季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ワールドカップ

2010年06月29日 | スポーツ
対デンマーク戦は非常に良かった。

前監督のオシムは辛口だったが、それがどこのプレーを指しているのかおよそ見当がつくけれど、とにかく結果を出したことを評価する。なんて偉そうでしょう。

オシムによれば、数人の目立ちたがり屋が個人プレーに走って、それがなければあと数点入っていてもおかしくないゲームだったという。

専門家の言うことには耳を傾けよう。周りが見渡せていないのは日本選手に限らずまずい。しかし、と僕は思う。日本選手の最大の弱点は、見えていずに自らシュートを打つ場合でも、何かしら覚悟といおうか、それが足りずに打っていることではないだろうか。

ワールドカップなぞを見ていると、他の国々の選手のシュート力が恐ろしく強いのに、日本選手のはヘロヘロしているのが目立つでしょう。

日本人がキック力が弱いと思う人が多いだろうが、それは間違いではないだろうか。

以前サッカー番組で外国人選手、日本人選手入り混じってスピードガンで計測したことがあった。かねてから日本人選手のシュートが弱いことに残念な思いをしていたので興味深く見たのだが、結果は意外や意外、スピード自体は殆ど変わらず、強烈なシュートを売りにした外国人選手よりも数字が上の選手もいた。

この点について僕は大変面白く思うので、そのうちにもう一度触れたいと思う。

デンマーク戦を見て気になる点をひとつ。それは岡崎選手の得点にからんだプレーだ。本田選手が自分のシュートレンジだったにもかかわらず岡崎選手にパスを出した。

試合後、本田選手自らが「あそこで自分で決めないのが俺がフォワードになれない理由だ」と語っていた。しかしフォワードになれないで済む話ではないかもしれない。サッカーが弱い理由のひとつと言う方が正しいだのかもしれない。

今回は幸い得点になった。しかも岡崎選手がこのところ得点できずにいたことを考えると、短期的に見れば流れが良くなる可能性がある。フォワードは、とくに岡崎選手は一度得点すると重ねて得点する傾向があるから。

でも長期的に見るとこうしたプレーが甘いと思うのである。

目に付いたところでは長友選手かな。対人に結構強い。肝が据わっている。日本チームは体の大きいことばかり求めるような気がする。大きくなくても当り負けないのは彼を見ても明らかだ。日本選手の場合、体が大きいと足元が覚束なかったり、身体そのものが弱々しかったりするようだ。

さて次戦に流れがつながるか。つながることを祈ろう。守備の強いチームだ、ある時には遠目からシュートを打つ、ドリブルで突っかかる、といったプレーも必要だろう。そのときに漠然としたプレーにならないことだと思う。その点はピアノの演奏と同じなのだ。一応形は整えました、といったプレーにだけはなってほしくない。


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音色という言葉

2010年06月27日 | 音楽
よく聞く言葉である。英語だと toncolor 、ドイツ語だと Tonfarbe となる。色という語を用いる点ではどこの国も似たようなものなのだと分かる。

ではピアノで音色云々をいう場合はいったい何をどう表現したのだろう?僕も日常「音色」ということばを使わないわけではないが、改めて意識してみると、あまり口にしないような気がする。少なくとも言った途端にああいけない、言い直したいと思う。

よく耳にする言い方では「キラキラした音色」などが代表的なものだろう。ところが、僕はピアノという楽器からキラキラした音を想像することができない。今までにずいぶん多くの良いピアニストも聴いてきた。ざっと列記してもアラウ、ゼルキン、ケンプ、ミケランジェリ、リヒテルなどの名前が浮かぶ。

これらのピアニストへの評でキラキラした音と表現されたことはないのではなかろうか。多彩な音色という言葉さえないのではなかろうか。

じっさい僕が彼らの音を言葉で言い表すとしても「キラキラした音」とは決して言わないだろう。言えないな。

だいたい演奏評は形容がまずい。音を言葉で表現なんてただでも難しいのにいとも簡単に書いてしまうからなあ。

音色についてに戻れば、昔は単純に色という言葉を使っても支障はなかったはずなのだが、ピアノ演奏において、一応音が鳴るといったレベルが長く続くうちに、およそ次のような次第になっていったものと思われる。

色彩は誰にでもはっきりと分かる。青と赤を見分けられない人はいない。オーケストラに話を移したって違和感がない。トランペットとオーボエの音色の違いくらい誰でも分かる。

ところでピアノの音ではどうなのだ。誰にでも分かる差異というと音量の大小だ。陰影をつけるより直接音量の大小を求める、というかそれしか方法を知らないピアノ弾きばかり輩出されるようになった。(今「はいしゅつ」の変換候補に排出が最初に出た。実感を言ってよいならこちらを選択したかった)

簡単にその結果だけを言っておこうか。今やピアノのハンマーはフェルトではなくて樹脂だと言うほうが正確な有様だ。製造過程ですでに硬化剤が注入されている上に「ハンマーに薬を、薬をくれ!」じゃなかった「ハンマーに硬化剤を、硬化剤を注入してくれ」と追加注文するピアニストまで出るようになったそうだ。この辺りから良く響くこととやかましいことの区別がつかなくなった。

本来、ピアノという楽器で様々な質感を表現できることを絵画に例えるならば、それは水墨画に近いのである。墨の黒のみで、濃淡を絶妙に使って、青い空、緑の木々、流れる水、広がる大地、そそり立つ岩肌とあらゆるものを表現できる。音色、音色とやかましく騒ぐ人が褒め称える演奏は、往々にしてヒステリックな絶叫を思わせる。それらは硬化剤を注入したハンマー、不正確なタッチ、表面から直接与えられた力によって出される。

毎度、音について書くときには言わざるを得ないけれど、どうやっても伝わらないだろうという諦めに似た気持ちだ。

でも今月号のレコード芸術に吉田秀和さんが相変わらずの文章を書いていて、それをちょっと覗いたらどうしても書かねばと思い立った。

非常な高齢になってなおきちんとした文章をものにするこの批評家の精神力には脱帽する。しかし今回も言わねばならぬことだけは言っておく。

この人も音色という言葉に幻惑されただけの人だ。誌上で彼はゼルキンを褒め称えていた。その上で「ただ、ゼルキンの音は淡彩画のようだった」と言い、色彩的な人々と対比して語っていた。色彩的な人の例としてアルゲリッチ及びユンディ・リーを挙げていた。(アルゲリッチは他のときだったかな?たくさん読んでいるとごちゃごちゃになる。)

彼らの演奏を色彩的だといって肯定する耳は、次から次に粗雑なピアノを製造することに繋がるだろう、という危惧を僕は持っている。

音楽を語ろうとして絵画や文学に話が広がるのは結構だ。僕もそんな傾向がある。しかし音の色なんてよほど気をつけて使う必要があるという自戒の念くらいは持ったほうが良い。

長くなるのは遠慮したい。文字通り忘備録だと思ってください。レコード芸術はまだ店頭にあるだろう。吉田さんの文章だけ立ち読みしてみたらいかが?

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またまたサッカーについて

2010年06月23日 | スポーツ
日本代表の対オランダ戦は善戦だった。一次リーグ突破は数値上の可能性は高いけれど、そう簡単ではないだろう。

結果はともかく。次の点を挙げておく。僕がサッカーに関して書く理由の最大なものだから。

ドイツは最有力候補でありながら第二戦で負けて苦戦を強いられた。クローゼという中心選手がイエローカードを2枚もらって退場処分になったのが痛かった。

Die Welt 紙上でクローゼへ長いインタビュー記事が載っていた。記者の質問は退場の対象となったファウルについてが主で、クローゼは通常のプレーに過ぎない、審判はあのプレーをファウルにするべきではなかったと弁明にこれ努めていた。

しかし、と記者は食い下がる。あなたはすでに一枚イエローカードをもらっているのだからもっと慎重になるべきではなかったか?と畳み掛けて質問する。

こういうやりとりが日本ではほとんど見られない。サッカー、スポーツに限ったことではない。たとえば政治の場においても同じだ。

対オランダ戦で決勝点は川島選手の正面で急に変化して手ではじき損なってゴールに吸い込まれた。日本のメディアは川島選手に対しては殆どコメントをしていない。しかしイギリスでは最低レベルのキーパーだと報じられ、一方オランダでは今大会の公式球が悪評なことと関連させて、非常に優秀なキーパーなのにボールの犠牲になったと報じた。どちらに耳を傾けるかは人それぞれだ。

これらは日本でも報じられたから目にした人は多いはずだ。しかしこの報道は他国のメディアによるもので、日本でそれを紹介したというに過ぎないことは気づいておくべきだろう。

他にもフランスはチーム内のごたごたが頂点にまで達し分解寸前で、イギリスもまた大きな問題を長いこと引きずっている。この国々にとっては今大会は終わっている。

にもかかわらず次の大会、そのまた次の大会にはしっかりと立て直して強豪国になっているだろう。チーム内のいざこざはないに越したことはない。それでも大局的に見ると、それが新たなエネルギーになっているとしか思えない。彼らはそれを伝統と呼ぶけれどね。

どうしてそんなことが可能なのか、と問えばやはり「批評」の存在だろう。選手間でも名指しで批判したりする。仲が良いとはとてもいえないようだ。それでもいざ試合になると立派な連携を見せる。

日本も結果が悪かった場合色々言う人が出る。しかしそれは外国の批評と違って、何かしら後に尾を引くようだ。だからふつうは当面の問題には目をつむっている方が無難だ、という感じ。そこが表面上の平和を求めているように僕には映る。

こうした態度は社会全体にも政治の場にも(特に国際政治)同心円状に表れていないか。同じ時代の同じ人間がすることだ、常識的にいってもそうだろう。



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月の光

2010年06月22日 | 音楽
ドビュッシーの「月の光」は人気がある。ありすぎて本気に取られなくなった曲でもある。

曲の解説をしようと思っているわけではないが。

人気のある曲ともなると、あらゆる機会に耳にするわけで、そんな時、もしかしたら月の感じ方が違うのではないかと疑問に思うことがあるのだ。

月を題材にした詩や物語は日本にだってたくさんある。こんなに身近な天体だ、難しく考えることなんかないさ、月はきれい、ただそれだけだと言いたい。ところが案外そうでもないのだ。人の心だって世の中の様々な移り変わりを反映する。

日本の物語で月と関連する一番名高いのは、やはりかぐや姫だろうか。あるいはお月見、月とウサギ、朧月夜等々。

ここで感じられている月は、どこかほんわかした風情があるようだ。お月見のすすきとの取り合わせも、分かるなあ。日本人の感受性を物語っている。

万葉集で、恋人のところへの行き帰りの夜道を歌ったものがたくさんあるでしょう、そういう情景とじつによく合う。

ではヨーロッパはどうか。

満月を背景に浮かび上がる狼男のシルエット。この時、月は冴え冴えとした冷たい光を放っていなければならない。狼男は間違っても半月の日や、朧月夜の晩に出てはいけない。そんなへまをやったら、一生立ち直れないだろう。

ドラキュラも自分が出て行く夜を見極める必要がある。せちがらい世を渡るのも楽じゃあないね。

以上、ヨーロッパの月の感じ方を見てみた。中国あたりでも李白だったかな「疑うらくは之地上の霜かと」と歌っているところから、朧月夜とは程遠いところで感じているように思われる。中国の古典に明るいわけではないから他に例を挙げることができないけれど。でも酔って湖面に映る月影を掬おうとして溺死したのは李白じゃなかったっけ。この逸話からも冴え冴えした光が見えるね。

日本の詩人が冷たく光る月を歌ったのは萩原朔太郎あたりからだろうか。代表作の「月に吠える」という表題からして何か狼男を連想させる。フランスに強く憧れた文学者たちの一群がいたということは、あらゆる感じ方自体をヨーロッパ文学から学んだということである。

萩原朔太郎の詩や文芸論は今日ではややもすると幼い印象を与えるが、それでもここにフランス文学から受けた刻印がはっきり示されていることは確かだ。人は「感じ方」すら学ぶのである。

中原中也になるとそれははるかにはっきりしたものとなる。この詩人は盲目的なほどヴェルレーヌの世界を愛し、模した。彼の描く月もやはり冷たく冴え渡っている。おお チルチスとアマントがあそんでいる と歌われる「月の光」だったかな、中也詩集は僕のピアノの上に常に置いてあるのに、このところ見当たらないからうろ覚えだが。(そろそろ大掃除の時期だな。いろんなものが発見されるだろう)

そうやって心をまさぐった後にドビュッシーの「月の光」の演奏、今日の演奏を聴いてみると、ちっとも冴え冴えしていないことに気づく。ドビュッシーをヴェールを掛けたようにフワフワ弾いたら、この病的にヒステリックなところのある作曲家が「ピアノはベヒシュタインだ、それ以外は楽器ではない」と断言したという逸話(実話かもしれないよ、僕は研究者ではないから分からない。どちらでもよいと思っている)も何の意味も持たなくなる。






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ワールドカップ

2010年06月17日 | スポーツ
僕の予想を裏切って、日本代表は初戦を勝った。僕はすなおに喜んでいる。

ただし日本チームが課題を克服したのではないことは知っておくほうがよい。一点取って勝ったのだが、シュートは後にも先にもこの一本だけだ。今までの課題中最大だった攻撃の精度と集中力は相変わらず低かった。守備の課題はある程度克服したようだが、それも後半25分過ぎから安易なパスをカットされて劣勢に立つことが多かった。

勝負事は結果が出ればそれはそれでよい。その意味では第一戦は嬉しい結果だ。しかしメディアはこの試合自体はレベルが低く、しかも日本チームは次の試合への糸口を見つけていないままではないか、という現実から目を反らしているようだ。

紙面には策士岡田なんて文字が踊ったが、それは違う。キーパーにしろ、得点を挙げた本田選手にしろ、岡田監督が策を練って起用したのではない。采配が冴えたというのはあまりに美化している。

少し前にも世界を代表するプレーヤーのひとり、C・ロナウドにどこかの新聞社がインタビューを申し込み「日本チームの印象は?」なんて訊ねて恥ずかしかった。まるで相手にされず、早く負けたほうが観光できて良いかも、と茶化されていた。くやしいね。

ドナルド・キーンさんの「日本人の質問」という本を紹介したことがある。その中で「日本をどう思いますか?」といった類の質問が多いことが記されている。それを思い出す。「あなたのお国では○○○なことはありませんでしょうねぇ?」という尋ね方をする人が多いとあった。

質問者は日本が強くないことを承知しているのだろう。承知していないならあまりに浮世離れしているしね。承知の上でこんな質問をするのならば、その心理はずいぶん複雑だ。この辺りになるとサッカーに限ったことではあるまい。

そんなことに精を出す暇があるなら、きちんと自分の目を働かせて記事を書きたまえ、と言いたくなる。

言うまでもなく今回、奇跡は起こって欲しいのだ。しかし奇跡に頼るのではなくて実力によって勝つようになるためには本当の姿を知らなければならない。メディアが僕たちとともに浮かれてどうする。

各選手を紹介するのに、やれ昔不良だっただの、母親に苦労を掛けただの、愛妻が待つだの、ぺんぺん草が生えただの、背景の細かい描写ばかりあって肝腎のテーマは腑抜けになる。日本の近代文学は私小説という独特の形態をもった。そんなこととどこかで結びついているのではないか、そう勘ぐりたくなる。

あるいはもっと下世話に、浪花節だと言った方がより適切なのだろうか。

今の選手たちの「のりの良さ」は決して持続するものではない。せめてあと一試合調子に乗ってもらいたい。現実ははたしていかに?次の相手オランダは僕が見た限りではデンマークと立派な試合をした。見ごたえがあった。しかしドイツの Die Welt だったかな、そこでは退屈な試合だったと批判されていた。僕には高度に映る試合でも厳しく批判される。世界のチームはお調子者が何試合も勝ち続けることはできない、きびしい環境で育っているのである。日本があまりに無残に負けるのはオールドファンとしては忍びない。そうならぬことを祈りたい。

せめてパスに意思を持たせてもらいたい。緩急をつけてもらいたい。シュートを打てるところまで作ってもらいたい。

後出しじゃんけんにならぬよう、今から投稿しておく。







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笑い事ではないのだが

2010年06月14日 | Weblog
ネットニュースを読んで思わず吹き出したことがある。これは傷害事件で、本来笑うどころではないのだが。

どこかのお年寄りの施設での事件である。些細なことが発端で78、9歳と75、6歳の男ふたりが喧嘩になった。

年上の男が「この若造が」と叫んで「若い」方を刺したというのである。

人類がいつになっても「最近の若いものは」と言いたがるのもむべなるかな。

マンモスを追っかけて暮らしていた頃にも「最近の若いものは」という嘆きはあったのだろうか。石に文字を刻んだ時代にはすでにそんな嘆きが掘られているときく。

「近頃の若いものはマンモスを怖がりやがって。俺たちの若い頃は怖いなんて奴は一人もいなかったぜ、武器がなけりゃ素手で立ち向かったもんだて。今のやつらときた日にゃあ、やれ石が尖っていねえだの、握りが細すぎるだの文句ばっかり言いやがって」なんて言っていたのかと思うとおかしい。

吉田兼好だったらこのできごとからどんな文章を書いただろう。徒然草には「今風」への批判がたくさんあるが、彼の目がどの時代にもある「今時の若いものは」と言いたがる爺様たちを見逃していたとは到底思えないから。
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冥王星

2010年06月10日 | その他
冥王星が太陽系の惑星から格下げになったのは記憶に新しい。数年前からちらほらそんなことになりそうだという話は聞いていたので、やはりそうだったかという思いだった。

冥王星は他の太陽系惑星よりはるかに小さい上、公転軌道の角度がずいぶん違うとか、その周辺に同じような天体が次々と発見されるなど、素人目にもなんとなく分が悪いような感じだったのである。

そんなわけで格下げのニュースに意外な感じを持つこともなく、大抵の人にとっても同じだったと思われる。

しかし先ほど数分間立ち読みする時間があって、科学コーナーを覗いたら、冥王星の格下げについての本があるのに気づいた。素人にさえ特別視されない話題が立派な本になっているということはどこかに理由があるはずではないか。

すぐに立ち読みをしたのだが、僕に与えられた時間はわずか2,3分なのだった。えーい、買っちまえと価格を見たが、しっかりした装丁から予感されたこととはいえ2000円もする。一瞬の間にこれは買う価値がある本であるか、と決断をしなければならない。

僕は買わなかった。一瞬の間に、何という決断力であろう、と驚くのは間違いである。僕は今日買うのをやめただけにすぎない。明日はまた「続きを読みたいなあ、うじうじ」と悩むことだろう。鳩山総理の基地問題もこんなふうに先送りだったのかもしれない。

で、立ち読みをしたといっても読んだうちに入らないのに、何を未練がましく思っているかといえば、この降格劇には政治まで絡んでいるような記述が目に入ったからなのだ。

科学にだってその時々の世相、政治状況が必ず影響する。なにもガリレオとカトリック教会だけに限らない。それをよく示す格好のテーマかもしれないぞと思った。

棚に戻そうとした最後の数秒で目に入った見出しは、冥王星降格問題がアメリカ大統領選挙のときの両陣営の戦いにも関係していることを示唆するものだった。ここまで話が大きくなると何のことかまったく見当も付かないね。でもガリレオの例に負けていないと思うな。

そんなわけでどうしても先が読みたいのです。読んだらまたここに書きましょう。しかしいつ立ち読みに行けるかちょっと分からない。相変わらずうじうじしたまま今日も暮れる。

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やたらに長い音響

2010年06月06日 | 音楽
昨年11月24日の「パイプオルガン」を書いていて思い出したことを書き付けておきたい。

合唱隊の真下で聴いていると、教会の階段の位置次第ではバスだけが先に耳に届いたりして、普通の意味では混沌としてしまうことを書いた。

オルガンの演奏で難しいことのひとつは、教会の非常に長い残響の中で自分のテンポを守ることだと思われる。

僕たち聴き手は、終始和音がいつまでもいろんな所から降りてくるのを楽しんでいればよいのだが、演奏者としてはそういうわけにもいくまい。慣れの問題だろうが、最初は面食らうだろうな。

僕が思い出したことは後で書くことにして、今こうして書きながらふいに思い出したことを先に書いておく。ふいに思い出すことだらけだが、そこはこのブログがメモの代わりだということで了解してもらえるだろう。

僕が聴いたオルガンの演奏会は、大体においてテンポが速すぎた。オルガニストはやたらに長い音響に身をゆだねることなく、むしろその残響に惑わされないことだけを心がけているかのように聴こえた。

弾き手は惑わされない訓練ができるかもしれない。乱暴に言ってしまえばほとんど目をつむったような心持で弾ききってしまえばよい。それは慣れ次第でなんとかなる。

しかし聴き手の立場から言えば何といおうか、残響も含めて「味わいたい」のである。フーガなんていうのはそういった芸術ではないのだろうか。頭に訴えかける芸術でもあると言ったらまた勘違いする人もいるけれど。

また、ストップの使用方法があまりにマニアックであることが耳に障った。一番極端な例をひとつ挙げておく。

5度の倍音が出る管がある。つまりドを弾くとソが鳴る。ウェストミュンスターのチャイムを思い出してもらえば分かりやすい。誰でも基音と5度上の音とを聴くことができるだろう。それがオルガン特有の一種の光彩を帯びた響きをもたらしている。

当然このストップは彩を添えるために考え出されたものなのである。それがある時、単独で用いられたことがあって僕は非常に腹が立った。現代の演奏家の一典型をそこに見たから。

オルガンは礼拝に使うのだ、などと考えているのではないけれど、この楽器を単なるキーボード操作が複雑で「遊べる」楽器だと言わんばかりの態度にはやはり抗議しておきたい。

さて思い出したことというのはブルックナーの3番シンフォニーのフィナーレのある箇所のことである。

彼の作品でよくあることだが、一見何の脈絡もないように、総休符のあとレミレドレドレ、ミファミレミレミと同じ音型が繰り返されながら(ゼクエンツといいます)上昇する箇所がある。そうしてその音を裏拍で追いかける楽器群があり、響きは混沌を極める。

これが長いこと得心いかなかった。いったい何のために裏拍で追いかけるのか?

ある時教会でオルガン演奏を聴いていたとき、ふいにこの箇所のことを思い出した。なんだ、教会のオルガンの響きを模倣しようと思いついただけじゃないか。ブルックナーが聖フローリアン教会のオルガニストだったことくらいは知っていたけれど、そして作品にはオルガンの響きを思わせるところがたくさんあるのは気づいていたけれど、教会の響きそのものの模倣まであるとは思いもしなかった。

いったん気づいてしまうと、どうしてこんな素朴なことに気がつかなかったのかと我ながら呆れるのである。

もしかしたらこんなことは解説書に書いてあるのかもしれない。でも読み飛ばしている人だって多いだろう。ヨーロッパに行ったら一度教会のオルガン演奏会に行ってごらんなさい。おっと、その前にブルックナーの3番シィンフォニーを聴いて僕の言う箇所を見つけてからね。
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