季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

見た目

2011年08月17日 | 音楽
演奏における見た目について。

と書き始めたら目立つだろうね。最近の演奏教育?では見た目に美しく、というもっともらしい教えが蔓延しているらしいから、ついに僕も重い腰を上げてスタイル矯正に取り組むのであるか、と期待する人も(ちょっとは)いるような気もする。

美しい姿で演奏する方が客も喜ぶ。演奏がまずいならばせめて美しい姿で演奏したほうがよい。

僕のかったるい冗談ではない。実際にあった話だ。こんなアドヴァイスを貰った人がいるということだ。これをアドヴァイスと呼べるか、それは各人が考えてもらいたい。だが、これに類似する言葉ならば、本ブログを読んでいる人の多くが耳にしたことがあるはずだ。

さてこの意見に深い考察を加えてみよう。

こうやって大上段に構えたときほどくだらないことになるのはブログに限ったことではないね。社説、論文、演奏、あらゆることに通じるね。

むかし税金を納める国民の義務について滔々と述べた本を出した代議士本人が脱税容疑で捕まったっけ。さすがに失脚した。その後は惨めな境遇だと地元の新聞社からきいた。

なぜこんな脱線になるのだ。あまりにくだらない話題だと脱線もめちゃくちゃになるということだろうか。深い考察なんて冗談に自ら照れてしまった。

失敬失敬。

どういった仕草や動作、はたまた格好が美しいと感じるのだろうか。これをまともに論じたらそれこそ大変なことになる。トルストイの「芸術とは何か」とかヴォリンガーの「抽象への衝動」とかまで関係してくるかもしれない。お手上げだ。

で、一気に結論だけ書くと、美しい姿とはなにもひとつの姿に限定されるものではないという常識である。物思いにふける人の姿はある種の美しさがある。しかしサッカーの試合中に同じように見える選手がいたらそれは単なるアホだ。予想もしないプレゼントに目を見開き口を半開きにした顔も一種の美しさを持つ。普段からしていたらこれは間抜け面の標本だ。

美しく見えるようにと意識された演奏は見苦しい。一心に演奏する姿が時として「見る」人の心を打つだけの話である。本末転倒の見本のような話が真面目に語られるのは理解に苦しむなあ。

ばかばかしくて書くのが嫌になってきた。気が向いたら続きを書く。





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大胆な仮説

2011年08月01日 | 音楽
ある音楽団体のページであらゆる楽曲の音源を紹介してある。これが模範演奏のつもりなのか、そこは分からない。

平均律全48曲はオコンサールというピアニストの録音によるのだが、この演奏がひっくり返るくらい珍妙なのである。

どれもこれも音楽とは言いがたい演奏なのだが、2巻のホ短調のフーガは本当にひっくり返るくらい笑った。お祭りで息を吹き込むとビヨーンと伸びるおもちゃを売っているでしょう、テーマを聴いてあれを思い出してしまう。

そこでいったいこの人はどんな人かと検索をかけた。ところがどこを探しても上記の平均律全曲録音しか出てこない。(書いていて僕も暇人だなあと知った)
通常平均律全曲録音をする人ならば、出来栄えはさておき他に記事の一つや二つあるでしょうに、まったく見つからない。

で、僕の結論。こんなピアニストは実在しない。これは件の団体がコンピュータで適当に入力したでっち上げだ。さすがに次々に聴きすすむ気持ちにはなれず、あて推量さ。まあへへえと思った人は聴いてごらんなさい。
コメント (3)
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