弁証法の逆立ち
ちょっと引っ掛かっていることがあります。
マルクスはヘーゲルの弟子を宣言し敬意を表明していますが,「ヘーゲルの弁証法は逆立ちしている」旨を、資本論の第二版への後書き(マルクス)で書いています。
マルクスの読み込み(解釈)は、正答でないような気がします。
プルードンの「貧困の哲学」に対して、「哲学の貧困」による論難を思い起こします。
「気がします」とし、この埋草メモを終わります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/3a/38ca83d3fc5343e3c27b1e03d561b3ae.jpg)
商い先で頂いたキャンディです。
「ちょっといっぷく」の文字に親近感があり、この埋草メモをアップしました。
参考までに手元の資本論の該当個所をメモしておきます。
資本論の第二版への後書き(マルクス)
私の辯證法的方法は、根本的にヘーゲルのそれと相違するばかりではなく、それの正反對のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名稱を附して一の自立的主體に轉化さえした思惟過程が、それの外的現象たるにすぎぬ現實的なものの創造者である。私にあっては反對に、觀念的なものは、人間の頭の中で轉變され飜譯された物質的なものに他ならない。
(資本論(1)長谷部文雄 青木書店 初版1952年刊 86Pより)
私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである。
(資本論第1巻第1分冊 大内兵衛 大月書店 初版1968年刊 22Pより)
私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。ヘーゲルにとっては、思惟過程が現実的なるものの造物主であって、現実的なものは、思惟過程の外的現象を成すにほかならないのである。しかも彼は、思惟過程を、理念という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない。
(資本論(1)向坂逸郎 岩波書店 初版1969年刊 30Pより)
ちょっと引っ掛かっていることがあります。
マルクスはヘーゲルの弟子を宣言し敬意を表明していますが,「ヘーゲルの弁証法は逆立ちしている」旨を、資本論の第二版への後書き(マルクス)で書いています。
マルクスの読み込み(解釈)は、正答でないような気がします。
プルードンの「貧困の哲学」に対して、「哲学の貧困」による論難を思い起こします。
「気がします」とし、この埋草メモを終わります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/3a/38ca83d3fc5343e3c27b1e03d561b3ae.jpg)
商い先で頂いたキャンディです。
「ちょっといっぷく」の文字に親近感があり、この埋草メモをアップしました。
参考までに手元の資本論の該当個所をメモしておきます。
資本論の第二版への後書き(マルクス)
私の辯證法的方法は、根本的にヘーゲルのそれと相違するばかりではなく、それの正反對のものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名稱を附して一の自立的主體に轉化さえした思惟過程が、それの外的現象たるにすぎぬ現實的なものの創造者である。私にあっては反對に、觀念的なものは、人間の頭の中で轉變され飜譯された物質的なものに他ならない。
(資本論(1)長谷部文雄 青木書店 初版1952年刊 86Pより)
私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく、それとは正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化させている思考過程が現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、物質的なものが人間の頭のなかで転換され翻訳されたものにほかならないのである。
(資本論第1巻第1分冊 大内兵衛 大月書店 初版1968年刊 22Pより)
私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。ヘーゲルにとっては、思惟過程が現実的なるものの造物主であって、現実的なものは、思惟過程の外的現象を成すにほかならないのである。しかも彼は、思惟過程を、理念という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては、逆に、理念的なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない。
(資本論(1)向坂逸郎 岩波書店 初版1969年刊 30Pより)