季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

偽物狂騒曲 4

2014年02月26日 | 音楽
この騒動も、しばらく経てばただの過去となる。

しかし所謂プロと言われる人でも結構簡単に騙されるのかもしれない、ということは忘れない方が良い。僕がこれまでに幾度となく書いてきたことだ。

今回騙されなかった人も次は分からない。自分の勘を磨く以外にない。

こと演奏に関してはなおさらだと思う。何しろ弾かれた瞬間に消え去るのだから。後はそれらしいことをもっともらしい態度で言えば「意見」として通用する。つい先ごろも書いた通りだ。

前の記事で触れた伊東さんにしても、新垣さんが超一流の音楽家である証のひとつとして、ピアノの初見演奏が素晴らしいことを挙げている。

初見が早いのはただ本人が得をして、周りの人にとって大変便利だというにとどまる。まぁ吉野家もある時には便利だというに似ているかな。まさか最高のグルメとは言うまい。初見が早いではとても超一流の証にはならないと思う。僕などは反射的に伊東さんは演奏は分かるまいと判断してしまいそうだ。

言ったが勝ちとも言える演奏に関する諸々は、楽器の良し悪しからホールの良し悪しにまで及ぶ。

事件?そのものは破廉恥な男を巡るもので、世間の面白半分の論評などどうでも良い。

音楽人、並びに愛好家はせっかく冷水を浴びせられた心地がしたのだからこの際頭を冷やした方が良いと思う。

障害を持った人はその点でただ気の毒な人なのであって、良い人だというわけではない。こんな当たり前なことでさえ僕たちは忘れてしまう。これだって立派なレッテル貼りだろうに。

先だっての食品偽装もそうしたレッテル貼りの心理が大きな役割を果たしている。学歴、地位、職業、ありとあらゆるものがレッテルになる。

それらからまったく自由になるのは不可能だ。それでも自分の分野では何があっても騙されないという所までは行けるだろう。音楽に携わるならばそこまでは行けるだろう。

若い人はそう簡単にいくはずもないが、せめて「プロなら、年長者ならきっと分かっているはず」と安直に思うのは間違いだと思って貰いたい。








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偽物狂騒曲 3

2014年02月25日 | 音楽
ジャパンビジネスプレスのサイトに伊東乾という音楽家が「偽ベートーベン事件、罪深い大メディアと業界の悪習慣 あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏」との文章を寄稿していた。

多方面で活躍する人らしいが、音楽界の事情にはまったく暗くなって数十年、僕は名前を知らなかった。

題名通り、今回の喜劇の真作曲家、新垣隆を擁護する一文である。文章はなかなか歯切れが良く、物を書くことに慣れた人だと思われた。もっとも僕はこの一連の出来事で、影の作曲家の責任なぞ考えたこともなかったが。

アニメの世界ではアシスタントといわれる人、また場合によってはストーリーを考える人と作者の合同作業が当然のことだが、作曲の現場でもそれは似たようなものらしい。

伊東氏はもう故人となった人物の実名を挙げて、例えば武満徹、彼らが師匠が依頼された仕事を代行したり、部分的に任されたりしたのは珍しいことではない。そしてその作業を通して自分のスキルを、またある時は信用を高めていった、と説明する。

その辺りの事情は関心のある人には実際の文章に当ってもらおう。

伊東氏は、メディアがそうした事情を知りもせずに、知ろうともせずに、あるいは知っていてもなお、面白おかしく事を扱うこと、物語を創り上げるのに専心していることを指摘する。

物語にばかり飛びつくメディア、その点では僕はまったく同感である。

その上で、僕がこの事件そのものより、事後の様々な騒動に関心がある、という一例は、この伊東氏の文章は極めて綿密に且つ具体的に書かれているにも拘らず、何かしら腑に落ちない思いが拭えない点にも表れる。

氏に依れば、上記のような、共同作業を通じて自分のスキル高めて世間から認められるようになる、そうした世界から現在は遠く離れているのだという。

下請けの作曲家はいつまでもその地位に甘んじ、表に出ている作曲家は常に陽の当たる場所にいるという。つまり下請けの作曲家を食い潰して著名な作曲家だけが太っていく。伊東氏はそれを悪習慣と呼ぶ。

作曲の現場についてあれこれ考えたこともなかったから、これらの知識は一種驚きだった。オーケストレーションまで託しているなんて思いもしなかった。

伊東氏に依れば、ある時から次第にその悪習慣が居座るようになったらしいのだが、それがいつからのことかは分からない。そして当事者が殆ど存命だからと実名は伏せられている。

それにもきちんと理由が示される。当事者である著名な作曲家にもファンがついていて、ファンは自分の偶像のイメージを作り上げているので、余計な混乱を招かないためである。

ここいらで僕は首をかしげる。ファンの一方的な「思い込み」に配慮するのかい?と。

ファンの一方的な思い込みは殆どの場合守られるべきである。人が人を「理解」することなぞありはしない。せいぜい好感を持ったりするのが関の山だ。

そうである以上、一方的な人物像を正そうとしたところで役には立つまい。それは例えば、深刻な曲で人気があるが、普段はスチャラカだ、とかいうレベルで言える。

しかし、伊東氏は悪慣習とまで言っているのだ。それに言及する以上、ファンの思い込みとやらに配慮する必要があるのだろうか?自分のフィールドの悪慣習は自分たちで払うしかあるまい。氏はメディアにそれを期待でもするのだろうか?

氏は今日の作曲家の下請け作業を磯崎新・安藤忠雄という2人の建築家の仕事場と比較する。余りに多岐にわたる現場の仕事全部をこなすことは不可能で、多くの下請け者に託しているのだが、それでもこうした大家は他人に任せた細部も把握し尽くしていると強調する。そして下請け作業の人たちもそれに見あった扱いをされているという。それはその通りだろう。

しかし建築家と作曲家とを同じように扱うことが平気で出来るほど作曲の分業は進んでいるのだろうか?下請け者がクレジットされればもう悪慣習とは言わないのだろうか?

僕が今回の喜劇で思うことから少しく離れすぎた。そろそろ脱線は終わりにしたい。

あからさまに言えば、伊東氏の文章は、同じ「現代音楽」の作曲仲間の擁護でありながら自分の正当化に近い。序でに少々の自己宣伝と。

繰り返すが、僕は新垣氏に責任なぞを迫る世間の反応も含めて、いかにも現代風だと言っている。彼に責任なぞあるものか。

伊東氏もそれに対して援護を買って出たので、その動機は認める。だが、極めて素朴な疑問、すなわち例えばオーケストレーションを人に任せて、芸術音楽の旗手を任じること、そして矜恃を持つことがどうやって可能なのか、がどうしても分からぬ。

僕はこんな面倒なことに首を突っ込むつもりではなかった。あと一度だけ偽物騒動について書いておわりにしたい。




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偽物狂騒曲 2

2014年02月19日 | 音楽
朝日新聞に、騙された人にも責任があるという趣旨の記事があったそうだ。

僕は自分でその記事を読んでいないから、どんな文脈でそんな意見が出たかは憶測するしかない。

普通はそうした状況で意見を述べるのは良くない。ただ、騙された人には非などこれっぽっちもありはしない。文脈と関係なく否定して構わないと思う。

こんな新聞記事でも一見公平にものごとにあたっているように映るのだろうか?

所謂詐欺にあった場合、欲に目が眩んだ人にも落度があったと言うのは分かる。

では骨董で偽物を掴んだ人は?単に物を見る目が無かっただけで、責任なぞ問われないだろう。後でホゾを噛む思いをするのは買った本人だ。

今回の騒動も似たようなものだ。そもそも偽物とは何か?バッハ作と永らく思われていたフルートソナタは研究の結果今では全集から外されている。でも大変美しいので、とくにシシリアーノは演奏される機会が多い。

ホゾを噛む思いをしている人は人。いや、それでも曲は良いと思う人は以後は新垣氏の曲として演奏していけば良い。こんな簡単なことだ。新垣氏がどんな反応するかはまた別の話。

責任だの非だの言うならば、当のマスコミ報道以外に該当するものはない。幾つかのメディアは取材中に疑念を抱いてきたと自ら言っている。あやふやな噂でさえあれこれ取り沙汰して追いかけ回すのに、疑念を抱きながら何の手立ても打たなかったのは怠慢だとの誹りをまぬがれまい。

頭を整理せずに、何とはなしに社会の良識を説いてみるからこんなトンチンカンもする。もっとハッキリ言えば、この種の予定調和めいたものからは何ものも生じない。むしろそう言えばそうかも、と新たな曖昧さを産む分、毒するとすら言いたいくらいだ。

メディアの責任について詳しく論じた文も読んだ。これは専門の音楽家によるものだが、専門家ではない僕には首を傾げたくなる部分も多かったので又稿を改める。

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偽物狂騒曲

2014年02月18日 | 音楽
例の偽物だが、僕はその後の騒動に関心がある。本人は何とも言えないインチキさ。そんな事はどうでも良いくらいだ。

あんまり時が経つと書く気持ちも失せるからちょっとずつ書いてしまおう。順不同です。

ヒロシマという題名の曲が本来他の題名だった、けしからんというが、題名なんて後の世の人が適当につけることだってある。月光ソナタだって確かレルシュターフがゴニョゴニョ言って大当りしたのではなかったか?

要するに音楽というのは得体の知れない何かだ。僕らのあらゆる感情を呑み込む。ある人には平安、ある人には哀しみ、ある時には勇気、ある時には怒り。

何を表現しているか?なんて愚にもつかないことを「考えて」いるうちに迷路に入ったのさ。

こんな出来事がなければ真面目に考えるチャンスはないかもしれない。詐欺にあった、なんて腹を立てるより気が利いている。

それをしっかり理解していたら、題名まで適当だったという非難は必要ないことに合点がいくだろう。

今何を考えているのか、どうも健忘症の気があって明日まで覚えている自信がない。明日、多分朝日新聞に愚にもつかない記事があったようなのでそれについて書こう。思い出したらこうしてすぐ書く。
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日本語のために 2

2014年02月17日 | 
「日本のために」を書いてから誰もが忘れたころに「2」がやってくる。僕のスローペースぶりは18世紀並だね。ベートーヴェンが「先日はお手紙ありがとう」なんて一年近く経ってから返事をしているでしょう、たしか。ああいうペースがいいね。金婚式過ぎてから「結婚しました」なんて通知がいったら面白かろう。生まれる前に性別が分かってしまう忙しい時代に逆行しているようだな。

大風呂敷を広げたところで。忘れてしまった方はどうぞ遡ってお読みください。いつ書いたか本人は忘れているが。

と書いて、いくらなんでも不親切だと思い直して自分で探してみた。2008年7月14日「丸谷才一 日本語のために」という記事。(クリックすればそれが開くようにできるのは承知している。その方法を教えてもらった。ただ忘れてしまった。道具というものは使い続けて初めて道具になると痛感する)
注)最近また知ったからリンクするようにしてある。人間、進歩するものだ。

テクニックを用いずに早速引用する。丸谷さんは旧仮名で書いていて、その通りに書き写したいのだが、それ用のソフトは(手許に)無い。現代仮名にせざるを得ない。


 わたしの見たところでは、教科書にぜったい選ばれない二種類の詩がある。一つは言葉遊びの詩で、これは堀口大學の「数えうた」や岩田宏の諸作品はあるにせよ、一体に明治以後の詩人が不得手なものだから仕方がないかもしれぬ。しかし、教科書に決して載らないもう一つの詩、恋愛詩となると話は違う。恋を歌わなかった詩人は、蚤取りまなこで探しても見つからないくらいではないか。

丸谷さんがこの本を書いてからいったい何十年経つのか。上記のうち言葉遊びの方はかなり取り入れられた。かっぱかっぱらった、かっぱらっぱかっぱらった、とってちってた、なんて谷川俊太郎の作品を知っている人は多い。

しかし恋愛詩に関しては未だに変わっていないようだ。なにをびくびくするのだろう。万葉集などを挙げるまでもない、現在生きている中学生、高校生(いや、小学生だって)もいちばん身近に知っている、切実な感情のひとつではないか。

音楽の教科書にも通じる臆病さだ。例えばシューベルトを紹介する。まぁ良い。その是非は他のところで存分にしたい。

今の教科書には「魔王」が載っているのが多いようだ。昔は「野ばら」だった。

これらが悪いとは思わない。それどころか、僕は大変に好きである。だが、これらは直感的に掴むことが容易な曲だろうか?「野ばら」の詩はゲーテ作だが、これは簡単な詩だろうか。

詩にしても曲にしても、一見余りに平易である。退屈する生徒が殆んどではないだろうか?あるいはありきたりの「安全な」感想でも書いてお終いだ。まるで予定調和だけが学校の狙いであるかのようだ。

とは言うものの「糸を紡ぐグレートヒェン」などが教科書に載ることは天地が逆さまになってもあり得ないだろう。

でもなぜ?という問いかけには殆んどの人が「だってネェ」と頷きあうだけだろう。答えは簡単さ。クライマックスの「そしてあの方のキス!」というのが躊躇いの一番大きな原因だ。

確かにこの箇所の激しさは並外れている。憧れ、不安、官能が捩り合いながら達する頂点。

安心してもらいたい。僕はこの曲を鑑賞曲に、と主張するわけではない。僕を知る人は皆知るように、僕は至って穏健な人間だ。

だが、何かの拍子にこの曲を中高生が知ったら、普段取り澄まして、教養の代表のように思っている「クラシック」が、実は驚くほど激しいものだと知って、他の曲にも関心を持つようになるかも知れない。

ここからもうひとつ、丸谷さんの文章で大切だと思われることに触れて行きたいのだが、余りに長くなるからその3に譲る。ということは10年後かい?いやいや、僕の身体がもたぬ。なるべく早めに書こう。







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構成ということ

2014年02月12日 | 音楽

構成ということについて、一例を挙げて説明しよう。

譜例は熱情ソナタの展開部、「 をつけたところから第二主題が展開される。

変二音から一歩一歩登りつめていくバスの上で1、2、3とモティーフが繰り返される。

四角で囲んだ部分に重心が有るのを見逃してはならない。少し前に譜例と共に書いた記事で説明した通りである。

1の音型はこの四角までを2度繰り返すわけだが、1度目は4度下り2度目は上行する。詩で韻を踏むようなものだと以前の記事で書いたことと同じ働きだ。

2ではいったん力を溜めるようにPになるが、3では表情は一気に険しさを増し、四角の音型だけに圧縮される。

バスは再び変二音、ただしオクターヴ上の、に達し減7の響きに沿ってよじ登る。このバスの動きも圧縮されていく。激しい造山運動のようだ。

こうしてもう2オクターヴ上まで達した後、そのエネルギーは遥か下方まで雪崩のように落ちて行く。

この一連の運動を情緒的な言葉で表すことはむしろ難しい。怒りでも悲しみでも喜びでもない。あるいは望むならばいずれでもあると言うのもまた可能だ。しかしそれはまた他の難問に繋がるから今は措いておこう。

以上、ざっと説明したが、この一連のクライマックスを形成する動きなどが、構成ということを語る際に意識されているわけである。

さて、レッスンの際に教師が構成力が弱いと感じたとしよう。その時には、上記のことを良く承知している以上、具体的に指摘できるはずだし、する必要がある。

ベートーヴェンの構成力に感嘆するのは良いが、それもこれも上記の「運動」に対する感嘆なのである。

演奏にそれに対する力が欠けていると感じるならば、はっきり何処がどうだと指摘できて然るべきなのである。

もしも全体にボンヤリしているのならば、音の密度の問題かも知れない。

ところで、ここまでは「理解」することは左程難しくないはずだ。楽式などの授業でも触れるから。ただし四角で囲んだ2音、殊に2番目の音は絶対に抜けてはならない、ここに重心があるということは習わない。見て分かるのではなく、演奏して納得することだから。

今まで書いたことを理解した上で、それを相応しい音で弾かなければ、上記の「理解」による構成は単なる模型のようなものだろう。

そこでこそテクニックが不可欠になる。テクニックについては説明しようと思えば何処までも説明できる。

その先に、テクニックも自分のものにして初めて使える、という現実がある。自分で考えたことしか使えない、というのが、説明を聞いただけではということならば正しい。でもその前に説明が必要だろう。僕が原理原則ではダメだというのはこんな事なのだ。

構成力とテクニックの関係とでも言おうか、それは以上である。

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予告

2014年02月12日 | 音楽
コメント欄の質問に急いで返答したものの、僕の返答そのものももう少し具体的に書いたら伝わり易いかもと考えた。質問も返答も、他の世界中、100万人の読者も読むであろうから。現にドイツ人の友から、日本の文字は何が書いてあるか分からないけれど綺麗ね、と言ってきたほどだ。

近いうちに楽譜の例と共に説明したい。

怠惰な生活故、プレッシャーをかけておかないと実行しないだろうから、宣言してしまおう。
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名人達

2014年02月11日 | 音楽
CDを整理しながらちょっと時間を割いて聴く。

1920前後のピアノの名人達のが何枚かある。僕がまったく知らなかったピアニストも多い。習いに来る人から聞いて知ったのがほとんどである。

演奏のスタイルは時代とともに変化する。でも楽器を扱う技倆は変化しないものである。それを痛感する。

簡単に名人芸の時代と名付けて安心する怠惰な精神は避けたい。

にも拘らず、自分の技倆を示す喜びが前面に出ている演奏を聴くと、その後にシュナーベルやフィッシャーが出たのも解る。

それにしても皆とびきり美しい音だ。一度耳をリセットしてみることをお勧めしたい。

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オリジナル

2014年02月08日 | 音楽
音大の試験において連弾や二台ピアノ(大学では二台ピアノの方が多いと思われる)だと、オリジナルに限るという注意があったりする。

例えばブラームスのハイドンの主題による変奏曲はオリジナルとみなされる。ピアノ五重奏を二台ピアノにしたものもそう。

ではこれもブラームスの手になる交響曲4番の連弾は?これはオリジナルとみなされるだろうか?これになると連弾での演奏を生業にしている人たちはともかく、殆ど弾かれることはないだろう。オリジナルと見なされるのか、会議でも開かれるような気がする。

同様にメンデルスゾーンの「フィンガルの洞穴」の作曲者による連弾版もある。

こうした例は珍しいわけではない。仮に作曲家本人による編曲はオリジナルと見做すならば、これらは当然オリジナルである。

逆の場合だってある。「展覧会の絵」は一体何人の作曲家がオーケストラに編曲したことか。そしてムソルグスキー・ラヴェルといった記載で立派に通用している。

こうして見てみるとオリジナルに限るという縛りが、何とも珍妙なのだと思わざるを得ない。

昔から人気があったり立派な曲は、他の作曲家から編曲されてきた。ブラームスだってドヴォルザークの編曲をしている。幾らでも例はある。

オリジナルでも駄作はある。ベートーヴェンにもある。ドビュッシーの駄作に至っては気分が悪くなるほどだ。そうした曲を鹿爪らしく弾いたり聴いたりする方がよっぽど問題だろう。
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神奈川県立音楽堂で

2014年02月06日 | 音楽
まだまだ先のことだが、8月22日に県立音楽堂が空いているのを生徒が知らせてくれた。

長いこと、ここで生徒に弾かせてあげたい、そして他の生徒の音も聴いて貰いたいと念じていたので早速借りることにした。

以前このホールについて書いた折にも触れたが、ここを使おうという音楽家が相変わらずいない。

ネットで県立音楽堂 響きなどで検索すると、僕のブログが上の方に出てくる有様である。それどころか否定的な意見まで散見する。

それは事務手続きに行ってくれた生徒が事務所から聞いた話とも合致する。ぜひこのホールで弾きたいと話したところ、そんな人は殆どいないので、と喜んだという。

これを書くに当たってちょっと調べたら、このホールの残響は1.4秒で、昨今の主だったホールの残響が2秒くらいなのに比べて短いのである。

そうなのだ、昨今の紀尾井ホール、みなとみらいホール、浜離宮ホール等、ステータスを大上段に振りかざしたようなホールは残響の長さで誤魔化しているのだ。

最近化粧ひとつで別人になるような写真を紹介するサイトや記事を見かけるが、マァあれに近いかな。

もちろん残響時間は長くても良い。僕は今まで残響時間は?と分離して聴いたことがなかったが、ウィーンの楽友会ホールは長いだろう。

残響時間と音響は密接な関係にあるけれど、それだけではない何かが絡んでくる。それが何なのか僕には分からない。本当に難しい。上記の人気ホールは弾きての虚栄心にしっとりとしたヴェールをかけてくれるかもしれないが、真実味のある肉声を伝えてはくれない。

下手は下手に響かなければならない。僕が本物の2流3流の方が1流もどきよりもはるかにはるかに増しだというのはそういうことでもある。

前の記事で園田高弘さんに突っかかった時、生半可な演奏家にきつい言い方をしたのも同じことだ。

全員が絶妙なメイクで化けようとしている。あたしゃ騙されないさ。

誰もが感動をしようと待ち構えている。それらしい話はいくらでも転がっている。現代のベートーヴェンにだってコロリと騙されるはずだ。笑うのも怒るのも結構だ、同時に自分の耳を疑えば。
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