季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

連帯感

2015年10月21日 | その他
運動会で人間ピラミッドが崩れ、生徒数名が骨折など重軽傷を負った。

この「行事」が危険だというのは以前にも書いた。その後も時おりアンケートサイトなどで注目していた。

それらのアンケートで問われるのは、この催しをやめた方が良いか否かである。

存続させた方が良い、という声が止めるべきだ、を上回っている。

今回、事故があった直後だから、そのようなアンケートの結果は、多少の変動があるものと思われる。

しかし、止めるべきだとする人の理由を見ると、最近の子供は骨が弱いからムリだ、のようなものも目立つ。

存続を求める人の挙げる理由は、達成感がある、連帯感を感じるようになる、見る側からは感動する、このようなものである。

「保護者席からは歓喜の声があがり、たいへん感動的なものでした」

これはさる幼稚園のブログだそうだ。ピラミッドの波は幼稚園にまで及んでいるらしい。

それに対し「感動を離れてリスクに目を向けよう」という主張も出始めている。リスクと教育の狭間で、という記事もある。

ほとんどの人がこれらの意見のどちらかを支持するのだろう。

少し横道に逸れるがここでもう一度言っておきたい。感動という言葉をこんなところに使うものではない、安っぽくなるだけではないか、と。

さて僕がもうひとつ注目するのは、存続するべきだとする人たちの挙げる理由のうち、連帯感を感じる、強めるというもの。

オリンピックや世界大会で日本を応援したくなる。何故だか分からないけれどそれを不自然だと思う人がいたら、その人こそが不自然だと言えよう。

そのような心の動きを連帯感と呼んでも差し支えないだろう。

こうした心の動きは、僕たちは何処かで習ったのだとでも言うのだろうか?

連帯感という、確かにあるのだが、漠然としているものを学校で教えるものなのだろうか。そんな芸当が可能だと本気で思っているのだろうか。

余計な事をしてはいけない、と僕は思っている。こんなことを存続するべき理由に挙げている人は胸に手を当てて考えたら良かろう。いったい自分は何を感じているのかを。

その点に言及している意見が殆ど見当たらないのは奇妙だ。

長くなるかも知れず、行き先不明の文章だからとりあえずここで投稿する。

コメント
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