季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

子役

2014年03月30日 | その他
映画を見ることは殆んどないのだが、総じて欧米の子役は演技が上手なように感じる。

(ずいぶん前のこと)ホームアローンという映画を見てその子役があまりに上手だったのでびっくりした。

ハリー・ポッターの第1作も見たことがある。あそこで出ている子供たちもなかなか上手だった。この場合は上手というより自然だというほうが適切かもしれない。

ホームアローンの子役は一躍有名になったという。やはり誰が見ても上手だったのだね。それでも彼の演技から感じるものもやはり自然だということなのだ。成人した後は何をしていたのか知らないけれど、数年前事件を起こして逮捕されたというニュースを見た。人が歳をとることは難しいのだと改めて思った。でもそれは別の話。

目を日本の子役に移してみると、何ともいえぬ感情に包まれる。欧米の子役から感じる自然さをまったく感じさせない。

簡単にいえば、子供におとなの真似をさせて傍からそれを眺めて「可愛い」と言う構図。

これをひっくるめて言ってみれば、日本の子役は大人の見た子供像、可愛いと言われる像を演じているのだ。自然なものを感じないのはそのせいだろう。

これはテレビの中ばかりではあるまい。ちょっと外出すればすぐに目に付く。

どうしてこんな不自然になってしまうのか、その原因を知ることはできないけれど、演出を可愛いと言わないですむ感性は身に付くと思うのだが。だって子供は勝手に振舞って、それが可愛いのでしょう。時にはむきになって歳以上に見せようとしたりするけれど、あくまで自然に振舞っていて、それが周囲にも伝わる。それを可愛いというのでしょう。

日本の子供が、大人の描いた子供像にひたすら自らを当てはめようとしている姿をしばしば見る。これは少なくとも欧米では見られない。行ったこともないがアフリカなどでも見られないような気がする。日本の子供は可哀想だと思う。

もう少し目を広げてみれば、おそらく子役に限ったことではあるまい。日本中あちこちで同様の過剰演出が行われている。

理想的な高校生像だってある。理想的な会社員像もありそうだ。理想的な教師像、上司像、ここらは時たま雑誌などで特集しているでしょう。

理想的なものばかりではないよ。ちょいと前にちょい悪おやじだっけ、そんなのが流行ったでしょう。あれだって同じさ。そこで期待される姿に自分をはめ込んでいく。

子役を見ているとその不自然さがいちばん感じやすいだけなのかも知れない。





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動画

2014年03月28日 | 音楽
試しに動画を撮影し、アップロードしてみた。上手く出来るか保証もなく、場当たり的にやったが、いざ画面に自分の手が映り、グニャグニャしていると変な気分だ。

テレビに自分が映っても平気な神経は僕には無さそうである。コメンテーターの依頼があっても断ろうと固く決意しておる。

背後からの動画も見てみたが、フワッと弾いているように見える。これでは勘違いする人が出るだろう。ひと工夫しなければなるまい。
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危険

2014年03月25日 | 音楽
指につける錘も耳栓と時を同じくして見つけた。この手の上達促進グッズが数種類売られているようだ。

これは上達を促進するどころか、阻害し、時には危険ですらある。

それについては僕のHP上でも書いておいた。

ピアノ グッズなどの検索でなるべく上位に出てくるためにはHPのアクセス数が増える以外ないのだろう。

そこでお願いだが、この記事にもっともだと思った人は、読む読まぬに拘らず時折(出来ればしばしば)HPをクリックして協力して戴ければ有難い。
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耳栓

2014年03月21日 | その他
夜寝るときに耳栓をする。色んな種類があるらしいからネットで検索して驚いた。

オーケストラの楽員達が耳栓をするのが当たり前らしい記事を沢山見つけたのである。

以前、オーケストラの楽器間に遮音壁を設ける試みがあることを紹介したけれど、そのようなハイテクな研究を待つまでもなく、楽員は各自ゲリラ戦を敢行しているのであった。

なるほど耳を壊すのは死活問題である。自衛に走るのはもっともだと思う。しかしその現実とともに、そんな大音量が必要なのか、それはそもそも美しいのかを自問すらしないように見えるのは僕には理解しかねる。「○○社で耳型を取ったらすごく良いよ」こんなセリフが聞こえてきそうだ。

こんなことでアンサンブルとかハーモニーとか、鹿爪らしい顔をして言うんじゃないよ。指揮者は停電時の交差点のお廻りよろしく「はい、次あんた、ほい、そこ注意、3小節間皆さんで」てな具合にするしか手がないだろう。そして評論家は「伝統のアンサンブル」とやらを称賛し、楽員の注意深さを讃え、聴衆はそれらの意見を少し遠慮がちに復唱するだろう。

いっそオーケストラでも歌でもピアノでも「うむ、今日の演奏は○デシベルだ、世界新に一歩及ばなかった」となっちまえ。すっきりする。
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伝説

2014年03月19日 | その他
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘について。

どうも僕たちが勝手に思い込んでいることとは違うらしい。

佐々木小次郎は何となく若武者で颯爽としたイメージがありませんか?燕返しとかさ。

二人の決闘は多分本当にあったらしいが、それにも諸説あるようだ。

あったとしても、20代の武蔵に対し佐々木小次郎は60代だという。しかも今の60代ではない。今で言ったら70半ば位だろうか。ひょっとしたらもっと高齢に相当するかもしれないな。

そりゃ武蔵は勝つよ。20歳くらいの人なら今の僕より速く走る。何かお門違いの例えのような気もするが。それよりどうです、リアリズムは色んな脚色を拒否するね。

想像すると笑いさえ込み上げる。武蔵は小次郎を待たしてじらし戦法をとったと言われてもいるが(これも違うらしい)実は小次郎は待ちくたびれてお昼寝していました、とか。

と言った後だが、武蔵が剣の達人だったことは間違いあるまい。五輪書を書いた男だ。そういう人だから伝説も生まれる。

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健康法

2014年03月13日 | 音楽
ピアノ、手の型、などで検索するとまぁ沢山の指南ページがある。そこで気になることをひとつ。

多くの記載が無理な弾き方は手を壊すから避けるように強調している。それは大変喜ばしい。

しかし推奨されている「正しい」弾き方では手は壊さなくても「音」は出ない。

声楽で喉を壊さないことは大変大切だ。そのためには普通の声で歌うことです、とアドバイスされたようなものだ。

アスリートに身体をケアするためには常にほどほどな運動にしなさいと指示するようなものだ。

今まで(日本で)言われてきたことも、現在主流の?弾き方も、音楽そのものから、あるいは耳から出発していない点では同じ穴の狢なのである。

と、書いてあるものを読むとなんだか難しいことを僕が主張しているように見えるが、いたってシンプルなことだろう。

速く走りたいから速く走ろうとする。自分より速い奴がいたらもっと速く走ろうとする。ここでは「速さ」という単純明快な指針がある。

演奏の場合の指針はと言えば美しさだと言っても良いだろうが、これは単純明快とは言い難い。そこが違うだけだ。

単純明快な目的があると言っても、それを成就するのは単純明快どころか恐ろしく難しいではないか。

耳に訴えかける音や声は本来誰にでも「理解」できるもののはずだ。気の無い返事、不機嫌な声、下心ありそうな声、実感のこもった声、どれも何故かはわからないが感知する。

楽器や歌声も、すぐに判る。ピアノだけが気持を込めたがゆえに手を傷めたり、手を痛めずに楽に弾くがゆえにスカスカなペンペン草になったりする。

ある邦人ピアニストが「スポーティーでありたい」と言った。ところがその演奏は、成る程楽に弾けるのだが、なんともジジむさいのである。ちゃんちゃんこで弾いたらさぞかし似合うと思う。

ピアノ関係のサイトを閲覧していると気が滅入ってくる。なまじの知識を持ったばかりにね。

一例を挙げて終わりにしよう。

昔は鍵盤が軽かったから、指先だけで弾くことが推奨された。

ここまでは本当。でもそれはいつのことか?多分リュリとかラモーとかまで遡るだろう。僕はてんで詳しくない。

で、指先だけで弾くのをパソコンのキーボードを例に出し、手を固定して打つでしょう、と解説する。固定しないとミスタッチしてしまうと。

半端な理解というのはこんな感じだ。キーボードの幅と鍵盤の幅がまるで違うのはどうする?仮にパソコンのキーボードが両手を拡げた位の幅だったら?

ちょっと突っ込みを入れたらガラガラ崩れるではないか。

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意表をつかれる

2014年03月11日 | 音楽
サッカーの日本対フランスの動画を見た。何年か前の、フランスでの対戦である。試合自体は観たのだが(サッカーの代表選は必ず見る)試合前のセレモニーは観ていなかったようだ。

試合前の国歌は軍楽隊と男性合唱によって演奏された。その時の「君が代」があまりに立派で、日本のスポーツ試合前のタレントを起用した歌唱に辟易するしかなかった耳には何とも新鮮だった。

フランス人がとにかく丸暗記しただけなのに。耳は正直なのだ。最近面白く感じたことのひとつである。


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躊躇する

2014年03月09日 | 音楽
テクニックについてノロノロ書き綴っているけれど、音や動作を覚束ない日本語で書くのは実に難しい。ラテン語なら書けそうな気がする。

文章で分からないなら写真はどうだろう。経験上分からないのは相変わらずだと思われる。では動画を貼り付けたらどうだろう。これはある程度助けになりそうだ。

そう思うのだが、そのためには一旦You Tubeにアップロードしてそこから引用する方法しかないらしい。

でもなぁ、手順が面倒くさそうだしなぁ。カタカナ語が偉そうに並んでいなかったらもう少し敷居が低くなると思うのだが。

第一曲の断片やら音階やらを検索しちまった人はおあいにくとしか言いようがない。非公開にも出来るらしいが、その設定が面倒を嵩上してしまいそうだ。

ふふん、ひとつ感動を演出する顔だの身振りだのを示してみようかい。

待て待て、それなら動画じゃなくても良いだろう。写真で充分だ。英雄ポロネーズの○小節はこの顔で。うむ、いけそうな気がする。

でももし乙女の祈りの顔を、というリクエストがあったらどうしよう。

とまあバカを言いたくなるほど過剰演出が多い。

気をとりなおして、話題を戻そう。左様な次第で動画をホームページに載せるのをグズグズためらっている。
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3月の講座

2014年03月06日 | 音楽
3月30日(日)14:30 目黒線洗足駅前のプリモ芸術工房にて。

ブラームス編曲、バッハ・シャコンヌを使って、技術的なこと、楽譜の読み方、呼吸ということなど、毎回のことながら触れてみたいと思います。

ブラームスはピアノの技術についても極めて意識的な人でした。51の練習曲のようなものを書く人がそうでないはずがありません。

この練習曲については笑える思い出があります。

大学に入ってすぐ、安川先生からブラームスの練習曲をしなさいと言われました。何、ブラームスにも練習曲があるのか、と喜び勇んで楽譜を買ってページを開いた時の失望は今でも忘れません。

シンフォニーにもピアノ小品にもまったく似ていない、新式のハノンのように映りました。当時の僕の技倆、理解では無理もないと今は思うのです。

しかも、この曲集を使って何を習うでもない。先生からしたらもっと弾けるようになりなさいということでしょうが、この曲集はただ弾いたところで何の役にも立たない。僕はすぐにやめてしまいました。

ハンゼンに習い始めてすぐにまたしてもブラームスの練習曲を弾けと言われました。ハンゼン門下は全員必修でした。

今度は退屈しなかった。ただし泣きたいくらい出来ない。書いてある音符は弾きますよ、でもどうやってもナインとしか言われない。自分でもナインと言うしかないのも判る。周りでもナインと言われてしょげ返った人しかいないのがせめてもの救い、では程度が低過ぎますが、現実でした。

そういうブラームスが練習曲としてシャコンヌを使用したのです。大変沢山の課題が含まれています。

講座の詳細はHPに記載しています。興味を持った方はぜひご参加ください。

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書き順

2014年03月04日 | その他
僕は悪筆である。パソコンで何が便利といって判読可能な字が書けることだ。以前あるコンクールで審査を終え会場を後にしようとホールロビーを通った。受けた中学生たちがまだかなり残っていて、自分への講評用紙を読んでいた。

何人かの女の子が用紙を顔に近づけて「読めないよぉ」と泣き声をあげているので、ちょいと覗き込んだら全員が僕の書いたものを掲げているのであった。

ここまで書いて思い出した。むかし、といってもほんの十数年前、ある雑誌に一文を載せた。自分でも判読不可能な下書きを、丁寧に丁寧に清書し、編集部へ郵送した。

数日後、折り返し原稿が届いた旨の電話があった。「原稿を有難うございました。清書はこちらで致します」

僕の努力は一体なんだったのだ。

昔の人の崩し字だって読める人はいないでしょう。まぁたいした差はないのだとも言えるな。ふふん。

減らず口はともかく、僕が悪筆である理由の一つは書き順がめちゃくちゃに近いからではないか。最近そう思うようになった。人からしたら当たり前だと言われるだろう。


象形文字の時代は書き順は無かっただろう。多分ね。昔の方が好きだね、僕は。





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