季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

10年!

2018年05月23日 | Weblog
本ブログを書くために編集ページを開く。すると隅っこにブログ開設から○○日と表示されている。

見ると3600日を優に超えているではないか。何と、10年もの間あれこれと書き散らして来たわけである。

よく分からぬまま兎に角始めてみようと思い立ったのが、よく分からぬまま歳月が過ぎたのだから馬鹿見たようなものだと痛感する。

それにしても芸のない、面白くもない、お堅いブログを毎日150万人もの人が読んで下さるのは不思議である。10年ピッタリの日には沢山の出版社から出版依頼が来るのであろう。断るセリフは準備しておこう。

3650日目に書こうかと思ったものの、閏年もあり、第一僕はまず忘れてしまうだろう。どうせぴったり出来ないのなら思い出した時、暇な時に書いてしまえと相成った。

なに、暇はいつでもあるのだが。

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動作

2018年05月22日 | 音楽
ピアノという楽器は極めて単純な器具だと言っても良い。機構は楽器の中でも複雑なのだが。

ハンマーがアクションから放たれる地点は万人に共通しているのだ。それは所謂鍵盤の底ではないことは今さら強調する必要もあるまい。

かたや人体における動作は、これまた人によって多少は違うものの、基本的には同じようなものだと言ってよい。

速い動作、強い動作に際しては体は小さく丸くなろうとする。また、力は腰を起点として波状に末端へと伝播してゆく。

ジョルジュ サンドはピアノを弾くショパンの手の動きはヘビのようだと形容したそうであるが、なにショパンに限ったことではない、ルパンでもショクパンでもピアノを上手に弾いたならばヘビのように見えたのである。

今日ネットがここまで普及するとまぁあるはあるは、ピアノの弾き方からお辞儀の仕方はては洟のかみかたまで閲覧できるようになった。かく申す僕ですら書いてしまう有り様である。

ざっと目を通して見ても、体のパーツの形状を表記してあるのが大多数で、動き自体を書いてみようといった試みを感じさせるものは殆どない。

ピアノの機構と人間の動作との関連について観察しないことには全ては無意味だろうにと思っている。


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国歌は面白い

2018年05月15日 | 音楽
先日F1のスペイングランプリが開催された。

スペイン国歌が流れたあと、何やら聴いたことのない音楽が演奏されている。何だい、これは?家族が直ぐに調べてカタロニア州歌だと言う。

そうかい、いやぁスペインも大変だなぁ、こんな反抗的な歌を州歌にしている地方があるのでは。

家族が歌詞の意味も調べると果たして中々勇ましい歌詞なのである。

搾取する者に対して鎌を取って立ち上がれ、そんな感じ。

音楽は具体的な何物も表さないというのは本当なのであるが、同時にある種の気分を伝えるとも言える。

それを如実に示す好例だと思う。トルストイが行進曲で行進するのは分かる、ワルツで踊るのも分かる。ではクロイツェルソナタのような音楽を聴いて人は何をすれば良いのか?と激しく自問自答するのはこんな事なのである。

つくづく音楽は面白いと思った次第である。
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エコなのか

2018年05月12日 | その他
仕事部屋のライトを全部LEDにしたのは二年ほど前だ。なんと言っても電気代がおよそ1/7なのだから8個の合計はかなりの節約になる筈だった。

しかも電球は40000時間保つのだという。何だ、僕にあと40000時間働けということかい!電球より先にこちらが切れてしまうわい。

ところが案に相違した。つい先日、その内の一個が点灯しなくなった。

一瞬僕は既に40000時間も働いたのかと自らを褒め称えたのだがそれはどうも間違いだったようだった。

約束を破った電球を恨めしげに見上げたが見上げたところで何も変わらず、仕方なしに交換した。

こういうことに詳しい人に聞くところによれば、フィラメントの電球と違いLEDは基盤を使用した製品なので熱に弱いのだという。

僕は今、世の中で盛んに言われているエコは本当にエコなのかしらんと猜疑心いっぱいになっている。それは二つ目が壊れるか否かにかかっている。頑張れLED電球!

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サッカーだけではないが

2018年05月09日 | スポーツ
書きかけて打っちゃってあった文章をそのまま投稿してみようと思う。

僕のサッカー熱はもうかれこれ50余年になる。オリンピック予選に負け、ワールドカップなど夢のまた夢、他の惑星での出来事のよう。

それがこの20年、ワールドカップに出場することが当然のようになった。

僕にとって目出度いはずである。

にも拘らず、現在行われている二次予選を僕は一度も見ていない。この心理の大きな変化は、よく自覚されているものの、寂しさすら感じる。

今回は予選を通過することが非常に難しいと予想するが、それならば一層熱を上げたのが今までである。

(この記事はだいぶ前に書きかけていた。今回も何とか出場が決定したのは良かった。しかし本質的には変化がなさそうに思うので続けよう)

思えば前回の本大会への壮行会、これを見たことが直接の動機だったようだ。

これは恥ずかしかった。選手の中にも恥ずかしい思いをした人が数人はいるだろうと淡い期待はあるものの。

形容するのも嫌なので、検索して貰えれば良い。サッカー、ワールドカップ壮行会とでもすれば動画は幾つもあるだろう。

そしてもうひとつ、試合中のメリハリの全くない応援がいつの間にか僕の熱意を奪ったように思う。

選手諸君は海外でプレーする人も多いのだから、このライブ感覚の応援に違和感を感じる者もいるだろう。

でもこれが決定的な弱さの証しだと肝に銘じる人が一体どれほどいるのか。

スポーツも音楽と似て、シニカルに言えば何の役にも立たないものである。それにもかかわらず人はなぜか心を奪われる。

と、ここまで書いて面倒になり放置していた。面倒というより話題が拡大して思案中だったというのが真相だ。

サッカー協会のだらしなさは以前に書いたので繰り返さないが、今の状態はそれが行き着くところまで行ってしまった感がある。捨てるのも癪だから何となく変だがこのまま投稿してしまおう。





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