季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

人気と本質 2

2009年08月12日 | 音楽
観念で聴くということが分かりにくいと思うから少し説明してみよう。

さいわい船場吉兆の記憶もまだ新しい。あそこで流石は吉兆、味が違うと唸っていた人たちもいたわけだ。演奏の好みがある人なんて、そんなにいないものだ。船場吉兆で流石は違うとうめいて舌鼓を打っていた人を笑うことはできないのである。それは当然だ。そこで音楽批評家の出番がある。聴衆はその意見に従って聴く。

いや、自分は自分の耳で聴く、と自負する人もいよう。それについて、実も蓋も無い言い方をしてしまえば、演奏を聴くのはただだからだ。買い物と違い、懐を痛めない。きつい言い方をすれば、言い張ればすむ。そもそも、まったく無名の人を、なんの先入観もなく「才人」と認めることはできないだろう。

そこが例えば骨董と違う。僕がいくら古道具類が好きだといっても、自分の分をわきまえている。間違っても自分に眼があると思うことはない。自分の懐具合をよく知り、自分の眼の甘さを知っているからこそ、大口もたたかず、安全なところで満足している。

僕が過たぬ自信があるのはピアノである。次に確信に近い感覚をもてるのが絨毯と家具だ。絵画、器に至っては、何でも鑑定団で本物に間違いないと大金をはたいて、実は真っ赤な偽物で顔から血の気が引く人を笑えない。

音楽から楽音を取り上げたらどうなるか。

言うまでもないけれど、楽音は簡単に取り上げられてしまうものだ。同じ曲だと思っているのは、実は頭の中で作り上げた観念的な音かもしれない。

たとえば、吉田秀和さんはドイツ語も堪能だし、音楽に「詳しい」し、ひとつドイツリートの夕べを持って欲しいものだ、といった声がなぜ起きないのか。あるいは英語の先生まで勤めた丸谷才一さんにいたっては、声まで大きくて有名ではないか。ひとつブリテンの歌曲をお願いしましょう、となぜならないのか。言うまでもない、彼らの声が音楽として聴くに耐えないからだ。

少なくとも、僕が異論をはさんでいるのはこの程度のレベルのことだ。現代人の好みも何もありゃしない。前回、現代の好みという問題ではない、と書いたのはそういう意味だ。いずれの日にかそんな「演奏会」でも人気が出るのかもしれない。その暁には「勝手にしてくれ」と言いましょう。しかし、今がそういった時ではない以上、聴いたものを聴いたという以外ないのだ。

そこでの認識は同じくするからこそ、吉田さんのみならず、幾多の評論家が聴衆を「導こう」と健筆を振るっているのだろうし、審査員を務める音楽家もいるわけだろう。

僕が異論を唱えるのも、まったく同じ「義務感」からさ。言わねばならぬことを言っておく。あとのことは知らない。時の流れは恐ろしい。あらゆる権力者も、表面上そう見えるだけだ。わけもわからず流されていく。

ギリシャの音楽は偉大だったに違いない、と推察する以外に方法がない。辛いことだ。モーツアルトもバッハも同じ運命を辿らないと誰が言えよう。もしそうなったら僕はたいへん残念に思う、という気持ちを素直に音楽の現場で言葉にしてみたら、ショパンコンクール云々という言い方になった。

僕は僕が愛着を持った音楽に執着しているだけのことだ。同時に、そういう風に執着している音楽家だけは大変に少なくなったように思われ残念なのだ。

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4 コメント

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Unknown (やまかた)
2009-08-17 10:10:08
いつも読ませていただいて本当に考えさせられます。あれこれ考えているうちに日がどんどん経って新しい記事が増えていくので次から次へと宿題がたまっていくかのようです(笑)
「観念」で聴くだけでなく、見るのも味わうのも感じるのも考えるのもすべて「観念」で行っている可能性がありますね。「考える」というのも本当に自分が考えているのか、そもそもそこから怪しくなってきました。
好みや価値観も本当に自分のものなのか借り物なのか相当疑わしいかもしれません。今までそんなことはつゆほどの疑いも持ち合わせていませんでしたが。
人の価値観は彼がおかれた(育った)環境によって決められるところが非常に大きいですよね。江戸時代の人間には当り前だったことは現代ではあまりに非人間的であったりするでしょう。ただ、何としても環境に左右されない部分もあるようにも思います。

バッハも歴史の中で一度は忘れられてしまったこともあるくらいだから、ましてや当時の音や演奏は当然今日には残されておらず楽譜(と史料)があるだけ、ピッチも時代とともにどんどん高くなっているそうで音楽は時とともにどんどん変わってきているのでしょう。ただ、個人的には、ピッチが変わろうが楽器が変わろうが演奏が素晴らしければそれがすべてという気がしています。逆に古楽器の演奏を聴いても不思議と音の響きは現代の音に聴こえます。(漠然とした印象ですがこれも観念でそう聴いているのかもしれません。)しかしよい楽器が減っていけば、当然よい演奏も減っていくわけですからつらいですね。

見かけはどうあれ時代に関係なく大事なものを音楽の(楽曲のではなく)本質とするなら、それはやはり確固としたものがあるのだろうと想像します。少なくとも音楽家それぞれの中にあるのでしょう。
聴く側としてはそれを本能的に嗅ぎ分けて聴いているときはよいけれども頭で聴き始めると耳が働かなくなってしまいそうですね。
私にとっては、ホロヴィッツでもグールドでもたまらなく好きな演奏もあればたまらなく嫌いな演奏もあるわけですが、さて後者はダメな演奏なのかと問われれば、自分には「良いか悪いか分からないけれども好きではないとしか言えない」と答えるしかできません。

絨毯と家具、興味津々です。そのうち記事になるでしょうか?
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Unknown (重松正大)
2009-08-18 02:13:05
古楽器についてはそのうちに書いてみたいと思っています。

絨毯ですか、文章で書くのは難しいですけれどね。写真を上手に載せることができるようになったら載せてみたいですね。

価値観は時代とともに変わるというのはその通りですね。これもまた面白いテーマたり得ます。

しかし、昔はあざけりの声色だったのが現代では心こもった声に聞こえる、ということだけはない。

これはたいへん面白いことだと思いませんか?
当たり前にも思えるが、ではどう当たり前なのでしょう?
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Unknown (やまかた)
2009-08-19 04:17:29
 古楽器と絨毯、楽しみにしています。
 そういえば音色を織物になぞらえた表現がいくつかありますね。
 古楽器では以前クラヴィコードの演奏を聴いたときには大変感激しました。もともと音量が小さいのですが、静寂の中にまさに全身が耳になったひとときでした。そのとき思ったのは、現代の「玉石混交音まみれ+音量過多」の状況に耳が慣れて怠け者になっているかもしれないということでした。

>しかし、昔はあざけりの声色だったのが現代では心こもった声に聞こえる、ということだけはない。
>これはたいへん面白いことだと思いませんか?
>当たり前にも思えるが、ではどう当たり前なのでしょう?

うーん・・・今も昔も人種が違っても目と耳はふたつずつ、鼻と口はひとつずつだからでしょうか?
いや、声色の判断なら動物でもできるし、犬の方が人間よりもずっと敏感な気もします。
楽器の音となると犬はどこまでわかるのかな・・・

声色から感じ取ることは感度の差こそあれある程度は誰でも共通するというのは考えてみると不思議ですね。そう感じ取るような遺伝子を共通で持っているから、などと言ってしまえば身も蓋もないですが、じゃあ喜怒哀楽をつかさどる遺伝子というのがあるのか、それがどこまで感情を規定しているのか、などなど面白そうなことはいくらでもありますが、また話しが違う方向に行ってしまったようで。

以前使ったことがあるのですが、メールでグリーティングカードを送るシステムがあり、文字で入力した言葉を自動音声で聴くことができます。「ドウモアリガトウゴザイマス」「フザケルナコノヤロー」など色々入れて遊んだのですが、声色も抑揚も何もない言葉というのはおかしなものですね。「ありがとう」と口だけで言っているのともまた違って。






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Unknown (重松正大)
2009-08-20 02:13:09
クラヴィコードについての感想は僕もよく分かります。

今回いただいたコメントから、また書くことができてしまいました。とてもここに書く気力は無いな。
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