季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

形容過多

2014年01月29日 | 音楽


少し前に腑抜けと題する記事を書いた。今回はそれの補足というか、ピアノ演奏における実例を紹介してみよう。

この有名なノクターンを弾く人は、何がなんでも音楽的に弾かなければと思う。それは当然だ。気持はよく理解できる。

で、円で囲んだ所、とくに2小節目、4小節目は格好の発露の場であり、殆どの人が「気持を込めて」弾く。

ここはもちろん美しい。しかし、絶対に注目しなければならないのは、四角で囲んだ所である。「腑抜け」と併せて見て貰いたい。

詩でいう韻を踏んだようなものである。何もここが最も重要な部分だというのではない。だが、例えるならば四角の部分が名詞、円の部分が形容詞だと言える。

この韻を踏む効果でフレーズは先へ先へと繋がっていくのである。

ついでに4つ目の四角に注目して貰いたい。わざわざスラーを切ってドレミが強い調子になれるように書かれている。ここからも四角の部分の連結こそがこのメロディをしっかりと繋ぎ留める要素だということが理解できるはずだ。

形容詞と名詞のようなものだと例えたけれど、形容詞の部分だけ思い入れたっぷり弾くと、「美しい⚪️⚪️」果たして⚪️⚪️には夕陽なのか野原なのか花なのか、はたまた女性なのか、さっぱりわからない。そんな風にしか聞こえない。

しかも音楽性の発露?で一層腕によりをかけて、「見たことがないほど美しい」「夢のように美しい」「一生忘れ得ないくらい美しい」「誰もが形容を失わざるを得ないほど美しい」と、形容詞はいくらでも付け加えられる。

ボジョレーヌーボーの毎年のコメントじゃあ無いのだよ。

まぁ、かような次第で、一所懸命弾く人ほど形容過多な腑抜けな演奏になるのである。何とかしたいものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連弾

2014年01月28日 | 音楽
先日の講座でシューベルトの「未完成」を連弾した。僕は低音を受け持ち、2人の生徒が交代でプリモを弾いた。
合わせる練習そのものを聴いて貰おうという趣旨だったから、後から反省することもない。それよりも僕にとっても楽しかった。これも予想していたとはいえ、その予想よりもずっと楽しかった。

結局のところ、演奏のレッスンというのは、ハイキングや登山で人を案内する楽しみと似ているのだね。

え、腹が減って歩けない?じゃあもうちょっと頑張って行こう、あと少し行くと花畑がある、風の通る尾根に着く。そこでは飯がうまい。そうやって案内して、青息吐息だった同行者が「本当だ、頑張ってここまで来て良かった」と言ってくれた時の満足感だ。

そう、レッスンは知識の「伝授」ではない。ここをこうしたらもっと綺麗になる、君はそう思わないか?

もちろん教える側はそのための知識、技術、経験など諸々を持っていないと、案内自体ができない。さもないと何やら小難しいことをむにゃむにゃ、もしくは高圧的に宣言することになる。

人間は何処かで人と価値観を分かち合いたいと願う動物なのだろう。ラーメン屋ひとつでも同調する人がいると嬉しいではないか。

社会性とはそんなことだ。僕は小さい頃から社会性が欠如していると指摘され続けてきた。それは今も変わらない。

確かに組織内で動くことは好きではないし、話をややこしくてしまう傾向もありそうだ。

しかしだからと言って自分が社会性に欠けるとも思わない。社交性に欠けるとは思うけれど。そう居直っている。

それを連弾して改めて感じた。それでも文句のある奴は言って来い。コテンパンにしてやる。

どうです、社会性に溢れているでしょう?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物真似また

2014年01月22日 | その他
You Tubeを見ていてお笑い芸人の物真似に行き当たり、面白く見てしまった。
残念ながら僕は芸能人をたくさんは知らない。ところが物真似タレントの芸は当然ながらより多くの人が知っている芸能人を真似るものが多く、そうなると似ているに違いないのだが見ていてちっとも分からない。だから辛うじて知っている人物の真似を見ただけなのだが、それでも面白かった。

山藤章二さんが似顔絵塾というのを週刊朝日で連載していて、目の前にこの雑誌があるとそのページだけは見る。と書いたけれど、僕は週刊誌をほとんど読まないのである。まだ連載されているのか分からず少し心配だ。近頃は立ち読みも週刊誌には及ばないし、この雑誌を置いた医院にもとんとご無沙汰だし。

塾生は素人で、といっても中にはイラストレーターがいたりもするのだが、山藤さんからしたらまあ同じようなものかもしれない。でもみんな僕から見たら上手なのだ。画風は人それぞれで、モデルのどこをどう似させようかという気持ちがよく伝わってくる点だけが共通する。

そこに加えて山藤さんの解説がまた面白い。似顔絵でデフォルメするには大雑把に言って二通りあるという。善意のデフォルメと悪意のデフォルメ。なるほど、と思う。

その伝で物真似芸を見ることも出来そうだ。

清水ミチコという人の芸は悪意に満ちていると思った。悪意といっても、真似をしようと思った時点で一種の親近感を持っているわけだからね。こりゃ意地が悪いや、でも似ているなあ、と笑ってしまう。

演奏というのは大真面目にした物真似のようなものでもあろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初体験

2014年01月20日 | その他
風邪で寝込んだ。風邪で寝込んだ覚えは1度もないからこれは初体験といえる。

寝込んだことは何度もあるが、それはほとんど全て持病の偏頭痛と嘔吐によるものだ。これは辛い。

生徒達がどんな酷い風邪を引いてやって来ても、移るのではないかと心配したことがなかった。そして1度くらい風邪で寝込んでみたいという願望すら持っていた。

しかし実際に引いてみると願望していたものとは聊か異にすることが分かった。

まず腰が痛い。頭痛で寝込んでいる時にはそれ程感じなかったが、風邪だと頭だけは通常に働くから、1番の肉体的苦痛は腰痛になってしまうのか。

とにかく退屈である。枕元にこんな時こそ読もうと本の数冊とスコアとを置いてあるが、集中して読めるものではない。ちょっとした病気なら入院するのも悪くないかも、と思ったこともあるが撤回した方が良さそうだ。

スマートフォンの操作ならば大した努力も要らず、勢いこうした駄文をものにすることになる。テクニックについての記述も試みたのだが、その集中力は無さそうである。

ま、おとなしくしていろということか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一見温かい

2014年01月19日 | 音楽
故園田高弘さんは、音大の入試でも手が小さい人は、たとえどんな良い演奏をしても落としていたそうだ。

そしてその話を紹介する人は「演奏家として独り立ちするには手が小さいと不利だ、それをいやというほど知り尽くしていた園田さんの温かい愛情だろう」と書く。

馬鹿を言っちゃいけない。この逸話が本当だと仮定して、なんという傲慢な独りよがりかと僕は呆れる。

良い演奏をしたなら素直に入れろよ、と言いたいね。音大生すべてが演奏家として自立できるはずがない。言うまでもない。

でも良い演奏をした人が良い教師になってくれたならば、それはそれで大切なことではないか。その人が名演奏家を育てるかも知れないではないか。もっと率直に言ってしまえば、そういう存在は、得体の知れない演奏家とやらよりずっと大切なのだ。

こんなバカバカしい言葉を温かい心だと受け止める、日本の人は素直だなあ。僕が擦れからしなのかね。それでも誰が何と言おうとこの手のはったりは大嫌いである。

はったりばかりではない。温かいどころか反対に冷血だと思う。冷血という言葉が適切でなければ、例えようもない気障だね。この種の自己陶酔は。

さて、この一連の感想は園田さんの発言を巡ってのものだが、本当にそう言われたのか僕には知る術がない。

でもこれを紹介した人にとってはその発言の内容は「真実」なのである。つまり発言の主が園田さんであろうとピアニストAさんBさんであろうと、温かい心だと感じるわけだ。僕が持つ激しい違和感はむしろその底抜けのお人好しにある。

因みにルフェビュールという名ピアニストはオクターヴがやっとだったそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

快挙

2014年01月15日 | スポーツ
スキージャンプのワールドカップ・フライングで葛西選手が、何と41歳で優勝した。10年ぶりの優勝だという。報道もされたようだから知っている人はいるだろう。

僕は実況を見ていた。ジャンプは二回飛んで合計で順位が決まる。一回目で並み居る強豪を押さえて一位に立ち、二回目は最後に飛ぶことになった。

一度目の順位が低い順に飛ぶのである。

直前の数人が次々に素晴らしいジャンプで記録を更新していき、葛西選手を
はじめとする日本人選手がこういったシチュエーションで失敗ジャンプに終わることが多かったことを思い出してハラハラした。

しかしここでも最長記録をマークして見事な優勝を遂げた。

気持良かったのは、ライバルチームのコーチ達までが興奮してガッツポーズしていたことだ。

葛西選手のところにも、何人もの選手が寄って来て、負けた選手達とは思えない表情を見せながらお辞儀し、握手と抱擁をしていた。これも珍しい光景であった。

好成績をおさめたドイツの選手が、インタビューで自分のことは一言だけ、葛西選手のジャンプに興奮し感動したことを喋っていたのが会場の雰囲気をよく伝えている。

数日遅れだが、とても気持が良かったことを書いておきたくなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶

2014年01月14日 | 音楽
いつも通る道でも、ある日に家や店が取り壊されていることがある。

するとそこには以前何が建っていたか思い出せない。僕らの記憶なんてそんなものだ。

自分の財布の正確な形状や細部だって、描こうと思ったら曖昧だということに気づく。中身だっていくらあるか、大抵は曖昧だけどね。僕の場合は入っていると信じていて店頭で🈳である(あれ、変な変換になったが、気持が伝わるからこのままでいいや)ことに気づく。僕が使ってしまったか、家内が抜き取ったかのどちらかだろう。

札束がワープした可能性もあるかもしれないが、現在の科学ではまだ解明されていない。そもそも札束というものを見た記憶があるのか曖昧である。

ゴッホがもう見ないでも描けると弟に豪語するのはそういう事だ。暗譜なども全く同じである。楽譜に起してみると余りにも曖昧で焦る。

僕らの脳みその特性を知る以外、曖昧さから逃れる方法はあるまい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仮定

2014年01月10日 | 音楽
先達ての記事の続きになる。

若い時のグールドの発想が面白い。
子供が小さい時からウェーベルンなどの曲ばかりを聴かせたとする。

その子が歌うようになった時、口からでるのはそうした感じの歌(音)だろうか、と。

彼独特の人懐こさで対談相手の作曲家に問いかける。

相手はいかにも大人ぶった態度で鷹揚に笑い、もちろんそんなにはならないだろうね、と答える。

こういった一見子供じみた問いかけも僕は好きである。

実はこの場面の前にグールドはウェーベルンだったか、その辺りの曲を弾いている。

件の作曲家は、その曲に対してシャイな作品だな、と感想を述べる。するとグールドは、シャイな作品ていうのはこういうのさ、とシューベルトを弾き始める。

その後、前述の場面になる。

これは実際に試みることはできない。確かなことは分からないが、ナチスは人間に対してありとあらゆる人体実験をしたという。人に暗闇を与えなかったらどうなるか、とかまで。

グールドの問もナチスだったら実地でしてしまったかも知れない。

僕も似た空想をする。

子供をほめるときに恐ろしい顔と声でほめ、叱るときは柔らかく優しい顔と声で叱る。一事が万事このように接する。この子はいったいどんな風になるだろう。

恐らくその子の精神は壊れるのではなかろうか。

僕は何も残忍な趣味からこんな事を思い付いたのではない。ピアノを弾く身体と心の関係について考えている時に思い付いたのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

CDの整理

2014年01月06日 | 音楽
持っているCDを整理している。CDが世に出始めたころは半永久的に保存できる媒体であるかのような触れ込みだったが、思ったより早く劣化するようだ。劣化すると言えば音質の低下のように聞こえるが、ハードディスクがある日突然機能しなくなったことがある人は分かるのだが、まったく読み込めないことになるかもしれないのである。

そんなことになる前にバックアップを取っておかないと、と始めた次第。

これが結構大変な作業だ。枚数は高々7、8百枚くらいだろうが、内容を打ち込まないと整理した意味がない。
殊に歌曲など閉口だ。訳の分からぬ題名やら、共演している他の歌手の名前やら、もういい加減に諦めようかと思うくらい面倒である。

今は1/4くらい終わったろうか。気が遠くなる。財産目録ならほんの数分で終わりそうなのに。いや、待てよ、このCDが財産なのか?笑うしかないなあ。

全部終わるころには枚数も把握できるだろう。それよりも何よりも、今まで買ったきり聴いていないものを聴き、いろいろ面白い。それらについてボチボチ書いてみようと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過去の遺産

2014年01月03日 | 音楽
ヴァイオリニストのメニューインはグールドと共演した際、現代音楽について実に面白い比喩を使って説明している。因みに彼はシェーンベルクなどの現代音楽に心を寄せることができず、対してグールドは好んで取り上げる。

メニューインに拠ると、たとえば誰もが知る劇、「ロメオとジュリエット」の一場面を、セリフだけ意味不明なものに置き換えても、人はその場面を思い浮かべることが出来る。ああ、あの場面かと承知しているからだ。そうして、「意味不明」の言葉と場面とを何となく重ね合わせる。

現代の曲は過去のあらゆる名曲を下敷きに使っていて、それらの経験(聴き手のみならず弾き手も)の集積があってはじめて「理解」できるのだという。

これはまさにその通りなのであって、大変に分かりやすい説明だ。これを読んでくださっている方が分かりにくいと感じたならば責任は僕の書きぶりにある。ずいぶん早口に書いているのは自覚しているから。

以上は、様々な新しい試みが乱立しているように見える現代音楽のある部分にしか当てはまらないかも知れない。

その他の試みについてここでは触れない。まず僕自身に知識が無い。

メニューインの説明が実に明快だったからそれを紹介したかった。グールドも他の時に面白いことを言ったから、いずれそちらも紹介しよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする