季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

芸人

2009年08月03日 | その他
ちょっと前に石原都知事の談話が目に入った。

「古賀君も芸人にたぶらかされて、自民党が手玉に取られて大恥かいた。あの騒動もだいぶマイナスになった」

都議選の後、麻生首相の言動批判の中での言葉だ。そして芸人とは言うまでもない、東国原宮崎県知事のことだ。

この人はなぜこういう言い方しか出来ないのだろう。いやだなあ。こんなのはものをはっきり言うことと何の関係もない。「私さあ、ものをはっきりいう性格だから言うけどさあ、あんたのこと好きじゃないんだよ」「俺って何でもはっきり言う性格なんだよね、はっきりいって。で、バシッと言ってやったわけ」周りにそんな人たちがいませんか?こういうのと同じレベルだ。いうまでもないけれど、石原さんの言い草は、そのまま自分に返って来てしまう。


何がいやなのか。僕はこの中で「芸人」という使用法に込められた軽蔑的なニュアンスに抵抗を感じる。芸術家なんていうと、急に偉そうに聞こえるけれど、小説家なんて嘘八百並べて生活しているやくざな稼業じゃないのかい。また、ご自分の弟は芸人で、その仲間の軍団とやらに応援されているではないのか。

いや、自分はやくざな稼業に留まらず政治家として名を成した、ということだろうか。認めても良い。しかし裏から言えば、やくざな稼業から「身を起こした」のと同様に東国原さんも芸人から「身を起こした」ことになろう。

東国原知事を僕が評価する、しないは、それは別の問題だ。ただ、彼を指して芸人にたぶらかされていると言うのならば、都民は嘘八百のやくざ稼業にたぶらかされた、と反石原の人々が言っても礼を失することにはなるまい、と常識的に思うのである。

そういえば、僕は文学好きの常道として内外の小説を読み漁ることから始めた。中学の図書館で一日三冊くらい借りたものだ、行き返りの電車用、授業中用、トイレ用、ほとんどが小説だった。小説イコール文学。図書室の本をトイレでも読んでいたのか、と言われそうだが眠る暇も惜しんでいたからなあ、勘弁してもらおう。

それがいつの間にか小説からすっかり遠のいてしまった。少なくとも小説イコール文学という見方がまったくできなくなった。小説を軽視しているわけではないのだが、それどころか、物語るということが王道だと認めるに吝かではないのだが。いったいこれはどうした訳だろう?

これは僕の性分というものだろうか。懐を深く「物語る」なんて贅沢な余裕を持つことは夢のまた夢だ。

話をもとに戻せば、どうも僕は「成功者」の鼻持ちならないのが好きになれない。知事になるのが成功者かどうか知らないけれどね、自分が成功したと思っている人を成功者というのだ。傍から見たものではない。シューマンは傍から見れば成功者だろうが、本人からすれば失敗者だったのだろう。

自分は芸人ではない、芸術家である。こういった自負心くらい厄介なものはない。自負する気持ちがなければ、己を持することが難しい。象徴派の詩人たちは、詩人は千里眼でなければならぬ、と自負した。ロマン派の作曲家たちにとっても、詩人(芸術家)であることが誇りであった。しかし時代も移り行き、芸術の概念が揺らいで行くときに、自負の念を下手に持てばこのように優越する気持ちばかりが出る。

そもそもある職種の人を指して「たぶらかされる」という言葉を使うのは品性がないだろう。その職種を卑しいと見做していると言われても仕方あるまい。

芸術家なんて、芸をもって処する人のことじゃあないか。それが近頃では芸もないのが芸術家を気取っているなんて笑わせらあ。僕は芸人で結構だ。芸術家なんていう立派な称号は返上してよい。

ついでに言っておくけれど、自慢じゃないが、僕はご多分に漏れず、政治に関心がまったくない。広い意味でも政治的な運動は嫌いだと言い切ってしまって良い。ただし今まで選挙を棄権したことはない。この二つは違ったことである。

若い人たちは、意見はさまざまだろうが、選挙には行きなさいよ。
コメント
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