季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

2009年05月29日 | その他
ドビュッシーの「月の光」は人気のある曲だ。

昨夜(書いている時点だからね)いつの間にか雨も上がり、気がつくとうっすらと月の姿が見え、明日は晴れるなあと思った。ヨーロッパだってこんな月は見られるのに、詩歌に歌われることは無いのがおもしろい。絵にも無いのではなかろうか。(フリードリッヒが描いている)

つまり、こうした月に詩情を感じないということなんだろう。

でもおフランス帰りの人の「月の光」はどっちかというと昨夜の月だと思った。

今書きたくなったことは、しかしまったく別のことだ。

こんなに身近で、ウサギが住んでいないことが分かったとたんロマンも何もすっかり失った天体について、実は何も分かっていないに等しいらしい。

そもそも月は衛星としては巨大すぎるらしい。だから地球と連星だとみなす学者もいるという。

どうやってできたかについても諸説あるが、決め手に欠ける。以前は地球から分かれて出現したとの説が有力だったが、いざ岩石の古さを測定できるようになると、なんと月のほうが古いことが分かった。すると月が地球から派生したとの説はおかしなことになる。

敢えてその立場に固執することも可能だろうが、その場合放射性同位元素の半減期を計測して岩石の年齢を知るという方法自体に疑問を呈さなければならない。

僕としては、疑問を呈してもらったほうが面白い。外野は大体において面白半分だから、僕の無責任な興味も許してもらおう。

物理の世界では定数(光の速さや重力gなど)は不変だと決まっているが、実際の計測値はかなりのばらつきがあるそうだ。

その場合は計測のミス、あるいは機器の不具合と見做されている。分からないでもないけれど、その態度は科学的ではないと疑問を呈する科学者もいる。僕はそういう人のほうが面白くて好きだね。

月に戻って、宇宙空間をさまよっていた天体が偶然地球の引力圏の入ってきて捕らえられたという説もある。現在はこの説がもっとも有力なのではないだろうか。

ただ、この説をとる人は、ではどうして月の公転軌道は真円なのかという疑問に答えられないという弱点を持つ。軌道はどうしたって楕円軌道になるはずだから。

他にも説明が難しすぎることはいくつもある。月の自転と公転がぴったり一致しているから月は常に同じ面しか見せないわけでしょう、そんな偶然がどうやって起こりえるのか。とてつもなく低い確率でしょう。そんなことが起こりえるのならば宝くじが数回大当たりしたって良いはずだ。

なんだかくじ運が悪いのを当り散らしそうになったが。

確率の話になれば、月が見かけ上の大きさが太陽の見かけ上の大きさと一致することだって充分すぎるくらい珍しいのだ。

天文学ははるかかなたに研究の対象を広げているけれど、こんな身近で素朴な疑問にすらまともに答えられていないのだ。

ここから先はどこかで読んだだけの知識で、噂話の域を出ないが。

アポロ何号かが月に着陸して、再離陸した際、切り離したロケットを月面に衝突させ、地震計で振動を計測したところ20分以上止まなかったという。ホントかいな。だってこれは月の内部が空洞かもしれない、ということにもなりかねないでしょう。

以上、見慣れた月だが、分からないことだらけだ。美しさだってそうだ。今夜月をよく見て御覧なさい。目を凝らせばウサギが跳ねているのが見えるかもしれない。耳をすませばウサギが「やーい、やーい、バーカ、バーカ」と踊りながら言っているのが聞こえるかもしれない。

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ベヒシュタインコンクール

2009年05月24日 | 音楽
べヒシュタインが主催する国際コンクールがある。まだ歴史は浅いけれど、少なくとも規模は大きなコンクールだと思う。

生徒から要綱をもらってすぐに気がついたことがある。

日本はことピアノに関する限り、世界の中でほぼ無視された存在だということ。

日本人は相変わらず大勢がピアノを習い、留学をし、海外のメーカーを買い、ひと言でいえば日本のマーケットを抜きにして世界のピアノ産業が成り立たないはずなのに、世界数箇所で開かれる予備予選はソウルが選ばれているのに対し、日本では行われないらしい。(もしかすると神戸あたりで開催されるかもしれないとのことだが)

日本のピアノ界では無用の自負心ばかりが目立つと僕には感じられる。各地で開かれている大小さまざまなコンクールでも、その「ステイタス」が上がればあがるほど、真剣な演奏はゆとりがない、として敬遠されていく傾向にある。

僕のところには色んな音大の学生が来るけれど、その生徒がついている(僕以外のね)先生から言われることは、大体においてそれを裏付けるようだ。

曰く、せっかくきれいに弾けているのだから見た目にも美しく。簡単な所でくらいは上を向きなさい。お前は坂本九か、と突っ込みたくなるね。

そもそも上を向くことがそんなに美しく見えることだろうか。僕の常識では、いや世間の常識では、目的にかなった動きこそが美しいというのだが。

福原愛選手がジゼルを踊るバレリーナと同じ格好でプレーしてごらんなさい。みんな吹き出すことになる。同様にバレリーナが「サー」と拳を握り締めたら吹き出す。

これはこれで他のテーマになりそうだから先を急ぐ。

太宰治を僕は好まない。それでもはるか昔にたくさん読んでいるから、いくつかの場面を思い出す。

「人間失格」の主人公は人の気を惹こうとばかりする自意識過剰な男だが、高校生のとき(だったかな、中学だったかもしれない。いや、小学校?幼稚園?まあどれでも同じことだ)体育の時間に鉄棒の演技をする。

笑いを誘うためにわざと失敗をして目論見どおりみんなの失笑を買う。頭をかきかき「演技」の成功に満足していたところ、クラスにいた知恵遅れの生徒がスッと近寄ってきて耳元で「わざ(わざとやったとの意)」と囁く。

主人公は見抜かれたことにギクリとした、と書いている。

昨今の演奏を聴いて(見て)僕はこの場面をよく思い出す。至る所で「わざ・・」と囁いて歩きたい気持ちなのである。

では韓国人ピアニストはそんなことはしないのだろうか。どういたしまして、これはすごい。(以前にも書いたが、すごいなんて書くのは僕は好まない。でも他に言いようがない気がするから目をつむって書く)

これでもか、これでもかという勢いだ。上を向くくらいでは足りない。海老反り、鼻腔拡張、牛丼食いのような口モグ、何でもある。ないのは宙返りくらいだ。その点でクラシックはいくら人気者でもバック転しながら歌うグループには敵わない。でも「わざ・・」と囁いたところで聞こえないような気がする。「技」と勘違いされそうな気がする。

先に日本人は自負心が強いようだと書いたのは、この手の「パワー」を示すことはもう気恥ずかしくてできない、なにやらそんな気配を感じるのだ。そんな初心者みたいな、あからさまなことははしたなくてできない、お上品に上を向いて弾きましょう。汗?とんでもない、そんなものはお化粧が剥げるでしょう。(いや、僕は冗談を書いているのではない。つい先日も汗をかいて弾くなんて汚い、と言われたという人に出会った)

ヨーロッパ人が音楽を分かっているとはもはや思わない。彼らの判断がすべてではない。ただ、彼らは今日でも「全力」をあげることが品のない、格好悪いことだとは決して思っていない。

だから韓国の演奏家の海老反りを「熱演」と見做し、熱演しない日本人を敬遠する傾向が出た。僕はそう思っておく。

日本人で、自分は本当にこう感じる、と強い気持ちを持った人は周囲の目を気にせずに遮二無二演奏したら良いのにと思う。詰まらない見栄を張らずに、ただ正直に、僕はそれを切望する。

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教育再生会議?

2009年05月21日 | その他
聊か旧聞に属するが何とかという教育系諮問会議に陸上の朝原選手とノーベル賞受賞の小林さんが選出されたそうである。

僕はこういったきな臭い会議を好まないけれど、その正体が時折こうやって顕れる。

小林さんという科学者は、ノーベル賞をとるまではまったく知らなかったから人となりをはじめ、親しみの持ちようがない。

朝原選手は、僕が陸上競技に関心があり、昔から期待して見ていたから、一方的な好感は持っている。

大きな期待を受けながら、世界の壁は厚く、世間で評価される成績はなかなかあげられず、いよいよ引退も目に見える形で迫ったころ、予想もしない形でオリンピックの銅メダルに輝いた。

競技が終わった後の浅原選手はじつに嬉しそうであった。ここで「私も同じくらいうれしかった」と書くのが日本の作文のお決まりであるが、そんな嘘は書かないよ。しかし、赤の他人のことなのに、じんわりと「良かったなあ」と感じたことは本当だ。人間というおかしな動物の特徴を僕も人並みに有しているわけである。

そこで朝原選手にも、ひとつ「出来損なっている」子供たちの鑑になってもらおう、というのが会議に呼ばれた理由だろう。

出来損なっているとは誰も言っていないと言うなかれ。「再生」という文字がすべてを語る。

トカゲの尻尾が切れたら再生するというが、子犬の尻尾が伸びるのは再生とはいうまい。

出来損ないと目するから再生させねば、となるわけだろう。千葉県知事選挙で森田健作のマニフェストにも堂々と「なぜ今の若者はこんなになってしまったか。教育の再生を全力で目指す」といった主旨が謳われていた。

まあ僕は、白状すれば、中学高校のころ、爺さん婆さんの世代も気に入らなかったが、自分と同じ世代の連中もたまらなかったから、この歳になってから自分の世代と若い世代を比較してあれこれあげつらう趣味はまったくなくて、その点はさっぱりしたものである。

若い奴は、と苦虫噛み潰すやつは自分が若くないという苦い思いを正視できないのだろう。ただそれだけだ。歳をとるのは辛いものなあ。だから若い人よ、君たちもやがてジイサンバアサンになることを忘れるな。ミゼレーレだよ。

再生のための会議で朝原選手にはすでに発言のシナリオが渡されているようなものだ。夢を持ち続けることの大切さ、及び努力は必ず報われる日が来ると知って欲しい。こんなところだろう。自分はこれこれのおかげでそれを持ち続けた、と。しかも、その申し出を受け入れたということは、彼(ら)も自分に割り振られた役目を果たそうと務めるだろう。

夢を持つことは大切だ。でもちょっと考えてみよう。夢を持たぬ人というのは本当にいるだろうか。

努力だって大切だ。しない人もいるかもしれないが、殆どの人がする。

しかし、必ず報われるということはない。むしろ報われないことのほうがはるかに多い。

結果が出た人は努力を重ねたからだ。それは本当だ。仮に僕がロトに当たったとしよう、それは僕が購入する努力を惜しまなかったからさ。

夢を持ち続けたことも本当だ。ここでまた宝くじを持ち出したっていいぞ。不真面目だと顔をしかめる人はどうぞ。

つまり僕は努力とか夢の性質について言いたいのである。報われた人は他の報われなかった人たちを、努力と夢見ることが足りなかったと見做し勝ちなのだ。これは大きな間違いだろう。一般に成功者の言動が鼻持ちならないのはそこからくるのだと思う。

成功を収めるのは多くの場合ほんの偶然による。芸術分野での評価は赤の他人がするし、科学の世界では2番目の発見者はまったく無視される。発表が1分でも早ければ、という世界なのである。

それは当の本人たちがよく知っているはずなのに、いざ祭り上げられると鼻白むような談話を連発する。野依さん(ノーベル賞受賞者)が座長を務めていた諮問会議の「提言」を読んであきれちまった。そろいもそろって付ける薬がない手合いだ。

詳しく議事録を読めば誰がどういう発言をしたかまで分かるが、ここではいくつか紹介のみ。

マンションの各家庭に床の間をつくる。ピンと来ない人には指導がくるだろう、覚悟しておいたほうが良い。

どこをどう突けばこんな奇天烈な提言が出てくるのかな。当然何か思いついた「理由」はあるだろうが、我田引水の極みであることだけは間違いあるまい。

もうひとつ。名刺に己の座右の銘を入れる。結構だねえ、重松です、と名刺を渡されて(僕は持っていないけれどね)名前の下に「愛」なんて書いてあったら噴出すか吐き出すかするでしょう。敬天愛人なんてあったらマジマジと顔を見つめたくなるでしょう。いっそ僕としてはバカヤローと書きたいが、それでは配るわけにいかないしなあ。大真面目な偽善者しか思いつかないアイデアさ。

好漢朝原君がこんな空気に馴染んでしまわぬように祈る。
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大迫選手

2009年05月17日 | スポーツ
今年鹿島アントラーズに入団した高卒選手の中に、日本のサッカー界が期待を込めてみている選手がいる。大迫という選手である。

僕も一般的なサッカーファンとして彼が本当に大成するならばうれしい。

ただ、サッカーに限らず、演奏もそうだといって構わないけれど、日本の現状は人が大成するのを妨げるものがある。それが気になる。

以下、大迫選手がデビューした時の記事を紹介しておく。音楽関係の人はサッカー用語を音楽用語に置き換えて読んでみたらおよそ思い当たるところがあるのではないか。


それだけの力を持っているからこそ、オリベイラ監督はうれしい悩みを打ち明ける。「大迫は数十年(に1人)の逸材。大切に育てたい。報道で間違った方向へ行かないよう心からお願いしたい」。入団以来の“大迫フィーバー”が、成長の妨げになりはしないかと本気で心配している。

 指揮官の懸念をよそに、大迫は試合後、野沢とともにスタンドに上がった。拡声器を渡され「結果を出すよう頑張るのでよろしくお願いします」とあいさつすると、サポーターから大声援を受けた。「これで終わらないようにしたいです」。ふくらむ一方の周囲の期待も、スーパールーキーの成長の燃料となる。


どうです、監督の心配をよそに、記事はこのような浮かれ具合である。監督の心配をよそに大迫選手は進歩を続けた、という文ならばうれしいが、新聞屋は騒ぐ理由が見つかって喜んでいるだけだ。

それにしても「報道で間違った方向に行かないように」と言われる報道とは。

ふくらむ一方の期待というが、誰がどう期待しているというのか。今までふくらむ一方の期待を寄せた選手たちとどこが違うのか?そんなに確実な見る目をいったい誰が持っているのか?

僕も一介のファンとして期待はする。日本の点取りやはもう久しく出ていないから。

と言ったところで僕にあるのは期待感だけで、それが大迫選手だろうと、他の選手だろうとかまわない。大迫選手が数十年に一人の逸材だと見抜く力は僕にあるはずも無いから、伸びる芽をつむような愚だけはしたくない。そう思っている。

その点で僕はオリベイラ監督の心配を理解できる。世界中のメディアに新しい人材を持ち上げる傾向はあるだろう。でもわが国のメディアはそれに加えて感傷癖までがある。

いちいち名前を挙げはしないけれど、根拠なく何となくの期待感から何人の選手を必要以上に持ち上げ、腐らせてきたのか、胸に手を当てて反省してみたら良い。

若い人は殊に褒められると自分を見失う。歳をとっても、褒められれば嬉しいのが人情だからね。流されてはいけない、という余計なエネルギーまで課すのはどうかと思う。

ふくらむ一方の期待もスーパールーキーの成長の糧になる、なんて誰が決め付けているんだい。この手のマッチポンプ的な書きっぷりが日本にはやたら多い。お祭りと僕が言う所以だ。

若い選手が、ここを若い音楽家と言い換えても、あるいは単に若い人がと言い換えても良い、ただでも技量を高めるのに四苦八苦しているのに、その上なおおだてや褒め殺しから身を守るすべを身につける必要を迫られるのは酷である。

天才ともてはやされれば天才を意識したプレーになりがちだ。何人もそういう選手がいた。そういう選手はそれまでの人だというのも真理だ。それを言うのはたやすい。しかしハイエナのように群がって「売れる」記事に仕立て上げた挙句にいう言葉ではないね。

周囲が成熟していないということなのだろう。

高原という選手も高卒時から注目を浴びた選手だった。ところが加熱しがちな周囲とは別に、チームメイトにいたドゥンガという選手に「その気になるな、お前はマラドーナではない」と釘を刺され続けたという。

ドゥンガは元ブラジルの中心選手で、現ブラジル監督である。すぐに浮かれてしまう環境を作りやすいところでは一人でもこういう人物が必要なのかもしれない。
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エルナ・ベルガー賛

2009年05月12日 | 音楽
この人もいつどんな理由か分からぬままに子供の時分から持っている古いレコードで知った、往年の名コロラトゥーラソプラノである。

子供のころ聴いてフロトーの「マルタ」のアリアが哀切感に満ちて聴こえたのをよく覚えている。このオペラをご存知ですか?フロトーという作曲家の作品です。

これを上演しているオペラ劇場なんて今のヨーロッパにあるのだろうか。一度ウィーンのオペレッタ劇場で上演しているというチラシは見たことがあるけれど。

あの厳粛の権化みたいなクレンペラーがほめている作品だ。ピアノを弾く人はこうした曲をよく聴くとよいのだが。ピアノという楽器は、知らず知らずメロディーに対して不感症になっていく傾向があるから。

ベルガーについて続けよう。「ベルガーは音楽そのものだ」これはフルトヴェングラーの言葉。ほとんど作為、いやそれどころか音楽表現への意志すら感じさせないかのような軽やかな流れと声は、昨今の表現重視の中では意表を突かれるかもしれない。

しかし本当はこの人の歌は抑制がきいて細やかな情感にあふれている。
今日フィルムで見ることができる1954年のザルツブルク音楽祭での「ドン・ジョヴァンニ」でツェルリーナを歌っている。この公演の後、フルトヴェングラーは「ベルガーさん、あなたはこの役にぴったりの古典的な歌い手だね」と言ったそうだ。

たとえばこういう言葉から「古典的」という感覚を探ることだってできる。ウィーン古典派、ハイハイ、テンポを動かさず、ハイハイ、そんな呑気な寝言を言う人が激減するだろうに。

ベルガーの声があまりにも自在だから、軽業と区別がつかぬ人も出るかもしれない。そうであればあまりにも残念だ。

コロラトゥーラとしては異例なほど長く歌った人だが、晩年はもう「夜の女王」はさすがに歌わず、リリックなソプラノ役を歌った。

この人の時代にはイタリアオペラもドイツ語で歌うことが多く、現代の我々には少し奇妙に聞こえるかもしれないが、なに、どのみちイタリア語だって分からないのでしょうが、同じことです。

僕の好みから言えば、イタリアオペラもドイツのオペラハウスで演奏されたほうが品格があると感じる。

ベルガーでそれをとくに感じる。彼女のミミがどれほど可憐か。ジルダが不幸な女に聴こえるか。はたまた喜劇的役柄でどんなにお茶目か。それでいながら一種の節度を失わない。節度というとどこかでブレーキをかけるような感じを持つ人もいるだろうが、そうではない。あくまで自由に自在に演奏する。節度は天から授かったものだと言ってもよい。古典的歌い手というのはそういうことだ。

好ましく聴こえるのは僕にとってばかりではない。イタリアの名テノール、ジーリもベルガーの歌を賞賛して、共演の際カーテンコールには彼女一人を送り出すのを常としたという。

僕はコロラトゥーラとしての全盛期の録音も持っている。ここに入っているグリークの「ソルベルクの歌」は無類である。

グリークという作曲家の、本来持っている生真面目さ、誠実さが直接形を与えられたように感じ、また冷たい北欧の風が肌をかすめたように感じ、鳥肌が立った。

「冬は去ったのでしょう、そして春が来ようとしている」ここでもドイツ語で歌われているけれど、グリークの持つひんやりとした清潔感には通俗性の入り込む余地などない、と痛感する。ピアノ協奏曲で汚れた耳になっている人はもう一度これを聴いて洗いなおすことをお勧めする。

晩年の録音で「売られた花嫁」の「マリーのアリア」も良い。
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これは面白い

2009年05月09日 | その他
こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく


ニュースで見かけた人もいるだろうが、これは2チャンネルに投稿されたもの。
狙いおよび結果はごらんのとおり。

速読できる人がいる。僕は読むスピードが速いほうであるが、いわゆる速読術は持っていない。

速読術を会得するための本は持っているが、視野角を広げるトレーニングがあって、万事に苦しいことを嫌う性質ゆえ断念した。

いずれにしても速くなればなるほど一字一字追いかけるわけではなくなる。上に挙げた研究も同じことを言っているわけである。

今まで語順とか助詞に気を配って損をした気分だ。

しかし、これが漢字が混ざるとうまくいかないと思う。少なくとも日本語における漢字は音よりも目に訴えかけてくるのだろう。国語の研究者にも面白いできごとではないだろうか。
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ミスばかり

2009年05月07日 | その他
以前ニフティを使って書いていたが、間抜けな事情でここに移さざるを得なかった。その事情は書いたけれど、なにぶんパソコン操作を覚えようという気持ちが足りないのか、以前の記事を移動させる方法が分からない。

覚えようという気持ちがいくらあっても駄目だなあ。ピアノ演奏ならば気持ちがあって表情が伴わないときにはうっとりした顔で上を見ればよいらしいけれど、ここではそんなごまかしが通用しない。「エラー」とか最悪の場合(たいていは最悪の場合になってしまう。この場合は最悪と呼ぶのだろうか?平均値と呼ぶべきであろうか。厳密たらんとするのは難しいものだ)何を言われているのかまったく通じないことが画面に現れる。

けっこうたくさんの人がそんな情けない思いをした経験があるのではなかろうか。パソコン用語の分かりにくさといったら「パソコンの分際で」と怒り心頭、そんなのが多いと思いませんか。

ジョン・万次郎はその点偉かった。彼とてこのようなちんぷんかんぷんから始めたはずだからな。

まあ、そんなわけでニフティのは放っておいたが、原始的方法でここに移動することを思いついた。操作に慣れた人は笑うだろう。

以前の記事ひとつひとつコピーを取り、新しい記事のページに貼り付ける。これで一応ことは足りる。

僕の駄文を丁寧に印刷してまとめて下さる人が数人いるのを知り、そんなことができるのならコピーでもしてみましょう、と思い立った次第。

原始的方法といっても、あっという間に全文がコピーできてしまう。便利だ。これでも正規の方法を知ったら面倒だと感じるようになるのだろう。

で、ぼちぼち移しているうちに、慣れが生じ、日付けを08年にし忘れたりが頻繁になってきた。

さっきちょいと書こうと思って一覧を見たら、僕が(最近)書いた覚えがないタイトルを目にした。すわ、ハッキングか、と色めきたったが、落ち着いてみれば紛れもない僕の駄文だ。

時間にして数時間らしいが、最新の記事として載っていたようだ。日付けを改めて送りなおしたから今では所定の位置に収まっている。

偶然目にした人はこの記事が忽然と姿を消したことをいぶかしく思うかもしれないが、こんな事情なのです。

ずいぶんたくさん書き散らしたものだと呆れる。「作業」はまだまだ続きそうである。今は2月上旬まで移したが、5月末まである。こんな作業に労力を使うのも業腹で気が向いたときに続けるしかあるまい。

まあ、以前の文を未読の方はちょいと覗いてください。
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課題曲

2009年05月02日 | 音楽
どのコンクールもどの音大の入試も、ショパンの練習曲が1次審査にある。だれも疑問にすら思わないようだが、これも一度見直しても良いのかもしれない。

生徒が受験したり、コンクールを受けたりする。1次2次と分かれていると(もちろん3次以上あってもね)最初の練習曲でおしまいになることも多い。

そのあとの曲ではとてもよい演奏をしていても、1次を通過しない限りは意味を成さない。といって練習曲でまずい演奏をしたというわけではない。そんな経験をいやでもたくさんする。僕の生徒に限ったことではない。たいていのピアノ教師が経験しているだろう。

いかにも楽そうに弾く、いかにもゆとりありそうに弾く、あるいは誰にでもわかるようなミスをしないようにする。

たとえば講評用紙から読み取れるのはそんな消極的な態度ばかりである。その結果はどうかといえば、2次以降の演奏はどうも低調だ、といった感想がもれたりする。

ショパンの練習曲が弾けないと困るという意見ならばそれはそうと認めても良い。
でも、そもそも練習曲は曲を的確に弾くための練習でしょう、理屈をこねれば。
曲が美しく弾けているならばそれで良いではないか、という意見だってあり得るわけである。

いや、そもそもが講評用紙に堂々と!ショパンの練習曲は練習曲ですからそれらしく、なんて意味不明の文言を見かけたことだってある。

昔シュナーベルはショパンの練習曲を認めなかったそうだ。彼がどんなことを言っても彼の演奏が立派である限り頷くしかあるまい。

たとえばショパンの練習曲とバッハの平均率がセットになっているのが定番だが、バッハがどんなに上手でも、ショパンでちょっとオタオタしたら問答無用、落とされる。

はっきり言ってしまえば、バッハはお飾りなのだ。明らかな失敗は許されない、その程度。工夫に工夫を凝らせるような「無駄な」努力はしないほうが賢い。そう言いたくなる。

2次以降が今ひとつ低調だと嘆いている人たちには、せめて練習曲を弾かせる順番を変えてみるくらいの工夫をしたらどうかと提案したい。1次はまあ何でも良いから、そこで各人が音楽的だと感じる人を通してみればよい。

本当は音楽的だと感じたからには技術もそれなり以上にはあると判断するくらいの度量が欲しいけれど、音楽家はみんな臆病だからそこまでは言わない。

そのあとで、1次を通った人の中でやや覚束ない人がいないかをショパンなり誰なりの練習曲でもう一度「確認」すれば良いではないか。

僕はそれが唯一の方法だと力説しているのではない。

しかし、毎度お決まりのように「音楽的な人がいなかった」と嘆いてみせるより、なにかちょっとでも違った方法を試してみれば結果自体ずいぶん違うものになりはしないか、そう思う。

この程度の変更ならば明日にでもできる。そうではないか。
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