党に代表されるいわゆる政党政治あるいは近代民主主義を指しているのではない。

すでに例えば井上ひさし氏に関する文で触れたことを繰り返すしかないが、人の考え方、感じ方、行動などをある種の共通項をあてはめてひとくくりにする、それを政治的と言っているのである。

なるほど僕は音楽家である。ドイツに住んでいた。東京芸大に在籍したこともある。たぶん卒業もした。だからといって僕は現代の芸大生とどんな共通点がある?ドイツに住んだことがあるというだけでひとくくりにできるわけもないだろう。

共通点でくくるのは大変に便利だが、その中の個を見落とす危険がある。

シュヴァイツァーは大オルガニスト シャルル・ヴィドールの弟子であった。どうやってヴィドールに師事するに至ったかはシュヴァイツァー自身が自著の中で述べているから、関心がある人は読んでもらいたい。大変心を打たれる文章である。

また、ヴィドールもそのいきさつを「バッハ」への序文の中で書いている。これまた力のこもった文章だ。力がこもったというより心がこもった文章といいなおしておこうか。

音楽の世界、殊に研究の世界ではこの「バッハ」はかび臭い書物として記憶されている。しかし、次々と世に出る研究書からはなんの音も聞こえないのに対し、「バッハ」からははっきりとシュヴァイツァーの演奏の音が響いてくる。こればかりは否定のしようがない。

ひとつだけ、このオルガニストの言葉を紹介しておく。

多くの人々はバッハの音楽は教会のために書かれたのだから演奏は教会でなされるべきだという。わたしはこう答える。バッハが演奏されるところが教会になるのだ、と。ゴッホが跳びあがって喜びそうな言葉だ。


童話

2010年03月25日 | 
僕は童話も好きである。そうは言うものの、イソップ物語とか、かちかち山が好きなわけではない。何といっても好きなのは桃太郎だ。

なんて書いて本気にされたら困るなあ。困るというほどのこともないけれど。家族からはイソップを読めといわれている。まあ、いろいろありましてね。

子供のころ坪田譲治の本を持っていたのを覚えている。善太と三平という兄弟が出てきて、善太が川の上の橋でふざけていて川に落ちて流される。その後の展開は書かれていなかった。僕の持っていたのはどんな本であったか、もう分からない。子供心にも、川に落ち、流される善太のことが気にかかって仕方なかったことだけを記憶している。

ふたたび童話に関心を持ったのは、中学1年のころ、「くまのプーさん」に接してからである。たぶん。なぜ接したのか、もうこれも覚えていないが、物語の最後でクリストファー・ロビンが「もう僕は君と遊べないんだよ」とプーに語りかけ、プーは意味も分からず無邪気にクリストファー・ロビンを見上げている。クリストファー・ロビンも学校に通う年齢になったのである。「僕にも楽しい時代があったっけ」と苦い思いがしたのを覚えている。

話はそれるが、最近のほとんどの人はプーといえばディズニーのキャラクターでしか知らないのは残念だ。しか知らないどころか、ディズニーの創作物だと思っているふしさえある。A・A・ミルンという人が書いてシェパードさんという人が挿絵を描いている。この絵がたいへん可愛らしい。ディズニーファンの人には悪いけれど、比較にならない。いちど本屋さんの児童書コーナーで立ち読みでもしてみたらいかが。あなたも僕とともにプロの立ち読みストを目指そう。

それからは隠れて、表芸では漱石や鴎外、志賀直哉、バルザックなど内外の文学書を漁りながら、暇を見つけてはアリスだのロビンソンだのピーター・パンを再読した。

よくできた童話はイギリスに多い。プー、アリス、ピーター・パン、ロビンフッドと挙げてみればよくわかる。ドリトル先生はロフティングというアメリカの人だが、彼も元々はイギリス人だったはずである。

ハリー・ポッターにもその伝統は受け継がれていると思った。僕は第一作しか読んでいないけれど、面白かった。ただ、日本語訳は感心しない。長持ちする日本語で書かれていない。

ずっと後になってから、吉田健一さんがイギリスの童話について書いているのを発見して嬉しかった。ひと口で説明するのはなかなか難しいのだが、イギリスの童話の優れている点は、もちろん子供に対して書いているのだけれど、作者自身も自分の子供時代に戻って、物語の世界を自ら楽しんでいるところだというのだ。そこいらに転がっている、作者がすっかり調子を下ろしているものと違い、おとなが読むにも堪える作品が多い、という。その通りだ。

不思議の国のアリスは上記の中でも抜きん出ている。そもそもルイス・キャロルというペンネームの由来も、本名をラテン語読みして、それを英語化した、とかえらく凝ったものだったはずだ。

数学者として活動し、「ワニのパラドックス」という話を創った人でもある。

そのパラドックスを紹介しておく。

人食いワニが子供を人質にとり、その母親に「自分がこれから何をするか言い当てたら、子供を食わないが、不正解なら食う」と言った。これに対し、母親が「あなたはその子を食うでしょう」といった場合、

1. ワニが子供を食う場合、母親はワニがしようとすることを言い当てたので食べてはならない。
2. ワニが子供を食わない場合、母親の予想が外れたのでワニは子供を食べても良いことになる。しかしそこで食べると、結果的に母親の予想は正しかった事になるため、矛盾にぶつかる。

このように、ワニが何をしようとも自己矛盾してしまい、子供を食べる事も、食べない事もできなくなってしまう。

以上、ウィキペディアより。

アリス全編にこのパラドックスと似た雰囲気が溢れているのはすぐに感じるでしょう。

アリスの訳はたくさんあって、それぞれが違っていて楽しい。吉田健一さんの訳もあるのだが、残念ながら絶版で、オークションや古書店で探しても手に入らない。僕が所有しているのは生野幸吉さん訳と芹生一さん訳である。さっき本棚をゴソゴソしていたらもう一冊出てきた。こちらは今どきの言葉で書かれていて読んで面白くなかった。









ショックな本

2010年01月27日 | 
「偽善エコロジー」という本を読んだ。めまいがした。著者は武田邦彦さんという学者さん。

僕はこれでも義理堅い。百年後の世界なんて関係ないよ、という気にもなれず、環境に少しでも配慮をして、とゴミの分別は律儀に行ってきた。

それらが少数の例外を除いて無意味ないしかえって危険であるというのだから。僕は立ち読みのプロを自認するけれど、立ち止まるジャンルは自ずから偏る。何かの偶然で目に入った本書は立ち読みでは気がすまなくて購入した。

後になって検索したら、この本はとっくに有名になって、「反偽善エコロジー」なんていうサイトまである。安井至さんという人が反偽善エコロジーの急先鋒らしい。もっとも、その後再び本屋でざっと見渡しただけでも、安井さんを担いでエコロジー運動を擁護する学者は多いようだ。

急いで反論まで目を通した印象である。僕の印象では反論は今のところ説得力に欠ける。僕の一文を読んだ人は独自に検索でもしてください。

例えばペットボトル、これは非常に良く燃えるから生ゴミを燃やすときに一緒に燃やしたほうが良いという。

原油はすべての成分を使えるわけではなく、多くの部分を(燃やして)捨てていたのだそうだ。むかし石油工場の煙突からは炎が出ていたのは覚えている。それがそうなのだ、それが最近では例えばペットボトルに利用する技術が進んで、捨てていた部分を製品化できるようになった。

せっかく使用できるようにしたのに、再利用ばかりしてしまったら再び昔のように精製の段階で捨てる以外ないではないか。それよりも生ゴミは燃えにくくて炉を高温にするためにたくさんの燃料を必要とするから、その無駄を無くした方がよい。再利用といっても捨てられたペットボトルの汚れを落とすためやラベル等を区分けするために費やすエネルギーも甚大である。

これについてリサイクル推進派の学者は(安井氏も含めて)異議を唱えている。「偽善エコロジー」で紹介されているデータは古いもので、今ではかつて捨てていた成分も有効に利用できている、という。

このような応酬になると僕はただ観客に徹する以外ない。それでよいのだろう。ところが、ゴミ問題は相変わらず大きなテーマのはずなのに、学者たちの応酬は僕たち観客の目に付かない。僕にはこれが不満である。

いずれの立場にも理はあるだろう。しかも僕たちの生活に関りがあることではないか。宇宙に果てはあるのかないのかといった議論ではないのだ。たとえばテレビはどうでもよい事柄を垂れ流すことを減らして、両者の討論や検討を継続的に紹介するべきだろう。

安井氏ら「反偽善エコロジー」派の学者たちが論じているのは主に石油関係で、そこでのデータの解析は僕らの手に負えるものではない。それでも判断だけはせざるを得ないのだ。

もう一例。

家庭から出る生ゴミを肥料化するのは危険だから絶対にやめろという意見はもっともだと思う。言われないとそうは思わなかったが。

食品といえど今日ではどんな化合物が混入されているか不明である。それを無視して土に返したら毒性のあるものが蓄積するではないかというのだ。なるほどと思う。

「反偽善」派でこの点に言及しているのは少ないのではなかろうか。

つまり武田さんを「反エコロジー」というレッテルのもとに抹殺してはならないのである。それは武田さんを妄信すると同様危ないことである。

数年前の再生紙偽装問題で、いわゆるエコという美名の裏側が垣間見えたではないか。しかしこれも不正の追求に行ってしまって、根本のところはうやむやに終わってしまった。

面白おかしくショーアップしないで、色々な立場の学者に討論して、我々にそれを見せてもらいたいものだ。本当はそういったものが一番「面白い」番組でもある。

このような問題のときにも我が国のマスメディアの力量のなさ、志の低さを発見する。


好奇心 2

2009年10月15日 | 
さてようやくキーンさんの「日本人の質問」について書き始める。

僕たちがチロルで経験したことと似たものを挙げてみようか。

キーンさんは1950年代後半に来日したそうだ。専門は日本文学だが、その彼にして「漢字を読めますか」と訊ねられることが多いらしい。

キーンさんを知らない人が、彼が日本の新聞雑誌を読んでいるのを見かけたら、ちょうどメニューを注文しただけで「おい、ドイツ語を喋ったぞ」とひそひそ声がさざ波のように広がったように「おい、あの外人漢字を読めるみたいだぞ」と囁いただろう。

もっとも、キーンさんがこの本を書いたのはもうだいぶ昔になってしまったから、外国人が珍しくなくなった今日の日本ではこんな素朴な驚き方はしないのかもしれない。

しかしもうひとつ「俳句を理解できますか」という質問もよくあるらしい。こちらに限っては間違いなく今日でも根強くあるのではなかろうか。

キーンさんの文章を引用しよう。

(彼の研究室を訪問する日本人の多くは)「俳句を理解できますか}と、けげんな顔をして尋ねる。訪問客を安心させようと思う場合、私はあきらめた表情をつくりながら、「無理ですね。日本で生まれていなければ、俳句を理解できるはずはありません」と答える。そうすると、日本の客はいかにもうれしそうに、「そうでしょうね」と合づちを打つ。

しかし、私が意地悪く、「もちろん分かっています。俳句なんて、それほど理解しにくいものではありません」と答えたら、訪問客は喜ぶどころか、興ざめ顔をして、話題を変える。外人でも俳句を理解できる世の中になったとすれば、何のために日本で生まれたか分からない、と言わんばかりの表情である。もし私が皮肉な態度で「日本人は俳句を理解できますか」と言い返したら、訪問客は笑うか、それとも非常に嫌がるだろう。

中略

研究室の訪問客にもう一つの種類がいる。本棚に並んでいる数々の俳句関係の本を見て「恥ずかしい」と言う日本人は珍しくない。言うまでもなく、「恥ずかしい」という発言は 中略 自分が読んだこともない、または読みたくないような日本文学の本が外人に読まれているという意味からである。日本の文化は「恥の文化」とも言われてきたが、日本文学を三十数年前から勉強してきた私が、日本人の地質学者や電気工学者よりも日本文学をよく知っていることが、果たして日本人の恥になるだろうか。   以下略

どうですか、日本文化は日本人にしか理解できないと考える日本人の狭さを実感した人も多いと思われる。

しかし、自分の国の文化は異国の人には理解できないだろうと考えるのは何も日本人に限ったことではないのである。

ドイツ時代、僕と友人が揃って同じ演奏会で伴奏をしたことがあった。友人が伴奏したフルートの学生は、恐ろしいくらい下手くそだった。そもそも僕がフルートの学生だと知っているのは彼女が手にしている楽器をフルートであると認識したからであった。

このくらい気取った書き方をしないと釣り合いがとれないほどひどかったね。僕が口笛を吹いたっても少しましになっただろう。

僕はたしかシューベルトの「しぼめる花の主題による変奏曲」、友人はモーツァルトらしき曲を演奏した。

終焉後(と書きたいところだが終演ですね)出演した僕らが一堂に集まってワインの杯を傾けていたとき、この学生の母親が友人に近づいてきて鷹揚な笑顔を振りまいて語りかけた。「私の娘の伴奏をしてあなたもモーツァルトが何者かお分かりになったでしょう」

僕らは思わず顔を見合わせた。彼はもしかしたらモーツァルトが何者か理解したことと引き換えに、音楽が何ものであるか、理解を失ったかもしれない。
あるいは、今日友人からモーツァルトが何者であるかを学んだ人たちは、かのドイツ人学生に感謝するべきなのかもしれない。

僕が友人はモーツァルトらしき曲を演奏した、と書いた理由が分かってもらえたと思う。

日本に限らず、先入観を取り去るのは難しいようである。

好奇心

2009年10月13日 | 
ドナルド・キーンさんの「日本人の質問」という本は面白い。何といって特別なことが書いてあるわけではないが、外から見た日本というものがよく出ている。

と書けば、そうなのか、と思う人がすぐに出るくらい、僕たちは外側から見た日本に関心がある。かく申す僕もキーンさんの本を買って読んだわけだから同じ日本人である。プロの立ち読みストを自認する僕が買ったんですよ。(なお、僕が立ち読みしたか、買ったかは本の価値とはまったく連動しない、あるいは少ししか連動しない。それはどちらかといえば僕の財布や時間と連動する。僕が買ったから僕が強く推す、というわけでは必ずしもない。この日、僕の財布には少々現金が入っていた、という意味しか持たない。念のため)

昔、日本に外国人がとても少なかったころ、町で外国人だと一目で分かる人がいると、通りすがりの日本人がジーッと興味深そうに見ていた。僕はそれが田舎くさく感じて嫌であった。

そして、日本人はなぜ外国人と見ただけであんなに露骨な好奇の目でジロジロみるのか、と島国根性を嫌悪したりした。

しかし今思えば、僕自身も好奇心に動かされていたのではないか。周囲の人への反撥が強かったせいで、自分の好奇心を抑えていたのではないか。あいつらと同じになってたまるか、そんな気持ちだったのではないか。多分そうだ。

ドイツに住んでいた時分、少し休暇が取れると(なんて書くとよっぽど忙しくしていたみたいだが、もちろんそんなことはない。37、8まで今でいうフリーターさ。だから正確に書いておけば、小金が貯まると、だね)チロルの山奥に行くことが多かった。

休暇が取れるとチロルへ、というのと小金が貯まるとチロルへ、だとまるで違った感じでしょう。感じが違うだけではない。本当に旅の内容も違う。

何だか急にチロルの話になって、脈絡がないようだが、これがあるんだね。ドストエフスキーの小説みたいにね。

当時「ヨーロッパで最も美しい村」といわれた山奥の村が僕たちのお気に入りの旅行先だった。あんまり静かで美しいので色んな人に喋っていたら、いつの間にか日本人もよく訪れる村になっていると聞いて驚いているのだが。

僕の話し振りのせいだか、村の観光宣伝が行き届いたせいだか知らない。もしも前者であるならば、村長に立候補しようと思っている。

夏冬問わず行ったけれど、いつだったか、小さなレストランに夕食を摂りに入った。いくら貧乏旅行をしているとはいっても、食事くらいはする。

周りのテーブルには村の人らしい年老いた客がちらほらいるにすぎなかった。そのうち僕たちは何だか周りからの視線を感じるようになった。僕は自慢ではないが、その手の超能力がまるでない。

そんな男でもはっきり分かる幾多の視線。視線を感じるほうを見やると、爺さまがパッと目を反らせる。若い娘が注目しているのならまんざらではないかも知れないが。いや、そんなこともないね、僕は夢を見るタイプではない。シャツが裏返しなのか、とかそもそも服を着ていたのか、とか気になってしまうな。とにかく結構居心地が悪いものだ。

注文を取りにきたおかみさんに(当然ながら)ドイツ語で注文したら、あちらこちらで「ドイツ語を喋ったぞ」と囁きあうのが聞こえる。いや、この時は参ったなあ。

もしかしたら「おい、食器を使ったぞ」とか「あの食いっぷりはどうだ」とか、後々まで言われていたのかもしれない。僕が友人たちと違い、並みの食欲の持ち主でよかった。彼らなら今頃は伝説になっていただろう。節度をわきまえていてよかった。

今ではあの村も日本人に慣れてしまって、こんな光景はお目にかからなくなっていることだろう。

人間は結局物珍しいものに出会えば好奇心でいっぱいになる生き物らしい。島国根性とかのせいではない。

ドストエフスキーなんて大法螺を吹いたから、せめてキーンさんの本からひとつ紹介しておこう。でもまた長くなってしまったから改めて書く。ドストエフスキーにするのも骨が折れるなあ。






英語上達法

2009年08月23日 | 
以前から吉田健一さんの英語論について紹介文を書いておきたかった。ようやくそれを果たす。

僕が付け加えることは無いに等しいから、吉田さんの文章を抜書きしておこう。続英語上達法というエッセイにある。面白いから、できればじっくり読む人が出てくれれば嬉しい。



英語が旨いとか、旨くなるということは、一般には、ぺらぺら喋れることを意味している。その証拠に、そういう英語が旨い人間が外国人、或は極端な場合には、やはり英語が旨い日本人を相手に英語を話しているのを見ると、兎に角、ぺらぺら喋っているということが先に立って、当人は得意満面、人間が人間と話をしているのよりも、軽業師が多勢の前で何か芸当をやっているのに似た印象を受ける。立て板に水というのは、こういうことを言うのであろうか。(重松注、これを読んでひざを打つ人は多いだろう)これを擬音語で表せば
「テケテンドンドンテンドンドン、テンツク、ドンチュウ・シンク?」
これに対して相手の外国人が何か返事をする。或は、それがやはり英語が旨い日本人ならば
「テンドンテンドンテンドンドン、テケテン・アイ・シンク」
そうすると初めの日本人は前にも増して勢づいて
「テンテンテンテンテンドンドン、テンドンドン、テンテケテケテケテケ」とやり出す。
 そしてそれを感に堪えて聞いているのは、主に日本人である。これは考えて見れば、当たり前のことであって、我々は日本人がこのように立て板に水式に日本語でものを言っても、別にその日本人が日本語が旨いなどとは思わず、ただよく喋る奴だと、それだけでいや気が差して来る位のことにしかならない。

     中略

我々は軽薄才子でない限り、日本語を話している際にもそんな、落語に出て来る野太鼓のような口の利き方はしない。併し英語の場合は、それから段々舌の回転が早くなることが望まれていて、そうすればこれは頭の理解力よりも肺活量、それから人間がどこまでおっちょこちょいであり得るかということの問題になり、その困難を克服するのが英語に上達することであるならば、この頃の日本ではよく見掛ける二世の通訳風の人間が一番、英語が旨いのだという結果を生じて、 後略

はじめてこれを読んだとき、笑い転げた。

この人の笑い声が奇妙奇天烈だったため、青山二郎だったかが「お寺の破れ障子」というあだ名を付けたと聞くが、そんな笑い声を出す人だというのも、上に挙げたような文章から窺うことができる。

笑い転げたと書いたけれど、本来はこんな当たり前のことをよくぞ書いてくれたという感謝の念を抱くべきかもしれない。

同じ文章の中に「学校の体操の時間に、並足で進むのに左足を踏み出した時に右手を前に振り、右足の時には左手を出すことがどうしても出来ないものを見掛けることがあるが、そういう人間は幾らやっても、英語に上達する望みはない」とある。ところが吉田さんはこの手の人間だったそうである。

この文章はここだけ読んでも何のことだか分かるまいが、吉田さんが右足が前に出ると右手も前に出してしまう人だったことを書き足しておきたかった。なお蛇足ながらもうひとつ付け足しておく。吉田さんは乞食王子とあだ名されたくらい、吉田茂から独立した生活を送っていて、戦後は着るものにも事欠いて、海軍の水兵服を着たままだったそうだ。米英の当局者の間では「あの水兵服を着てケンブリッジ英語がペラペラの男は何者だ」と噂されたらしい。

繰り返すけれど「英語と英国と英国人」という本を読んでみたらいかが。講談社文芸文庫にあります。僕は面白おかしいところだけを書き写したが、本格的な文明論です。