Retriever Legend's blog

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らーめん缶

2007-08-19 06:53:20 | 読書ノート
読書ノート番外編

新左翼の遺産 その3

日共は、1955年7月の第6回全国協議会において武装蜂起、極左冒険主義の自己批判をしましたが、新路線は党員にとって「六全協ショック」でした。
日共は、学生党員の糾弾に対応できず、1956年になって東大教養学部の自治会が再建となり、生田浩二、島成郎、森田実らが指導し、各大学の自治会と連絡をとり全国組織化を図りました。
指導者名から後の「共産主義者同盟」の活動家だったことが分かります。

1956年6月に日共を排した全学連(委員長香山健一)が再建され、原水爆禁止運動、砂川闘争、警職法反対運動と大衆運動を提起し突入しました。
この大衆運動は森田実が指導し、全学連を社会党、総評の下に位置付けました。

『全学連は砂川に延べ数万人を動員し、機動隊を実力で阻止する方針の最前列に立ったのである。 略 この「自分の肉体を危険にさらしてでも」という経験が安保闘争にも引き継がれる。』
この運動論は、日共の「敵は優勢、味方は劣勢」の闘争回避の大義名分の対極に位置します。
*『 』は第二章「一「六全協」ショックとその後」より引用。

1957年1月日本トロキスト連盟結成、その後分裂し1957年12月日本革命的共産主義者同盟に改組、その後分裂し黒田寛一のグループが1959年8月革共同全国委員会を組織し主導権を握りました。
1963年に革共同全国委員会は革マルと中核に分裂しました。

全学連主流派は日共党内では反対派の中心であり、党中央は潰しに掛かり党内の構造改革派などを使い露骨に潰しに掛かりました。
1958年6月1日全学連全国大会において乱闘事件が起き、党中央は学生党員指導のため「全学連グループ会議」を開催したが、逆に学生党員の吊るし上げにあい、さらに党中央委員全員の罷免を決議しました。(6・1事件)
これを機に、党中央は全学連、社青同の指導者16名を除名。革共同党員も同調し脱党しました。

1958年12月10日共産主義者同盟創立大会開催。
森田、香山の森田派、島、富岡などの東大系と片山、小川などの早稲田系の反森田派、革共同の3者による人事争いがあったが、書記長については3者とも島で異存はありませんでした。
この構造は、60年安保後も続き、島書記長の退任によりブントが消滅したことを予兆しています。

1957年暮れに山口一理(佐伯秀光)「十月革命の道とわれわれの道」が日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号に発表されました。
『日本共産党中央の路線を批判するものであった。ブルジョア民主主義革命のあとに社会主義革命という「二段階革命論」、階級闘争としての異議を忘れた「受身」の平和擁護闘争、「敵は優勢、味方は劣勢」という状況判断にもとづく「長期低姿勢論」など、当時の日共の議論をすべて一挙に否定した内容をもつ。』
*『 』は第二章「二日本共産党との決別」より引用。

第二章三、四に書かれている、島と唐牛の個性、リーダシップ、エピソードとブント内の各派の蠢き、安保改定の認識のメモは省略します。


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