季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

教育実習は必要か

2015年02月28日 | その他
ちょっと前にピアノ教育法なんぞ役に立たないのではないか、ということを書いたが、話の序でにもうひとつ同工異曲を。

毎年教育実習期間があり、ただでも少な過ぎるレッスンのうち2回乃至3回がつぶれる。

僕はこのような教育ごっこは早いところなくして貰いたいものだと思う。

以前登校途中に常勤の教師と出会い、話をする機会があった。

ちょうど教育実習の期間で、話題はそのことになった。教授連は受け入れ校へ出向き挨拶をしなければならず、忙しい、 忙しいとボヤいていた。

僕は単刀直入に尋ねた。一体そんな儀式は必要なんですかと。教授は、そうなんですよねー、先方だって学生はともかく、私たちまで行ったらきっと迷惑なんですよ、と正直に答えた。

実習期間中のセレモニーは上記の通りだが、実習から帰って来た学生に感想を聞く。すると大抵は楽しかった、思い出になったという言葉が返ってくる。

思い出だって?僕は一度だけ吉野家の牛丼を食べたことがあるが、それだって思い出だぜ。マージャンで役満を振込んだ思い出だってある。

冗談はさておいて、こんな場合に思い出という切実な言葉を使うだろうか。

僕の中学は男子校だった。ある年、教育実習生として女学生が来た。最終日に僕達と一緒に記念撮影をしたらしい。記憶にはないが写真はあり、僕も写っている。

歳をとって偉そうに女学生が、などと書いたが、当時はむさ苦しく臭い男子校に華やかなおネェちゃんが来たという感じだったに違いない。

色気づいた中学生どもの中に僕もいたのだろう。だが記憶はまったくはっきりしない。思い出そうとすれば、何人かの同級生の声が蘇るばかりだ。

もっとも実習生のおネェちゃんたちにとっては、記憶はもっとはっきりしたものかも知れない。でもそんなものは他愛ないことだ。同じ時期に他のことをしていればそれが思い出になっただろう。

思い出作りといった言い方が昨今ではあるようだが、僕は好かない。作ろうとした思い出なんぞ高が知れているではないか。

教習生は確か3人いたように覚えているのだが、あの中で一体何人が教職に就いたのか。

教職に就いた人は本当に実習が役に立ったと言うだろうか。甚だ疑問だ。いざ実際に教職に就けば否応なしにあらゆる現実に対処することになる。そしてそれは多くの場合、楽しかったなどの感想とは程遠いだろう。

教師なんて、教育実習楽しかった、ひとつ教職に、というわけでなるものではないだろう。

他の職業ならば、職場を見て実状を知ることがあるのかもしれない。だが学校という場は教師と生徒という立場こそ違え、誰もが知っているではないか。職員室の実際だけは知らないだろうが、それに関しては上記のように、実習でわかる種のものではない。

それにもかかわらず、思い出のみが残る実習はいつの間にか必須のものとなる。それを僕は先生ごっこと呼ぶので、そんなもののためにレッスンが3回ほど抜け、加えてその間練習出来ない、というデメリットを容認するのは出来かねる。

大体、他の国はいざ知らず、日本の教育は絵に描いた餅とでも言おうか、カタログのようなきれいごとが多すぎるのではないか。僕の率直な感想である。

因みに、僕の学生時代にも教職を必ず取るように指導があった。だから僕は取らなかったのだが、別段困ったこともなければ、思い出に事欠くこともない。

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原始的

2015年02月23日 | 
解剖学者の養老毅さん、今は退官して昆虫学者だと自らを紹介している。

新幹線の車中でふと手にした雑誌に短文が載っていて面白かった。

都会的な思考は発展が速いという。たとえばリンゴとひとくくりにすると理解も早くなる。でも個々のリンゴはすべて違う。青いの、赤いの、酸っぱいの、甘いのとさまざまである。

それを考えると、当たり前のようにリンゴとくくって理解するのは難しい。そんな思考回路をもつのを田舎的な理解と呼び、自分はそちらだという。

法隆寺の宮大工、西岡常一さんも似たようなことを言っていた。

小学校の時分算数がよく分からなかった。リンゴ一個とミカン一個で足して2個になるのがどうしても腑に落ちなかったという。

こうした種類の頭の緻密さをもつ人がいつの世にも必ず出てくる。大抵の人はそんなこと無しに、いとも簡単に納得していくし、その速度が速い人を秀才と呼ぶのだが。

もっとも、皆がみなこんな思考回路だったら世の中の進行が滞るだろう。納得するのが素早い人もいないと困るのである。

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動画

2015年02月17日 | 音楽
スマートフォンを使って動画をアップロードしてみた。平均律1巻のヘ短調フーガの前半だ。

HPでの説明として撮ってみたのだが。つまりHPのレガートの項に貼り付けておいた。

楽器は百歳を超えたベヒシュタインのコンサートグランド。

宣伝するほどきちんと練習している訳ではないが、手の動きが分かりやすくしてあるつもりだ。多分フワッと見えると思うけれど、腕や身体は一種張りつめた感じを保っていることを、僕の所に通う人たちは思い出すだろう。というか、思い出さなければならない。

手も何やら柔らかく見えるかもしれないが、それは僕がジジイだからではないぞ。柔らかく使っているだけの話だ。

それにしてもスマートフォンのビデオカメラ機能で撮影、編集は骨が折れる。一番難しかったこと?顔を写さないようにセッティングすることさ。
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教えるコツ 2

2015年02月16日 | 音楽
同じ題名の記事に対して質問されたので捕捉として書いておきたい。

以下がその質問である。

1.欠点を指摘すると、そしてそれを指摘された生徒が、その欠点を直そうとすると、生徒の成長を害するということでしょうか。それはどんな害か、少し説明して頂けると有難い。
2.その欠点は、指摘しなくても、自然に消えていくものでしょうか。
3.そうではなくて、世の中に完璧なピアニストなぞいない、、欠点が残っていても、というか欠点を逆に個性とすることで一流のピアニストになれる、ということでしょうか。

まず3番目について。欠点の無いピアニストはいないというのはその通り。しかしそれを個性として、ということはあり得ない。

欠点が個性になる、これは確かにあるのだが、それは結果としてそうなるのであって、狙ってなるものではあるまい。

そもそも個性なんていうのはただあるだけで、目指すものではない。個性を活かすとかのスローガンで教育なぞできないのだが、それは今日では晦渋な思考なのだろうか。

欠点は是正するしかない。ただここで問題になるのは、果たしてそれが欠点であるのか、というそもそもの問いではないか。

角を矯めて牛を殺すという。欠点であっても、それは果たして角ではないのかを見極めなければならない。

つまり欠点の軽重を取り違えてはいけないのである。より大きな欠点を是正していく過程で小さな欠点は消滅することはままあるのだ。

また、人の欠点は長所のちょうど反対側にある場合が多い。それを認めずに無神経に是正すればその人の力そのものを殺すことになりかねない。

そう書いていくと、これは1番目の質問への答になっているはずだ。

難しいのはそれらは全て教える側の勘によるという点である。仮にそれがきちんとしているとするならば、生徒の成長を阻害することはないはずだ。

2番目への答は自ずから出ているのは解ると思う。

つまり僕が教えるコツはある時は欠点を指摘しないことだと言ったのは、この困難さから逃げない、という意味だ。

目につく欠点を次々指摘する、こんな簡単なことはないのである。


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教えるコツ

2015年02月08日 | 音楽
ピアノ教育法という授業が大抵の音大にあるようだ。僕の学生時代にもあったのだろうか、怠け放題であった僕はそれすらも知らない。

教育法というからにはそれを履修すれば上手に教えることができるのだろうか。

本当に教えるコツがあるのだったら教えて貰いたいものである。教えるコツを教えるにもコツがある、なんてマトリョーシカ人形みたいになって終わりなんてことはないだろうね。

ただ、カフカ(可不可)全集の僕も長いことピアノを教えてきて気が付いたことはある。こちらは実践によって得た実感である。

コツがあるとしたら、何を言うかではなく、何を言わずに済ますかなのである。

しかしここでも厄介なことがある。よく、教えるのではない、自分で探すこと、とか言う人がいるけれど今僕がが言わんとするのはこれとは全く関係がない。こういったのは正論に見え、格好も良いけれど。

ちょいと脇道にそれるが、十代の子供が相手ならば「練習すること。あとは自分で考えていけば弾ける」と言っておけばまぁ間違いなく見かけの上ではぐんぐん力がつく。熱心に練習する子ならば尚更だ。

まぁ、だの見かけの上ではだの、おもわせぶりでしょう?

そう、思わせぶりなのです。

育ち盛りの年齢に、食べてよく練習しろ、と命じたら誰でもある程度運動が出来るようになる。

そこで指導者は自分の指導力に満足する。スポーツの世界にスパルタがいまだに幅をきかせる所以だろう。

後は知らんよ。大成しなかったら?そりゃ素質の問題だ。こんな感じだろう。意識していないのかも知れないが、まぁ楽なものである。

で、戻れば僕の言わずに済ますというのは、まったく違う意味である。

ある時には欠点を指摘することをやめるという意味だ。つまりその欠点が件の生徒の成長過程でどの様な意味を持つのかを見極めようという意味だ。

これは言うことは簡単だが、実践するのは大変難しい。なぜかといえば、全体を見る目が不可欠で、しかもその全体は人の成長に関係する以上、常に変化しているからだ。

つまり、その人その人に応じて言わずに済ますことも変わってくる。レッスンの度に変わるのだと言っても過言ではない。

とても教育法なんぞの手に負える代物ではないのである。

僕が学生時代にそこまで考えていたのか、今となっては分からない。カフカ全集の説明になっていないことだけは確かだ。
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3月の講座

2015年02月02日 | 音楽
3月8日(日) 14:30(開場14:00)KMアートホール(京王新線・幡ヶ谷)

細々続けてきた講座も30回になりました。今回はブラームスの作品116を僕がどんな風に練習するかを聴いてもらおうと思います。

ブラームスには51の練習曲というのがあり、この曲集の使い方の一例にも触れながら進めてみたい。

というのも、この練習曲集はただ弾いたところで何の役にも立たない、面白味のない曲集だから。

ところが、一度ピアノの技術に根本的な関心を持ってみると、これほど面白い曲集はそう多くはないと分かります。

それが実際の曲の中でどう役に立つのか。

まぁ欲張り過ぎるのはよしましょう。ひとつだけ言っておけば、どう練習するかはその人の曲に対する理解だということです。

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