Retriever Legend's blog

散歩好き、本好き、惰眠好き、犬大好きの彼(旦那)の戯言を僕が代弁します。

構造主義の父 その3/3

2009-11-10 06:36:40 | 未分類
存在の明るみ

「昼下がり」(2009.10.16)で書きましたアマゾンのヤノマミ族について、何点か引っかかったままになっています。

ヤノマミ族は、現代文明と隔絶(ブラジル政府により保護)されています。


数十人の共同体の営みを見て、共同体に社会があるのではなく、共同体の外に社会があるのではなく、また、社会があって個があるのではなく、ひとり一人の個のうちに社会がありました。

個のなかに社会(家族、地縁、組織、体制、国家等)があることからの思索が始点では?

**
アリクイ?を仕留め、解体し食べ切れない分は、保存食として燻していました。
交換がありません。

交換、通信、情報、信用、商品、労働、貨幣等、資本主義社会のキーワードが皆無の社会であり、所有と占有、公平と配分等以前に、所有しないことによる所有の原初の姿なのか?

***
少年が狩りをしますが射止める事ができません。
「狩り(の仕方)を知っている」ことと「狩りをする(獲物を射止める)」こととは、まったくの別物です。

「先哲の思想を理解、解釈するための思索」と「自ら思索(解体)をする」こととは、まったくの別物です。
重なる領域は、境界(関係性)は?・・・

これらは、深化もせず放置されていますが、どこか引っかかっています。
レヴィ=ストロースの訃報を知り、改めて思い起こしました。

単に、言い古された「存在者の存在を存在の明るみに出す」だけのことなのですが。



今朝の散歩も、夜が明けぬ前にはじまり、家に着く頃には「朝」です。



構造主義の父 その2/3

2009-11-09 06:41:15 | 未分類
水の記憶

今飲もうとしている水に、記憶があるとしたら、大海にあったり、生き物の体内にあったり、地表を流れていたり、氷だったり、雨だったり、雷に打たれて水素と酸素のイオンだったり、遥か昔にはクオークだったりした記憶があるのでしょう。

物質には可逆性があります。*

ちょっと先には、雲の中で再び雷に打たれイオンと化すかも。

歴史を不可逆と考えるか、可逆と考えるかに置き換えます。

資本主義の高度な発展による共産主義社会の必然性を提示し、歴史は不可逆と考えるマルクス、歴史は可逆と考えるレヴィ=ストロースと言えます。

主義者にとって構造主義は否定されるでしょうし、構造主義からは主義者は50年も前に破綻していると。

構造主義は現代資本主義を容認しているとの論者がいますが、現代資本主義に拮抗する責務はこの類の論者が負っています。(構造主義的マルクス主義については機会があればアップします。)

この二つの科学的思想は、異なった必然性を表出(差異)しています。

僕的には、以前にも書きましたように過去、未来は現在のこの瞬間にめり込んでいると考えていますので、歴史の可逆性、不可逆性については拘る事柄とはなっていません。

今飲もうとしているコップの水は、此処に水として確かにあります。


*古典力学、相対性理論では時間の正負を逆転しても時間反転対称性を持ちますが、閉鎖系ではエントロピーは物理過程において不可逆など、断定しきれない点があります。
が、素粒子レベルで考えると無視できると考えます。



今朝の散歩は,ミルク色の中を漂ってきました。


ちょっと一服

2009-11-08 07:41:43 | 未分類
弁証法の逆立ち

ちょっと引っ掛かっていることがあります。

マルクスはヘーゲルの弟子を宣言し敬意を表明していますが,「ヘーゲルの弁証法は逆立ちしている」旨を、資本論の第二版への後書き(マルクス)で書いています。

マルクスの読み込み(解釈)は、正答でないような気がします。
プルードンの「貧困の哲学」に対して、「哲学の貧困」による論難を思い起こします。

「気がします」とし、この埋草メモを終わります。


商い先で頂いたキャンディです。
ちょっといっぷく」の文字に親近感があり、この埋草メモをアップしました。


参考までに手元の資本論の該当個所をメモしておきます。

資本論の第二版への後書き(マルクス)

私の辯證法的方法は、根本的にヘーゲルのそれと相違するばかりではなく、それの正反對のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名稱を附して一の自立的主體に轉化さえした思惟過程が、それの外的現象たるにすぎぬ現實的なものの創造者である。私にあっては反對に、觀念的なものは、人間の頭の中で轉變され飜譯された物質的なものに他ならない。
(資本論(1)長谷部文雄 青木書店 初版1952年刊 86Pより)

私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである。
(資本論第1巻第1分冊 大内兵衛 大月書店 初版1968年刊 22Pより)

私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。ヘーゲルにとっては、思惟過程が現実的なるものの造物主であって、現実的なものは、思惟過程の外的現象を成すにほかならないのである。しかも彼は、思惟過程を、理念という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない。
(資本論(1)向坂逸郎 岩波書店 初版1969年刊 30Pより)


構造主義の父 その1/3

2009-11-07 09:37:47 | 未分類
構造主義の父

当ブログの一番の読者である彼女から「更新は?」と言われました。
慌てて、妄念から摘み食いをして書きましたので、誤謬はご理解を。

構造主義の父、構造主義の祖と言われたクロード・レヴィ=ストロース氏が10月30日に亡くなられました。
「野生の思考」の最終章「歴史と弁証法」は圧巻でした。

サルトルの主体偏重(実存主義)を、主体間の構造が大切であり絶対的な主体はないと批判するとともに、西欧中心主義を、どのような民族も独自の構造を持ち、西欧の構造でその民族を未開、野蛮とすることは無意味と批判しています。

ポスト構造主義(反構造主義ではありません。)と言われるボヤッとしたネーミングのもと、代表的な思想家としてジャック・デリダ氏がいます。
氏の「脱構築」の概念は、矛盾ある対象をバラバラにし、その破片のうち有用の要素により別の何かを再構築することで、脱構築された対象は認識している概念を覆します。

構造主義そのものに「解」はなく、「解」のための思考の方法といえますし、「脱構築」についても同様のことが言えます。

僕が用いる「解体」、吉本隆明の「自己問答」、デリダの「脱構築」という考え方そのものも、常に「解体」、「自己問答」、「脱構築」され、新たな意味を獲得していく性質をもっています。



愛犬との散歩、久々に日差しを浴びて,もっと単純に「白と黒、高いと低い、堅いと柔らかい・・・」とか語彙が巡っていると「丸」では、と。

大きな朝日の所為なのですが。