季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

エドウィン・フィッシャー:Ⅱ

2008年06月30日 | 音楽
フィッシャーがオーケストラを指揮する動作と、ピアノを弾く動作の間に、まったく変化が見られない、と書いていて思い出したことがあった。

アシュケナージのことだ。

彼は若いときから来日していて、大変評判になっていたので、僕も何度か演奏会に足を運んだことがある。

僕にはピンとこなかった。それはそれで良いのだが、何度目かの来日時に聴いたとき、この人は自分の演奏を探っているな、何かを変えようとしているな、という印象を持った。奥歯に物が挟まったような演奏に聴こえたのだ。

そのような演奏が何年も続いたように思う。そのうちに「元の」アシュケナージに戻った。諦めたのだろうと僕は思った。まあ、愛着を持っていなかったので、あまり正確に言えないのだけれど、おおよその流れはそういった印象だ。

指揮者への道を歩み始めたのは、あるいはもっと以前に遡るのかもしれない。指揮に関心を寄せるのは、演奏家ならば当然ともいえよう。日本のピアノ奏者及び学習者が、オーケストラをはじめとする、他の楽器、声楽に対して、関心も愛着ももたないのを、僕は心から残念に思う。そうした点から見ると、アシュケナージの心の動きは大変自然で好ましく映る。

その後の指揮者としてのアシュケナージの活躍ならば、僕よりもこれを読んでくださる方のほうが詳しいだろう。僕は(残念ながら)近頃は演奏会にほとんど行かないのである。音楽関係の雑誌類にも、まったく関心が無い。新聞もとっていない。ないないづくしさ。

少し前の話であるが、彼がベートーヴェンの「田園」を指揮している姿に偶然出くわした。1楽章途中から2楽章にかけて聴き、続きは何だかやりきれなくなってスイッチを切った。

2楽章は「小川のほとりにて」だったっけ、そんな副題がついている。題名は本当はどうでも良いのだ、それがたとえ作曲家に拠るものであっても。この楽章は、仮に副題がついていなくても、おそらく同じような情感をもたらすだろうと思われる、名状しがたい平安に満ち溢れている、

すでに聴こえなくなった耳で、小鳥の声を聞き取ろうと何時間も腰を下ろしていたという逸話が残っているが、そのような男しか書けなかった音楽だ。

アシュケナージは揃えて、軽く折り曲げた膝を、可愛らしい子供がするように、リズムに沿ってゆすって指揮していた。「皆さん、ぜひここを愛くるしい表情で、柔らかく演奏してください」全身がそう語りかけていた。アシュケナージは小柄で童顔だから、余計それが強調されていた。

この楽章は、そんなにセンチな曲だろうか。ただ、僕がやりきれなくなったのは、彼の感じ方のためではない。この人のピアノを弾く姿からは、まったく想像もできない「ボディーランゲージ」のためであり、それは同時に、彼のピアノ演奏から僕が直覚していたことであったからである。

誰かクレンペラーが指揮しているのを見た人はいないだろうか。巨木の根元から音が出るようだ。2メートル近い、怖ろしいご面相の男が、アシュケナージと同じ所作で指揮したら笑えるがなあ。この人の笑い声がまた不気味なのだ。かすれて、高くてね。オーフォッフォッフォッフォとでも書くしかない。僕に擬音語や擬態語を作り上げる才がないのが残念だ。

話を戻そう、どこかへ行ってしまいそうだ。

アシュケナージがピアノを弾く「格好」は実に固い。手の動き、胴体、すべてが硬直している。気持ちだけは、優しい箇所では優しく弾きたいのだと分かるけれど。また、柔らかく深い音を出したいのは分かるけれど。気持ちだけでは、しかし音はつくれないのだ。気持ちが無ければつくれないのは言うを俟たないが。歌心だけでは声になるまい。発声のメカニズムを我が物にする以外、道は無い。

指揮をするようになると、自分で音を出すわけではないから、自在に指示さえすれば良いような気持ちになる。もちろん錯覚でしかないけれどね。

そこでくどくど述べたように、ピアノを弾くときと、指揮するときに、大きな差が出ることになる。

この両者が大きく違うということは、本質的に不自然なのである。もちろん技術の未熟は動きをぎこちなくする。しかし、アシュケナージはピアノの名手と見做されているのだろう。

アの口でウを思うことはできない。そのときはウが一種のアになっているという、心と肉体のじつに不思議な結びつきを僕に最初に教えたのは、以前ちょっとだけ触れたアランである。



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エドウィン・フィッシャー

2008年06月28日 | 音楽
フィッシャーといえば、僕の世代ではバッハと相場が決まっていた。平均律の全集は、彼のものしか無かったのではないだろうか。

考えようによっては、僕にとっては幸せだったのかもしれない。今のように、みーちゃんも、はーちゃんも録音する時代だったならば、誰の演奏を手にするかは、ほんの偶然だから、どこへ連れて行かれるか知れたものではない。

僕は、フルトヴェングラー、フィッシャー、ケンプ、コルトー、カザルスといった面々の演奏を聴きながら、自身の音楽的感性、ものの感じ方を育ててきたのだが、この人たちはみんな、ある種の共同体というべきものに属していた。

他にもこんなものを売っています、という雑音がなかったのだから、やはり幸福だったと思わざるを得ない。

フィッシャーについて書くといっても、この人の音は、つまんで食べてしまいたいほど、ひとつひとつに質量感があったなあ、ということしかない。

この人のモーツァルトの協奏曲は、ちょっと速すぎるのではないか、とか言ってみる趣味は僕にはない。

チェロのマイナルディ、ヴァイオリンのシュナイダーハンと共にシューベルトの変ホ長調のトリオを練習している様子が聴けるのはうれしい。

これこそ音楽家同士の合せだと、膝を打ちたくなる。といっても、いったい何を言っているのか、よく聴き取れないのだけれどね。

だが、それでも音がすべてを語っているのだ。練習風景のほかにザルツブルグ音楽祭でのトリオの夕べの演奏会も一緒に入っているが、僕にはまず、この練習が面白い。ここではスタインウェイも奮いつきたくなるくらい美しい。極上の楽器と、それを活かせる名人だ。

1楽章を、ある程度まで演奏した後、侃々諤々が始まる。一番吠えるように話しているのが多分フィッシャーだろうな。マイナルディだと思われる声が、細かいところを打ち合わせしようとしている。

そのうち、フィッシャーが、もう良いではないか、先を弾こう、といった感じで2楽章の冒頭をひとりで弾き始める。ここの音を聴くだけで、演奏の質の高さが分かるのである。そこまでも充分に美しいのだけれど。

軽快なようで、孤独な、シューベルト特有の世界が、一瞬のうちに表れる。何小節かを繰り返していると、マイナルディが釣り込まれるように、美しいメロディーを奏でる。そんな呼吸の流れが実におもしろい。文字通り、音での対話が成り立つ。

ザルツブルグ音楽祭では、ウィーンフィルを率いて、モーツァルトのピアノ協奏曲を弾き振りしている映像も、ほんのひとこまだが、ある。これがまた、いろいろなことを考えさせてくれる映像なのだ。

ピアノは蓋を外され、尾部を舞台奥に突っ込んだ配置で、つまりフィッシャーは聴衆に背を向けた形で演奏している。

オーケストラの間奏部で、彼はピアノ用の椅子から立ち上がって指揮をする。その姿からは、演奏に対する迷いなどは一切感じさせない。オーケストラがウィーンフィルであろうとなかろうと、確信に満ちた動作である。

ピアノパートになると、当然腰掛けて弾き始めるのだが、その時の姿勢というか、所作も、指揮をしているときとまったく違わない。

これは当たり前のようでいて、そうでもないのである。

まず、自分の感じている世界に自信がないと、殊にオーケストラを前にすると、所作は曖昧になる。

もうひとつは直接ピアノを弾く技量に関係したことだ。ここでも揺るぎないものが無ければ、動作はぎこちないものになる。

そのことでふいに思い出したことがあるから、続きにする。一応フィッシャーⅡとするが、フィッシャーからは離れる。
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ピアノメソッド

2008年06月26日 | 音楽
どうも、見ていられないものが幾つかある。ボディービルの大会などもそのひとつだ。それにしても、あの筋肉のつき方はすごいね。僕は文章で「すごい」という言葉を使うことに抵抗があるのだが、ここではすごいと言う方が適切な気がする。

人間の体にあんなに筋肉がつくとは。でも、とてつもない努力を怠ったらだめらしい。贅肉のほうは努力を怠るとつくのだが。

筋力トレーニングに明け暮れている彼らは、では如何なるスポーツ種目で傑出しているのであろうか?

ウェイトリフティングはできるのだろう。でも、それにしたところで、筋肉をつけるための手段でしかないから、選手と同じようにできるとは限らないだろう。

ましてや、水泳、野球、サッカーなどとはまったく関係がないだろう。

こんなことを書き始めたのも、あるピアノメソッドについて、しばしば耳にするからである。そこでは色々な考案された筋力計量器械以外は、ピアノすら置かれていないのだという。

僕自身は行ったことはないが、通ったことがあるという人は、何人か知っている。多くのピアノ教師が、熱意のあるとみなした生徒を、そこに送り込んでいるのも知っている。

つまりそこは、ピアノのレッスンを施すところではなく、指を鍛えるトレーニングを専門に行っている場所なのだ。御木本メソッドというらしい。正式な名称なのかどうかは知らない。

御木本さんの本というのを、立ち読み専門書店で見つけて、走り読み、というより飛ばし読みしてみた。

内外の多くのピアニストの指の筋力をあれやこれや測定しているようである。解剖学上の筋肉及び腱や骨の名称には不案内なので、家に着いたときにはもう、頭カラッポの状態だが、それはこの文章を書くにあたって何の影響も無い、というのが結論といっても良い。

生徒を送り込んでいる先生たちに問いたい。あなた方は強い指というのをどう捉えているのか。

つい先ごろ引退をした桑田投手が、一時期、いっそうの上達を志し、上半身のウェイトトレーニングに励んだことがある。もちろん新聞だか雑誌だかの記事ですよ。僕はこの人をどうしても好きになれなかったが、力がめっきり衰えてきた後アメリカに渡り、辛酸を舐めてからは、人間的に味のある顔になって、声も真実味のあるものに変わった。面白いものだな。

そのトレーニングの結果、彼の成績は落ちた。ピッチャーは上半身のトレーニングをすると良くないらしいのだ。人間は不思議なもので、強いところに頼ろうとする傾向がある。意識は届かない。ピッチャーは体中をしなるムチのように使って投げる。上体が必要以上に強いと、いわゆる手投げになり、活きたボールが投げられなくなる。

指の訓練でも同様だ。必要のない強さとは、弱さのことだ。多くの人が、指の動きという言葉を知っているだけなのだ。動き自体を観察なぞしてやしない。だから無邪気にも、指は訓練すればよいのでしょう、とのんきに送り込めるのだ。

音を聴かずに、必要な筋肉がどうして分かるのか。例えば僕のどこの筋肉を計測してくれるのか。僕が弾くとき、臀筋も背筋も指先の動きと連動しているのを僕は認める。これを積極的に言えば、ピアノを弾く指とは全身のことだ。

筋肉や骨の名称を言うのは、とても科学的に見えるが、それは見かけだけである。音で判断して、鍛えるべき筋肉を自然に鍛える以外、道は無いのである。

それが分からないから生徒を御木本さんのところへ送って、科学的に鍛えてもらおうと思っているのです、なんて人はいないだろうね。指がマッチョになったりしてね。

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犬の事故

2008年06月24日 | 
mixiに加入している。そう告げると若い生徒たちが「えーっ」と驚く。そう、僕は堅物で、そうしたものは無縁だと勝手に決めているらしい。いや、そんなことを思うはずがない。堅物とかの問題ではないのだろう。こんなおじさんが!といったところだろう。

加入しているには深い深いわけがある。といっても、おじさんになりたくない、というわけじゃないよ。

mixi内でのコミュニティー巡りは、新聞や雑誌などより、世の中の人々の姿をよく伝えている、と感じるほどだ。

結構面白く利用しているが、シェパードを話題にしているコミュニティーで、3年ほど前、自分の犬が近所の子供を噛んでしまったという書き込みがあった。

幸い大事には至らなかったが、先方は許せない、犬を処分してくれの一点張りで、どうしたらよいか、とアドヴァイスを求める内容だった。

またか、と正直に言ってうんざりする。

投稿から察するかぎりでいえば、噛まれた子供の親もずいぶんだ。なんともいやな感じが残る。犬の持ち主は、平謝りの様子だ。怪我の程度がたいしたことがないのならば、許さないというのは度が過ぎている。

昨今の人たちは、時折信じがたい反応をする。給食費を踏み倒すとか、自分の子供にだけは掃除をさせないでくれ、とか言う親が増えつつあることはすでに周知の事柄だ。今もネットニュースで、救急車をタクシー代わりに使う輩が多く、苦慮している、との記事を読んだばかりだ。

僕はほんとうに犬が好きだから、こうした場合でも犬の立場からしか見たくない。起きてしまったことはもうどうしようもないが、犬の立場からコメントすれば、お願いだから私たちをしっかり躾けて、という哀願になろう。

mixiでの書き込みは、許せないという被害者への怒りばかりが目立った。すでに書いたように、それは僕もわかる。しかし、当の飼い主ばかりではなく、犬を飼う人全般に対し、これからいっそうきちんと躾をしようではないか、という声はついになかった。僕がそうした主旨の書き込みをしたが、無反応であった。

そもそも、子供を見るとおもちゃと勘違いして飛びつく、人に吠えつく、という人がいると、お宅もですか、うちのもそうなんですよ、同じですねえ、なんて会話というかコミュニケーションが成り立つうちは、被害者にどんな理不尽を言われても、返す言葉があるまい。

僕は人付き合いは決してよい男ではないが、子犬を連れた人を見れば、かならずうちの子と遊ばせてくれとお願いする。元来、成犬は子犬を襲うはずがない。子犬は複数の成犬と接しているうちに、犬社会のルールを覚える。同時に人間に対しても警戒心をもつことがなくなる。無駄吠えをさせないには、こんな簡単なことを実行するだけで、まずよいのだ。

ただし、自分が子犬のころそうした経験をしたことのない犬は、大人になっても子犬に対しきちんとした態度が取れないかもしれない。だから子犬の飼い主は、まずは成犬の飼い主に、子犬を苦手にしていないかを訊ねて、それから遊ばせてもらうとよい。

犬の世代交代は悲しいかな、たいへんはやい。ということは、僕たちの心がけ次第で、不幸な飼われ方をしている犬を減らすこともできる。

犬好きに悪人はいないというのは、以前も書いたが、我田引水も度が過ぎよう。むしろ、犬をめぐるあれやこれやからも、人間模様を窺うことができる。犬は僕たちの姿を映す鑑だといっても良い。ただし、犬が好きな人たちの間でだけ適用できる鑑だということをお忘れなく。

mixiのコミュニティー巡りでも、その常識を再確認した次第である。

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ドーピング

2008年06月22日 | Weblog
オリンピックが近い。だからというわけではないのだが、以前から釈然としなかった問題について、考えてみよう。ドーピングについてだ。

ドーピング問題がいちばん劇的だったのは、男子100メートルで、カナダのベン・ジョンソンが金メダルを剥奪されたことだろう。

圧倒的な強さをみせたベン・ジョンソンから、ドーピング陽性反応が出た。彼はドーピングの事実を認め、一定期間の出場停止後、ふたたび競技に復帰した。しかし、もう並みの選手でしかなかった。

僕がもっとも熱心に観戦するスポーツのひとつは自転車のロードレースであるが、この世界でも、毎年さまざまな薬物を使った違反が後を絶たない。

去年も、ロードレースの最高峰、ツール・ド・フランスで、最有力選手が、大会の途中で疑惑を持たれて、というか陽性反応が出て大会を追放され、そのまま引退した。

それでことは終わらず、3週間のレースも残すところあと2,3日というときに、総合トップの選手が、規約に違反していたとの理由で、やはり大会から追放された。

一昨年も、優勝を飾った選手が、陽性反応を示していたことが判明して、タイトルを剥奪されたし、大変な数の有力選手が疑惑を持たれて、出場停止処分を受けたり引退をした。

ルールを犯したという意味では、処分を受けたことに反対する理由はない。
しかし、と僕は考え込んでしまう。

世人は、ドーピングをした選手を、人間の風上にも置けぬような扱いをするが、これはどんなものだろう?

スポーツは人間性の表出の代表的なもののひとつで、それに薬物を用いるとは論外である。一応もっともな感想だと思う。

しかし、一方では、つい最近もスピード社というメーカーの水着を着れば、記録が伸びる、ということが話題をさらったばかりだ。

オリンピックに出場する有力選手たちは、科学分野の研究機関とタイアップして、体中に電極を付けて、筋肉の効率を量ったり、酸素の量を加減したり、風洞実験をしたりしている。

大会後は、メダリストとその科学チームの必死な努力を讃える番組が必ずできあがる。

こちらの科学は賞賛される一方なのだろうか?僕が複雑な気持ちになるのはここなのだ。かつて、選手は自分ひとりで試行錯誤していた。それは自身の肉体を通して智に至る道だったと言ってよい。

現代の選手も、当然さまざまな工夫をこらしているが、工夫の方向は科学によって与えられ、保障されている。選手はむしろただ忍耐を強いられているかのようだ。

そもそも、薬物を使ったからといって、それだけで記録が伸びるわけではあるまい。僕が子供のころ、ポパイというテレビ漫画があった。アニメと言い直そうかな、若い子たちに馬鹿にされそうな気がするね。

他愛もない、ポパイという水夫が、ブルート(だったかな、ちょっとあやしい)という大きな水夫と張り合って、形勢が不利になると、ほうれん草の缶詰を取り出して食べる。するととんでもない怪力になって、ブルートを吹っ飛ばしてしまう、というお決まりのシナリオであった。

薬物にはこんな奇跡的な力はない。僕が摂取したところで、何の役にも立たない。

なぜ薬物の使用が禁止されるようになったか。いうまでもない、選手の健康を損ねるからだ。でも、力士は寿命を縮めてまで、太ろうとしている。それをやめなさいという人はいない。

むしろリスクをきちんと知らせて、あとは本人に任せるということも考えられるのではあるまいか。化学物質は、隠そうとして複雑化するほど、危険も増す。

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コルトー版

2008年06月20日 | 音楽
コルトー版は大変すぐれた楽譜である。まずそう断言しておこう。

僕が子供のころは、そんなにたくさんの出版社があったわけではない。正確にいえば、日本で手に入る楽譜は限られていた。音楽の友社、全音、春秋社、それにペタースあたりだったろうか。

リストのエチュードや、ショパンのポロネーズを弾き始めたとき、先生から言われたとおりに買ったのがコルトー版だった。フランス語の版と英語の版とがあり、僕にとってはどちらも読めないことに変わりはなく、手に入ったほうを購入していた。

ピアノという楽器の扱い方を知ってきてから(埃の取り方、鍵盤の拭き方ではないよ)この版の指使いがとても自然で、理にかなっていることを痛感するようになった。つまり、40歳ちかくまで、僕は何となく気に入ってコルトー版を使っていたことになる。

指使いで思い出したが、僕の師、コンラート・ハンゼンはヘンレ版ベートーヴェンソナタ全集の指使いを担当していた。今は版が改まって、ペライアが書いているようだが。

僕がレッスンにベートーヴェンのソナタを持っていったとき、先生の指使いを一所懸命おぼえていった。それはそうだろう。本人が目の前にいるのだから。僕だってそういう初心な面はあるのさ。

正直に言えば、この版の指使いは弾きやすいとは言い難い。

ある程度弾き進んだとき、ハンゼンが僕を制して言うのだ。「重松、君の指使いは一体なんだ」「いや、楽譜どおりに、つまりあなたの指示通りに弾いているのですが」

ハンゼン先生、重い体をよっこらしょ、と立ち上げ、よろめくようにピアノの前まで来る。分厚いソナタ集を、見開きページまでゆっくりとめくり戻し(これが遅いんだよなあ、スローモーションみたいに)そこにはっきりと自分の名前が、指使い:コンラート・ハンゼンと印刷してあるのを確認すると、うめくように言ったものだ。「これはひどい」

ハンゼンの名誉のために、大急ぎで付け加えておく。彼は、こうした責任ある仕事を任せられると、真剣この上なく取り組んだに違いない。この版の指使いは、そんな感じが良く出ている。凝りすぎとでも言おうか。

実際には本人もまったく別の指で弾いていた。もっとも、いざ譜面に決定稿として印刷されることになったら、だれでも普段の指使いを書き記すのはためらうのではないだろうか。少なくとも僕はそうだな。1の連続だの、上行形で5の次に3だのを頻繁に使っているから、生徒にまではそれを指示できるが、説明不足で指番号のみを与えるのは、ちょいとためらうね。

その点、コルトー版の指使いは、大変に説得力がある。なにより、腕や手の動きを熟考した人の手によるということが良く伝わる。上述したように、書き記すのは、そんなにたやすい事ではないのである。

僕が30代半ばのころ、まず練習曲集が日本語に訳されて出た。ついに、万国共通のアラビア数字以外の記述も僕が読むことが叶った。大阪音大の八田惇という先生の訳である。

扉に「単に難しいパッセージをそのまま練習するだけでなく、そこを基本的な特質にまで掘り下げて、そのパッセージに含まれている難しさを勉強する」というコルトーの言葉が掲げられている。僕は感動した。

このような意識に照らし出された言葉が書かれた楽譜に出会ったことはなかった。自分が持っていた楽譜は本来このような精神に貫かれていたのか。八田さんには感謝しても仕切れない。

その後、連続してショパンの諸作品が翻訳されている。メンデルスゾーンやリストまで訳していただきたいものである。
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就職活動(続き)

2008年06月18日 | Weblog
このブログを書くには、検索時の利便性を考えてなのだろう、タイトルのほかにジャンルを選ぶことになっている。今回の駄文は、タイトルからみても、ジャンルを就職活動とする以外ないのであるが、就職活動を選択するには「ビジネス」欄から選ばなければいけない。そんなことにこだわりがあるわけではないが、僕がビジネス書を執筆しているような変な気分になる。

そのうちプロフィールにビジネスにも関心がある、なんて書いてやろうか。それで思い出し、急に脱線だが、最近リサイタルのプロフィールにドラマの主題歌を演奏しただの、CMで演奏しただの書いてあるけれど、あれは格好悪いなあ。事実かもしれないが、それとショパンの演奏とどうかかわりがあるのだろう。

一応認知されているというつもりかしらん。他人のことながら、気をもむね。

JRが昔、国鉄だったころ、保線区で作業員が体をほぐす体操をしていたのを見たことがありませんか。国鉄安全体操というのだ。この辺の事情について僕は詳しい。なぜならば、そこでピアノを弾いていたのは他ならぬこの僕だからである。

これは歴史的事実だからといって、プロフィールに書いたらあまりにも場違いでしょう。でも最近は、3歳で母のひざの上でモーツァルトを聴く、式の自己紹介が多い。2歳でショパンを聴いて泣き止むとか、エスカレートしたらどうなる。胎内でバッハを聴き、世に出るのをためらう。だから難産であったとか、もしかしたら前世ではベートーヴェンの実演を聴いて感銘を受ける、なんていうのまで出そうだ。さすがに、前世ではベートーヴェンだった、などと主張する奴はおるまいが。いたら出て来い。尊敬しちゃう。

さて、続きをというより本題に入ろうと思う。

進化論的にいえば、モンゴロイドはもっとも進化した人種だというところだった。これはモンゴロイドが成人するには、つまり脳が発達しきるには、コーカソイドよりも時間を要するということである。日本人の脳が発達し終わるのは27歳くらいだそうだ。

モンゴロイドは狭い空間に、大勢の家族が一緒に暮らしていたため、より複雑な人間関係を上手に学習する必要上、次第にそうなったらしい。

外見も、ヨーロッパ人と比べると子供っぽいでしょう。狼と犬の差くらいはある感じだ。進化すると子供っぽい外観になるのは、必然だそうだ。

それなのに、日本の若い人たちは、ヨーロッパの若い人たちよりもずっと早い段階で、世の中に追い出されていく。ヨーロッパでは30歳ちかくの大学生もちっとも珍しくない。彼らの脳は20歳過ぎに発達し終えているにもかかわらず。

仕事に就くのが悪いと言うのではない。ヨーロッパでも早くから仕事に就く人は多い。しかし、大学卒業も、ところてん式に追い立てられ、一斉に就職活動を迫られ、それをしない人がいると社会問題になる、という図式はどうにも合点がいかないのだ。

最近の若い人は夢をもたない。本当か?僕の知る限り、そんなことはない。むしろこう言っておこう。最近は若い人に夢を持たせない世の中の空気が目立つ、と。

いわゆるフリーターをしながら、自分のしたいことを見つけようとしている人と、それもなく、ただだらしない人とは、明らかに違うではないか。しかし統計上は単なる数字として、正式な職を持たぬ人として出てくる。この抽象的な数字に、何を読み取るかが大事なのだろう。

旧制大学では、卒業自体ももっと遅かったのだ。偶然とはいえ、科学的な根拠にも沿っていたのである。それを忘れないほうがよい。

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就職活動

2008年06月16日 | Weblog
つい先ごろまで、学生たちの話題、関心は就職活動であった。むろん該当する学年のことだ。

彼らの姿を見ていると、気の毒になってくる。勘違いをしないでほしい。僕はゆとりある生活をしているわけではない。

ただ、若い人たちが、年上世代から思われているよりは、ずっと礼儀正しく、律儀だといってもよい位なのに、実際にはぼろくそにいわれているのが、いかにも不当だと感じるのである。

人類の発祥の地はアフリカだ。僕は知らないよ、でも研究者たちがそういうのだ、これは受け取るしかあるまい。

僕は時折若い生徒に、僕は地球が太陽系の弟3惑星だということを知らないよ、なんて言って、怪訝な顔をされる。そんな時の、彼らの曖昧な笑い方を見ていると面白い。

天体を観測し、面倒な計算をやりとげた人々がいた。その結果を僕たちは事実として覚えただけのことだろう。本当に知ったわけではあるまい。

その種類の知識を僕が否定しているのだと思わないでもらいたい。もしそうならば、あらゆることを学習することが不可能になる。毒キノコだって?誰が言ったんだい、食べてみなけりゃ分からんさ、と食うやつがいたら、こりゃ馬鹿だね。

ただ、いわゆる秀才とは、この手の知識を無闇とたくわえただけのことかもしれない。これは、いわば一種の噂話と同じレベルに過ぎないだろう、噂話をたくさん集めてその気になるんじゃないよ、べらぼうめ、といった気分かな。

おびただしい数の知識の中から、自分が本当に知っていることを見つけること、その他は知らないことだと思えること、これを僕は心がけようと思っているのだ。

どんどん就職問題から離れていくね。宇宙が果てしなく膨張しているのは本当かもしれないな。

少し話を戻そうか。人類の発祥がアフリカだった、というスケールの大きな話まで。待てよ、宇宙が膨張しているといったスケールの大きな話から、スケールを小さくして、と言うのが正しいのかな。

ネグロイドが北上してコーカソイド(いわゆる白人種)に進化し、それがさらに北上して、そこから南下したのが我々モンゴロイドなのである。(ただし、これも噂話レベルですよ、僕が調べたのではないよ、言うまでもないが)

つまり、人類の発展史的にみれば、モンゴロイドはいちばん進化した人類なのだ。

ここでも注意したいのは、進化とはあくまで進化論的意味合いであり、頭のできの良し悪しではないという点だ。最も進化した人類だと聞いて、おお!と感激した人はお気の毒様。

高等動物は、その種の進化のためにネオテニーという「戦略」をとったのだという。分かり易くいえば幼稚化である。幼稚化という言葉に傷つく必要もない。狼と犬をくらべると、犬のほうが幼稚に見えるでしょう、そのことです。

産む子供の数を減らして、より複雑な環境に適応するために親元に長く置いて学習させる。そのためには大人になるのを(犬だから成犬ね)遅らせる。簡単にいえばそういった次第なのだ。

話は宇宙からようやく動物まで戻ってきたが、この調子では果てしなく続いてしまう。いったん切り上げて、続きを書くことにしよう。どうも言いたいことをある程度きちんと言おうとすると、こんな風になってしまう。
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平均的

2008年06月14日 | Weblog
どこで読んだのかを忘れてしまったが、面白くて、なるほどなあと感心したので、内容だけは覚えている話である。

ある女子大の全学生の顔写真を合成してみると、男の目から見て、絶世の美女に映る顔ができあがるそうだ。

これが男子学生を全員集めて平均化すると、なるほど整っているが、なんだか薄気味悪いというか、生きた人間の感じがしない顔に見えるのだという。女性から見てですよ。

これを一般論でいえば、男は平均的な女を理想的とし、女はむしろ特徴のある男を理想とする、ということになるらしい。

自然界の動物でもそうだ。鳥はオスの方が、より目立とうとして美しい色彩を持つし、鹿や水牛の角なども、大きく立派のオスが他のオスを退けていく。鹿にいたっては角が立派過ぎて首が立たなくなり、絶滅した種類もあるそうだ。鳥も、孔雀のオスとメスを比較すれば一目瞭然だ。

このように、メスはオスに極端に近いほどの特徴を求める傾向があるという。極端な特徴を持つ子孫を残せば、さまざまな天変地異があっても、根こそぎ絶滅する恐れがなくなるからだ。

人間界でもそれは同然であって、たとえば相撲取りのような、普通から見れば、常軌を逸しているくらいの肥満体を好む女性がいたりするのは、そういった自然の理なのだそうだ。

僕の友人には肥満体が多いのであるが、ここまで読んで彼らがしたり顔で頷くのだとしたら、それはちと早い。相撲取りくらいまで肥えてから期待するべきなのだ。中途半端はよくないのである。

その他、極端なのっぽ、たいへん独特の風貌、大変な才能、財力等々、何でもよい大変なという語がつけば、女性から好まれる資格があるのだそうだ。

そういえばショパンの写真を見ると、冴えない中年男が寒さに震えながらこちらを見ているばかり。どこから見ても女性に人気があったとは思われないのだが、上記のうち、大変な才能というやつを持っていた。

しかも、その才能は、数学の才能などと違って、素直に聴く人にとっては大変分かりやすい分野だったから。

数学の天才に女性が群がって、キャーキャー騒ぐ図はちょっと想像でき難いよね。第一、天才だと理解するのには評価する側も、それなりの天才を必要とするのではないだろうか。

ピーター・フランクルさんの論文を理解するのは世界にたった5人程度だというではないか。こうなってくると何のことやらますます分からない。

僕のことを理解する人も、5人ならいるような気がする、世界中を探せば。この場合は、僕は天才ではなく、むしろ馬鹿なのだというのは、どこか理不尽なような気がする。と同時にそれは正しいような気もしている。

ショパンの分野は、つまり音楽は、素直に聴く人にとっては難しくないと書いた。で、つらつら思うのだが、彼が現代に生きていたならば、伝えられるような人気を博すことはなかったのではあるまいか。

何しろ、時代背景だの、構造だの、当の本人も気づかないような因果関係だの、コンプレックスだの、ぺんぺん草だので、まあ素直に聴けない人ばかり増えているからな。

どうする、ショパンさん?
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調子っぱずれ

2008年06月12日 | 音楽
最近我が家のオーディオ事情が変わった。家内の部屋にも一組置くようにしたのだ。

我が家は1階の2部屋を練習室にしている。つまり仕事部屋である。部屋同士は廊下で隔てられていて、互いの音はかすかに聞こえるが、邪魔にならない。

僕が一日中仕事をしていて、家族が聴きたいときに聴けないのは不便極まりないと思っていたところ、アンプが不調になってレコードが聴けなくなった。僕の部屋にはレコードがたくさんある。聴けないのは困る。

音に関していえば、CDはレコードに逆立ちしても敵わない。生徒にある箇所ばかりを聴かせたりする関係上、レコードで持っている演奏をCDでも持っている。まったく同じ演奏を、たまに聴き比べさせてみる。だれもが同じことを言う。CDの方がつやがない、潤いがない等々。

それはさておいて、生徒を送り出すため廊下に出ると、家内の部屋から録音の音が漏れている。僕は生徒となにやらを話しながら玄関に立っているわけだが、聞くともなく聞こえるヴァイオリンの音やチェロの音がやたらと調子っぱずれなのである。

いったいこれはどうしたわけか?僕の持っている演奏家はどれもが自分で吟味した演奏家ばかりのはずだ。

生徒を送り出した後、家内の部屋の扉を開け「これはいったい誰の演奏なんだい?」と訊ねようと思ったら、不思議不思議、ただの?美しい演奏だ。家でよく聴く往年の名人の演奏だった。

きょうは体調が悪いのかも知れん、三半規管の変調か、と医学的には何の根拠もないことで納得していた。

その後も同じことが続くのである。調子っぱずれなのに、扉を開くと美しい。「鶴の恩返し」の反対みたいな世界でね。あれは障子を開けると鶴で(それでも鶴だからな。現代のように、印象を強く持たせなければ、効果を期待できにくい時代に作られた童話だとしたら、扉を開いてみたら、絶世の美女と思っていたのは、じつはマウンテンゴリラだった、などとしないといけないだろう。でもその場合、題名は必然的に「ゴリラの恩返し」になり、あの話の日本画のようなやさしさ、繊細さは伝わらない。うまくいかないものだ)この場合は開けると美しいのだから反対でしょう。

僕の家には、現代の演奏家による、無味乾燥な録音は一切置いていないので、確かめることは出来ないのであるが、ふと思いついたことがある。

僕がどうしても好きになれないヴァイオリニストたちの演奏は、仮に僕が廊下に出ても、調子っぱずれには聴こえないのではなかろうか。彼らはいつでも「正しい」音程をとっているから。

音程は音楽の感じ方によって変わる。ピアノに代表される平均率とは違う、といった単純なものではない。

こんな風に仮説を立ててみよう。

シャープが付いた音は、基本的に高めに感じるのだが、この「高め」も曲の箇所によって違う。当然のことのようだが、自分の感じ方に自信が無い場合、どうしても「万人向け」に安全な音程をとる。それに対して、自分の感じ方だけを頼りに音程を作った場合は、同じ嬰ハ音でも、じつにさまざまな音高を与える。

聴き手である僕が、僕の耳にかなった演奏を聴く場合、僕の感じ方は、奏者の感じ方に添って流れると言ってよい。

廊下に出た時の僕の耳は、まだ演奏者に添っていないから、おそろしく調子っぱずれに聴こえるのではないか。

新しいオーディオ事情は、僕が「原音」と題する記事で書いたような聴き方を裏付けるような体験をもたらした。
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