季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

親切心?

2009年08月31日 | その他
外出する機会が増えた。今年から再び週に一度は大学に行く。それだけなのだが。近所の人および宅配便の人から暇人と見做されるのも無理らしからぬことかもしれない。だから外出する機会は増えたのではない。機会ができたと言わなければならない。

朝、ラッシュのピークはとっくに過ぎた横浜線で新横浜まで行く。ピークは過ぎたといっても、混み合っていることに変わりはない。自分もその1人だと思うと、絶望に似た感情に襲われる。

新横浜で癇に障ることがある。電車を降りて階段にさしかかる。すると天井から鶯だったか、小鳥のさえずりの録音が流れてくる。

きっと他の駅でも似たような「安らぎの演出」が行われていると思う。この録音に癒される人が一体いるのだろうか?僕なぞは神経を逆なでされたような気持ちになるが。

腹が減ったときウナギ屋の前を通る。プーンと甘いたれが焼け焦げた匂いがする。空腹感はいや増す。この場合、腹は、あるいは腹の主である僕は癒されたというのか、はたまた逆なでされたというべきか。うーむ、難しい。少なくとも逆なでされたという表現にはならないだろうね。

仮にこの匂いが本物のウナギではなくて、合成された匂いであっても、事態はあまり変わらないのではないだろうか。

どこからこうした差異が出てくるのか。理由は簡単に見つかる。ウナギ屋は親切心から良い匂いを出しているのではない。おなかが空いていてお気の毒ですね、せめて匂いでもどうぞ、と言っているのではない。ここには善意の演出はない。もしも店主の気持ちがこもっているとしたら、どうだ、いい匂いだろう、さっさと店に入って来んかい、という気合くらいかな。

ふいに思い出した。その昔、電車通学していたころ、原宿駅のホームには「小鳥の来る駅」と書いたえさ箱が設置されていた。

ある日電車の中からふと見ると、小鳥が来てついばむべき箱の中に大きなドブネズミが入って餌を食い荒らしているではないか。男だって箸がこけても笑う年頃というのがあるのさ、可笑しくて仕方なかった。満員電車の中で哄笑するわけにもいかず、苦しかった思い出が甦った。

演出過剰は当時からあるのだな。しかし逆なではされなかった。人間の間抜けな一面ばかり目だって面白かった。

横浜線に話を戻すと、アナウンスでも気になることがある。

電車が参ります、お下がりください、と言っていること。ご丁寧に電光掲示板にも同じ文言が流れる。僕は毎度のことながら、なんだか平伏した電車がしずしずとやってくる様子を連想して可笑しくなる。もう箸が転んでも笑う年頃は過ぎ、哄笑をこらえることはないけれど。

これは電車が来ます、お下がりください、というべきなのではないだろうか。いくら車体はJRの所有するもので、僕たちはお客だからといっても。

気分的には分かるが、サービスの過剰演出と同じようで、毎度気になる。こちらは逆なでされるわけではないけれど。

参りますと言えばとても丁寧な感じが自動的に出るのだろうか。そういえば色んな店でお客様はどうやって参りましたか?なんて訊ねられることも多いね。はい、僕は電車でいらっしゃいました、と答えたら、きっと「きょうの客はアホやったなあ」と笑いものになるのだろうな。

参りました。