季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

カセットテープから

2019年01月21日 | 音楽
部屋を整理していたら古いカセットテープがいくつも出てきた。上書きされることのないように爪を折ってある。してみると何か良い録音なのであろうか?

聴いてみようにも既にカセットテープをかける機器は壊れて捨ててしまった。仕方なく安物の機器を購入してひとつひとつ確かめている。

最初の一つをかけた途端、パイプオルガンの音が流れ出した。これは恐らく北ドイツかオランダの古い楽器だ。大変良い楽器だと分かる。

多分その昔ドイツでラジオの番組を録音したものだ。毎日曜日の朝、歴史的オルガンとカンタータの番組があった。オルガンはその地へ行くこともおいそれとは出来ず、この番組を楽しみにしていた。

プロテスタント教会のひんやりした空気や匂いが蘇る。

この音の美しさをどう説明したら良いだろう。人は昔からこのように生きてきた、そんな声のようだ。錆びたような、それでいて柔らかい音。それがジルバーマンとの大きな差だろうか。ジルバーマンはモーツァルトが絶賛し、バッハはシュニットガーなどを好んだという。きっと本当だろう。

昨今のオルガン演奏はこの音を活かしているとは到底言い難いと思っている。

以前年配の女性でオルガン奏者だという人がレッスンに通って来ていた。静かで無口な人で、会話を交わすこともなく僕の注意に対してただハイとゆっくりうなづくだけであった。

あるレッスンの時僕がさる現代の代表的なオルガニストについて、あのような冷たい表面的な演奏は受け容れられないと話した。

そうですよね!彼女が僕の方に向き直り強くはっきりした口調で言った。僕は驚いた。その人の口からこの様な言葉が出てくるとは予想もしていなかったから。

聞くところによればオルガン演奏のセミナーに参加するためにオランダまで行き僕が批判したオルガニスト達の講座を体験した。大変な違和感を覚えたのだという。

それを話した後はまた静かな彼女に戻った。この人はその後大きな病を二つかかえ亡くなった。病状が悪化してから一度、やはり静かなメールを頂いた。

古いカセットテープから流れるオルガンの音を聴いてこの人のことを思い出した。




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象牙の鍵盤

2019年01月09日 | 音楽
僕の所有する楽器は全て象牙の鍵盤である。

コンサートグランドまでもが樹脂製の鍵盤になって久しい。人々がそれにすっかり慣れてしまったらしいのはネットの書き込みからも見て取れる。

象牙の鍵盤だと滑ってしまって弾きづらいという感想が結構あるのだ。

なるほど象牙の鍵盤は適切な湿度に保たれたピアノの場合乾いた滑らかさを持つ。僕も昔は滑って嫌だなと思ったことは記憶している。

奏法から説明すると、通常言われるのは弾いたらそこから指の位置は動かないようにということではないだろうか。意識的にさよ、何となくにせよ、そのように弾かれた場合は、確かに滑る鍵盤は安定を欠く。

しかし手を鍵盤上で滑らせるのも手の運びをより自然にする方法だとするならば、象牙の鍵盤の乾いた滑らかさは実に心地よいものになる。

これはもちろん技術的な困難の万能な解決法ではない。だが多くの人がたったそれだけのことで困難を軽減できることでもある。ブラームスの練習曲でもひもといてみれば良い。

鍵盤の材質の話が技術の話になってしまったが。何気ない話題からも様々なことがらに入り込むことは出来ると改めて思う。
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曲名

2019年01月03日 | 音楽
つい先ごろ子供がシューマンのユーゲントアルバムを持ってきた。

一曲目の曲名を見て突発性ヒステリーを起こしそうになった。ヒステリーは常に突発性だと理屈を言うなよ。

はなうた、とある。

この曲は単純さの極致ではあろう。しかし考えてみれば良い、はなうたはどの様な態度で歌われるのかを。

音楽には様々なジャンルがあるけれどはなうたというジャンルは無い。誰もが上機嫌で歌うのがはなうたであるにもかかわらず。理由を考えるまでもない。

プロのハナウティストなるものを想像できるか?滑稽だろうね。

シューマンほど子供に真摯に接した大音楽家はいない。それについては以前書いたことがある。最上の童話がそうであるように、ユーゲントアルバムにはシューマンという男のエッセンスが散りばめられている。

この「はなうた」にしてもそうだ。もちろん練習する子供は曲名のことは忘れてただ弾く。それが美しければそれで良い。

しかし曲名を与えた人がいるわけで、そちらは放っておけない。

ベートーヴェンの「月光」を「月の光」にして、だって同じじゃないかと言い募ってみれば良い。他の作曲家でもそうだ。「クープランのお墓」としただけでもおかしいではないか。

つまり日本語を通してその人が何をどう感じているかが露わになる。

「はなうた」とした人はこれをはなうたとして感じたのか?僕には救い難い不感症に見えるのだ。

歌曲のリサイタルや放送の曲名などでも何故かは知らないけれど不必要な書き換えが目立つ。例えば文語を口語にするとか。

序でに「綺麗な水車小屋のおねーさん」にしちまえ。
コメント (2)
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