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 季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

発音

2017年12月29日 | その他
英語の(外国語の)発音について。

まずそもそも、「良い発音の英語」という点では、永遠にネイティブスピーカーに勝つ事はできない。「良い発音」にこだわる限り、永遠にコンプレックスを抱え、勝てない土俵で勝負をすることになる。

次に、世界で話されている英語の大半は「よくない(訛りのある)発音の英語」という事実。「訛りのある英語」が世界では「当たり前」であることを忘れてはいけない。

最後に、英語の発音が良いと、「(日本人にとっての)外国語を話している」という点が相手に忘れられてしまい、特にビジネス上、リスクが上がる。例えば、素晴らしい発音の英語で、何か間違えたコミュニケーションをした場合、それは「言葉ができない(外国語の)せい」と考えてもらうことができない。


以上は以前何処かで読んでコピーしておいたものである。至極ごもっともである。

僕は自転車レースをよく見る。世界各国から集まっている選手たちも英語でインタビューされるのが多い。

そこで話される英語のブロークン度は僕たちを安心させるに足りる。

コピーしておいた文章の後段、ビジネス上のリスクが上がる、これは自転車レースでは無いだろうが。

発音発音とこだわるのは外国語コンプレックスの為せる業だと知っておいた方が良い。



東ドイツ 2

2017年12月17日 | その他
東ドイツに旅した時は非常に緊張した。ワイマールやアイゼナハのホテルに泊まる際にはパスポートを預けなければならなかった。

僕は一度夜行列車で国境を越える時パスポートを盗まれたことがあり、外国でパスポートを手放すことの不安定さには敏感になっていた。それが理由も分からずに(分かるはずがない。それが規則だというからには従うしかないのだ)見ず知らずの人に預ける。これには緊張した。

旅の楽しみの1つは夜の町を散策することだろう。ドイツでは特にそれを感じた。

しかし東ドイツの旅行中は気味が悪くてとてもそんな気持ちになれなかった。ホテルへの道は当然メインストリートなのだが、人の気配もない。

薄暗い街灯に照らされて人影がある。ところがそれは彫像のように動かない。近づくにつれそれは軍服姿の男だと知る。そう、夜の街にいるのは警官と軍服姿の男だけなのである。

そのようなところでパスポート無しで散策するような無謀な行動は子供の時からやんちゃで鳴らした僕と雖もできかねた。

以前にも書いたが当時は東西ドイツで通貨レートが(表向きは一対一だが)大きく違った。そこで西ドイツマルクを欲しい人は密かに交換を持ち掛けてきた。バッハの生家で受付のおばさんから頼まれたこともある。

これがまた油断は禁物。おとり捜査だったりしたのである。知人にも理由はよく知らないが捕まった人がいる。本人はドイツ語が殆ど分からぬままウッカリ交換したらしいが警察で随分絞られたそうだ。

マイセンでエルベ川の河原に駐車して休憩を取った時のこと。何処から現れたか子供達7、8人がやって来た。

口々にスーパーカーだ!と僕のボロ車を覗き込む。ありふれたハッチバックですよ。日本では外車になるが。

なるほど東ドイツの当時ではスーパーカーだと言われても納得ではあった。当時の東ドイツにはトラバントというオモチャのような車があるだけで、それを手に入れるのに誕生と同時に申請しないとならぬ程待つらしかった。

やって来た子供達の目についたのは車中にあるビニール袋だった。ワォといった感じで見るのだ。これもまた無理がない。1枚数十円といった値で売っているのに、僕らは無造作にゴミ入れ用に何枚も放り投げていたのだから。

1人1枚ずつあげた時には心底から喜んでくれた。記念写真を撮ってしばし歓談したが、年長者が「もう行こう、警察に叱られるかもしれない!」と言い全員が風のように走り去ったのが忘れられない。

続きを書くかもしれないが。

プログラム

2017年12月03日 | 音楽
豆腐が好きである。幸いにも数軒先に旨い豆腐屋がある。

大学に入って間もない頃、電車から豆腐料理という看板を見つけた。都合の良いことに大学から徒歩で行くことができる距離にある。

早速食べに行ったのは言うまでもない。

初めてコース料理を食べるのだ、しかも大好きな豆腐の!僕は奮発して8品料理を注文した。

今となってはどのような料理がどのような順序で出て来たのかもう思い出すことはできない。

当時僕は若く物の道理をわきまえていなかった。せめて舌切り雀くらいは熟読しておくべきだった。

はじめの三品くらいまでは感動して食した。ほほう、豆腐がこんな風になるのか!そんな感じ。

次第にどの品が出ても豆腐の味がするのが鼻につき始めた。豆腐料理なのだからどれにも豆腐の味がするのは当然である。

当然なのだからと感覚を諌めるのは理性である。僕は努めて理性的であろうとした。

しかし遂に理性は崩壊した。もう我慢がならない。その後は胸につかえるのを必死に抑えてひたすら食べ進むだけになった。

食べ残さずにいたのは支払ったものを残すのは勿体ないというどこか変な経済的理性が働いていたに過ぎない。

豆腐が嫌いにならずに済んだのは幸運だったといえよう。こんなことになるのなら三品料理にしておくべきだった。

こんな昔のことを思い出したのはマズルカのレッスンをしていた時これまた昔のことを思い出したからである。

学生時代、教授のひとりがマズルカ全曲演奏というリサイタルを開催した。

マズルカは実に美しい。僕はショパンの作品の中ではマズルカが一番好きである。

それがどうだ、曲が進むにつれて苦痛になってきた。正確に言えば5、6曲でもう退屈になってきた。10曲も進んだ頃には残りの曲数を思ってうんざりしていた。

カウントダウンが始まり全曲が終わった時には刑期を全うした囚人のような気分になったものだ。もっとも囚人になったことは今の所ないのであくまで空想の域を出ないのだが。

この演奏会をした教授は豆腐料理を食べてみたことがなかったのであろう。豆腐料理同様、僕は幸いにもマズルカが嫌いになることはなかったのだが。

この手のプログラムは昨今よく見かける。これは私はここまで「勉強」しましたよ、という報告書に過ぎない。とてもではないが聴いていて楽しめないものだ。

バラード全四曲、ワルツ全曲、すべて感心しない。一度豆腐料理の八品料理を食べてみることをお勧めしよう。