季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

スタンフォード監獄実験

2015年06月27日 | その他
地位は人を作るという。なるほどその通りだ。

地位だけではない、環境も人を作るのではないか。

誰もが漠然と、でも当たり前なことのように思うことを、ある環境下で実験する試みがかつてあった。

スタンフォード大学で、無作為に選ばれた人たちを囚人役と看守役に分けて2週間にわたり観察することにした。

すると何日も経たないうちに囚人役は本当の囚人のように、看守役も本物の看守のように振舞うようになった。

看守役は囚人役に暴行を加えたり、人間の尊厳を傷つけるために素手で便器を洗わせたりした。また、囚人役は幾人かの例外を除いて、その命令に唯々諾々と従ったのである。

目に余る看守役の暴行に耐えかねた数人が実験の中止を申し出たが、被験者も、果ては実験を行っているはずの教官までもが、興奮のあまり継続を支持する有り様であった。

結局、2週間という実験期間を全うすることなくわずか6日間で実験は中止された。それ以後この手の実験は許されていない。

中止に際し、看守役の被験者たちは約束が違うと不服を申し立てたそうである。










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7月の講座

2015年06月24日 | 音楽
7月19日(日)14:30開講
ギャラリースクエア(小田急線・成城学園前)

今回は会場がいつもと違います。できれば各々スリッパを御持参下さい。

やや手狭な空間ですが、僕の講座には適していると思います。CD再生もできるようなので、話もし易くなるだろうと思います。

今回はモーツァルトのイ短調ソナタを桐朋学園の学生・斉藤和香子さんが演奏します。

斉藤さんは僕の生徒ではありませんから、僕が何をどのように言うか、また彼女がそれにどのように反応するか分からず、それが楽しみでもあります。

演奏とは結局のところ「反応」ということなのです。簡単なところではテンポから始まり、あらゆる「解釈」に至るまで、実際に鳴った音への反応で紡がれていく。

前回の講座の折、ハイドンのソナタでしたが、僕が「それは田舎くさい」といったそうです。後日それについて、ハイドンは田舎っぽく弾いてはいけないのだろうか、という質問がありました。

レッスン中はひとつひとつ吟味し尽くして言葉を選ぶことができず、これなども僕の言い方がまずかったのです。もっともこの言い方を自宅のレッスンではよくしますけれど。言い方がというより説明が足りなかった。

これは答えるのが大変難しい質問ですが、所謂クラシック音楽ではなぜ美しい音が必須なのか、というところに帰結します。その辺りも今回の講座で言及できるのではないかと思います。

演奏は反応だと言いましたが、講座も反応だと言える。一方的な意見、知識の開陳は好みませんから、遠慮なく質問を出して下さい。その場では、という方は本ブログのコメント欄、HPの連絡欄、あるいは直接メールで、匿名でも構いませんから質問して下さい。

また、今回のように受講したいという人がいたら自薦他薦を問いませんからご紹介をお願いしたい。ピアノソロに限らず、連弾、室内楽、何でも良いのです。
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むかし話 その2

2015年06月16日 | 動物
ポチと暮らして数ヶ月が過ぎた。ポチの生活はペット売り場の棚の下から大邸宅へと、もちろんうさぎ小屋としてだが、大変遷を遂げた。しかし男の生活には何の変化もなかった。

ある日、変わらぬ生活のまま町に出て件のペット売り場がある店の近くをさまよっていた。

売り場はその後どうなっているだろう。この手の詰まらぬ好奇心は男の心をすぐにとらえるのであった。

今回は棚の下に隠れたうさぎもおらず、男は心安らかにピーターラビットを眺めるのであった。

そのうち若いをなごが店員を呼び、一匹の子うさぎを見せてくれろと頼んだ。

見てくれの悪くない子うさぎであったが、ゲージから出そうとすると大暴れする。

店員がをなごに「この子は神経質だから買わない方が良いです」と進言し、結局他の子うさぎを連れて帰った。

男は足りない頭をひねったが、この調子では誰も神経質なうさぎを買わないであろう、ということだけは理解した。

ままよ、この子も連れて帰っちまえ。この時点で恐らく日本昔ばなしよろしく、何か良いことでも起こるのではと期待したのかも知れない。

男の知識は中途半端であった。鶴は恩返しをしたし、犬やキツネも富をもたらせたりしたが、うさぎはせいぜいタヌキの舟を沈めたり、皮を剥がされたりしただけだった。それをすっかり忘れていたと見える。

かような次第で、引き取られたうさぎはポチより小さかったのでプチと名付けられた。因みに、これまたほとんど無料に近い値段で、スーパーの特売でもあり得ないと男は満足であった。

神経質だったはずのプチはポチと違い、食い意地が張っておった。順調すぎる成長をして、瞬く間にポチの倍近い体重を誇ることになった。

うさぎはデリケートで、骨もガラス細工のようだ。獣医もうっかり扱うとショック死することもある。指南書にはどれにもそうある。

ところがプチは陶器のトイレを咥えては打ち下ろし割ってしまう。本当にピーターラビットであろうか?

疑念を抱きつつ男は獣医に訊ねた。そして訊ねたことを後悔した。獣医は大笑いして言ったのである。雑種ですよ。

では売場で付いていた値段は何であったのか。お買得の幸福感は去り、男は石川啄木よろしくじっと手を見るばかりであった。



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むかし話

2015年06月15日 | 動物
ある所に男がおった。その男は音楽を生業にしておった。といってこれという仕事もなく、昼日中からあっちの店こっちの店を覗いては散歩と称しておった。

ある日、当然目的もないまま、ペットコーナーに立ち寄った。そこにはピーターラビットのモデルになったといわれるドアーフというウサギが多数並んでいるのだった。

男に買えるはずのない値が貼られていたが、ふと気づくと、子ウサギたちが並んでいる台の下に真っ黒な、もう子ウサギとは言えなくなったウサギが丸まっている。

店員に訊ねたところ、もう1年近く売れないのだという。性質は良いのに、ねぇクロちゃん、と話しかけるところをみると店ではクロちゃんと名を付けて可愛がっているようではある。

しかし店が売れ残りをずっと飼うことはできない相談だ。男は足りない頭をひねった挙句、自分が飼うことにした。彼はウサギが好きだったのである。

好きだっただけで買える道理もない。クロちゃんには値札がついておらず、不思議に思った男が値を訊ねたところ、引き取って頂けるなら代金はいりませんとのことであった。そこで男は買うことにした。こういう買い物もある、と男は満足であった。

店員は店員で大喜びで「クロちゃん良かったね」を連発した。中古のゲージに申し訳程度を支払って男は帰宅した。

クロちゃんはポチと名を代え、男の暇つぶしの相手をして暮らしましたとさ。
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部活について

2015年06月11日 | その他
つい先ごろ、学校の部活でまったく知識、経験のない分野で顧問を務める問題、ストレスについて、教師から様々な声が寄せられているとの記事があった。たしか名古屋大の何とか先生よる纏めだった。

当然といえば当然だ。

とは言え、僕にはこのレポートの要旨が掴みかねた。

その分野分野の専門知識を持っている教師を配置すべきだと主張しているのか、教師が多忙を極めている実態を訴えているのか、等々。

調査に協力した教師にしても、何を訴えるのだろうか?

外部から専門知識を持った人をクラブ活動のために呼びたいのか、見合った手当を欲するのか。

どうも釈然としないのは、何れにせよ部活自体の存在だけは自明なものとして扱われているようにしかみえないことである。

その視点まで言及しないからあらゆる声が単なる愚痴にしか聞こえない。

部活が無い学校生活は考えにくい、というのはずいぶん根強い意見らしい。ちょっとちがう角度から見たら、部活はずっと学校にあったのだから考えにくいのは当たり前だろうに。

でもこれこそ議論の俎上に載せる価値がある話題ではないか。

こうした事を話すこと自体に及び腰なのはどうしたことなのか。

話し合いが何にも増して大切だと繰り返し説かれる。でもそれは建前に過ぎないのではないか、とすら思われる。

と書いている間に、スポーツの観点から問題提起があり、それにも首をかしげざるをえなかった。それについては改めて書く。

以上は少し以前に書いて、投稿しようとした矢先に柔道事故などが次々起り、タイミングを失した。しかし僕はスポーツ自体を書きたいのではなく、音楽も含めたあらゆることがらにまたがる今日的事象を指摘しておきたいので今投稿する。



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独りよがり(講座での質問を巡って)

2015年06月09日 | 音楽
先日講座を済ませたが、その際ピアノを学んでいる人から質問があった。

レッスンで「独りよがりにならないよう」注意があるけれど、それがどういうことか分からないとのことだった。

このフレーズはよく聞く。言われたほうはかなり否定的なことを言われたように深刻に受け止めるかもしれない。

僕はこうした漠然としたものは言ってはならないのではないかと思う。

この言い方が演奏を肯定したものではないのは誰でも分かる。その場合、たとえばどこがバランスを欠いているのか等、具体的に指摘すればことが足りるはずだ。それを独りよがりなんて言い方をしてごらんなさい。表現する勇気まで失せてしまいそうでしょう。

僕の懸念をはっきり言えば、こうした言い方の陰には自分が感じたことを表現することへの自信のなさが隠されているではないか、ということ。

演奏に客観的な表情なんてありえない以上、すべて「私」の判断なのである。「私」の責任において目の前の演奏を判断しているにすぎない。どこをどう探しても客観的表現なるものはありようがない。

抽象的すぎるならこう言っておこう。僕は生徒の演奏を聴き僕の主観に従って指摘をする。どこまで行ってもそれだけだ。生徒が納得出来ないことが重なれば、その時は僕から去れば良い。かんたんなことである。

独りよがりにならず、それでいて自己を主張する、こんなのはこれまた言葉のあや(あやにもなっていないじゃないか、ホントは)に過ぎない。独りよがりは良いか悪いか。悪い。ピンポン。自己主張はして良いか悪いか。良い。ピンポン。こんな問いかけに変容してしまうから、人から考える力、感じる力を根こそぎ奪ってしまう。だって答えは決まっているではないか。

そもそも考える力というと、何だかご大層に聞こえるが、決して難しい事柄を考えるという意味ではないはずだ。それは解釈についてで書いたことと重なる。




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FIFA続き

2015年06月04日 | スポーツ
ブラッター会長が辞任。

前記事で書いたように、日本のサッカー協会は結局意思を表明することなく事が過ぎた。

記事でも少しだけ触れたが、ヨーロッパサッカー連盟の思惑云々に言及することがどれほどトンチンカンか。思惑はある。当たり前だ。

さも高所から俯瞰しているような論評は実際の政治でもよく見かける。やれアメリカの思惑だとかね。

あらゆるものが思惑によって動くと正直に見ない限り、判断なんぞできやしない。

ヨーロッパサッカー連盟の思惑を指摘して、そこからどういう判断をするのだろう?

この手の知ったかぶりとおセンチな良識の結果、日本の態度や発言は信用を失うことになる。

狭い日本の中だけでは建前論が一番幅をきかすけれど。これは楽だものね。サッカー協会の今朝の発言も「膿は出し切らないと」だとさ。膿は無いと信じる。あっても出さないで良い、としか受け取れない態度だったのは誰さ?

人間ピラミッドまでなかなか到達しない。こう次々と似たような事故、事件が起きると。

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FIFAのスキャンダル

2015年06月03日 | スポーツ
FIFAについては以前から黒い噂が付きまとっていた。つい先日とうとう副理事を含む数人の理事が逮捕された。そのさなかに会長選挙が行われ、現会長が再選された。

取り立てて意見もない。よくある話だ。誰の目にも怪しげな組織だったし。開催国決定も、いつの間にか共同開催になったり、真夏のカタールが選ばれたり。

捜査が入ったことに対しヨーロッパをはじめとする70余国がブラッター現会長の再選にNoを表明した。

アジア連盟でもオーストラリアが再選反対を表明した。

日本はどうかと言えば、アジア全体の意見に従う、捜査が入ったことは遺憾だとしただけで、選挙後も賛成したとも反対したとも明言を避けている。おそらく賛成票を投じたのだと思われる。

ヨーロッパの国にはワールドカップをボイコットするとまで批判を強める向きまであり、どうなるか予断を許さない。

こんな事態になった時、我が国で想定されるのは「選手には罪がない」という「良識」の声だ。ボイコットするとの声は、他国が実際にボイコットを敢行してようやく上がるだろう。

このように、断をくだすことができない国、それが残念ながら日本である。

たった今入ったニュースでは、ヨーロッパサッカー連盟はFIFAから脱退して、ワールドカップに替わる大会も視野に入れているらしい。

ヨーロッパサッカー連盟にもきっと思惑はあるだろうが、そこまで話を広げたが最後、改革なんぞできやしない。

では日本のマスコミはどうなのか?ブラッター会長の再選は日本にとって得か損かと、情けない論を見かけたが、日本サッカー協会の態度を難じた記事は多くないようだ。

ワールドカップがなくなったら選手が可哀想、だって選手はスキャンダルとは無縁なのだから。もしもこれが「良識」なのであれば良識なぞ捨ててしまえば良いと思う。どうも情緒から抜け出せないらしい。ふだん情緒と縁がない人が一番抜けきれない。

日本サッカー協会はプリンシパルだけは守らなければならなかった。

よくスポーツの必要性を説くのに、強い心とか団結する精神が養われると言われるけれど、ホントかね?

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部活事故

2015年06月02日 | その他
柔道部でまた死者が出た。

このところ人間ピラミッドに関する話題が再燃しているようで、それについて改めて感想を書いている最中だった。

亡くなった女の子には哀悼の意を表することしか出来ない。

原因として基礎をおろそかにする風潮、国際化する中で柔道が変質している、等々が挙げられている。

一つ一つはなるほどもっともだと、つい思ってしまう。しかし例えばフランスは柔道人口がずっと多いのに死亡事故はないという。学校内での死亡数が100を優に超えるのと余りにも違う。それを知ったら何かが根本から違うと思うのではないだろうか。

こうした事故の後に何とかしなければ、と掛け声はかかる。当然だ。

ただそれも月日が経つにつれ消えていく。対策はせいぜいが上記のように
基本をしっかりを徹底する、と確認するくらい。

原因は、フランスの例との余りにも大きな差を見ても、そう単純なものではないだろう。

それが何であるかを追求するのは大切だが、その間にも次々と事故は起こり得る。

ひとつ質問を。万全な対策を探しあぐねるほど危険でもある競技を学校という場でする必要があるのだろうか。

その手の疑問は多分多くの人が持つと思われる。しかし疑問は疑問のまま放置される。疑問をなお深く追求するには、学校に部活は必要か?というタブー化した問いかけに足を踏み入れることにもなるから。

結局この時点で足踏みしてしまうのがあらゆる局面における日本の最大の問題点ではないだろうか。

昨日もPTAにほとんどの親が疑問を感じているにもかかわらず、存続は不要とする人はたった4%だとあった。親と学校が無関係なのはまずいという「良識」が不要と断じるのをためらわせるのだと思う。

これにしても不要か必要かを含めて徹底的に論じずに(在り方に疑問ならね)うやむやに先送りするだけ。何十年後にも同じ不満と問題提起だけがあるだろう。

そもそも教師と親の関係が必要かという質問設定がいけない。常識的に答えれば必要に決まっている。それが今のような形でなければならないか?という話にならなければいけないではないか。

部活の事故対策にしたところで、部活は必要だと結論だけがある。その理由は学校は勉強の場だけではいけないのでは、という「良識」である。つまり社会を学ぶ場でもあるのでは、という漠然とした雰囲気があって、結局うやむやになる。

これだけ死亡事故が多発する柔道を体育の授業にまで(ほとんど)必修の形で取り入れる理由は一体何だろう?

間違えないで貰いたいが、僕は柔道という競技を否定しているわけではまったくない。

続きは人間ピラミッドについてやFIFA(国際サッカー連盟)についてで。



















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