季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

講座のご案内

2011年07月21日 | 音楽
8月21日(日)14時から幡ヶ谷KMアートホールで講座を開きます。
ブラームスOP.116を題材にして、というかそれと無理に関連付けずに、音楽界で普通に使われている言葉についてお話ししようと思います。
というのも、それがあまりに根拠なく使われていくとピアノの世界では根深いテクニック上の誤解につながると憂慮するからです。

たとえば良い姿勢、呼吸、フレーズ、和声感、構成感、柔軟な、強い指、ぺんぺん草等々。重要な事柄すべてといって差し支えないでしょう。
上記と無関係でも構いません、素朴極まりない質問でもよい、コメント欄、メールアドレスなどにお寄せください。あくまで音楽上ですよ。人生相談、恋愛相談等は困る。また、すべてに答えられるなんて思っているわけではありません。

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ドイツ的

2011年07月09日 | 音楽
ドイツ的

若い頃分かりにくかったことがある。僕は当時からドイツ古典派とロマン派の音楽に心を奪われてきた。

そんな中でリヒャルト・シュトラウスはやや異質な作曲家に思えた。交響詩は好きであったが、それでも例えばフルトヴェングラーがシュトラウスを「典型的ドイツ人作曲家」と呼ぶとき、僕は置いてきぼりを食らったような心地がしたものだ。

今当時を思い返してみるとシュトラウスの交響詩を本当に、ベートーヴェンの交響曲やブラームスの交響曲、ワーグナーの作品などと同じように好きだったのか疑問である。

ではドイツ的といった場合、一般にどのような受け取られかたをしているのだろう。

質実剛健、重厚、生真面目等、漢字で書いても堅苦しい印象を与える言葉がまず思い浮かぶのではないだろうか。

これはなにも日本に限ったことではない。ヨーロッパの国々でもおよそ同じような言い回しでドイツ人の融通のきかなさを揶揄することが多い。

僕の理解も、たとえほぼ全面的に好意的だったとはいえ、それと似たようなものだっただろうと今にして思う。だからあまりそういった趣とは縁のなさそうなシュトラウスに対してフルトヴェングラーが「典型的ドイツ人」と呼ぶのについていけず、置いてきぼりを食ったような気持ちがしたのである。

ドイツに住んでいたとき一番心を奪われたもののひとつはオペラであった。ずいぶん通った。当然シュトラウスのオペラに接する機会が多くなった。

「ナクソス島のアリアドネ」「薔薇の騎士」「アラベラ」「サロメ」等が思い出される。「薔薇の騎士」については大層愉快な経験をしたので、いずれ書きましょう。

上記のオペラはいうまでもなくシュトラウスの中心的作品である。オペラハウスでは難しいことを考えて聴いたわけではない、ただ楽しんだ。

何年か経ち気がついたときにはシュトラウスがドイツ的な作曲家だというはっきりとした感覚をもつようになっていた。

ではそれは何だと問われたら何と答えようか。どの作品にも色濃く見られる甘さ、手放しの甘さ、それと精密さの見事な融合、あるいは手放しの甘さをなお制御できる資質。このまったく相反する資質を同時に持つこと。融合なんていうといかにも評論家然として、僕は好きではない。でも他に言いようがないのである。

その「甘さ」はラテン諸国には見られないものだ。注意してみていると今日の一般的ドイツ人の中にも非常にしばしば顔を出す。それを一番知らないのは当のドイツ人だったりする。
コメント (2)
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