季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

自然の音

2009年08月05日 | 音楽
月について慢文を書いたらコメントがあり、それをネタにしてもうひとつ書いてみようと思った。

<大多数の人は、レコードは音質が悪くCDの方が音質がよいと考えているからです>

とあるが、たしかにCDとレコードを比較して聴いたことのない人にとっては、新しいテクノロジーによる、解析されつくしたCDがきっとより良い音なのだと「考え」るのも無理はないだろう。

僕自身もほとんどの場合CDで聴く。生徒に聴かせるとき、何といっても便利だしね。テクノロジーは音質を極めつくすのか、僕は分からない。人間が切望するならば、まあ極めるのかもしれない。

ただ、人間の耳はテクノロジーがどこまで発達するかと関係なく、人間の耳にとどまることは確かである。耳は聴きたいものだけを聴く。

その点で<よくある聴覚実験はヘッドフォンで純粋音を聞かされ、振動数を上げていってどこまで聞こえるかというものだと思います。その音域が本当に不可聴なのか、という問題は、実は依然として残ったままだと思います>という見方は的を射ていると思う。

<テクノロジーの進化とともに音質はどんどん劣化していくように思えてなりません>

現状はその通りだと思うけれど、それはテクノロジーの性質にあるのではないだろう。ちょうどピアノという近代産業の産物が美しくありえたのと同じように、受け取る人間の耳が、求めるものを知れば避けられる問題だと思う。

さきほどレコードとCDを比較したことのない人には、新しいマテリアルの方が良いだろうと「考える」のも無理のない話しだと書いた。

しかし同じ音源の演奏をレコードとCDで聴かせると、全員がその差にびっくりする。もちろんレコードの音に軍配を上げる。そこからも、耳や好みが変わってきたわけではないことが知れる。

といったところで、僕は自然の音を賛美しているわけではない。音楽で使われている音は自然音ではない。ピアノという楽器ひとつを見ても、産業の発達がもたらした人工的な音だ。

小林秀雄さんが、これも以前挙げたが、五味康祐さんに、実音か録音かを試されて分からぬ音くらいはできるだろう、そのとき人は試されているという意識があるのだから。テクノロジーはそこまでは行くよ。しかし無心に音楽を聴く耳は自然を模倣するのではない。耳はカートリッジではないよ、と諭す。

これはやまかたさんの言う鼓膜の振動までは「現実に生起している(僕流に書き換えたが)」けれども、そこから脳にどのように伝達されるのか、という問いへの答えになっている。

伝わりようは僕らに知りえないものだ。耳にも耳の知の在りようがある。「生の音」というものは存在しないと僕がかつて書いたのはそういう意味である。テクノロジーの問題ではない。そのことを丸ごと受け入れるしかない事柄である。

科学者はそういう、心理と耳の構造の相関を調べていくことも可能だろうが、僕にとっては、耳は聴きたいものだけを聴くという事実だけが重要で、それが事実である以上、聴きたいものの質をもっと上げようと努めるだけである。

汁粉に最後にひとつまみの塩を振ることは誰でも知っているが、ではそれをせずにとことん砂糖を入れていったらどれほど甘くなるかを知っている人はそうたんとはいないだろう。したことのない人は是非一度馬鹿になったと思ってやってごらんなさい。馬鹿になった僕が言うのだから間違いないぞ。

砂糖が増えたことは感知できる。しかし、甘いと感じるかといえば、うーん何と言えばよいかな、結局のところ美味くないとしか言いようがない。

これが舌の知恵だ。もっとも、ある時友人が「おい、このケーキ食わないか、甘いよ」と言ってすすめてくれたことがあった。辛いケーキがどこにある。このように、世の中には甘い=美味いという人もいるから、僕の素朴な実験は失敗に終わるかもしれない。

<人工音ばかりで育った人間にとっては自然な音よりも人工音に心地よさを感じるということもあり得るかもしれません>というのは、次のように理解すればありえると思う。

ピアノの音や、オーケストラの音だって人工音であるが、そうした詮索よりも、単純に、人は育った音に対して心地よさを覚えることがある、と解しておこう。それならばそういうことも起こりえると思う。
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芸人

2009年08月03日 | その他
ちょっと前に石原都知事の談話が目に入った。

「古賀君も芸人にたぶらかされて、自民党が手玉に取られて大恥かいた。あの騒動もだいぶマイナスになった」

都議選の後、麻生首相の言動批判の中での言葉だ。そして芸人とは言うまでもない、東国原宮崎県知事のことだ。

この人はなぜこういう言い方しか出来ないのだろう。いやだなあ。こんなのはものをはっきり言うことと何の関係もない。「私さあ、ものをはっきりいう性格だから言うけどさあ、あんたのこと好きじゃないんだよ」「俺って何でもはっきり言う性格なんだよね、はっきりいって。で、バシッと言ってやったわけ」周りにそんな人たちがいませんか?こういうのと同じレベルだ。いうまでもないけれど、石原さんの言い草は、そのまま自分に返って来てしまう。


何がいやなのか。僕はこの中で「芸人」という使用法に込められた軽蔑的なニュアンスに抵抗を感じる。芸術家なんていうと、急に偉そうに聞こえるけれど、小説家なんて嘘八百並べて生活しているやくざな稼業じゃないのかい。また、ご自分の弟は芸人で、その仲間の軍団とやらに応援されているではないのか。

いや、自分はやくざな稼業に留まらず政治家として名を成した、ということだろうか。認めても良い。しかし裏から言えば、やくざな稼業から「身を起こした」のと同様に東国原さんも芸人から「身を起こした」ことになろう。

東国原知事を僕が評価する、しないは、それは別の問題だ。ただ、彼を指して芸人にたぶらかされていると言うのならば、都民は嘘八百のやくざ稼業にたぶらかされた、と反石原の人々が言っても礼を失することにはなるまい、と常識的に思うのである。

そういえば、僕は文学好きの常道として内外の小説を読み漁ることから始めた。中学の図書館で一日三冊くらい借りたものだ、行き返りの電車用、授業中用、トイレ用、ほとんどが小説だった。小説イコール文学。図書室の本をトイレでも読んでいたのか、と言われそうだが眠る暇も惜しんでいたからなあ、勘弁してもらおう。

それがいつの間にか小説からすっかり遠のいてしまった。少なくとも小説イコール文学という見方がまったくできなくなった。小説を軽視しているわけではないのだが、それどころか、物語るということが王道だと認めるに吝かではないのだが。いったいこれはどうした訳だろう?

これは僕の性分というものだろうか。懐を深く「物語る」なんて贅沢な余裕を持つことは夢のまた夢だ。

話をもとに戻せば、どうも僕は「成功者」の鼻持ちならないのが好きになれない。知事になるのが成功者かどうか知らないけれどね、自分が成功したと思っている人を成功者というのだ。傍から見たものではない。シューマンは傍から見れば成功者だろうが、本人からすれば失敗者だったのだろう。

自分は芸人ではない、芸術家である。こういった自負心くらい厄介なものはない。自負する気持ちがなければ、己を持することが難しい。象徴派の詩人たちは、詩人は千里眼でなければならぬ、と自負した。ロマン派の作曲家たちにとっても、詩人(芸術家)であることが誇りであった。しかし時代も移り行き、芸術の概念が揺らいで行くときに、自負の念を下手に持てばこのように優越する気持ちばかりが出る。

そもそもある職種の人を指して「たぶらかされる」という言葉を使うのは品性がないだろう。その職種を卑しいと見做していると言われても仕方あるまい。

芸術家なんて、芸をもって処する人のことじゃあないか。それが近頃では芸もないのが芸術家を気取っているなんて笑わせらあ。僕は芸人で結構だ。芸術家なんていう立派な称号は返上してよい。

ついでに言っておくけれど、自慢じゃないが、僕はご多分に漏れず、政治に関心がまったくない。広い意味でも政治的な運動は嫌いだと言い切ってしまって良い。ただし今まで選挙を棄権したことはない。この二つは違ったことである。

若い人たちは、意見はさまざまだろうが、選挙には行きなさいよ。
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