季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

鳥の声

2009年11月28日 | 音楽
僕がドイツに渡ったのは9月中旬であった。

語学もできず、携帯電話もない時代に、フランクフルトまで飛行して、そこからハンブルクまで5時間の列車の旅、ハンブルク・アルトナ駅に迎えに来た友人と出会った。

列車の切符の予約もしていなかった。僕は行き当たりばったりなのである。フランクフルトでは特急券を買うのに右往左往した。何しろ読めない、話せない、聞き取れない、という按配で、日光の有名な猿像を地で行ったようなものである。

機内でキャプテンクック時刻表から何とか探し出した列車は何と平日用で、到着した日は週末ダイヤによる運行だった。言葉も通じないフランクフルト中央駅で、焦ったことだけ覚えている。

どうやって目的の列車を見つけたのか分からない。重いトランクと一緒にホームを走ってようやくハンブルクへ行く列車に飛び乗った直後に発車したのを懐かしく思い出す。

今だったら携帯で「いやあ、休日用時間でね。いまフランクフルトを出たところだ」で済むけれど、まったく連絡を取る手立てがない。いまから考えると日本を出るときに適当な約束をして、電車の駅で会うなんて、宇宙ステーションで出会うよりも難しいのではなかろうか。

そうそう、飛び立ったのは成田ではなく羽田だった。時代を感じるでしょう。歳をとるとこんなことを自慢したくなるのだな。どうだ、豪いだろう、俺は羽田から出発したんだぞ、とあと10年もすれば言い出すのかな。それとも羽田をハブ空港に、ということだから時代を大きく先取りしたと自慢するのか。

さて、なぜか分からぬけれど無事に出会った友人が案内してくれたのは僕がこれから住むべき学生寮ではなく、寮からほど近い、すでにハンブルクに居を構えていた上級生のところであった。

驚いたことに玄関ホール脇のスペースに、すでにサイコロを振りさえすればよいマージャン台があり、3人の男が僕を待ち受けていたのである。

たまげたね。僕はいたって真面目な男だ。志を持って今ドイツの地を踏んでいるのである。フランクフルトからハンブルクまでの5時間、目を皿のようにして列車の窓にしがみついてきたのだ。これがドイツか、と感激しながら。僕を待つ月日に思いを馳せてもいたであろう。

それなのに。

僕から志を奪い取ろうというのか。僕は悪の道へ誘われているのか。しかし僕は潔く与えられた道を選択した。ここで疲れ果てれば時差ボケなんぞ一遍で消えてしまうという説得に一理あると思ったからである。

その時僕は勝ったのか負けたのか、もう覚えていない。トランクを引きずりながら友人に雀荘、いや間違えた、上級生の家からほど近い学生寮まで案内してもらい、夢うつつのまま牢屋のように狭い自分の部屋に倒れこんで深く眠り込んだ。

何時間経ったのだろう、はっと目を覚ますとそこはドイツの牢獄であった。いや、牢獄のように狭いドイツの学生寮だった。僕は牢獄に住んだことはないが、きっと狭さの見当は外れていないだろう。

ベッドにぼんやり仰向けにひっくり返っていると、外から鳥の声が聞こえてきた。この声で僕はすっかり我に帰った。今まで聞いたことがない声だったのだ。

日本の鳥の声はチッチッと形容したくなるでしょう。すずめはチュンチュンだし。それがここではトリルを長く弾いたように、尾を引いたようにさえずるのである。メロディックと言ったほうがより適切だ。

午後の弱い陽射しを浴びた中庭を覗いてみれば黒い鳥が水を浴びている。黒ツグミというのだろうか。

この鳴き声は僕を非常に幸福にさせた。モーツァルトのハ長調ソナタ(K.330)の冒頭のようだ。あの曲はこういう鳥の鳴き声を知っている作曲家しか書けない。このソナタを僕は勝手に「春の訪れ」と呼んでいる。

こうして僕は小鳥のお蔭で、その後の悪友たちの誘惑を振り払い、時差ぼけもなく、ドイツでの生活を始めたのである。

写真について。最寄のオートマルシェン駅。今も変わっていない。階段を上るとこの光景が目に入る。ハンゼン先生の家もここからすぐであった。
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パイプオルガン

2009年11月24日 | 音楽
ヨーロッパに住んでいないと絶対に体験できないものがパイプオルガンである。今でも多くの教会は昔ながらの古いオルガンを使っている。

かつてはヨーロッパでも、新しければただそれだけで立派だという気運が芽生えた時期があったらしい。古いオルガンは取り壊され、新式の楽器に替わっていくところであった。

シュヴァイツァー、マックス・レーガー、カール・ショトラウベが中心となって歴史的オルガンの音響上の美点を指摘し、たくさんのオルガンが取り壊される運命を免れた。カール・シュトラウベとはトーマス教会の合唱長を務めた、非常に優れた音楽家だったらしい。シュヴァイツァーとレーガーについては説明も不要だろう。

この人たちの努力は報われた。今日僕たちは彼らに感謝の念を抱きながら、歴史的オルガンの響きに身を浸す。

新しいオルガンと一口にくくって言ってくれるな、俺は少しばかり違うぜ、という製作者もいるだろう。彼らの喜びや努力を笑うわけではない。笑うどころか敬意を表する。しかしその響きの差は如何ともしがたい。言葉で柔らかい音と表現しても、どうしようもないもどかしさだけが残る。

オルガンの名器はおよそ3箇所に分布してある。シュトラスブールを中心としたアルザス地方、ドレスデンとその周囲、そして北ドイツからオランダにかけて。

歴史的オルガンは他にもあるけれど、この3つの地域の代表的なものをまず聴いておきたい。

春を過ぎ、気温が上がるころになるとオルガン演奏会が開かれるようになる。

僕の住居はリューベック(トーマス・マンの生誕地としても知られる)から南へ車で40分、リューネブルクから北へ車で40分走った辺りにあった。

オルガン演奏会はたしかどちらかが火曜日、もう一方が金曜日に開かれていた。よく一週間の間に両方を聴いたものだ。

リューベックのヤコビ教会のオルガンはじつに素晴らしい。放送では隣にあるマリア教会の新しい大オルガンをよく使用していたが、これは金属的で不快な音である。

ヤコビ教会のオルガンを聴くと、音が一条の光のように、体を差し抜いていくような心地がする。古いオルガン特有の、手で触れることができるような丸い柔らかい音。フォルテは新しいものだと空間に放り投げられたような響きがするけれど、古いものの音は錆が付いて凝固したような、締りのある響きである。

リューベックは7つの塔の町といわれるように、大して広くない町に教会がたくさんある。大聖堂にも大きなオルガンが備え付けられているが、これは一時期の金属的な音への反省から、マットな響きにしてみました、という緊張力のない駄作である。もちろん新しい。写真はヤコビ教会。(サイズが大きすぎてとんでもないものが載ったのであわてて差し替えた。)

一方リューネブルクは10代のバッハが数年住んでいた町である。ヨハネス教会にはゲオルグ・ベームがオルガニストとして仕えていた。

バッハが籍を置いた教会の名前を失念したが、ここのオルガンはもう新しくなっていて平凡である。

だが町がこじんまりとしてじつに美しいのでよく訪れた。この教会ではいろんな人が練習していて、レンガの建物の外に(壁に沿って歩くと)かすかにオルガンの響きが漏れてくる。

重い扉を開いたとたんに音が洪水のように溢れてくる。しばし耳を傾けた後ふたたび扉を開けて外に出る。ゆっくりと扉が閉まり、オルガンの響きは別の世界からのように遠のく。僕はこの感じが何ともいえず好きだった。

そうそう、肝腎のヨハネス教会のオルガンについて書くのだった。不思議な音である。桜の古木に洞が空いているでしょう、そんな感じ。

リューベックのような身体を刺し抜いていくのではない。音源のありかが分からなくて、船酔いに似た気持ちになる。バッハのパッサカリアの冒頭など、巨大な木管楽器がどこかで鳴っているかのようだ。ふいごが楽器になったらこんな音になるのだろうか。このような音は後にも先にも聴いたことがない。





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本当のことが言えない

2009年11月21日 | その他
このところまたぞろ血なまぐさい事件が連続している。

まだ記憶に新しい秋葉原で通り魔事件が起きたときのこと。

ある警察幹部が「こんな事件は特別ではないのだ」という趣旨の発言をして非難を浴びた。

非難を浴びたということは、非難を浴びるべきだという論調の報道がなされたことを意味する。(こんな注釈が要らないようだとよいけれど。)

この発言をした人が謝罪したのかしなかったのか、その後のことは知らない。事件自体がすでに記憶の中の1ページになっているのだから。

でもこの人は非常に正確にものを言っただけなのだ。こんな事件は気にしなくて良いと言ったのでもなければ、起っても構わないと言ったのでもない。特別なことではない、つまり今までも起ってきたということを言った。

どうしてなのか分からないが、人類はそういう亜種を常に抱え込んでいる種らしい。

こういう事件は、当然ながら一種のショックを引き起こす。報道されればその波動はより広がる。過剰なまでの報道はむしろ好ましくない。報道しているキャスターやコメンテーターと呼ばれる人の、心配そうに声を潜めるトーンには、隠し切れぬ「喜び」のトーンが混ざっているのにどうして気づかないか。

当事者以外は皆他人事である。当たり前だ。だからこそ、必要最低限の報道以外は口を噤むのが礼儀であろう。

ある犯人は裕福な家に育つ。他の犯人は貧しく育つ。人間の心が非常な複雑性を持つ限り、それらの諸条件は無関係なはずもないが、といって単純な因果関係で成り立つ道理はない。そう断言する強さが必要なのであって、多くの報道に見られるような家庭内での様子、文集、人付き合いを調べ上げて事件の本質に近づいたような顔をするのは単なる好奇心だと知るべきであろう。

硫化水素で自殺者が出る。すべてのメディアが一斉に、ネットにその発生方法が載っている。それが問題だと連日騒ぐ。

その結果は僕たちが知っている通り、相次ぐ自殺だった。むしろメディアが最低限の報道だけに徹していればこういう事態は起らなかったのではないか、と推察することも可能だ。誤解を恐れずに言えば、「硫化水素の自殺」が相次いだのは報道の影響であろう。

ただしここでもまちがえてはいけない。報道がなされなければ自殺を企てる人が減ったであろう、というわけではない。記事は最後の、手段を選ぶ際の、また決断するときのきっかけになったに過ぎない。

前述の警察関係者はおそらくそのあたりについて語ったのだと思う。げんに報道が落ち着いたら同じ方法による自殺は急速に減ったではないか。

今日の報道ばかりがそういった作用を持つのではない。ゲーテが「若きウェルテルの悩み」を発表して人々に感動を与えるやいなや、失恋した若者たちが相次いで命を絶った。ゲーテは慌てて、この物語はこしらえ物であって、現実に起った出来事ではない、と声明を出した。

躍起になって原因と思われるものを規制し続けたところで無駄だろう。無駄だけならばまだ良いのだが、建前だけが異常に膨らんでいってむしろ危険だとさえいえる。日本の現状は、建前だけが立派で本音というか、現実の姿は不安定で揺らいでいる。

事件を冷静に見てきた警察関係者にとっては、意味もなく加熱する一方の報道が苦々しく思われたのではなかろうか。

必要なのはこうした事件は昔からあることを知ること。そうした人間性の一面を直視して、できる限り事件に巻き込まれないよう注意する具体的な方法を提案すること、それくらいしかあるまい。

社会的取り組みという「空想」が必要でないというつもりはないが、これは的を外すととんでもない方向に行くことも強調しすぎることはないだろう。
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絨毯

2009年11月18日 | 骨董、器
我がボロ家を建ててすでに20年経つ。歳月人を待たず、なんていう言葉が身にしみるなあ。

シェパードのいない生活をするつもりはまったく無かったので、抜け毛対策としてすべての部屋をフローリングにした。犬を飼っている人にしか理解できない悩みである。

さて、いざ生活を始めてみると、床が安物のフローリングむき出しだと何とも殺風景である。ウィークリーマンションだってそんな寒々しいことはあるまい。

かくして我が家の絨毯選びが始まった。

これもまた楽しいものである。その楽しさはハンブルクで毎日のように絨毯屋の前を通って、ガラス越しに(きっと羨ましそうに)覗き込んでいた時から知っていた。

あれは良い、これは下品だと買いもしないのに品定めばかりしていた。

ペルシャ絨毯といえばわが国ではほぼ決まった文様ばかり目にする。メダリオンという文様である。

それはつまらない。大きなモスクの石の床には似合うかもしれないけれど、日本の家屋に似合うものは少ないだろう。

また、シルクを高級品だと決めてしまっている人も多いようだ。実際はウールのほうが発色もよく、質感も豊かである場合が多い。

「ペルシャ絨毯文様辞典」というのがある。一時絨毯が面白くて仕方がないころ書店で見つけて、喜んで購入した。ひと口にペルシャ絨毯といっても、なかなか日本には入ってこない、複雑なのにすっきり素敵な文様もある。

アンティークとして非常な価値のあるものばかり載っている。これをコピーして載せようかと思ったが、画像検索をかけたらどこか都心の店らしいものを見つけた。

この店は良いものを扱っているようだ。画像だけで判断してしまうけれど。興味を持った人はホームページに行って、さらに関心があれば訪ねてみたらいかが。「文様辞典」を載せるより面白そうだからこちらを載せておく。

なに、買わなくても訪ねて行くとよい。何でも実地で見ておくと目が肥える。買わなければ本当の目にはならないというのも真理だが、まず何となくの感じをつかむだけでもよい。

たとえばオルゴールの飛び切り綺麗な音を知りたければ、デパートの宝石売り場に行き、リュージュ社の製品を聞かせてもらうとよい。ハイドンやブラームスを弾く人には是非とも一度聞いてもらいたい音だ。

売り場の人には申し訳ないけれど、ここはひとつ勘弁してもらおう。感激して買ってしまう人がいないとも限るまい。絨毯屋だって同じことだろう。

まず関心を持つ人を増やして目を養っておけば、その人たちの中から本当に値打ちがあるものを買ってみたいと思う人が育つのだ。

僕が求めた絨毯はなかなかのものですぜ。どうです、こう書かれるとホントかいな、と心が動きませんか。

本当のことだけを書いておくとね、5,60年は経っているのです。さいわいまだ擦り切れていない。その時期はまだ染料が自然のものばかりで、発色が美しい。婆さんと歳のいかぬ女の子たちが辛抱強く織ったのだろうか。そんな空想も楽しいのである。

絨毯といえど工業製品の側面もあり、同じ型自体は残っている。一度都心の絨毯屋で偶然我が家のものとまったく同じ文様の絨毯を見たことがある。

色の配置まで一緒だったが、現代に織られたその絨毯は、もうまるで違う生き物のように思われた。価格はほぼ同じだが、こちらはくれると言われてもお断りするような代物であった。色彩が死んでいるのである。

上に載せた写真の店を検索したところ、これらの絨毯は展覧会のために置かれているもののようだ。きれいなはずである。

ついでに国内の絨毯屋を検索していたら「足で踏める唯一の美術品」だったかな、そんなコピーがあった。

本当にそうだ。壁に掛けたって面白くない。床に敷いて毎日踏まなければ。





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スラー

2009年11月15日 | 音楽
音楽を習う人は従順で、疑問を持つこと自体を避けようとする傾向がある。「音楽に関する素朴な疑問」という記事中にそんな内容を書いた(9月7日)。それが趣旨ではなかったのであるが、コメントでその点に触れた方がいらした。

その時に思いついた。僕が先生の「教え」を意図をもって否定したことの始まりを書いておく。コメント欄で書くにはどのくらいの長さになるか見当も付きかねたので。

僕の先生は厳しいことで有名だった。よく僕の前にレッスンを受けた人が泣きながら帰宅するのを見たものである。

僕はといえば、とんでもない餓鬼だったから、弾いている手に先生の平手打ちが見舞われる寸前にパッとよける技を身に付けていた。先生の平手打ちは空しく鍵盤を叩き、美しい不協和音を奏でるのであった。もしかすると僕は音楽よりも鬼ごっこに向いていたのかもしれない。

先生への感謝の念は持っている。僕の成長に大きな影響があったことは間違いないから。嫌な思いをしたこともなかった。それどころか親身になっていただいた。

理屈めいた世界に引きずり込まれなかっただけでも本当にありがたかったと思う。理屈なんかは後でどうにでも付けられるから。

非常にやかましく言われたのは表情のない演奏にならぬことだった。独特の言い回しで書き込まれた当時の楽譜を見ると、厳しさだけは思い出すのであるが、ではどんな表情を付けて弾いていたのかといくら思い出そうとしても思い出せない。

そんなものなんだな、記憶なんて。爺様たちがわし達の若いころは、と偉そうにのたまうのも、いろんなことをすっからかんと忘れるからだろう。

かろうじて覚えていることのひとつが、2つの音符間にスラーが付いているとき「必ず」2つ目の音を小さくする、ということであった。それが1拍目からの音型であれ、アウフタクトからの音型であれ。

この注意自体は今日でも言われる人が多いと思われる。

僕はそこに釈然としないものを感じた。音楽に魂を奪われだしたころのことだ。釈然としないというか、明らかに違っているだろうと思った。

そのころ僕はブラームスの4番シンフォニーに夢中だった。安物のポケットスコアを買い込んで、いっぱしの音楽家になったつもりで読みながらレコードをかけたりしていた。

1楽章の冒頭はアウフタクトのシと最初の小節のソの2音に対してスラーがかかっている。そして延々と2音間のスラーによってテーマが構築されてゆく。これを常日頃注意されているようにシからソに向かってディミヌエンドをする演奏家はいない。

2音のうち重心は明らかに後の音にある。ここでの演奏は例外の余地がないものだったから子供の僕にもすぐに理解できた。

ではこうしたスラーと拍の関係はどうなっているのか。当時の僕にはそこに思いをいたす才覚はなかった。ただ、先生の注意は少し無視して構わないぞ、というくらいの他愛ないものだった。先生と名のつく人の明らかな過ちを発見した喜びとでもいおうか。要するに楽譜の読み方全般に関する目が育ったわけではなかった。

それでも自立心といおうか、むしろ自尊心と言ったほうが適切かもしれない、それを手にしたことは後々役に立ったと今は思える。僕が他の注意はすっかり忘れてしまっているのに、このことはよく記憶しているのも、はじめて教師の言うことに反対意見を持ったためであろうか。
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ボールドウィン

2009年11月12日 | 音楽
往年の名人ピアニスト、パッハマンの録音を聴いた。

というか、家人が聴いているところへ僕が入っていったのであるが。

ショパンのワルツなどであるが、パッセージの鮮やかな処理がブゾーニの名人芸と似通っていて、当時のピアニストの力量を改めて認識した。

どこのメーカーのピアノだか分かる?と問われたが、スタインウェイではないことは分かる。また、大変音楽的な楽器であることも分かる。しかし音は素直で、古いベーゼンドルファーなどの独特な耳ざわりもない。(耳障りのことではないよ、紛らわしいけれど、手触りと同じように耳触りというものもあるからね)

ベヒシュタインの録音はいくつも知っているが、それらに近いようにも聴こえる。しかし中音域から下はなめし皮のような耳触りで、明らかにベヒシュタインとも違う。それでも仕方なくベヒシュタインかい、と答えたのだがさにあらず。ボールドウィンであった。

知らない人、半分知っている人のために書いておけば、19世紀末から製造しているアメリカのメーカーである。

その昔、フランクフルトで開かれている楽器メッセでお目にかかったことがある。あるメーカーに依頼されて各国のメーカーのブースを覗き、感想を提出したのだった。その時の印象があまりに強烈でね。決してボールドウィンだけではなかったのであるが、それは言い訳にならない。

安物の西部劇に出てくる酒場に置いてあったらぴったりという代物で、アメリカ文化をすっかり馬鹿にするに足りるものであった。

どうやったらあんな安っぽい音になるんだろう。世界中で色んないかがわしいピアノが造られていることを直接知ることができて、このアルバイトはとても楽しかったのだが。

その時の印象とこの録音の音とはあまりにかけ離れている。録音だけでピアノの良し悪しが分かるのだろうか、と訝る人には分かるのだと答えよう。メーカーを当てることは困難かもしれないが、楽器の美点ならば即座に分かる。

パハマンの演奏は1925年に録音されているそうだ。するとボールドウィンは製造を始めてから高々30年位ということになる。それでこの音質を造り出したのだから、大したものである。文化の下支えがあるとはこういうことなのかと改めて感心した。

しかしそれがまた数十年後には目を覆うくらい(なぜ耳を塞ぎたくなるくらいと書くと違った意味になってしまうのだろう)落ちぶれる。

書いているうちに思い出したことがある。

アラウがまだ若く、晩年のずんぐりした体型になっておらず、口ひげがお洒落に見えていたころ、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソを演奏した映像がある。

この中で少しの間鍵盤が映り、メーカーのロゴも映る場面があった。そこでボールドウィンとあった(ような気がする)。そこでもたいへん素直でよく伸びる響きで、フランクフルトでの軽蔑の念をほんの少し払拭できた、というか意外な驚きを感じた記憶が戻ってきた。

たしかボールドウィンだった。映像は持っているのだが、探し出すのは骨が折れそうだ。誰かYou tubeで見つけてくださいな。

ボールドウィンで検索をかけてもさすがにたくさんは掛からない。いくつかは知る人ぞ知る式のもの。正直に書けば、音を聴くまでもない感じの代物。むかし良かったものは今もひと味ちがう、と言いたいのが人情だが、残念ながらそう甘くないのが世の常である。

パハマンの演奏に少し触れておこうか。

この時代に特有の編曲はある。それが少々趣味が悪い。パハマンが親しかったというゴドフスキーと比べても。

しかし、ピアノの音と曲の美しさに舌なめずりしているような感触が伝わってくる。フィッシャーやシュナーベルの世代が難じたのはこういう世界なのだろうか。


いずれにしても非常な名人だ。名手名人がいない現代では、素直に耳を傾けてみたら良い。音だけで舌なめずりを感じさせるなんて素晴らしいことではないか。

写真をウェブサイトで見つけて拝借したら、ご覧のような巨大サイズになった。驚いた人もいるでしょうが面倒なのでこのままにしておく。奇行の主だったそうだから期せずして相応しくなったように思う。



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ちょいと面白い話題

2009年11月09日 | その他
チベットの高僧、ダライ・ラマの後継と目されている僧侶はテレビゲームが大好きであるという記事があった。

これは面白かった。インタビュアーとの詳細なやり取りはなかったけれど、充分察しがついた。

僕自身はテレビゲームをしないけれど。ああいう種類のものは一定期間しない時が続くとついていけなくなる。

だからといってテレビゲームを問題視するのは問題であると何べんも書いた。テレビゲームを(その他何でもよい、気に入らぬものを)問題視する人は実際のところ何の根拠も持っていない。ただただ気に食わぬからだ。

気に入らぬものを好きになる必要はない。けれど問題視するのはまったく次元が違う話である。僕なんざ、中学のころはマージャンなんてヤクザがやるものだと決めていたね。それがどうです、年に一度の大会で盛り上がるようになってしまった。何か問題が生じたか。何も生じない・・・ような気がする。勝ちすぎないようにしているしなあ。負けた友人たちの顔を見るのはしのびないからね。

チベット僧はそれをよくわきまえて話をしているように思われる。

質問者はどこの国の人か知らないが、まあこの手の質問をする人は大体同じような問いしか出さないのだろう、以下のようなもの。(この以下のようなものという言い方は人を見下しているから良くない、と主張する人がいることは先日書いた。じつに窮屈です。卑屈だとも思える)

聖職者が暴力表現があるゲームを好むことは正しいあり方だと思うか?この質問に「何の問題もない」ときっぱり答えている。

自分も人間であるから、いろいろな人間感情に晒される。憎しみを持つこともある。そういう気持ちが高まったとき、この種のゲームをすると、その気持ちを発散させることができる。

“私はビデオゲームを日常レベルの感情的セラピーだと考えています。仏教の行者であろうとなかろうと、私たちは皆感情を持っており、幸せな感情、悲しみの感情、不快な感情などが生じたときに、それらにどう対処するかを見つけ出す必要があります。

そこで、ビデオゲームをプレイするのが、私にとっては時々痛みを和らげてくれる減圧のような効果を持つのです。もし私がネガティブな考えや感情を持っているなら、ビデオゲームの世界はそうしたエネルギーを解放する方法の1つで、その後は気分が楽になります。

これを読んで、宗教家にあるまじき、と悲憤慷慨する人もあるだろう。しかし僕は素直な、嘘のない表現だと思う。

むかし明恵上人は無心に石けりをして遊んだという。なぜそんなことをするのだと質問されて、難しい経文が頭から離れないから忘れたいと答えたそうである。この人が現代に生まれたならば何をするだろうね。

宗教家とはかくあるべし、という像を持つのは構わない。むしろ僕たちの自然な感情だろう。しかしそれがあまりに狭いものになるのならば、単なる建前論になる。

僕たちは明恵だけではない、西行法師や良寛さまをはじめとする人間の喜怒哀楽から目を逸らせることなく生きた人を知っているではないか。いかにかすべき我がこころ、西行法師はこう歌った。

チベット僧がどのような人か良く分からないけれど、建前論を振りかざす人たちよりはるかに信じるに足る、というのが僕の偽らざる印象である。
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ダヴィッド・フリードリヒ

2009年11月06日 | 芸術
フリードリヒはドイツ・ロマン派に数えられる画家である。ハンブルクには代表作のひとつ「希望号の難破」がある。

じつは僕はこの画家があまり好きではない。ロマン派から近代にかけてのドイツ人画家は結構人気があるらしい。問題提起の作品が多いと言った方が良いだろうか。

僕にはその観念的な目の働かせ方がひどく気に障る。その真面目さが空回りしている様子が、僕を幸せにしないのだ。

フリードリヒの世界は真面目である。人物を背後から描くことが多く、鑑賞者は彼らが目の前に見ている広い世界を一緒に覗くような気持ちになる。そのように計算された画である。家の中から開いた窓を通して外の世界を見る、という構図もこの人の好むところだ。

風景はあくまでメランコリックである。乳色に広がる夕方の空。かなたに溶け込む山の稜線。不思議な地形をした山の頂に高く掲げられた十字架。

分かりにくいものはひとつもない。しかし、何という陳腐さだろう。そう思ってしまって僕はどうしても馴染めない。

それでも画集を持っているのである。時折ふと思い出しては眺めてみる。そのつど、何という陳腐さ、とつぶやく。

何年経ってもこの画家を好きになるとは思えない。ただ、じっと見ていると、先ほどまでセンチメントに見えていた乳色の空や黒々と広がる大地が、実にリアルに写し取られていることに気づく。北ドイツの潤んだような空と空気だ。

景色そのものは画家の裡に描き出されたものだろうが、ディティールは忠実な写実的なものだ。

僕がハンブルクに住み始めたころは、まだ市電が走っていた。それに乗ってピアノが置いてある学生寮まで練習に通ったものだ。

音楽学生は大概その寮まで通っていた。日本の大学の上級生、同級生と顔を合わせることも多かった。

僕がドイツに渡ったのは9月半ばで、一日ごとに日は短くなっていった。中心地から郊外へ伸びる市電の窓から見える景観は色を失い、冬が近づくと3時ころにはもう夕暮れ時の様相を帯びるのだった。北ドイツの冬は暗い。

ある日、市電の中で大学時代の同級の男とばったり出会った。27歳でようやく留学生活を始めた僕と違い、彼はもう何年もハンブルクに住んでいた。

夕暮れの中に沈みこんでいく町が流れていくのを眺めながら「おい、寂しいよなあ。日本に帰りたいよなあ」彼は僕に話しかけるというより、独り言のようにそう言った。

僕はそういった景観や空気がとても気に入っていたが、彼の気持ちはよく分かった。確かに寂しい。それでも、この空の下でブラームスは生きていたのだ。

僕はこういう空が好きである。南国の透明感も好きでしばらく暮らしてみたいとは思うが、そのうちに伸びやかな倦怠を感じてきそうだ。それに対し、押し黙って、口を利くのも大儀だ、それなのに体のどこかから力が湧き出る、そんな北ドイツに愛着を感じる。

フリードリヒの描く空を見ているとそんな北ドイツの夕暮れを思い出す。そうそう、こんなだったなあ、と思う。また暮らすような日々がくるとは思わないが、過ごす時間はぜひ持ちたいと願う。

フリードリヒはいったい失敗したのだろうか、それとも成功したのだろうか。

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高速無料化に関して思うこと

2009年11月03日 | その他
高速道路の無料化の是非が話題になっている。たしかに無茶苦茶に高いからなあ。話題になるのも当然だ。

僕は免許も車も持っているけれど、ほとんど乗らないに等しいから切実な問題というには遠い。ただし生活に関係ない、なんて思っていないよ。

面白く思うのは、これだけ高い高速料金を払いながら、いざ無料化が唱えられるとずいぶん多くの人が慎重派反対派になることだ。ことによったら僕が単細胞過ぎるのかもしれない。

無料化に賛成する人の言い分はわざわざ訊くまでもないだろう。反対する人の意見こそ検討するに値する。少なくともまずそちらから考察してみるのが順序だと思う。

なんて言いながら深い考察なぞしないけれど。手っ取り早く検索しただけだ。

多く目に付くのが高速無料化は渋滞を招く、温暖化防止に逆行するものだという論旨。新聞などではとくによく目にするようだ。

一見成る程と思えなくもないが、これについては変だと思うね。首都高が慢性渋滞してなお料金が高すぎる、というのが殆んど衆目の一致するところではなかったか。

猪瀬直樹さんの意見記事もすぐに検索に掛かってきたから一読したが、やはり説得力があるとは思えない。細部の資料を知った人だから、そこで納得する人は多いかもしれないけれど、僕には細部は目下関係ない。

つまり細部のあれこれからものを言い始めたならば、どの人にもそれなりの理はあるという常識に至る。僕にしても同じなのである。

無料にするとたくさんの人が車で外出する。すると渋滞が起き、物流が滞り、また各公共機関の収益も減るという。CO2(この2を下に小さく書く方法が分からないや)削減と言う流れに逆行するではないか。ヨーロッパでも高速有料化の流れである、と猪瀬さんはいう。

反対を唱える理由はどこにもない。ただ変だなあと思う。要は不要不急の車を減らせばすむのでしょう。

総排気量と走行距離の積でおよそ段階を把握できるわけだから、それに応じて税をかければいちばん理にかなう、という理屈だって成り立つだろう。大排気量で年間走行距離5000キロにも満たない人と、低燃費車で喜び勇んで遠方まで出かける人とではどちらがたくさんCO2を撒き散らすのか。こんなことだって議論の俎上に乗せてみるべきでしょう。

すると、無料化して人出が激増して御覧なさい、とんでもないことになると脅かす。けれど、こうした人出は一過性のものである可能性大である。無料だからといって渋滞の中で一日を過ごしたいと恒常的に願う人はまあ多くはないのではなかろうか。

仮に一過性のものではなく無料化が総走行距離を増加させ、環境汚染を助長させることが分かれば、すでに書いたように総排出量に応じて課税するさ。それでは物流に支障をきたすという声は必ずあがる。

こうやって話は堂々巡りになる。そこで知恵を出すのがその道の専門家だろう。僕はその手の議論は暗いから、名案は浮かばない。

だから議論はなるべく全体像を踏まえながら、僕のような素人にも得心が行くように進めるべきだろう。

局所的なデータや危惧の念しか提出しないメディアや学者の怠慢だけは看過しないぞ、というしかない。

また、高速有料化がヨーロッパの流れだという説、これはその通りだが、どの程度の料金になっているのか、といった数字ひとつ挙げずに紹介したって説得力がない。

公共交通機関の客離れを心配する声に至っては、本末転倒だと思う。つい先ごろまで「痛みある改革」と言い続けていたのは誰だったか。その伝でいけばヨーロッパの公共交通はとっくの昔に壊滅しているではないか。

世界に類を見ない高額な高速料金を今まで黙々と支払ってきた人たちはこれからも同じ態度を保て、とでもいうのだろうか。

以上、読んでくださった方は、僕が何の意見も持っていないことに気づかれたと思う。不得要領で終わってしまい、何だこの文は、と拍子抜けだろう。この不得要領こそ僕たちが置かれた現実だと僕は思っている。

ここでは、ただ納得するのは正しくない、と言いたいだけなのである。主張する人たちには、あらゆる方向から考察を進める必要があるだろう、と努力を促すだけである。


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